第5話 全部おっぱいのせい
「お、おはよぅございます……」
「おはよう」
次の日、どんな顔をして会ったらと怯えていたけど、田沼さんは昨日のことなんてもう記憶からスッポリと消えたみたいに、いつもと寸分変わらない調子に戻っていて拍子抜けした。
とは言え、何も触れないわけにはいかない。
「あの田沼さん……昨日は本当に申し訳ありませんでした……」
二人きりの朝、丁重に頭を下げて謝ると、田沼さんは一瞬だけちらっと私の顔を見て機敏とした態度で言った。
「あの時は瞬発的に驚いただけで、別に気にしてないから。ただの事故だし、伊吹さんも気にしないでいい」
その話はそれで完全にぷっつりと終わってしまった。田沼さんが社長に連絡してくれて、それから数時間後、私たちがアパートにいない間にガスもあっけなく直った。これで完全に、夢のような時間は一夜限りの幻となって終わった。
このまませめて数日間でも裸の付き合いが出来たら、心も少しは近づけるかとと思ったのに……。異様に仕事が早い東京が憎かった。
***
「伊吹ちゃ〜ん、赤松商事さんに送るこの請求書なんだけど、ここの数字ちょっとおかしくないかなぁ〜?」
「わっ、本当だ!すみません!すぐやり直します!」
「確認して良かった〜!全然急がなくていいから〜」
清川さんのデスクから自分の席へ戻る時、途中で棚に思いっきり肩をぶつけ、その衝撃でバタバタバタ……と古いファイルが床に落ちてきた。
「何やってんだよ伊吹、てか、今日朝からずっとおかしくない?ミスばっかだし」
近くにいた相馬さんが拾うのを手伝ってくれながら言う。
「すみません……」
ファイルを集めながら顔を上げると、ちょうどこっちを見ていた田沼さんと目が合った。でも0.2秒でフイっと目をそらされてしまった。そんなつれない態度なんていつものことなのに、今日は特にざわざわと胸が騒ぐ。
ファイルを棚に戻し終わり、相馬さんにお礼を言ってデスクに戻る。小さいため息をつきながらキャスター付きの椅子の背もたれを掴んで座ろうとしたら、勢い余って引きすぎ、座り損ねてお尻から床に落ちた。
「痛った……」
「伊吹……」
相馬さんが哀れな目で私を見下ろしている。
「重ね重ねすみません……」
そんな調子で午前中を終えると、相馬さんから「緑に囲まれて一旦落ち着いて来い」と言われた。
お気遣いに感謝して一階へ降り、午後は観葉植物用の温室の中で一人、在庫確認をすることになった。
失態ばかりしてしまう原因はもちろん分かっている。昨日の夜からずっと、この両手に田沼さんのおっぱいの感触が残っていて、他のことがなんにも考えられなくなるからだ。
だけど、失敗を繰り返す私に向けられた田沼さんのあの蔑んだ目……。
こんなことを続けてたらそれこそ田沼さんに嫌われてしまう。
本当は一生このままでいたいけど、どうにかしてこの手の感触を消さなきゃ自滅する!
その時、壁脇の棚に生け花用の剣山がいくつかあるのを見つけた。
これだ!
手頃なサイズの剣山を二つ選ぶと、針を下にして一つづつ手に持ち、目をつぶってゆっくりと握ってみた。
「おっぱい退散!!………痛っ!!」
ガラガラガラ……
背中で扉の開く音がして振り返る。
「あっ!さと美ちゃん!ただいまー!」
温室に入ってきたのは、いつもは早くても夕方の五時頃にならないと会社に戻って来ないしょうこちゃんだった。
「おかえり!もう現場終わったの?」
「うん!早いでしょ?明日は丸一日、住宅展示場のメンテナンスの日だから、今日は早めに現場切り上げて明日の準備なんだ」
「住宅展示場って、隔週で行ってるとこ?」
「そうそう」
「現場ちょっと遠いんだよね?なのに隔週なんて大変だね」
「うん、移動はちょっとね。でもね、あそこの近くにすっごい美味しい定食屋さんがあって、いつもそこでお昼食べるの楽しみなんだ。だから案外嫌いじゃないの」
「そうなんだ!いいなぁ〜定食屋さんか……なんかお腹空いちゃったなぁ……」
「さと美ちゃん、お昼食べたばっかりじゃないの?」
「うん、食べてからまだ2時間しか経ってない。だけど、すでに3バーレルいけそうなくらいお腹空いてて……」
「バーレルってケンタッキーのあれ?」
「うん、ケンタッキーのそれ」
「バーレルを単位で使う人初めてだよ……てゆうか、3バーレルって相当お腹空いてるね?なんか体使った仕事でもしたの?」
「体より脳を使ってる感じかな、フルで」
「そっか。事務って色々頭使って大変そうだもんね……」
「ううん、そうじゃなくてね、今日は朝からずっとエッチなことばっかり考えちゃって……。私、なんでか昔からエッチなこと考えてると無性にお腹空くんだよね。性欲と食欲がリンクしてるっていうか……」
「ちょっ、ちょっと待って!情報過多過ぎるよ!そもそも、なんで今日はそんなことばっかり考えてるの?」
「話せば長くなるからはしょって話すけど……実はね、昨日の夜、田沼さんの生おっぱい揉んじゃったの。そのせいで私、今日はそんなことばっかり考えて……」
「今度ははしょりすぎだって!何が起きてるの?!どうゆうこと?!ちゃんとイチから説明して!」
千手観音みたいに両手をわちゃわちゃと振り乱し取り乱すしょうこちゃんに、私は改めてことの経緯を詳細に話した。
「なるほど……。それはすごいことが起こったね……」
「うん……すんごかった……」
「それ絶対おっぱいのこと言ってるよね?」
「だってね、それはもうすごかったの!例えるなら……だめだ!例えられない!あのおっぱいに例えられるものなんてこの世に存在しない!」
「そ、そっか……」
「田沼さん見てるとあの感触を思い出しちゃって仕事にならないんだよねぇ……」
「で、今その手に持ってるのは何?」
「剣山」
「これで手に残るおっぱいの感触を消そうと思ったんだけど、痛すぎて握れなかった」
「……さと美ちゃん、剣山で手の感触消そうとする思考自体がもう何かに侵されてると思うよ?」
「…………確かにね」
***
田沼さんの裸体……すごかったなぁ……
失敗ばかりの一日をなんとか終え、家に帰る道の途中でもまた、性懲りもなくあの残像を思い描いていた。
それにしてもエッチなことを考えてると本当にどうにもこうにもお腹が空いて仕方ない。
思い立ってアパートへ向かう一本道を右に曲がり、大通り沿いにある個人経営のお弁当屋さんへ向かった。
スタミナ弁当、からあげ弁当、カレー弁当、チーズハンバーグ弁当、おまけに単品のポテトサラダを買って再び家への道を急ぐ。
そして帰宅するなり、着替えもせず全てのお弁当をぎゅうぎゅうにテーブルの上に並べ、すぐに食べ始めた。
普段は普通の人と変わらない食事で何も問題なく事足りてる。だけど月に一回くらいの頻度で、食欲が大爆発することがある。そんな時でもせいぜいお弁当三個くらいが限度だった。でも今日は、それじゃあ全く足りる気がしない。食べ始めた今もお腹が鳴きわめいている。
田沼さんのおっぱいの感触が残る手で割箸を持つと食べ物が無限に入っていく気がして、ものの三十分そこそこで完食してしまった。
食欲が満たされて満足したはずなのに、お箸を置いた手にはまだあの感触が消えずに残っていて、その日の夜は田沼さんが事務所で裸で働いている夢を見た。
そんな夢を見るなんて確かに私はどうかしてるかもしれない。
だけどこれは全部おっぱいのせいだ!
と、翌日からは人のせいならぬおっぱいのせいにして開き直ることにした。




