第32話 好きな人
ジェットコースターみたいに乱高下を繰り返した飲み会は、ここに来てようやく穏やかで平和な時を迎えていた。
しょうこちゃんが繰り広げる『取り引き先の変わった人シリーズ』の小話に笑ったり、田沼さんが許す範囲の軽めなのろけ話をしてみたりした後、話題は清川さんの謎の結婚生活に移った。
「もうだいぶ前から旦那さんはほとんど彼氏と同棲状態で、たまーに荷物取りに帰ってくるくらいなの。だから私ほぼ一人暮らしなんだよね〜」
「清川さんのお家って一軒家ですよね?広いお家に一人だと寂しくないですか?」
みんなに遅れて清川さんの衝撃的事実を聞かされたしょうこちゃんは、興味津々に質問を重ねていた。
「もう慣れたかな〜。それに、自由にいつでも彼女呼べるから結構有意義だよ」
「えっ!?彼女いんの!?」
聞き返したのは相馬さんだったけど、田沼さんもしょうこちゃんも、さらなる清川さんの暴露に逐一いい顔で驚いている。
「うん!ひと回り以上歳下のめちゃくちゃ可愛い子!」
「え」
田沼さんからも一文字だけ漏れる。
「……ヤバい、まじで倒れそうなんだけど」
相馬さんは重い頭痛でも抱えているようにうなだれ、本当に上半身が崩れかけていた。
「……それでなんだけどね、ついさっきちょうど彼女から『バイト終わった』って連絡が来たの。せっかくだからみんなに紹介したいなーって思うんだけど、いいかな?」
清川さんがみんなに確認を取る。
「まじで?!全然いいよ!見てみたいし!」
「私も大丈夫です」
相馬さんに続き田沼さんも了承した。私も笑顔でうなづく。
「……もちろん大歓迎ですけど、それって彼女さんが今からここに来るってことですか?!」
「うん!」
しょうこちゃんの質問に清川さんは清々しいほど気持ちのいい返事をして、早速彼女さんに連絡をした。それからわずか3分後……
ボスボス……
ぼやけたノックの音と共に襖が揺れた。
「あ、来た!来た!」
「早っ!今連絡したばっかりなのにもう着いたの?!」
相馬さんが心霊現象を目の当たりにしたように襖を見上げると、清川さんは怪しげに微笑んだ。
「どうぞ〜!入って〜!」
「……失礼します」
……ん?この声って……
丁寧に襖が開き入ってきた私服姿のあどけない女の子の姿に、清川さんを除いた全員が固まった。
「……谷口……さん?」
私がそう言うと、清川さんはにこっと笑って「こっち来て!」と彼女の手首を引っ張り、自分の隣に座らせた。姿勢のいい正座でうつ向く彼女の肩を優しい手つきで抱きよせ、その白くなめらかな頬にお酒で少し染まった頬を寄せる。
「改めて紹介するね!私の彼女、谷口実来ちゃん!」
「……ムリムリムリムリ……追いつかないって!何が起きてんの?!」
相馬さんは畳の上で軽く後ずさりをした。
「……も……もしかして清川さん……」
清川さんが説明しようとしたその前に、何かにおののくような表情で田沼さんが口を開いた。谷口さんも含めた全員が視線を一点に集中させ、次の言葉を静かに待つ。
「……飲み会の合間にこちらの担当さんをトイレに連れ込んで、無理やり手ごめにしたんじゃ……」
淡々とした口ぶりでなかなかの破廉恥な容疑を清川さんにぶっかけた。
「やだぁ〜田沼ちゃん!そんなわけないでしょ〜!」
「……あの、清川さん……私に以前話してくれた近所の喫茶店の彼女とは別れたんですか……?」
谷口さんの気分を害することのないよう、私は清川さんを手招きし、テーブル越しに耳打ちをしてこそこそと尋ねた。
「ふふ。この子がその子だよ!バイト変わったの」
「そ、そうだったんですね!……ならよかった……」
「ん?よかった?」
「いえ、なんでもないです!」
これまでの清川さんの行動が浮ついたものじゃなかったと知って、私は心からホッとした。
「あー!そうゆうことかぁ〜!彼女さんがバイトしてるからここのお店にしたんですね?」
「そうなの〜!」
しょうこちゃんが正解を叩き出すと、田沼さんは名探偵のようにあごに指を添え、誰にも聞こえないような声で「そっちの方か……」と呟いた。超短略的な推理しか出来ないのに雰囲気だけはいっちょ前で可愛らしくて笑いそうになる。
「あの!はじめまして。谷口実来と申します……澄香さんがいつもお世話になってます……」
ようやく一瞬途切れた会話の隙間に滑りこむようにして、谷口さんは強張った顔で自己紹介をした。なんならバイト中の時よりも礼儀正しい。
「実来がちゃんと挨拶してる〜!可愛いぃ〜!」
頭をなで、ほとんど子ども扱いで清川さんが愛でると、谷口さんは少し不服そうに体を軽くのけ反らせ、その手から逃れようとした。
「ちょっと、澄香さん!皆さんの前でやめて下さい!さっきもずっとやりづらかったんだから……」
「えっ、そうだったの?!……ごめんね?嫌だった?」
「……嫌なわけないです……ただ、仕事中は、どうしたらいいか分からなくなるから……」
「ふふ、そうだよね〜?実来は私にいっぱい可愛がられるの大好きだもんね〜?本当は嬉しかったんだ……?」
「…………はい」
目の前で繰り広げられる、滅多にお目にかかれない年の差カップルのイチャイチャについ見入ってしまった。隣の田沼さんを見ると、二人の真正面という超特等席で、まるでエロ動画でも観てるかのようなギンギンな目をしていた。
「……あのさ、二人の世界入ってるとこ悪いけど、私たちいるんですけど?」
なんと余計なことを……。
相馬さんが二人の世界に水を差す。
「あっ、ごめ〜んね〜つい〜!」
「じゃあ、仕切り直してみんなで乾杯しましょうよ!」
しょうこちゃんの呼びかけをきっかけに、記憶が一つ呼び起こされる。
「あれ?でも彼女さん未成年じゃ……?」
「実は、つい数日前に二十歳になりました」
「そうなんですね!それはおめでとうございます!」
谷口さんを交えて6人になった私たちは再び乾杯をすると、衰えを知らずさらに盛り上がって話に花を咲かせた。
そんな中、しばらくして相馬さんがふと席を立った。
「ちょっとたばこ」
襖が閉まるとしょうこちゃんもすぐに席を立ち、「私はちょっとお手洗いに……」と下手くそな嘘をついた。
「……田沼さん、ごめんなさい、私もちょっとだけ……」
どうしてもしょうこちゃんのことが心配になり、田沼さんの返事を待たずに私もその後に続いた。
部屋を出ると、廊下を挟んで向かい側の一番奥の襖が閉まる瞬間がちょうど目に入った。さっきまであの部屋にはお客さんなんていなかったはずだ。
私はその部屋の前まで行き、襖と襖がかち合って空いた数ミリの隙間から中を覗いた。
やっぱり……そこには、自分の部屋のように居座る相馬さんと、その側に立ち尽くすしょうこちゃんの後ろ姿があった。
「あんなふうに豪語してたくせに本当はあの二人を見てるの辛いんですね」
「何言ってんの?全然そんなんじゃないし」
視界の乏しさとは逆に、二人の声はギリギリまで襖に近づいて聞き耳を立てる私によく届いてきた。
「じゃあどうして席を立ったんですか?たばこだなんて嘘ついて……。相馬さん、もうとっくにたばこやめてますよね?」
「……知ってたんだ」
「こんなところに無断で入って、街の不良ですか!」
どうしよう……。
酔っぱらいの相馬さんに、同じくお酒の入ったしょうこちゃんが何かされやしないかと心配でつい来ちゃったけど、この会話、聞いちゃダメなやつかな……。
罪悪感がじわじわと心に広がり、引き返そうかとよぎった時、
「何してるの?」
空いていた左耳に田沼さんのささやきがダイレクトに響いた。びっくりして声が出そうになる口を両手で抑えて固まる。田沼さんは不可解な顔をしながら、さっきまでの私を真似て向かい合わせで襖に耳を近づけた。
「いやさ、最愛のパートナーを見つけて幸せそうな人たち目の前にしてたら、微笑ましくはあるんだけど、自分てなんなんだろーってちょっと虚しくなってきてさ。だから、少しだけ休憩……」
「それ、私に言います?」
「言っちゃだめだった?」
「別にいいですけど、私の気持ち知ってるくせにひどいこと言うなぁって思って」
「……なんかしょうこ、今日ちょっといつもと雰囲気違うね?飲みすぎてんの?」
「……確かに結構飲んではいますけど、お酒のせいだけじゃないと思います」
「…………」
「さっき田沼さんに言ったこと、あれ本当に本心ですか?」
「そうだよ」
「……もう本当にさと美ちゃんのことはなんとも思ってないんですか?」
しょうこちゃんが投げかけた質問に田沼さんはピクリと反応した。ふいに気まずさが襲う。
「もぉー、なんでみんなそんなに引きずってると思うかなぁ?もうほんと全然なのに。伊吹には幸せになってほしいって心から思ってるし、別に傷ついてなんかないよ」
「……そうですよね。案外、本当にそこまで傷ついてないんですよね。取り返しがつかないくらい傷つく前に、さと美ちゃんにアクセルを踏みこむのやめたから」
「なにそれ?」
「相馬さんは臆病なんですよ。本当は愛されたいのに、傷つくのが嫌だから愛そうとしない。目的地がすぐそこに見えてても、ブレーキばっかり踏んで全然前進しない。……セフレとか、そうゆう割り切った一時停車ばっかりはするくせに、どこかにずっと駐車する気はないっていうか」
「……言いたいことは色々あるんだけどさ、とりあえず一つ言うわ。……さすが毎日乗ってるだけあって例えが車づくしだよね」
「……すみません」
「で、結局何が言いたいの?はっきり言ってよ」
「……じゃあ言います。……私が思うに相馬さんは多分、さと美ちゃんが田沼さんにどこまでも一途なところを見て、それに憧れたんだと思います。そんなふうに、自分のことだけを愛してくれる人をずっと欲してるんじゃないでしょうか。だけど、そんな自分の本心にも向き合おうとしない。相馬さんは、臆病者の寂しがり屋です」
「……生意気。知ったようなこと言うね」
「……知らないですけど、これでも入社してから何年もずっと、相馬さんだけを見てきましたから……。その私の憶測です」
「憶測だよ」
「でも、結構自信のある憶測です」
「…………」
「だから、その憶測に基づいて言わせてもらいます。……寂しくならない愛を求めるなら、与えられるのはさと美ちゃんじゃなくて私ですよ。私は、相馬さん一筋ですから。相馬さんのどうかしてる部分も理解した上で、それでも思い続けられるのは世界で私一人だけかもしれません」
「……あのさ、なんでなの?」
「はい?」
「なんでそんなに私のこと好きなの?知ってると思うけど、私けっこうろくでもないよ?」
「……私にも分かりません」
「おい」
「……多分、相馬さんだから。相馬さんじゃないとだめだから……だってこの世に相馬さんは一人しかいないでしょ?」
相馬さんはため息をついた。
「……飲み会って楽しいよね、やっぱ」
そして、あからさまに話を変えた。それが返事だと悟った様子のしょうこちゃんは、敷かれたレールに沿って返事をした。
「……そうですね、最近はあんまり出来てなかったですもんね。……特に、さと美ちゃんは来れなくなってたし……」
「ねぇ、また近いうちやろうよ」
「……はい、みんなが大丈夫だったらまたやりたいですね……」
「違うよ、二人で」
「えっ……」
「今度うち来なよ。二人だけでしよう、飲み会」
思わず田沼さんと目が合う。
「……えっ……あの……は……はい……」
さっきまでの堂々とした立ち振る舞いは一気に消えうせ、ただただウブな女の子が現れた。
「……冗談だよ。そうやってすぐついてっちゃダメでしょ。しょうこは簡単に悪い方向へ流されるなー。危なっかしー女。ひょいひょい部屋なんか行って、それで襲われたらどうすんだよ」
「……私は、いつもちゃんと先まで考えて行動してます!今のは……相馬さんだったから。……もしそうゆうことになってもいいって思えるから……」
「私なんかの側にいたら汚れがうつるよ?」
「そんなのうつらないです」
「うつるんだって。まじで汚れてんだから」
「……それなら、相馬さんの汚れた部分は私が綺麗にしてあげます!」
すると、相馬さんは突然笑い出した。
「なんか今日のしょうこ、おもろ。……というより、今のしょうこが本当のしょうこなのかな」
「………」
「……あのさ、ほんとに来る?うち」
「……また冗談ですか?」
「今度はほんと。だからって別に取って食おうとかってつもりじゃないよ。一度、しょうことゆっくり話してみたいって思っただけ」
「……嬉しいです」
「部屋たばこ臭いけど、それでもよければだけど」
「たばことか全然気にならないですから!」
「無理しちゃって。入社したての時、あてがわれたトラックがたばこ臭すぎるってよく文句言ってたじゃん」
「そんなこと言ってました?」
「うん。だから私、自分も臭いって思われてんだろうなーって気にして、それからたばこの本数極端に減ったもん。てゆうか今は完全にやめたし」
「……そうだったんですか。だけど、相馬さんのだったら、たばこの匂いも好きになっちゃうかもしれないです……」
「……あのさ、ちょっと前言撤回していい?」
「何をですか……?」
「私、可愛い女の子好きだからさ、やっぱり100パー手出さないって約束は出来ない」
「…………」
「気が変わった?やめとく?」
「……私は別に……初めから……そうなってもいいつもりでいましたから……」
「そんなこと言っちゃっていいの?処女なのに」
「どっ、どうして決めつけるんですか!」
「だって、どっからどう見てもそうじゃん。しょうこは全方向処女だもん」
赤面するしょうこちゃんの横顔がかすかに見える。
「……経験がない相手は嫌ですか?」
「私自身は別に気にしないけど、多少責任は感じるよね。下手なことは出来ないなって。だからまぁ多分大丈夫だって。きっとなんもしないよ」
話を一方的に終わらせるように、相馬さんが立ち上がろうとする素振りを見せた。
「……相馬さん」
「ん?」
しょうこちゃんに呼ばれて相馬さんの動きが一旦止まる。
「私にはブレーキ踏まないで下さい……。私の前ではいつでも、相馬さんの思うままでいて欲しいです。どんな暴走運転だとしても私は……私だけはずっと相馬さんの助手席に座り続けますから!」
「……また車の例えかよ」
そう言った相馬さんの声は、今までで一番嬉しそうに聞こえた。
「これ以上はもうやめよう」
田沼さんは息づかいほどの声でそう言ってスッと立ち上がった。私もそれを見て慌てて立つ。
「はい……」
ほとんど聞き尽くしたようなものだけど、今さら私たちはその場を後にした。
みんなで席を空けて申し訳ないと思いながら部屋へ戻ると、残された清川さんカップルはまるで私たちがいないことに今気づいたかのように二人の世界に入り浸っていて、ある意味安心した。
「この状況で私のこと置いてくんだから……」
二人に届かないように田沼さんが私をキッと睨んで不平を言った。
「……確かに、鬼な状況でしたね……すみませんでした……」
4人で飲み直していると、しばらくしてからようやく相馬さんとしょうこちゃんも戻ってきた。
行きはバラバラだったけど、帰りは二人一緒だったことがなんだか嬉しかった。




