第30話 おおやけ
「あっ!おはようございます!田沼さん!!」
その朝の私の挨拶は、今までのどの時よりも元気いっぱいだった。
「お……はよう……」
一方の田沼さんは、睡眠不足の後遺症と私の異常なテンションにひるんだ挨拶で返す。小さな歩幅で向かってくる田沼さんを待ちきれず、私は自分から駆け寄り廊下の真ん中でその体に抱きついた。
「伊吹さんっ?!」
「……寂しかったです」
結局あの後、空がうっすらと明るくなり始めた頃に私は自分の部屋に戻った。2時間ほどの睡眠を取り、いつもの時間に家を出ていつもの時間に出勤をした。田沼さんとは約3時間ぶりの再会だった。だけど、生の肌のぬくもりを知ってしまった私にはその3時間は一週間にも感じられて、恋しさははち切れるほどに募っていた。
「……たったの数時間だけど」
聞き捨てならない冷めたセリフに、こめかみがピクリとする。
「田沼さんは全然寂しくなかったんですか?!この数時間の間、私のこと一度も考えてくれなかったんですか?!」
私は田沼さんの両腕を掴んで揺らしながら尋ねた。もしも肯定されたら、数秒で涙がこぼれる自信があった。どうやら驚くべき速さで私はすっかり恋わずらいにかかってしまったみたいだ。
「………考えた……よ」
「ほんとに?!どんなこと?!」
「それはいいでしょ……」
「……あ、その反応はもしかしてえっちなことですか?」
「もういいって!!」
私の肩をぐいっと押して取り調べから逃れようとする田沼さんを力強くもう一度抱きしめた。
「やだ!もう少しこうしてて下さい……」
もっと抵抗すれば避けられるのに田沼さんはそうしなかった。
「なんか不思議です……私たち、昨日までとは違うんですよね……今はもう恋人同士なんですよね……」
目をつぶって温かい首すじに顔を埋めると、田沼さんの香りがして、ついさっき裸で抱きしめあった体の感触が鮮明に思い出された。
「大好き……田沼さん……」
顔を近づけてキスをしようとしたその時、
「……あの、伊吹さん……気持ちは嬉しいんだけど会社でこうゆうのはちょっと……」
盲目になっている私とはあきらかに違う冷静な発言で顔を背けられ、ズキンと胸が痛んだ。
「……会社でするのは嫌なんですか?」
「そうゆうこと以前に、普通に良くないでしょ?会社なんだから」
「でも……実質、まだ就業前だし……」
「就業前だったとしても仕事場に変わりはないんだから、ある程度は気を引き締めるべきだと思う」
ごもっともだけど、なんかムカつく。
「……お言葉ですけど、田沼さんだって就業前にぺこりんの動画見てましたよね?ぺこりんを見るのはよくて、私とは……現実の彼女とキスするのはダメってことですか?!」
「それはそうでしょ!」
強い口調でバッサリ言われ、田沼さんを想えばいつでもすぐ出せる涙がぶわっと溢れそうになった。そんな私に気づくと、田沼さんは突然焦り出した。
「だっ、だから!私が言いたいのは、キスなんかして、もし誰かに見られたりでもしたら大変でしょ?!ってことで……!」
「……でも、いつも就業時間10分前まで私たち以外誰も来ないじゃないですか……」
「いつもはそうかもしれないけど、今日も絶対そうだとは限らないし……」
「……一回だけ……お願いします」
「…………でも……」
私は、わざとらしいくらいにじっと田沼さんの目の奥を見つめながら、甘えるように頼んだ。こうゆうのが好きだってことはもう知っている。
「伊吹さん、お願い……それ以上はやめて……!私だって自分と戦って、一生懸命抗ってるんだから……。そんなに可愛い顔で私のことを見たりしないで!」
「……だって……私、ほんとに無理なんです。少しでもいいから田沼さんが欲しくて……絶対の絶対にダメですか……?」
「……わ、分かったから……じゃあ……本当に一回だけね……」
可愛い田沼さんは私の目をまっすぐに見れず、精一杯強がりながら許してくれた。
「うれしい!」
もう一度、腕の中にいる少し小さな田沼さんにキスをしようとする。田沼さんは、会社の廊下という落ち着かない環境にそわそわしながら、それでも目を閉じて私の唇を待った。あと1cmで唇が触れ合う……そう思ったその瞬間、
「あーー!!!」
奇声のような大声がした方を、二人一斉に振り向く。
そこには階段を上りきったところで私たちを目撃し、文字通り開いた口が塞がらないでいる相馬さんがいた。
「そ、相馬さん……今日はずいぶんお早いんですね……」
「ごめん、たまたま少し早く起きたもんだから気まぐれで早く来ちゃったんだけど……ちょっと早すぎたみたいだわ……」
言い訳しようがない私と田沼さんの距離感に、完全に全把握をした相馬さんは申し訳なさそうに謝った。
田沼さんは恥ずかし過ぎて穴に入りたい心理になっているのか、絶対無理なのに、私の腕の中の空間に縮こまって身を隠そうとしている。警戒心の強いプレーリードッグみたいで可愛い。
「……だから言ったのに」
穴の中のプレーリードッグは恨めしそうに私を責めた。
「ごめんなさい……」
コソコソしたところで全部丸聞こえの私たちのやり取りを聞いていた相馬さんは、
「田沼さん、そんな気にしないで大丈夫だって!伊吹が田沼さんのこと好きなのはずっと前から知ってたし。ようやくそうゆうことになったってことでしょ?」
相馬さんにそう言われても田沼さんは何も言えないでいた。
「……実は、そうゆうことなんです……」
今さら否定する意味もないので、代わりに私が返事をした。
「よかったじゃん!伊吹!」
「……ありがとうございます」
「じゃあ私出直して来るからさ、続きやってよ」
「え?」
相馬さんが引き返そうとすると、
「そんなことしなくていいから!!」
田沼さんがついに私の中から飛び出し、再び出ていこうとする相馬さんを止めた。
「……伊吹さんと……その、そうゆう関係になっても、当たり前だけど、そのことで迷惑がかかるようなことはしないから……さっきは、あんな場面を見せてしまってごめんなさい……」
深々と頭を下げる田沼さんに相馬さんは笑って答えた。
「別に迷惑とかないって!私、別に気にしないし」
「……でも、ちゃんと仕事とプライベートは分けないと……変に気を遣わせちゃうと、知らず知らずに余計なストレスが積み重なると思うし……」
「んー、田沼さんがそう言うなら分かった!変な気を遣うと二人も逆にこっちに気遣っちゃうだろうし、私も今まで通り普通にするわ。じゃ、遠慮なく事務所入らせてもらうねー」
いつもの明るい調子で事務所の中に入っていく相馬さんを見て、私は内心ほっとしていた。
……よりによって相馬さんにキスする寸前のところを見られるなんて……。
もう諦めたとは言われてたけど、正直、さすがにあんな場面を見せちゃったら何か思われるかもしれないと一瞬焦ったけど、それは私の大きなうぬぼれだったみたいだ。
「……私たちも入ろう」
肩身を狭そうにしながら相馬さんの後を追って事務所へ入っていこうとする田沼さんの手首を掴む。
「待って下さい!」
「どうしたの?」
「その前に少しだけお話が……」
「……なに?」
話し始める前に一呼吸を置く。田沼さんは少し不安そうに私の言葉を待っている。
「今日って金曜日じゃないですか……」
「それがどうしたの?」
「……金曜日だから田沼さん、マグネットに行くのかな……?って思って……」
そっと視線を上げて田沼さんの表情を見る。ほとんど変わらないけど、ほんの少しだけ目が見開いたように見えた。
「……行かないよ、彼女が出来たんだから。……そうゆうことしてた相手に会いに行ったりなんてしない」
私の目を見てはっきりと言い切ってくれた田沼さんに安心して、ぽろりと涙が出てきた。田沼さんはその一粒の涙に気がつくと、いつかのようにハンカチを差し出してくれた。
「……不安だったんです……。……田沼さん、毎週金曜日はマグネット行ってたわけだし、愛ちゃんのことは恋愛感情じゃなくても人としては好きだろうし……今後も変わらずに行くのかなって……。実際、私も愛ちゃんはいい人だと思ってるし、私とこうなった今、二人が今までみたいなことをするとはもちろん思ってないですけど……でも……やっぱり私、田沼さんと愛ちゃんが……」
田沼さんのハンカチで涙を拭いていると、密かに抱えていた不安が自分でも情けないくらいつらつらと流れ出て止まらなくなってしまった。
「あ、ごめんなさい!別に一生マグネットに行かないでほしいとか言うつもりじゃなくて……!会いに行くのを止めるなんて権利、私にはないし、そこまで縛るつもりはないんですけど……」
田沼さんが困った顔をしてることに気づき、束縛めいた言葉に嫌気が差したかと思って取り繕った。
「……ごめんね、不安にさせて」
私は大きく首を横に振った。
「……正直ね、愛ちゃんには近いうちに会いに行こうと思ってるの」
「え……」
気まずそうにそう言った田沼さんを見て、心臓が高鳴り始める。
「でも安心して。愛ちゃんに会いに行くためじゃないから。伊吹さんとのことを伝えて、これからはもうお店にも行けないってこと話そうと思って」
正直、そこまで考えてくれてるとは思ってもなかった。田沼さんは、私とちゃんと付き合おうとしてくれてる……。それが嬉しい。
「……それとね、伊吹さんには権利あると思うよ。『もう愛ちゃんに会わないで』って言う権利。……だって伊吹さんは私の彼女なんだから」
「田沼さん……」
「言葉が難しいけど……その、色々と今までお世話になったのは事実だから……出来ればこのまま何も言わずにフェイドアウトはしたくなくて。だから、最後に一回だけ話しに行ってもいいかな……?」
「……はい。そういうこと、大事だと思います……」
本当の本当を言ったら、愛ちゃんに会いに行かれるのはどんな理由があっても嫌だ……
嫌だけど……彼女の私にちゃんと許しを乞うてくれたことが嬉しいし、何より、悔しいかな悲しいかな、ズルい逃げ方をしないでちゃんとケジメをつけようとする田沼さんが私は好きだから、仕方ない。
「……ありがとう。もし、私が一人で行く方が嫌だったら伊吹さんも一緒に……って、そっちの方が嫌かな……?」
「いえ!田沼さんが私がいてもいいなら、ついていきたいです!信じてないとかじゃないし、私も愛ちゃんのことは好きだけど、何もなくてもやっぱり田沼さんと二人にはなってほしくない……。だって、田沼さんは私の彼女なんですから!」
「……うん。今の私は全部伊吹さんのものだよ……」
すると、田沼さんは私をそっと抱きしめてくれた。ふいすぎて、挙動不審になってしまう。反射的にドキッとした心臓が心拍数を上げ続けて胸が苦しい。
「い、いいんですか……?相馬さんにああ言ったのに……」
「これが本当に最後」
そう言われてたまらなくなり、私は強く田沼さんを抱きしめ返した。
「田沼さん、もう本当に好き!好き過ぎます!」
「私も……大好……」
「……ん?……ダイス?」
不自然なところで途切れた言葉に、田沼さんの様子を伺うと田沼さんの首は真横を向いていた。その視線の先を見る。
「……あ」
「え〜!ついに二人、そうゆう関係になったんだ〜?おめでと〜う!!すごぉ〜い!」
「清川さん……」
相馬さんに続き、同じくいつもよりだいぶ早い時間に清川さんが現れた。どうゆうこと?いつもほぼ決まった時間に出勤してくる二人が今日に限って二人とも早いなんて……
誰か招待状でも出しました…?
「……あ……りがとうございます……」
まさかの言葉を口にした田沼さんに驚いて二度見した。表情は固まっているけど、短いスパンで二度目ということもあり、元来仕事の出来る田沼さんは順応したようだ。
「よかったね〜!伊吹ちゃん!!」
「ありがとうございます……」
「田沼ちゃん!伊吹ちゃん、すっごく田沼ちゃんのこと大好きだから、いっぱいいっぱい可愛がってあげてね?」
「……はい」
「なんか今日はいい日になりそう〜」
気分の良さそうな独り言を口にしながら、清川さんも私たちを置いて事務所へと入って行った。
「……みんな知ってるんだね……伊吹さんが、その、私のことを……」
「あ、はい……。例の、好きな女の子のタイプの話をしてた時、具体的なことを言い過ぎて『それ田沼さんのことじゃない?』ってバレちゃって……なので、しょうこちゃんも知ってます……」
「そうなんだ……」
「ごめんなさい!私のせいで……。田沼さん、やりづらいですよね……?」
「でもまぁもう今さらだし……みんなに知られてるならそれはそれで気が楽かもね……」
「そうですよね!知られてる方が堂々とイチャこけますし!」
「だから、それはダメだってば!」
「あの……田沼さん、しょうこちゃんにも私たちのこと話してもいいですか?しょうこちゃん、すごく親身になって応援してくれてたので出来れば報告したくて……」
「うん。私のことは気にせずに伊吹さんのしたいようにして」
「ありがとうございます!」
「それじゃ、いい加減私たちも席につこっか」
「あっ!……とその前にもう一つ!」
「えっ?まだ何かあるの?」
「これで本当に最後ですから!」
「……なに?」
「……田沼さん、今日の夜はフリーなんですよね?マグネット行かないわけだし」
「……え?……うん、まぁ」
「……それなら……続きしたいなぁ〜?……なんて」
「続きって……さっきまでしててほとんど寝てないのに?!」
「そんなの大丈夫ですよ!私たち若いんだから!明日も明後日も休みだし!」
「……昨日しようとした時は伊吹さん、1日仕事行ったら休みだからちょうどいいって言ってなかったっけ?」
「言いましたけど!でも、一回田沼さんとのエッチ知っちゃったらだめになっちゃったんです……」
「……でも、さすがに今日は寝ないと。倒れちゃうでしょ……」
もっと押したらなくはなさそうな可能性をちらつかせながら、悔しいけどいまいち完全には乗ってこない。
「……しないでいる方が倒れちゃいそうです……。私、すでに中毒になってるんです。田沼さんとしたくてしたくて今もどうにかなりそう……」
内緒話のように耳元でそう言うと、田沼さんはまた顔を真っ赤にしながら私を振り切って事務所に入っていってしまった。
***
視界に入る田沼さんに逐一心を奪われながらもなんとかいつも通りに仕事をこなし、時計の針は12時を回ってお昼の時間になった。
時間がなかったからかなり適当な出来だけど、初めての二人きりのお昼休みを期待して持ってきたお弁当を片手に田沼さんの元へ近寄る。
「伊吹は今日もお弁当か」
「でも、今日からは二人でお弁当だね?」
田沼さんまでの狭い道すがら、相馬さんと清川さんに捕まった。
「まだ分からないですけど……断られるかもしれないし……」
キリが悪いのか、いまだに仕事を続けている田沼さんを遠目でチラリと見る。断られる理由はないはずたけど、仕事モードの田沼さんは予想がつかないことばかりでやっぱり不安だった。
「断られるとかないでしょ、彼女なんだからさ」
「そうだよ〜!私たちにもバレちゃってるんだから今さら隠す必要もないしね」
「そ、そうですよね……」
「じゃ、私たちもお昼行こっか?清川さん」
「うん!行こ行こ〜!お腹空いちゃった〜!」
「行ってらっしゃい……」
事務所を出てゆく二人の背中を見送っていると、
「伊吹さん」
田沼さんに背中から声をかけられた。
「天気いいから屋上で食べない?」
「…………はい!」
屋上に上がり、ベンチに並んでお弁当のフタを開けた。そんな些細なことだけで空を舞っているように幸せだ。
「なに笑ってるの?」
田沼さんが不思議そうに聞いてくる。
「幸せで!」
「……もう、そんなことばっかり」
冷めた口ぶりでも内心は照れているのが分かる。こうゆう田沼さんが私は好きだ。
「でも本当に、昨日からずっと夢見てるみたいで……究極、夢なら一生覚めないでって思います。現実の私、一生寝てろ!って」
楽しくて仕方なくて、ただただ笑えてくる。すると、田沼さんは私をじっと見てから咳払いをひとつしてから口を開いた。
「……今日、何時にする?」
「えっ?……」
「……来るんでしょ?うち」
「……いいんですか?!」
「体力と睡眠が足りなくて本当に潰れちゃうかもしれないけど、それでもいいなら……」
「はい!それでもいいです!もし田沼さんが潰れちゃったら好き勝手させてもらいますから!」
「それは絶対ダメ!!」
「え〜?ダメなんですかぁ?」
「意識のないところで好きにされたら、それこそ伊吹さん何しでかすか分からないもん」
「大丈夫ですって、そこまでけったいなことはしませんから」
「ダメ!!絶対!!」
「そんな……ヤバいクスリでも止めるように……」
「そもそも伊吹さんの言う『けったいなこと』は世間から外れすぎてるんだから」
「そんなですか?!」
「そんなだよ!私、後半なんて宇宙人としてるのかと思ったんだから!」
「宇宙人て!」
こんなふうに笑い合えることが軌跡みたいに思う。目の前にいる田沼さんはもう私の彼女だ。実感はまだ全然沸かないけど、これから先は指一本たりとも誰にだって触れさせはしないという独占欲だけは、戦国の城壁のように立ちはだかっている。
「……さっき、相馬さんと清川さんになんか言われたの?私とお弁当食べること」
突然、何かが引っかかってるように田沼さんは言った。
「いえ、ただ私が断られるかもしれないって不安になってたら、彼女なんだから2人ともそんなことあるわけないよって言ってくれて……それだけですけど……何か?」
「……相馬さんも清川さんもよくすんなり受け入れてくれたなって思って……。元々伊吹さんの話を聞いてたにしても、一応私たち女同士なわけだし……少しくらいは驚きそうなものじゃないかなってちょっと気になって……」
「あ、あぁ〜そうですよね……」
さすがにプライバシーの問題があるので、『だって、全員丸ごとレズだから!』とは言えない。
「実は私、以前少し思ってたことがあるの」
「……どんなことですか?」
「相馬さんて、伊吹さんのことをそうゆう目で見てるんじゃないかって……まぁ結局私の杞憂だったみたいだけど」
私は思わず口に入れた白米を吹き出しそうになったけど、すんでのところで飲み込み、そのせいで激しくむせた。
「だっ、大丈夫?!」
「大丈夫です……」
……田沼さんと付き合えた喜びにいっぱいになって考えが及んでなかったけど、相馬さんに告白されたことは話すべきかもしれない……。
同じ職場で働いてるわけだし、何もなかったとは言え、田沼さんが知らないでいるのは良くないことだ……。何も知らないで私を心配して背中をさすってくれている田沼さんを見ていたら罪悪感が増していった。
話さなきゃ……
「あの……田沼さん……?」
「ん?」
「その、すべて解決済みではあるんですけど、……実は少し前に相馬さんに告白されたことがありまして……」
カラン……
「あっ!」
田沼さんはその瞬間固まってしまい、地面にお箸が落ちた。私は急いでそれを拾い、「洗ってきます!」とひとつ下の階にある給湯室へと走った。しっかり洗って急いで戻ると、田沼さんはいまだフリーズ中だった。右手までがそのままで固まっていたので、私はそこに洗ってきたお箸を差し込んだ。
「解決済みってどうゆうこと……?」
すると、お箸が再可動条件だったように再び時が動き出した。
「告白はその場ですぐ断って、その後に相馬さんからは『もう諦めた。田沼さんとのことを応援する』って言われたんです。だから今はもうそうゆう感じなので……」
「……本当にそうなのかな」
「本当にそれからはそれまで通り普通だし、さっきだって普通でしたし!」
「そう……」
「あの……怒ってます?」
「怒ってないし、別に怒ることじゃないでしょ。誰が誰を好きになるかなんて自由なんだし、それに私たちが付き合う前の話なわけだし、私からは何も言うことないし、つくづく文句の言いようがないし」
「……あの、もしかして……嫉妬してくれてます?」
「……どうして?」
「だって、いつもよりすごくよく喋ってくれるので……。それに、田沼さんの言うことは理にかなってるけど、そうやって自分で自分を納得させようとしてるような……」
「……本当にそう思ってるだけだから」
「そうですよね、すみません、調子に乗って……田沼さんが嫉妬とかないですよね……」
***
午後の仕事中、遠くから様子を見ていたけどなんとなく不機嫌そうに見えた。
嫉妬じゃないなら、怒ってる……?
さっき相馬さんのことを話したのは田沼さんの一言がきっかけみたいなもんだったし、それがなかったら言うつもりなかったの?って私のことを不信に思ってるとか……。
だとしたらそう言ってくれれば弁解出来るけど、田沼さんの場合、思ってることがあっても内に秘めたままにしそうだ……。ややこしいひねくれ方をして『今日はやっぱりなしにしよう』とか言い出したり、そっちの方向になりかねそうで怖い。
怯えながらようやく一日の仕事が終わった。私は恐る恐る田沼さんへと向かっていった。今私に出来ることは一つしかない。
とにかく媚びる!
「田沼さ〜ん……?」
目の前まで言って声をかけた。
「なに?」
なんか冷たい。
「……あの、今日の約束って大丈夫ですよね……?」
「約束したことは守る」
そんな、武士の義理人情みたいに……。
でもとりあえず撤回するつもりはないみたいだと分かってひと安心した。
「ねー、ねー!田沼ちゃ〜ん、伊吹ちゃ〜ん!」
ぎこちない空気の私たちの元に、清川さんが少し弾むような歩行で嬉しそうにやって来た。
「今日これからみんなで飲みに行かない?金曜日だし!」
「え……あ、ええと……」
私は如実に拒否反応を露わにしてしまった。誘ってもらえるのは嬉しいけど、今日は、今日だけは大事な大事な予約がある!
「ほらぁー清川さん!ほやほやの二人を邪魔しちゃダメだって!伊吹めちゃくちゃ困ってるよ。『誘ってくれるのは嬉しいけど今日はちょっと……』って顔してるじゃん」
うわ……ほぼ一言一句合ってる……
少し離れた場所からでも私の意思は感じ取れたらしく、察しのいい相馬さんが清川さんを制止した。
「え〜そっかぁ〜……せっかくだから二人の話、色々聞きたかったのになぁ〜」
清川さんが大人しく相馬さんの元へ退散してゆく後ろ姿を見ながら、田沼さんが口を開いた。
「……相馬さんて、伊吹さんのことよく分かってるよね」
「あ、いや……今のは思いっきりそうゆう顔しちゃってたかもだし……」
「……そう言えば、相馬さんだけ唯一伊吹さんのこと呼び捨てにしてる」
「そうですけど、それはほぼ初めからだし、そこに深い意味はないっていうか、そうゆう人なんですよ!適当であんまり考えがないっていうか!ほら、しょうこちゃんだって呼び捨てだし!」
「……伊吹さんも相馬さんのことよく知ってるんだ」
おやおや……?
これは完全に嫉妬じゃないですか……?
その証拠に、田沼さんの口がまたひょっとこになっている。絶対嫉妬してんじゃん!!
田沼さんには悪いけど馬鹿可愛い!!
「しょうこ誘って3人で行こーよ」
「そうだね〜どこにする?いつものとこ?」
相馬さんと清川さんが帰り支度をしてゆっくりと事務所を出ようとしたその時、
「行きます」
田沼さんは立ち上がり、2人の背中に信じられない言葉をかけた。
「え、マジで?」
「わぁ〜!うれしぃ〜!!来てくれるの〜!?」
意外な展開に、相馬さんは驚き清川さんは盛り上がった。
「えぇ?!ちょっと!田沼さん!!」
「せっかく誘ってもらったんだから行こうよ」
ちょっと待ってよ!!
そう来るなら話は別だ!
今日約束したじゃん!!
『約束したことは守る』とか渋い感じで言ってたじゃん!!
みんなで飲み会より私とセックスしてよ!!
……てゆうか、今まで何回、何十回諦めずに飲み会に誘い続けた私をスパスパと断ってきたと思ってるの……?『せっかく誘ってもらったんだから……』なんてどの口が言っとんねん!!
思わず、脳内の語尾が関西弁になってしまった。
「だけど田沼さん、だって今日は……約束したじゃないですか!」
「……別に遅くなったって問題ないでしょ?飲みに行った後でも。明日は休みなんだから」
あ、やる気はあるんだ……。
てゆうか、てことは、お酒が入った状態の田沼さんとするってこと……?
まぁそれはそれで……
「……分かりました。行きましょう」
私は承諾して荷物を手に取ると、田沼さんと共に相馬さんと清川さんの元へと向かった。




