第26話 素直
お互いだけになった静かな部屋の中、どこからかゴングの鐘の音が聞こえた気がした。もちろん空耳のはずだけど、アイツはその音をきっかけに上げた鎌先を外側に向け、同時に足のスタンスをガっと広げた。
まるでシャネルのロゴみたいだ。
このポーズの意味を私は知っている。
これは、最上級の威嚇のポーズ……
どうしよう……この距離で飛んでこられたら私は完全に終わる!!
怯える私に向かってアイツはそろりそろりと前に歩き出した。
「ちょっ!ちょっと待った!」
追い詰められた私は傘を持っていない方の左手をパーにして前へ突き出した。そんな私の仕草に、アイツが一瞬ビクッと驚いてひるむ。
その時、私はふと思った。
考えてみれば、アイツが威嚇してくるのは仕方ないことなのかもしれない。
アイツの目には今、自分とは比べ物にならないほどのデっカい巨人が、大きなヤリの先端を自分に向けている姿が映ってるんだ……。
アイツも私と同じで、ただ恐怖に立ち向かってるだけなのかもしれない。だとしたら、アイツの行動は威嚇というより防御なんじゃ……?
「……大丈夫だから……何もしないから……ね?」
刺激しないよう落ち着いた声を心がけ、聞きようによっては軟派なスケコマシみたいなセリフを口にしながら、私はゆっくりとビニール傘を下ろしていった
すると、それを見届けていたアイツは、その場でピタリと歩みを止めた。
この子、案外話の分かる子なのかも……
「ありがとう……」
まずはきちんとお礼を伝えた。次に、なるべく恐怖心をあおらないように出来るだけ小さく見せるため姿勢を低くし、そーっと畳の上に座った。
つい正座の形で座っちゃったもんだから、万一アイツが裏切って襲ってきたらなすすべはない。てゆうか、すぐ動けない状態って信じられないくらいに怖い!
だけど、信じてもらうにはまず自分が信じなきゃ……
武器にしていたビニール傘を体より後ろへ置き、戦う意思がないことを行動で伝える。
「……私がこんなもの持ってくるから怖かったんだよね……?ごめんね……?」
様子を伺うように謝ったけど、反応は何もない。
「……あのさ、あなたはそもそもどうしてこの部屋に入ってきたの?ここにはあなたのごはんなんてないし、外の方が絶対に環境がいいと思うんだけど……」
まだ拭いきれない恐怖で声を震わせながらも、なるべく優しく尋ねてみた。すると、Kは相変わらず無口のまま、上げていた鎌を静かに降ろした。ノーガードのボクサーのように大きな鎌をぶらりと垂らす姿が、やけに頼りなく見える。
「もしかして……」
私は低い姿勢を保ったまま、忍びのように後ろ歩きでキッチンに向かって下がった。完全にキッチンのエリアに入ってから立ち上がる。流しの台の上にちょうどよく空のペットボトルを見つけた。きっと田沼さんが次の資源ゴミの日に出そうとしているものだろう。
私はそのペットボトルを手に取るとキャップを外し、そこへ入るギリギリまでの水を汲んだ。そしてそれをこぼさないようにしながら再び低い姿勢でさっきいた場所まで運ぶと、恐る恐るKの目の前にそれを置いた。
「水が飲みたいんじゃない……?」
するとKは、水の入ったキャップをしばらくじーっと見つめてからゆっくりと上半身を前へ倒した。
「……あ……飲んでる……」
昔、Kは水分補給がかなり大事だという話を聞いたことがあった。実際どんな風に飲むのかまでは知らなかったけど、差し出したキャップの水を、まるで犬や猫のように直でゴクゴクゴクゴクと飲みまくっていた。今日は季節外れの残暑で相当暑かったから、水分が足りてなかったんだろう。
水を求めてウロウロしてるうちにここにたどり着いたのかもしれない。
「外じゃ水を飲むのだって一苦労だよね……。人間みたいにどっかで買ってくることも出来ないし……。あなたも必死で頑張って生きてるんだね」
独り言のように私がそう言うと、Kは突然水を飲むのをやめた。顔を上げて今度は至近距離でじっと私を見てくる。一瞬心を寄せたものの、申し訳ないけど目が合うとやっぱり条件反射で身構えてしまう。
この子まさか、水分補給して復活したら改めて私と戦うつもりなんじゃ……?!
ところが次の瞬間、Kはくるりと方向転換をして私に背を向けた。そして、そのまままっすぐ前へ進み、開いたガラス戸の隙間を器用に通り抜けて部屋から出ていった。
私はあっけに取られるように、ガラス戸越しにその後ろ姿を見ていた。
「あ……あの、元気でね!」
なんだかワケの分からない興奮状態になりそんな言葉を投げかけると、Kはちらっとこちらを振り返った。
しまった!余計なことをしてしまった!と思ったら、あの子はまるで『ありがとう』を伝えるように、私に向かってペコリと頭を下げた。信じられない光景に目を奪われている中、すぐにまた前を向き再び歩き出す。ベランダの柵までたどり着くと、あの子はちょっとした段差を難なく上り、柵の棒と棒の間からためらうことなくハラリと下へ落ちていった。
「あぁ――ッ!!!」
早まった行動にショックを受け、急いでガラス戸に駆け寄り下を覗いた。すると、羽根を広げてふうわりと舞い落ちるように飛んでいるあの子の姿を、街灯の白い光が照らしていた。
「よかったぁ……ビビらせないでよ……」
ガチャガチャ……ガチャッ!!
突如、玄関から壊れそうなくらいのドアノブの音がして振り返る。
「伊吹さん!!?大丈夫なのっ?!」
扉が開くと、慌てた様子の田沼さんが部屋の中へと飛び込んできた。
「た、田沼さん?!私まだ呼んでないですけど……?」
「だって!叫び声がしたから!」
……そっか、私がびっくりして声を上げたから、まだKがいるかもしれないのに心配して入って来てくれたんだ……。
そんなことされたら、しても無駄な期待をしてしまう。
「驚かせてすみません……。あの子はついさっきベランダから外に出て行ったのでもう大丈夫です。安心して下さい」
「……ありがとう……。伊吹さん……こんなこと頼んでごめんなさい……」
すると田沼さんは、心から申し訳なさそうに私に謝った。振った相手に頼ったことに罪悪感を感じてるように見えた。
「全然余裕でしたから!全然気にしないで下さい!」
田沼さんの後ろめたさを和らげようと、出来るだけ明るく元気に装って返した。すると、田沼さんはなぜか悲しい顔をしながら近づいてきた。
「どうして無理するの?」
目の前まで来ると、田沼さんは私の右手を取って両手で包み込んだ。
「手……震えてる」
そう言われて、初めて自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。あの子は悪い子じゃなかったけど、やっぱりトラウマは体に染みついているものだから、そう簡単に消えるものじゃないんだと客観的に知る。
「……ごめんね、伊吹さんもやっぱり苦手だったんだよね……?」
「これは……ちょっとびっくりしちゃっただけで、本当にそんなことないんです!田舎育ちだし!基本、虫はみんな友だちですから!」
「もういいから……。もう頑張らなくていいんだよ、怖かったなら怖かったって言っていいんだよ?」
心の奥まで包みこむようなじんわりとした温かい声で言われ、鋼で覆っていた素直な気持ちが溢れ出した。
「……こ、怖かったです……本当は……めちゃくちゃ怖かったです!田沼さんっ!!」
私は思わず田沼さんに抱きついてしまった。いつかのようにまた避けられるかと思ったけど、田沼さんは私よりも強い力で抱きしめ返してくれた。
「……私が伊吹さんに頼んだりするから、怖い思いさせて本当にごめんね……」
私は黙ったまま小さく首を横に振った。すると田沼さんは、背中に回した手で私をさすりながら、控えめな声で話し始めた。
「私、虫の中でKが一番苦手なの……。昔、たまたま深夜に見ちゃった映画が原因で。普通じゃあり得ない大きさのKに人間が襲われていくいかにもなB級映画なんだけど、その映像がとにかく怖くて、ずっと脳裏に残ったまま消えなくて……」
それを聞いた時、思わぬところでまた雷が落ちたような衝撃を受けた。
「田沼さん、それ私もです!」
くっついていた体を少しだけはがして、顔を見合わせて言った。
「私もって……Kが苦手なこと?」
「どっちも。Kも映画も」
「……映画も?」
K事件の余韻と、私の言葉の真意に気を取られているせいか、通常ではあり得ない私たちの距離感に、田沼さんは気を止めることなく聞き返してきた。
「その映画って『カマキリ大逆襲』じゃないですか?」
「……そういえば、確かそんなタイトルだったかも」
「……初めて会いました。私以外に、『カマキリ大逆襲』知ってる人……」
言葉では返ってこなかったけど、その目を見たら同じことを思ってることが分かった。
「小学生の時、友だち何人かで一人の子のお家にお泊まり会したことがあったんです。『朝までずっと起きてようね!』って約束したのに、12時を前に見事に全員寝ちゃって……。私は一人だけ全然眠くならなくて、つきっぱなしだったテレビをそのままぼーっと見てたんです。……そしたら、突然その映画が始まって……。肉食のKが次々に人を襲うシーンが怖すぎたけど、衝撃的すぎて逆に目が離せなくなっちゃって……しまいには、最終的にどうなるのかを見届けないことの方が怖くなって。結局最後まで見ちゃったんですけど……まさかのバッドエンディングだったせいもあって、それからずーっと今も、Kがトラウマで……」
そこまで話すと、田沼さんは今もまだ向かい合っている私の腕をそっと支えるように両手で優しく掴み、
「……おんなじだね。もしかして、同じ瞬間に見てたりして。なんて、さすがにそんなわけないか……」
と少し恥ずかしそうに言った。
「田沼さんは、何歳頃でした?あれ見たの」
「え?……確か受験勉強中の、中3の夏だったと思う」
「私は……小4の夏休みでした。私と田沼さんは5つ離れてるから……計算が合います!もしかしたら本当にそうなのかも!同じ日の同じ時間の深夜に同じ映画を見てたのかもしれないです!」
「まさか。その頃に何回か放送してたんじゃないかな」
「同じ年の夏に『カマキリ大逆襲』なんか何度も放送しないですよ!『ジュラシックパーク』じゃないんだから」
私が真剣に反論すると、田沼さんは嬉しそうに笑った。
「確かにね。そうかも」
私の目を見てようやく同意する田沼さんを見た時、感激と高揚でこのまま引き寄せて今すぐ抱きしめたくなった。だけど私は、全身に力を込めてそれをぐっとこらえた。
だめだ、これ以上体の一部が触れ合い続けていたら我慢出来なくなりそうだ……。名残惜しすぎるけど、田沼さんの体からそっと離れて距離を取る。
「あ、これすみません……傘、畳に置いちゃって……」
話を変えるように、畳に横たわったままのビニール傘を拾う。
「あ〜!全然大丈夫!」
田沼さんは傘を受け取ると同時にベランダの方を見た。
「……あれ、何?」
ベランダのヘリにはさっきKにあげたペットボトルのキャップの水がそのままになっていた。私は忘れていたキャップを手に取り、この数分間のKとのやり取りを田沼さんに事細かく話して伝えた。田沼さんは、初めて聞くおとぎ話でも聞くように、真剣に私の話に耳を傾けてくれた。
「……伊吹さんて、やっぱりすごいな……」
すべて話し終わると、傘とキャップを片づけすっかり元通りになった部屋の真ん中で、田沼さんが独り言のように呟いた。
「そんな、私はただ必死だっただけで……」
「……伊吹さん。今日のお礼に何かお返しをしたいんだけど、私にして欲しいこととか、何かない……?」
「田沼さんに、して欲しいこと……?」
「……うん。どんなことでもいいから」
「……本当に……どんなことでも……いいんですか?」
「うん……」
それは、田沼さんにしてはかなりショッキングな言い回しだった。しかも、心なしか恥じらいながら口にしているような雰囲気で、愚かな私はギリギリ許されそうなレベルのいやらしいお願いは何かないものかとフル回転で思考を巡らせた。
だけど、私の答えをじっと待つ田沼さんを見てすぐに正常さを取り戻す。田沼さんがそうゆう意味で言うわけが無い。
そもそも、田沼さんには好きな人がいるんだから……
少しの間都合よくどこかへ消し去っていた現実を思い出し、冷静になる。
「あの……じゃあ、目上の人に大変失礼なんですけど、少しだけ肩叩いてもらえないでしょうか……?」
あの子を目の前にずっと全身に力を入れていたので、首肩あたりの筋肉がカチコチに凝り固まっていて、実はさっきからずっと辛かった。それに加え合法で、いやらしさを感じさせることなく田沼さんに触れてもらえるという絶妙なお願い、それが肩叩きだ。
この期に及んでまだどうにか少しでも繋がろうとする自分が惨めだけど、やっぱり好きだから仕方ない。
「そんなことでいいの?」
「はい」
「……分かった。じゃあ後ろ向いて座ってくれる?」
「……はい」
正座で畳の上に座ると、田沼さんは膝立ちで私の後ろに立ち、すぐに肩叩きは始まった。
「すごい凝ってるね」
「最近、特に凝り気味で……」
静寂の中で田沼さんが私の肩を叩く鈍い音だけが響く。田沼さんに触れてもらって嬉しいはずなのに、突然異様な虚しさに襲われ始めた。この肩叩きはまさに私と田沼さんの距離感だ。この先、私たちの体が触れる時はきっとこんなふうに他人行儀な場面でだけ。さっき抱き合ったのは、Kがもたらした奇跡的なハプニングなだけで、あんなことはきっとこの先、未来永劫二度とない……。
「一つ聞いていい?」
その時、突然田沼さんが背中越しに尋ねてきた。
「なんですか?」
「伊吹さんが少し前からしてる、その三つ編みと眼鏡のスタイルって……もしかして私のせい?」
ついに来たと思った。ついにそこに触れられてしまった。はっきり聞いてきたということは、やめてくれということだと悟った。
「……せいっていうか……田沼さんから大人しいタイプの方が好きって聞いて自分なりに……ごめんなさい。振られたくせに未練がましいですよね……もうこんなことやめますから……」
肩を叩かれながら私はうなだれて謝った。
「……ごめんなさい」
私と同じ言葉を口にして田沼さんの手が止まる。
「どうして謝るんですか?」
私は首だけで振り返り、見上げるようにして田沼さんを見た。
「あの時は、伊吹さんの告白を断る口実でつい……デタラメを言ったの……」
聞き捨てならない言葉に体ごとくるっと回って正面を向いた。
「デタラメ!?ちょっ、ちょっと待ってください!デタラメってことは嘘ってことですか!?田沼さんは、こうゆう感じが好きなんじゃないってことですか?!」
「……ごめんなさい」
「……じゃあ私は今まで何のためにこんなたまちゃんみたいな姿に……!」
『断る口実』という言葉へのショックを感じたと同時に率直な本心が湧き上がり、つい責めるように田沼さんへぶつけてしまった。
「だって、伊吹さんがそこまでするなんて思わないから!」
「私はなんでもしますよ!田沼さんに好きになってもらえる可能性があるなら!」
言っても無駄なのに、またしつこいと思われるのに口にしてしまった。田沼さんの曇った表情を見て申し訳なく思う。
「ごめんなさい。また困らせるようなこと言って……」
田沼さんは何も言わない。
「……実はこないだマグネットに行ったんです。愛ちゃんにちゃんと謝らなきゃいけないって思って……。その時、愛ちゃんから聞きました。田沼さんには前から気になってる人がいるってこと……」
「え……」
「私……田沼さんにそんな人がいるなんて知らなくて。だから、頑張り続ければいつか振り向いてもらえるって信じちゃって……ほんと、しつこいですよね……」
私がそう言うと、背中で小さなため息が聞こえた。
「……ずっと前から気になってる人がいるの。私なんかが気になるなんておこがましいって思って、その気持ちも否定してたけど。……でも、知っていくうちになんだか中身だけは少し似てる気がしてきて……思ったよりもずっと心は近いのかもしれないって、勝手に期待して惹かれていく自分が恐かった。近づいたら傷つくだけだから、絶対に無理だから……今以上近づきたくなかった。なのに、そんな思いと逆行した行動を取る自分もいて……そんな自分も分からなくて……」
田沼さんが誰かを想っていつもの自分を失っている。悲しいのにその姿が美しくて可愛くて、不思議だけど愛しさがこみ上げてくる。
「……田沼さんがそこまで誰かを想うなんて……その人が田沼さんの運命の人なのかもしれないですね」
「……まだ分からない?」
頭が理解するより先に体の中でドクンと大きく心臓が反応した。
「……伊吹さんだよ。私がずっと気になってたのは、伊吹さん……」
か細い声でそう告げた後、恥ずかしさに耐えながら私を見つめる田沼さんを、夢か幻か現実の本人か区別がつかないまま、私はただじーっと観察していた。




