第22話 やっぱり
あの日から相馬さんは無事に通常モードに戻ってくれたし、しょうこちゃんとは腹を割ったおかげでもう一段階仲良くなれたし、抱えていた3つの問題のうちの2つは解決してだいぶ会社に行きやすくなった。
残る1つの問題はもちろん田沼さんだ。
最近の田沼さんは、なんなら告白する前より優しく、気も遣ってくれている。仕事をする面では何も支障はない。だけど、元々私と田沼さんの間にあった目には見えない壁は、その分厚さが増した気がする。
私が出勤時間を見直したことで出勤の順番は入れ替わった。今は、後から事務所に入ってきた私が、すでにデスクにいる田沼さんに向かって挨拶をする……というのが、新しい朝の流れになっている。
「おはようございます……」
引き続き三つ編み丸メガネを貫いている私は、以前のような明るく元気な挨拶を完全に封印した。
控えめで目立たない女子らしく、目は合わせずに、田沼さんがかろうじて気づく絶妙なか細い声で挨拶をする。
「……おはよう」
返ってくる挨拶のイントネーションは今までと変わらないけど、毎朝この瞬間、なんとなく私に何かを思っているような雰囲気を田沼さんから感じる。
でもそれが何かは分からない。
「伊吹さん」
ふいに田沼さんから話しかけられた。思わず振り向き、久しぶりにしっかりと目と目が合って、久しぶりに田沼さんの顔を正面からはっきりと見た。
なんかちょっと見ない間にまた可愛くなってない……?手に入らなかった女ゆえに余計に輝いて見えるのか、私の視界に映る田沼さんの周りには、ティンカーベルの粉末みたいなのが浮遊していて、全身がキラキラと煌めいている。
てゆうか、ちょっと待ってよ!
髪切ってるじゃん!!
しかも髪色もワントーン明るくなってるじゃん!!
秋の田沼さん、バカみたいに可愛すぎ……
フラれた記憶なんて一瞬で宇宙までスポーンと飛んでったみたいに胸は踊り、さらに田沼さんから話しかけてもらった喜びに舞い上がる。ついギャロップで田沼さんの元へ向かおうとしてしまいそうになった時、唐突に自制心が戻って来た。
江戸時代の拷問のように大石を乗せられている想像をして、浮き足立つ両足を止める。鼻から深く息を吸って時間をかけて吐き、気持ちを整えてから返事をした。
「……はい?」
よしっ!
今のはかなり大人しそうだ!
上手くいった!
それなのに、
「……ごめん。やっぱりいい」
田沼さんはなぜかがっかりしたような顔をして私から目を背けた。それを見てショックを受け、さっきまで宙に浮きそうなくらいだった体に、木星に降り立った時のような自重を感じた。
早朝から気合いを入れて編んできた三つ編みをそっと握る。こんなことを続けて、本当に意味なんかあるんだろうか……?田沼さんの私への気持ちが変化することなんてあるんだろうか……?
長く暗いトンネルの中で綱渡りをしてるみたいだ。全く先は見えないけどそれでも他に道はないから、結局はこの道を進むしかない。
報われるかどうか分からないまま、私は同じ朝を何度も繰り返した。
***
その日は、会社終わりにある人に会いに行こうと、数日前から決めていた。
私の自分勝手な行動により、一番のとばっちりを受けたあの人の元に……。
好きな人に一直線だったからとは言え、後から思い返すとなんて酷いことを言ってしまったんだろうと、あの夜からずっと心にひっかかっていた。出来るだけ早く謝りに行かなきゃいけないと思っていたけど、色々あってすぐには行けず2週間ほどが経ってしまった。
開店5分前にお店のある通りへ着くと、看板を水拭きする大きな背中をすぐに見つけた。
「こんばんは」
背後から声をかけすぐに振り返った愛ちゃんは、私の正体に気づくまでに3秒かかった。
「うそ!さと美ちゃん?!雰囲気変わりすぎて分かんなかったよ〜!どしたの?イメチェン?」
「……そんなところです。あの……お店の中に入れてもらうことって出来ますか?」
「もちろん!なんでそんなこと聞くの?」
「出禁かもしれないって思って……」
本気でそうゆう可能性もあると心配してたけど、愛ちゃんはアシカショーのアシカのように手を叩いて爆笑した。
「おもしろーい!!とにかく入って!入って!」
今の何がおもしろかったんだろ……?
理解出来ないまま、小さく肩を折るようにして愛ちゃんが開けてくれたドアをくぐる。
「さと美ちゃんが一人で飲みに来てくれるなんてうれしいな〜!」
そう言いながらドアを閉める愛ちゃんの方を振り返り、私はその場で頭を下げた。
「今日は、愛さんに謝りたくて来ました!……こないだは、本当に申し訳ありませんでした!ひどいことを沢山言ってしまって……」
「えっ?!そのためにわざわざ?」
「はい……」
「真面目〜!そもそも私、さと美ちゃんにひどいこと言われたなんて思ってないよ?」
「……え?」
「だって、さと美ちゃん何も間違ってないもん。私がちえちゃんとしてるのは営業ってことも、そうゆうお客さんがちえちゃんだけじゃないってことも全部本当のことだし!」
「だとしても、あんな言い方されて頭に来るだろうし!」
「全然ないよ〜!反論ゼロ!だから安心して?」
その笑顔は混じりっけなしの本物の笑顔だった。「とにかく座って!」と愛ちゃんに促され、一番のりの誰もいないカウンターに座らせてもらう。
「そう言えばあの時のさと美ちゃん、私のこと『愛さん』じゃなくてちゃん付けで呼んでたよね?私、そっちのが気になっちゃってた!」
「ごめんなさい、あの時はなんか色々必死だったからつい……」
「違う、違う!うれしかったって話!せっかくだからもうここからは『愛ちゃん』って呼んで!ね?」
「……分かりました」
ドギマギしながら前回の相馬さんの真似をして愛ちゃんにも一杯勧め、カウンター越しにグラスビールで乾杯をした。
「……さと美ちゃんて、ちえちゃんが好きだったんだね」
一口飲んでグラスを置くと、愛ちゃんは落ち着いたテンションでストレートに言った。
「実は……はい……」
「そっか。それで店来てくれたんだ……。ごめんね?私こそさと美ちゃんに嫌な思いさせたよね?そうとも知らずに目の前でちえちゃんにすごいベタベタして」
「でもそれは、愛ちゃんからしたら立派なお仕事なわけだし、そもそも私は田沼さんの彼女でもなんでもないんですから、謝られる立場でもないし……。というかあの、一応確認なんですけど、仕事……なんですよね?恋愛感情はないんですよね……?」
「うん!お店に貢献してくれてるから私も出来る限りのお返しをしようっていう気持ち!感謝でいっぱいだけど、恋愛感情は一切ないよ」
それを聞いてほっとした。
「あの、最近も変わらず毎週来てますよね?田沼さん」
そんなこと聞くべきじゃないのについ聞いてしまった。
「うん!」
分かっていたけどやっぱり胸が痛い。
「あ、でもエッチはもうしてないけどね」
意外な言葉に、カウンターのヘリの傷へ落としていた視線を愛ちゃんに向ける。
「そうなんですか?!」
「うん。そうゆうことはもうやめるってちえちゃんから言われて」
「え?!……なんかあったのかな?……もしかして、彼女が出来たとかじゃ……」
独り言のように私が呟くと、愛ちゃんはそんな私を見かねるように言った。
「本当は内緒にしなくちゃいけないんだけど、さと美ちゃんにだけは教えてあげる」
「……なんですか?」
「ちえちゃんね、実は前に一度だけ、『気になってる人がいる』って話してくれたことがあったの」
「気になってる人……?」
そんな話、初めて聞いた。
もし田沼さんに好きな人がいるなら、相手は愛ちゃん以外に思い描くことなんてなかった。
「そう。でもね、気になってるけど初めからすでにあきらめてるって、自分に言い聞かせるように話してて……」
初めからあきらめてたってことは、相手はノンケの人……?と、推測をしながら聞いていた。
「その一度以来もうその話はしてくれなかったんだけどね、最後にホテルの部屋で『もうこうゆうことはやめる』って言った時のちえちゃん、あの時と同じ顔してたんだよね。だから私、ちえちゃんはやっぱり今もその子への気持ちが捨てきれないのかなって思って……」
「……あの、その人とはどこで知りあったとかって……?」
「ごめん、それは分かんないや。ちえちゃんてそもそもあんまり詳しく話す人じゃないから。私も自分からは極力聞かないようにしてるし」
「……そうですよね。ちなみに、それっていつ頃の話ですか?」
「うーんと、今年の春頃かな?」
「今年の春……」
「でね、どうしてこの話を私がしたかって言うとなんだけど……私思うんだけどね、ちえちゃんが気になってるって言ってた子って、さと美ちゃんじゃないかな?」
そうだったらどんなにいいか。
でもそれはあり得ないことだ。
「その話してたのが春なら、私じゃないです。その頃は私会社に入ったばっかりで、田沼さんとはまともに話したことすらもなかったから……」
「そお〜?だとしても可能性はゼロじゃないと思うけどな〜。だって、さと美ちゃんて尋常ない可愛さだし、一目惚れってこともあるかもだし!」
愛ちゃんはそう言ってくれるけど、悲しいかな、今の私にはそれこそ一番ないことだと痛いほど分かっている。
ぺこりんのイベントに行っていた田沼さんのことも、愛ちゃんのお店に通っていた田沼さんのことも、私は何も知らなかった。
きっと他にもまだ私の知らない田沼さんがいて、その知らない場所で出会った知らない人に、田沼さんは恋をしたのかもしれない。
「でも、もし今も田沼さんが誰かを想ってたりしたら、愛ちゃんも困りますよね?」
「どうして?」
「だって、例えば田沼さんに彼女が出来ちゃったら、極端な話、お店に飲みに来なくなっちゃうかもしれないし」
「そうだね〜、確かにお店的にはそうなんだけど……でも私はうれしいって思うかな」
「嬉しい?」
「お店やっててなんなんだけど、こんなところに一人で飲みに来る人ってみんな、何かに満たされない人たちなんだよね。愛のないセックスしてる人なんて、孤独で可哀想な人しかいない」
珍しく愛ちゃんは遠くを見ながら話していた。その『孤独で可哀想な人』の中には自分自身も含まれているんだと思った。
「私ね、ちえちゃんには幸せになってほしいって心から思ってるんだ。エッチしてる時のちえちゃんていっつも寂しそうなの。体が気持ちよくなっても心が満たされることはないから当たり前だよね……。私が言うのは矛盾してるかもしれないけど、ちえちゃんにはちゃんと愛のあるセックスをしてほしいんだよね……。あっ、ごめんね!こんな話して!」
「いえ全然……」
私は思いのほか冷静だった。
田沼さんは確かに、出会った頃から孤独を宿したような瞳をしていた。
誰も信じない、何も求めない……そう語る瞳が寂しくて、まだ何も知らない田沼さんを抱きしめてあげたくなったあの衝動を静かに思い出していた。
私がこの胸に溢れるほどの愛をもって田沼さんを強く抱いたとしても、田沼さんの心の氷は少しも溶けないんだろうか。
「実はね、私の密かな夢は、今来てくれてるお客さんみんなが愛する人と結ばれて、カップルで飲みに来てくれるってことなの。幸せそうなカップルだらけでこのお店の席が全部埋まったら最高でしょ?その時、私も彼女とカウンターの中で並んでたら言うことないんだけど〜!」
「……それが実現したら見てみたいな」
「それを見るにはさと美ちゃんもカップルにならなきゃね!もちろん、ちえちゃんと!」
田沼さんの想い人が私だと信じる愛ちゃんに、私は下手な愛想笑いで返した。
しばらくすると封を切ったようにお客さんが次々と入ってきて、明日も会社だし遅くならないうちにと私はマグネットを出た。
愛ちゃんは今日も外まで送ってくれて、最後に「今日は本当にありがと、色々話せてうれしかったよ!」と言って、つられそうになるくらいのまぶしい笑顔をくれた。
そんな愛ちゃんに手を振って背を向け、駅へ向かって歩き出す。平日なのにどこを見ても人だらけの夜の東京の街を歩きながら、愛ちゃんのお店にお客さんが絶えない意味が分かった気がしていた。
愛ちゃんはその名の通り、みんなに平等に愛をもっている。だから私にも同じように温かく接してくれるし、田沼さんの幸せも本当に心から願ってる。
だけど私は……愛ちゃんみたいに田沼さんの幸せは願えない。
私の胸をときめかせたあの新しい栗色の髪は誰かのためだったのかもしれないと思うと、辛くて苦しくて胸が痛い。
タイプじゃないって言われたって、田沼さんが誰かを想ってたって、やっぱり田沼さんは私のものじゃなきゃ嫌だ……。




