第16話 最低
うそ……なんで……?平日なのに……
田沼さんが愛ちゃんに連れられて店の奥へ進み、ずんずんと近づいてくる。私たちはわざとらしいくらい咄嗟に背を向けた。
私たちのすぐ後ろのボックス席に座ったことを会話と音で悟る。二人の雰囲気からして、そこがいつもの田沼さんの定位置のようだった。
私たちと田沼さんの距離は狭い通路を挟んで1mもない。しかもこのお店の壁は至る所が鏡になっている。目の前のカウンター内の壁も鏡なので、背を向けていても鏡越しに田沼さんの動きが全て丸通しに確認出来た。
「一人であの席って……田沼さん、実はかなりの特別枠なんじゃない?」
相馬さんが言った同じことを私も思っていた。
「平日なのに来てくれてありがと〜!!千絵ちゃん大好き〜!!」
愛ちゃんに抱きつかれるたび、田沼さんはあからさまに表情を緩ませる。会社では絶対に見せない顔を私は鏡越しに見ていた。
「明日仕事だから今日は少ししかいられないけど……」
「うん、分かってる。それなのに会いに来てくれてうれしい」
「だって、今日は愛ちゃんの誕生日だから……」
真後ろで繰り広げられる田沼さんと愛ちゃんの会話は、わざわざ耳をそばだてなくても聞こえてきた。
「おかわり大丈夫ー?」
愛ちゃんの代わりに、なくなりそうなグラスを見て別の店員さんが私たちに話しかけてきた。
「じゃあ、同じの一杯づつ」
躊躇する私をよそに、相馬さんが控えめな声で頼んだ。
「突然混んじゃってごめんね!今日は愛ちゃんのリアル誕生日だから真の愛ちゃんファンのお客さんはやっぱり当日に集うんだよね。バースデーイベントは週末なんだけどさ」
「さすがすごい人気ですね」
音量を出せない代わりに出来るだけ表情で愛想よく返していると、差し迫ったような田沼さんの声が背中から聞こえてきた。
「時間ないから、早速入れちゃってもいい?」
「えー?今来たばっかりなのにもう?」
「だって、そのために来たようなものだし……」
入れるって何?!
……田沼さん!!何する気なの!?
驚愕して目を見開いた私の耳元で相馬さんがささやく。
「もしかして伊吹、なんか勘違いしてない?」
その意味を考えようとするけど、それよりも二人が気になってしょうがない。
「ありがと〜!千絵ちゃ〜ん!!」
愛ちゃんは大はしゃぎしてカウンターの中へ戻り、ご機嫌でいそいそと何かの用意をしだした。
「あれって……」
「シャンパンだよ。何を入れる話だと思ったわけ?」
恥ずかしすぎて何も言えない。何も言ってないのに、相馬さんが分かったような顔をする。
「こんなとこでそんなことするわけないじゃん。どすけべ!」
「……どすけべって……久しぶりに聞きました」
「私も、久しぶりにどすけべに会った」
田沼さんが後ろにいることを忘れてるのか、酔って気にならなくなってるのか、相馬さんは自分の言ったことに吹き出した。
「千絵ちゃんからシャンパン頂きましたぁ〜!!」
突然、愛ちゃんの大声がライフルの弾ように発射され、私は思わず反射的に肩をすくめた。お客さんたちは慣れっこのようで、自然と全員が拍手をし、ハッピーバースデーの大合唱が始まった。私もちゃんとまぎれられるよう、それに合わせた。
普段はあんなにお金を使うことにシビアな田沼さんが、愛ちゃんには簡単にシャンパンを入れるなんて……ますます心配が募ってゆく。
「あれ、いくらくらいするもんなんですかね……?」
私がコソコソ小声で呟くように聞くと、相馬さんは大胆に振り向いてシャンパンの銘柄を確認した。
「店によって値段は違うけど、最低でも5万はするだろうね」
「ごっ?!5万っ?!」
「声でかいって」
「すみません……」
毎日一食数百円の手作り弁当を食べてる田沼さんが、もったいないからって互い違いの靴下を一日履き続けた田沼さんが、タダにつられ軽トラで現れたあの田沼さんが……5万のシャンパンを麦茶と変わらないペースでクイクイと飲んでいる……
「相馬さん、私、倒れちゃうかもしれないです……」
「そしたら抱きとめてあげるよ」
「こんな時にそんな冗談やめて下さい」
頭痛に襲われている私の脳髄にまで、愛ちゃんの声がひっきりなしに届いてくる。
「千絵ちゃん、見て見て〜!今日の衣装、可愛い?」
「うん、可愛い」
田沼さんが誰かに「可愛い」と言う言葉を初めて聞いた。ぺこりんにも使ったことはなかったのに。心の表面ががジリジリと焼けて煙が立ち始める。
「じゃあ特別に触っていいよ?シャンパンのお礼に!はい!」
ただでさえ半分しか隠せていない胸元の生地を、愛ちゃんは田沼さんに向かって両手でさらに少し開いて差し出す。
「……えっ?!……ここじゃ……」
そう言いながらも、田沼さんは至近距離で釘付けになっていた。
「ハハハ!やっぱりちえちゃんマジメ〜!そうだよね!じゃあ今度二人だけの時にゆっくりね?」
愛ちゃんの隠し立てしないあけっぴろげなセリフに慌てながら、田沼さんがしっかりと頷く。
今日のお礼にまたホテルも行くの……?
愛ちゃんと、またそうゆうことをするの……?
「タイミング見計らってそろそろ出る?時間も時間だし、バレたらやばいし」
「……はい」
店中が火曜日とは思えない盛り上がりを見せる中、相馬さんが近くの従業員の人に会計をお願いして、私たちは無事に田沼さんにバレずに店を出ていった。すると、閉めたドアから愛ちゃんが慌てて飛び出してきて、私たちを見送りに来た。
「今日はありがとうね〜!バタバタしちゃってごめんね〜!」
さっきまでは降ってなかった雨に気づいて「今傘持ってくるから待ってて!」と店に戻ろうとしたけど、私は勝手にそれを断り、相馬さんが丁寧でフランクな挨拶をして愛ちゃんと別れた。
テンションだだ落ちの私を気遣い、相馬さんはすぐ近くの居酒屋へ私を連れて行った。さっきとは打って変わって人のまばらなカウンターに座り色々と横から話してくれてたけど、私はその間ずっと上の空だった。
終電が近づき店を出ると、雨はさらに強くなっていた。
「さすがに傘ないとダメだわ」
と、相馬さんが一本先の道にあるコンビニへ寄っていこうと提案してきたけど、私は傘なんかどうでもよかった。
「私は大丈夫なんで、相馬さん買って来ていいですよ」
私が言うと、相馬さんはため息をついて
「ここの屋根の下で待ってな」
とコンビニへ向かって走って行った。
私は相馬さんの言うことを聞かず、ふらふらと先の角を曲がった。その道はマグネットの前の道に繋がっていた。感覚的にそうだと思って、意味もないのになんとなく向かってしまった。
まだ田沼さんは店にいるのかな……。
さっきは断ってたけど、今はだいぶお酒が入って、愛ちゃんの体を多少触ったりしてるかもしれない……。
その時ちょうどお店のドアが開き、閉じた傘を開きながら田沼さんが出てきた。
「千絵ちゃん、今日は本当にありがとうね!」
田沼さんが愛ちゃんに傘を差し出す。
「じゃあまた金曜日、会えるの楽しみにしてるね!」
「うん。いつも通り終電で来るから」
「分かった〜!」
田沼さんがいよいよ立ち去ろうとすると、
「あ、ちょっと待って!」
愛ちゃんは何かをひらめいたようにそう言うと、無防備な田沼さんの腕に掴まってその体を引き寄せ、頬にキスをした……
いつか私に見せてくれたあの日の比じゃない照れた表情で、愛ちゃんを見つめ返している。
唇じゃなかったとしても、目の前で起こったその出来事は、私の許容範囲と理性を保てる範囲を十分過ぎるほど超えていた。
「やめてっ!!田沼さんから離れて!!」
後先も考えず、たまらなくなって数メートル先から声をあげた。田沼さんと愛ちゃんが同時にこっちを振り向く。
「い……伊吹さん?!どうしてこんなところにいるの……?!」
いるはずのない私がいることに加え、そこそこの雨の中、傘も差さずに立つ姿に田沼さんは驚いた顔をしていた。
「田沼さん!目を覚ましてください!こんなこともうやめてください!」
「……なんの話?てゆうか、突然現れて何を言ってるの?!」
「田沼さんはいいお客さんだから営業されてるだけなんです!田沼さんだけが特別なんじゃないんです!」
本当ならもっと整理して伝えるべきだった。だけど今の私はそんな思考能力なんてどっかに行ってしまっていた。
「え〜っと……二人って知り合いだったんだ?」
私に酷いことを言われている愛ちゃんは、それに対してはピンと来ていない様子で田沼さんに向かって焦点のズレた質問をした。その一言に田沼さんの顔色がさらに変わる。
「どうゆうこと?愛ちゃん、伊吹さんのこと知ってるの?」
「今日初めて来てくれたお客さんなの。先週たまたま店前で名刺渡して、ついさっきまでカウンターで飲んでくれてたんだけど、千絵ちゃん気づいてなかったんだ?」
愛ちゃんの話を聞いて田沼さんが理解出来ない顔で私の方を再度向き直り、私はなんとか分かってもらおうと説明を始めた。
「この間、田沼さんの家に行った時に愛ちゃんとの電話のやり取りを聞いて、もしかしたら田沼さんが騙されてるんじゃないかって心配になったんです。それで、実は先週の金曜日、アパートから出かける田沼さんのことをつけて……それでこのお店まで来て……」
「……何言ってるの……?どうかしてる!!何を考えてるの?!」
「おかしいことをしてるのは分かってます!でも私は、とにかく田沼さんが心配で仕方なかったんです!!」
「余計なことしないでよ!そんなこと伊吹さんに頼んでないでしょ!?」
「それはそうですけど……でも私の言ったことは事実なんです!田沼さんがお金を使ってくれるからホテルに行ってくれるかもしれないけど、そこに恋愛感情はないんですよ?!」
「……どうして伊吹さんがそんなことまで知ってるの……?」
「それは……」
「……まさか、そこまでつけたってこと?」
「……あの……ごめんなさい……」
「…………最低」
大好きな声が小さく呟いたその言葉は、私の体にねじ込むように刺さって、一番奥の中心部で止まった。
「……千絵ちゃん、とりあえず私、なんか謝ったほうがいいのかな?」
愛ちゃんが気まずそうに私と田沼さんを交互に見て言った。すると、田沼さんは愛ちゃんの体にそっと手を添えながら、
「愛ちゃんが謝ることなんかない。愛ちゃんは何も悪くないんだから。もうお店戻って。迷惑かけてごめんね」
と逆に謝り、押し込むようにして愛ちゃんを店の中へ戻した。
申し訳なさそうに少しお辞儀をしながら愛ちゃんがドアを完全に閉めると、田沼さんは溜まったその怒りの矛先を私へ真っ直ぐに向けた。
「何も知らないくせに愛ちゃんのことを悪く言わないで!」
田沼さんは心から私を憎み、軽蔑し、そしてきつく睨んだ。
「お金使ってその見返りにしたいことさせてもらって、それの何がいけないの?お互い大人で同意の上なんだから別にいいでしょ?部外者にとやかく言われることじゃない!」
反論しようがない言い分と『部外者』という言葉にトドメを刺されながらも、問いかけたいことは止まらなかった。
「田沼さんは、そんなに愛ちゃんが好きなんですか……?彼女にしたいんですか?」
「……別に、そうゆうんじゃない」
「それなら!ただエッチなことをしたいだけなら私としましょうよ!私だったらお金なんて1円もいらない!田沼さんがしたいこと、何でもしていいですから!」
悲しいけど本心だった。田沼さんの何かを癒やせるなら、私が出来ることをなんでもしたかった。でも私の心からの訴えを聞いた田沼さんは、スンという音が聞こえてきそうなほど、座った目をして私を見ていた。
「……なにそれ?馬鹿にしてるの?」
「違います!馬鹿になんか!……私はただ田沼さんが……」
その時、
「あっ!いた!」
声のした方を振り向くと、道の先に焦った顔をした相馬さんがビニール傘を差して立っていた。
「……一人じゃなかったんだ?」
田沼さんは新しい罪をつきつけるように私に言った。
「二人で人の秘密探って楽しかった?次の飲み会のいい話題でも見つけた?」
そのセリフに一瞬で理解した相馬さんが田沼さんに駆け寄る。
「田沼さん誤解だって!二人で来たわけじゃなくて、私は……」
「悪いけど、これ以上もう何も話したくない」
本当に限界が来てることが見て分かった。
「田沼さん……」
私はどうしたらいいか分からなかった。
「今日のことはなかったことにする。だから、二人とも明日からもう二度とこの話をしないで」
最後の言葉はひどく落ち着いていた。
同じ帰り道で同じアパートへ帰るはずの田沼さんは、私たちにそう言い残してその場から立ち去った。
「……伊吹、ごめん……」
相馬さんが急いで駆け寄り、私の上から傘を差しかけて言った。
「相馬さんが謝ることないです。ストーカーしてたのは私なんですから。全部、自業自得です……」
顔を上げ、終電の近い駅へと向かう人々の姿をぼやける視界で追う。だけどもう、その中に田沼さんの幾何学模様の傘を見つけることは出来なかった。




