高橋家(伯爵)
1.起源と江戸時代までの発展
高橋家は、菅原朝臣嫡流であり菅原道真の後裔として、学術と文庫を家風とした伝統ある家門である。
家風は静雅を旨とし、出世欲よりも知識欲と探究心を重視し、朝廷への忠誠は厚いが、政治闘争には極力関与を避けるため昇進は遅く、極官は少納言であった。
文庫博士を家職として、朝廷の公文書管理や文庫の維持を司る内記局や大学寮・文庫道の役職を家門で独占し、蔵書目録・古文書蒐集の名の下に諸国の寺社・藩校・私塾などに独自の情報網を築き、様々な情報収集や諜報活動に従事してきた。また秘密裏に禁書指定により処分されかねない貴重文献の収集・管理も担う。
この特殊な役割により、門流に属さず、時の関白直属の特例的な堂上家(家格は名家)として公家社会に認められていた。
一方で、諜報活動や文献管理を隠れ蓑とした各種事業を全国に展開し、本家を中心に組織化された家人たちが運営を担った。その結果、表向きの石高には現れないが、実質的な資産規模は摂家に匹敵するものとなっていた。
2.明治時代の転換と財閥形成
明治維新を迎え、高橋家は子爵に叙される。
この時、管理していた文献や諜報活動に関する情報の多くを明治政府の然るべき部署へ移譲しており、その功績が表向きは清鑑院塾の創設した高橋在長の功績と評価され、まもなく伯爵に陞爵し以後は「高橋伯爵家」として存続する。
裏の家業を担っていた家人の多くは引き続き高橋伯爵家に仕えることを選び、その結果、隠れ蓑として活用していた事業や人員が家に残る形となった。
この残された事業群を分野、地域ごとに整理させ、正式に株式会社に移行させる。残った家人たちもその担い手で雇用を維持しつつ、財閥として表社会で統括・再編した。また裏の家業から情報収集能力の高さと、その正確性を基に、新時代に合わせた事業や投資も次々と成功させたため、時代について行けず困窮する華族が多い中、財政的に極めて安定した家門となる。
戦前、高橋財閥は大手財閥並みの企業群を形成したが、管理可能な規模に留め、専門事業に特化させるなど、手堅い中堅企業として維持。得た利益は海外進出や清鑑院塾への投資に回され、これが私立総合大学への改編・発展の基盤となった。
財閥は積極的に海外進出し、世界に諜報網を構築していたため、秘密裏に政府の依頼を受け、調査や工作活動に協力していた。それが貢献したのが日清戦争や日露戦争の勝利だった。
3.明治後期の大学運営と軍部との対立
明治後期になると、日清、日露の成果により軍部とより密接な関係を結ぼうとする者が、大学関係者や家人から現れ始め、やがて清鑑院大学の運営方針を巡り、高橋伯爵家と大学首脳陣の間に対立が生じる。
それにより実学偏重による倫理・人文教養の軽視によって、倫理的に問題がある研究や実験が行われるようになり、高橋伯爵家は内部改革の必要性を訴えた。しかし、創設者・高橋在長の死後、合議制の運営体制の中でその影響力は次第に低下し、大学運営から徐々に排除されることとなる。
創立家という権威を排除した大学首脳陣はより一層、軍部との協力を積極的に推進し、昭和初期には私立の体裁を残したまま、陸軍軍令部の影響力が強い実質的な官立大学へ変貌してしまう。
やがて、軍部と一緒に暴走した大学関係者や家人たちにより、高橋家が構築していた諜報網が乗っ取られ、また中野に諜報活動を主軸とした多くの関連施設と主軸となる軍学校の設立に至る。
高橋伯爵家は財閥運営に軸足を移しつつも、いくつかの大学外縁組織を掌握し清鑑院大学と関わり続け、無視されようとも文民統制を離れ、暴走する軍部との関係の危険性や、大学の改革案、反戦論など、大学首脳陣に反対意見を発し続けた。
諜報網や地に足ついた分析により、国際情勢における日本の立ち位置に精通していたため、日本の敗戦が濃厚であることを察知し、戦前・戦中を通じて、どんな非難や圧力に晒されても反戦論を曲げなかった。
4.戦後の変革と高橋家の権威復活
終戦後、軍部との関係が問題視された清鑑院大学は存廃の瀬戸際に立たされた。
伯爵家はGHQの意向を先読みし、爵位返上と財閥解体を自主決断。活動停止状態の大学・関連組織の雇用と設備維持に手元資金の多くを投じ、創設者・在長の理念に基づく再建案を提示した。計画は受け入れられ、大学は存続、伯爵家も特例的に運営へ復帰した。
終戦直前より問題となっていた中野の諜報施設群については、政府の秘匿意向と伯爵家の整理意向が一致し、後始末を引き受ける形で接収解除・用途転換の指定を受け、大学・財団側に帰属。
戦後、GHQは伯爵家の大学・軍部との関係を厳しく追及したが、秘匿性が高かった事もあって軍部直結の証拠は乏しく、伯爵家も協力的に情報提供を行ったことで、中野の土地・施設の所有権が最終的に承認された。人的には公職追放で一時的に人材を失うが、解除後は元財閥企業などへの再雇用を進め、諜報機能を「清鑑院総合研究所」へ段階的に集約した。
運営復帰後、伯爵家は仁孝天皇の『清鑑』の御宸翰を拓本・影印の形で公表して歴史的正統性を示し、大学再編では中野を研究拠点として再構築、本部機能は新宿キャンパスへ集約。
その後、学内自治を重視する人事制度改革を断行(大学に分散していた諜報機能は総研へ移管)。学校法人の独立性が担保されたことを確認すると、伯爵家は運営の前面から退き、以後は「最大の権威として、直接統制せず影響力を及ぼす」姿勢を保ち、歴代大学関係者から最大級の敬意を受け続けている。
5.現代における高橋家と清鑑院大学の関連団体
伯爵家は企業経営の第一線から退き、医師・学者・法曹を本業とする者が多い一方、大学関連の諸法人運営に審議・監督の立場で関与し、伝統的権威と知の精神を継承している。
一族の子女は原則として非関係校に通学し、清鑑院大学へ進学する場合は一般入試を受験している。宗家の方針により特別扱いはしない。
大学や活水会の企業経営に直接介入する権限は持たないが、評価・支持の表明により大きな方向性を左右することがある。
主に清鑑院大学の関連団体で歴代当主が代表を努めている組織は下記の通り。
「活水会」
戦後に解体された高橋財閥の流れを汲み、家人の子孫らが経営を継いだ企業群が緩やかな連合として再結集した経済団体。最終的に高橋家当主を盟主に戴く。戦後の旧軍関係者の再就職を伯爵家が斡旋した経緯もあり、活水会企業には旧軍出身者の姿が見られ、設立に関与したとの風聞もある。
「清鑑院総合研究所」
戦前の諜報能力・組織力と、戦後の活水会ネットワークを基盤に、独自の世界的情報網を展開する国内最大級の国際シンクタンク。各国の情勢を突き合わせた政治・経済・技術動向の予測で国際的権威とされる。戦後の大学再編期に設立され、所在地は大学本部(新宿)ではなく中野キャンパス。設立当初は旧軍施設出身者が多く参加。高橋家当主が会長に就き、運営を掌握する最重要関連団体。
「清鑑院同窓連絡会」
戦後設立の同窓会最上位組織。品川会(理系)と源頭会(人文系)の不和を調停する上位団体として機能する。
・関連項目
高橋在長
清鑑院塾
清鑑院大学