第4章:火が届いた日
夜が明けきらない時間。儀式場の空は、灰色だった。
スモルは、湖のほとりに立っていた。
ここに来たあの夜の自分が、すこし遠くに感じられる。
(火は……いらないと思ってた)
(でも――あのとき。誰かのために、動けた)
足元の石を蹴ると、パシャ、と水が跳ねた。
「――火を、捨てるのをやめたら?」
振り向くと、そこにアーシャがいた。
「……どうして、そんなこと言うの?」
スモルの問いに、アーシャは答えず、ただ空を見上げた。
「私も……昔、火を知っていたの」
それはぽつりとした、静かな告白だった。
「私の弟も、火属性だったの。いつも暴走して、トラブルばかり。
でも、私を守ろうとして、火を出して――自分が火傷したの」
スモルは言葉を失った。
「そのとき、私は決めたの。“感情なんていらない”って。
揺れない自分なら、誰も傷つけないって」
アーシャの目は、水のように澄んでいた。けれどその奥に、微かにゆらめく“火”があった。
「あなたを見ていて……昔の弟を思い出すのよ。
だからきっと、私はあなたの火を、どこかで羨ましかった」
それは、スモルがずっと憧れてきた存在が、**はじめて見せた“揺らぎ”**だった。
スモルの胸の奥に、何かがカチリと噛み合った気がした。
(火は、ただの力じゃない。
火は、心そのものなんだ)
そのとき――儀式場に、けたたましい警鐘が鳴った。
ドゴォン!!!
氷壁が砕け、灰色のもやの中から現れたのは、
巨大な“感情の獣”。
歪んだ顔、燃える目。
それは、水属性のドラゴンたちが長年押し殺してきた**“感情の残骸”**の集合体だった。
「なんだ……あれ……!」
アーシャの顔が凍りつく。
スモルはすぐに気づいた。
あれは、ずっと押し殺してきた感情が暴走した存在だ。
「誰も……止められない……?」
彼らは動けなかった。
感情を抑えることはできても、共鳴する術を持たなかった。
――じゃあ、誰が行く?
スモルの心に、火がついた。
「オレが、行く!!」
アーシャが目を見開いた。
「無茶よ!! 火を使ったら、また――」
「火を使うよ!……でも、前とは違うんだ!」
スモルの声は震えていたけど、まっすぐだった。
スモルは飛び出した。
感情の獣のもとへ、炎をまとって。
炎は暴れなかった。
燃え広がることもなかった。
ただ静かに、やわらかく、周囲を照らすように灯った。
「……怖かったよ。オレも、ずっと」
スモルは獣の前に立ち、静かに語りかけた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
獣が、ほんの少しだけ――動きを止めた。
スモルは歩み寄り、手を伸ばした。
「感情は……捨てるもんじゃない。
怖くても、持ったままで、誰かに伝えるもんなんだ」
その瞬間、獣の体がゆらりと溶けていった。
まるで、ただの“悲しみ”が、形を持っていたかのように。
そして、静かに消えた。
スモルの火は、まだ灯っていた。
だけど、今はもう、暴れていない。
あたたかくて、やわらかくて、
少しだけ――光っていた。
静まり返った儀式場の中央に、スモルは立ち尽くしていた。
周囲の訓練生たちは、無言だった。
驚きと、困惑と、言葉にならない何かが、その場を静かに包んでいた。
その中で、ルイが最初に動いた。
彼はゆっくりとスモルに歩み寄り、少しぎこちない足取りで前に立つと、
ぽん、とスモルの肩に手を置いた。
「……あったかいね、その火」
その言葉は、小さくて、静かで、でもスモルの胸に真っ直ぐ突き刺さった。
「火って、熱くて、怖いものだと思ってた。
でも君の火は……なんか、ずっと冷えてたところに、届いた感じがする」
スモルは何も言えなかった。
でも――
ただ、火を。心を。そこに灯していた。
そして、もうひとり。
アーシャが、みんなの視線を浴びながら、スモルのそばに歩いてきた。
「あなたの火が、感情の暴走を鎮めた。
その事実は、ここにいる誰もが見たはずよ」
静かに告げるその声は、まるで“承認”のようだった。
スモルはアーシャを見上げて、小さくうなずいた。
「火って……こうやって使うものなんだね」
「あなたが教えてくれたわ、私にも」
そう言って、アーシャはほんのわずかに――
水の瞳に、炎のようなあたたかさを浮かべた。