第2章:火を捨てるという選択
北の儀式場は、山のさらに奥。雪がちらつき始める、静かな谷間にあった。
白と青で塗りつぶされた世界。
凍える風。氷の階段。
そこに集まっていたのは――水属性のドラゴンたち。
スモルは、その中で完全に浮いていた。
「……場違いすぎる……」
誰も話さない。誰も笑わない。目すら合わない。
“感情”というものを最初から知らないように、整列し、儀式の準備をしていた。
スモルはそっと息をのんだ。
感情を揺らせば、火が漏れる。
ここでは、それが“異物”になる。
「火を捨てに来たのですね」
声をかけてきたのは、長い白髭の年老いた神官だった。
長い白いヒゲが、風にゆらゆらと揺れている。
「……はい。火属性、やめたいです」
スモルは正直に答えた。もう恥も怖れもなかった。
ただ、笑われるより、拒まれるより、――変わりたいと思った。
神官は静かに目を閉じた
「では、“炎の心”を沈める儀式を受け入れなさい。
心が揺れれば、火は戻る。あなたの意志が試されます」
スモルは、唇を引き結び、静かに首を縦に振った。
その瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てた気がした。
儀式は静かに始まった。
目を閉じる。水音に身をゆだねる。
“火の記憶”を一つひとつ、手放していく。
怒った日。泣いた日。笑われた日。
悔しくて、でも声を出せなかったあの日。
「……手放せ……手放せ……」
水の気配が、優しく、それでいて無慈悲に語りかけてくる。
でも――
スモルの中の小さな火が、かすかに震えた。
(あれも、手放すのか……?)
それは幼いころ、リーフがいじめられていた時。
泣きながら、火を暴走させて助けた、あの瞬間。
木々を焦がし、みんなを驚かせたけど――
「ありがとう、スモル。君の火、すごく温かい」
その言葉だけは、今も胸の奥に残っていた。
(……あの火まで、捨てるのか……?)
目を開けると、世界は静まり返っていた。
儀式はまだ続いている。けれど、スモルはわかっていた。
火は、まだ残ってる。心のどこかに。
儀式が終わった後、スモルは氷の岩に座って空を見ていた。
日が沈みかけている。
けれど、この地に“夕焼けのオレンジ”はなかった。空は、ただ白く淡い。
そこに、ひとりの水属性のドラゴンが近づいてきた。
細身で、角のない若いドラゴン。
名前を「ルイ」といった。スモルより少し年下だという。
「……君、火のドラゴンだよね?」
「……うん。元・火の、かな」
スモルが苦笑すると、彼は目を細めた。
「……怖くなかった?火を手放すの」
「そりゃ……怖かったよ。でも、火のままでいるほうが、もっと怖かった」
スモルは、思わず本音を漏らしていた。
火を出して、誰かを傷つける。
失敗する。笑われる。自分を憎む。
それがずっと、怖かった。
「僕は……火に、少し憧れてたんだ」
「えっ?」
「火って、あったかいでしょ。感情があるでしょ。
僕たちは、揺らがないことが“正しさ”だって教わってきたけど……
時々、何も感じない自分が、時々怖くなるんだ」
スモルは、言葉が出なかった。
火を捨てたかった自分。火に憧れる誰か。
“隣の芝生”なんて軽いもんじゃない。
これは、心の在り方そのものだった。
「……でも、火ってうまくいかないよ?暴走するし、痛いし、嫌われるし……」
「それでも、誰かの心を動かせるでしょ?」
それだけ言って、彼――ルイは去っていった。
その夜、儀式場の灯りが消された。
スモルは広間のすみに寝転がっていたが、眠れなかった。
感情を抑えるほどに、頭の中で火が暴れていた。
(オレは……このまま火を、捨てられるのか?)
その時、かすかな声が聞こえた。
「誰か……誰か!助けて!!」
外に出ると、ルイが氷の割れ目にはまっていた。前脚が挟まり、動けない。
「ルイ!!」
スモルが駆け寄ろうとすると――足元の氷がミシミシと鳴った。
近づけば、割れる。けれど、このままではルイが落ちる。
(火を使えば……氷を溶かせる)
でも、それは儀式で禁じられている“火”。
誓いを破れば、すべてが無駄になるかもしれない。
けれど。
「もう、知らない!! 勝手に出ろ、火ッッ!!」
叫んだ瞬間、スモルの尻尾が爆発するように燃え上がった。
火が氷を裂き、スモルはルイを抱えて滑り込んだ。
助けた。けれど――
氷の奥で、他のドラゴンたちがこちらを見ていた。
誰も言葉は発さない。けれど、その視線は冷たかった。
(やっぱり、火はダメなのか……)
スモルはルイの無事を確認すると、何も言わずに広間に戻った。
胸の奥が、じりじりと焦げたように痛んだ。