罌粟の柩
とある新人賞に応募したものです。
かわいがってください。
罌粟の柩
四月一日 六花
海の見える房間にて觚をあやつる。心の休養になりえそうだし、淋しいおもむきがあってあこがれなくもないけれど、わたしは潮騒なるものをひどくきらう。あの懊悩をあおりたてるような音の波長は可けない。听きつづければ冷汗三斗、ましろの臉に微々たる韓くれないのいろがさす。そうしてみなぎるくるおしさにしのびかね、耳朶を切りおとす剃刀が欲しくなる。
厭悪の嚆矢濫觴はさきの年、なかば強引といったかたちで、友人であるおとこがわたしを海へとつれていったことがある。其處で渠は活力のすべてを汲み出すように暑暇を満喫していたが、そのあかるい調子にわたしはとても脗わせることができず、晷さながらに濱邉のすみで本を読んでばかりでいた。しめやかに紙にちりばめられた文を睛で追い、膩きればなま温かなる真砂をやおらにすくいあげ、たちまちそれを五指のすきまよりまばらに落とす。そんな無聊な手すさびに傾注していると、これまで気にさえ留めていなかった潮騒が耳許に凭り掛かり、うるさくザアザアとわたしの頭をして惑乱せしめるようになった。ぼんやりと寄せる波をながめていくうち、四肢五体が言いようのないうとましさに纏綿とされて、あたかも一座の山のように牢乎として動かなくなった。貴重な暑暇を有意義に過ごさずしてかりそめにするくらいならば、やはり内向しがちな性分をおしてまで友人のあそびにつきあってやるべきだろう。そういった堅い義務感がもがきはじめてもなお、わたしの腰は重いままであった。この躰をいやらしくむしばみ、毛穴のなかへとどろどろとなだれこむ痛痒。どこか身におぼえのあるきもちのわるさであった。潮騒のかなでる旋律が昔日の記憶を連想させると、過敏となった肌膚が粟だち、溜まった体温をぷつぷつと吹いた。胸膛にある不安が徐々に護謨風船のごとくにふくらみ、やがて完全に昔日の記憶が鮮烈になると、それは大きくなりすぎて盛大に破裂した。つまっていたのは膨大なる恐怖であったらしく、破裂して氾濫した瞬間わたしはただちにうろたえ、読んでいた本をなげ捐てては耳に食指の栓をし、両のふと腿のあいだにできた溝に目一杯顔面をうずめた。涯なきくらやみにおのれを鎖籠めることで現実から目をそむけ、姑息なやすらぎを得ようというつもりである。そのような状態となってから一時間ほどが経つと、どうもようすがおかしいといぶかしんだのか、友人がちかづいてきてわたしの肩をそっと拍いた。ごつごつとした感触に震撼したわたしは意思に反して飛びあがり、蠅を殺すかのごとき猛烈ないきおいで渠の手をはらいのけた。さっきまで鉄球付の足枷に縢げられたような重みで腰があがらなかったのに、以前あじわったおそろしさによる後押しでかくも簡単にあがるとはふしぎである。おぼろげに事物をうつす目をこすりながら、わたしはとまどう渠をうらめしそうににらみつけた。べつに友人はわたしに対してなにか害を為したことはなく、むしろ正真正銘の清廉潔白には相違ない。けれどもこのときのわたしは在りし日の怨念に取り憑かれていて、友人のすがたを甞て自分に屈辱をあじわわせたおとこのすがたとかさねてしまっていたのである。
黄泉歸りしおどろおどろしい憎悪を、粗忽にも無関係である友人へとむけたのを皮切りに、それからは昔日の記憶をおもいださないためにも、金輪際海にはちかづかないようにと堅く心に誓った。ちなみにその友人とはもう会っていない。わたしから縁を切ってほしいと絶交をたのんで、友人がそれに応えていさぎよく身をひいてくれたのである。ただ、ひとつだけひっかかったのはたのまれた際の友人の表情である。わだかまりがとけた……どこか吹っ切れたような感じがあって、渠のほうこそ別れたがっていたのではないかというぬぐいされぬ濃密な疑念が襟懐に永久に残った。
別れたあと、わたしは宅のなかでつねに缶づめになっていて、あまりそとの酸素を吸うことをしなくなった。外界に実存する有象無象に信を置くゆとりをうしない、臆病風のもとにさらされた結果がこれである。そんなわたしの心身を心配し、日を缺かさずまめに手紙を寄越してくるおとこの子がいた。名を関口純と言って、学生という身分をまだ棄てていなかったころから親しくしてくれた子である。なので、渠の厚意をとても邪険にはできず、手紙が届いたら早々と回鯉を出すようにとこころがけてはいる。しかし、手紙をつうじてのやりとりのみでは慊りぬのか、渠はとうとう宅にまでおしかけてきて、わたしとの直接的な対話をこころみようとした。異様ともいえる渠のわたしへのこだわりは、うたてげなることはなはだしく、さしもの自分でさえもこころよくおもえなかった。手紙ていどのお狭匙ならばゆるせども、宅まで足をはこび、土そくでわたしがかかえているふくざつな事情に蹋みこむのは業腹である。インターホンが鳴ったときはいやな予感がし、玄関のほうから渠のやわらかい声が听こえてきたときは、まず霹靂が墜ちたかのような驚愕をおぼえた。ひかえめな渠が手紙という方便を扔てて、来訪という大胆な手段に講じた事実をたちどころに吞み込むのがままならなかったのである。そこからおもむろに慷慨で頭が沸き剏め、いくども眩暈を起こしては仆れそうになった。ぐあいも機嫌もわるくなったわたしは、階下に居る母と渠の会話にむかむかとしながら寝床へむかい、一旦其處でよこたわって蒲團を身にかぶせた。とりあえずやすんできもちの整理をし、おちつきをとりもどしてゆこうと思ったのである。羽毛のぬくもりに裹まれながら、つかれた顔いろでわたしは煢々として文句をつぶやいた。このさき手紙をもらっても返事などするものか、詛咒の辭を臚列した返事ならばいくらでもおくりつけてやる。つぶやけばつぶやくほど不愉快が増し、全然おちつきなどとりもどしている風ではなかった。
ずぶとい神経を持つ渠のせいで、わたしの神経はじりじりといらだち、鳥渡かるくふれるだけでふるえあがるほど繊細となっていた。会話を終えて、階段をのぼる跫音がひとつ、またひとつと一定のリズムでひびくごとに、いらだちのBPMが段々とはやくなってゆく。ついに渠がのこのこと房間のなかへと這入ると、堪忍しきれなくなったわたしは蒲團を蹴りとばしては起きあがり、ふてくされた犀利な睛を以て渠を睥睨した。つららのように尖った敵意につめたく刺された渠は、罪悪感を片鱗すらうかがわせない、秋高くして馬肥ゆるがごときさわやかなるつらがまえから一転しておびえたものとなり、「哇」と間の抜けた悲鳴をこぼしたあと、即座にうしろへと二歩しりぞいた。呆れが礼に来た。このていどの威嚇でしりごみするくらいであれば、最初から来ずに手紙という手段のみにやすんじておればよいものを。鹽はゆくて脂っこい奶酪がずっと舌頭にねばりつくようなもどかしさを感じつつ、わたしは窗戸のほうへと臉をむけて、隣家の甍にて翅膀をなぐさめる麻雀をながめた。あまり無惨なほどになさけない渠を直視したくなかったのである。つかのまの静謐のすぎたのち、天井が纔かばかりゆらぐにぶい音がずしっと响いた。これを听くに、怕らく劇しい動揺により渠はドアノブをつよくにぎりしめ、いきおいあまってそのまま押し出すように扉を闓いてしまったのであろう。わざわざ表情をこの睛で聢とたしかめずとも、渠の緊張がひしひしとつたわってきてやまない。さきほど礼に来た呆れも変に懇ろで、いやがうえにわたしの忿怒のヴォルテージをたかく引き騰げることとなった。渠の緊張のせいか、あるいはわたしの忿怒のせいか、甍で休息をとっていた麻雀はなにかに吓かされたかのように、あわただしさを翅膀に乗せて飛び立ち、一点の影も残すことをしなかった。残ったのはせいぜいぽかぽかとした陽だまりくらいであった。
禽鳥すら遁げ出したくなるきまずい空気のただようなか、渠はとにかくこの空気をまずきりはらうべきだろうと思ったらしく、冱ゆる冬ぞらのもとに抛りこまれた仔狗のように凛慄としていて、ありたけの勇みをふるってわたしに声をかけた。
「なんの連絡もなしにとつぜん宅に来たのはわるかったよ。でも、『来てもいいの?』と訊いてもことわられそうだったから。そうなると怖いから……」
こそばゆそうに分疏する渠は、こちらを何度もちらりと一瞥していて、器用にも人の出方に細心の注意をはらうことをもわすれていないようであった。なめくじのようにねっとりとした優柔のうらには、外見とはあべこべのしなやかな大胆さがひそんでいて、これが黒子として生来の輭弱への介添えとして暗躍するからこそ、来訪というおもいきった挙にうつしえる。かねてより悉知していたけれど、このときよりも渠の本性を辟易したことはない。
「頑張ったんだね」
ひややかにわたしはねぎらいの詞を吐いてみせる。小心者が肝をすえて会いに来てくれたのだ。その頑張りをみとめてやらなければかわいそうではないか。したがって、茲で口にすべき台詞は「頑張ったんだね」以外にありえない。なのに、なぜかおのぞみの矜恤憐憫を受けても渠は安堵の胸をなでおろさず、むしろ先刻とくらべてなお一層きまりが悪そうであり、ひたいから汗が玉をなして泛きでては、あまだれのごとくにあぎとへくだり、襟のくぼみにたまって捌けられずにいた。その苦悶するようすを昵とみつめていると、わたしまでもがなにとなくいたたまれない気分におちいった。
「ことわられるのが怖かった。それはつまり、わたしは宅に誰かが来るのが嫌ということがわかっている証拠だよね。わかっているのに来たんだ?」
「たしかに、ぼくは勝手だけれど……」
怒りの正論をぶつけられた渠は、かえす詞をおもいつかず、自身のおこした行動の是非をめぐる葛藤にのめりこんでいた。
「しどろもどろの辯解なんて、鬱陶しいだけ。きみがそこまで我がつよいなんて想像だにしなかったよ。わたしのつごうをあえて無視して、自分の都合を優先するとか。わたしの意志を尊重したくないってこと?」
「ちがう、そういうのはありえない!」
柄にもなく声をあらげ、さも心外であるとでも云いたげなきびしい剣幕となった渠の逆ねじを、わたしはもちまえの冷酷をみだすことなく、ゆらめくヌレータに昂奮して突進する猛牛を躱すかのように、かろやかに、なおかつ華麗に無下にあしらってみせた。
「……親の趣味にむりやりつきあわされて、服装や髪型を奇ばつなものにされたらどういう心境になるのか、一回想像してみてごらん。頭痛がしてくるでしょう?」
諄々として戒飭される渠は、しだいに苦虫を嚙みつぶしたような臉となって、うつむいていった。
「へたないいわけなんかしないで、すなおにひとことあやまれば済んだものを、どうしてそう無駄なわるあがきをするのかな」
「だって」
堰を切ったかのように、渠はつぎなるいいわけを竝べて、是が非でもおのれの行為をあたかもただしいであるかのようにこしらえる。
「房間に籠もってばかりでそとに出ないのがヤッパリ心配で……いちおうぼくときみは永いつきあいでもあるし、たったひとりしか存在しない友人がどこか遐くへと往ってしまう予感もあったんだ。だから、居ても站ってもいられなくて……」
はずかしげに渠は右胸を慰撫しながら、肺におさめられていた硬質な息を舒遅として嘴巴のさきから喀きだした。また罵倒されるのではないかという憂惕と、ずっと隠していこうとおもった来訪の理由を漏らした羞耻とが脗わさり、そうして鋼琴線みたいにきりきりとはりつめた絶妙な諧調を能くすると、渠はうなじをひっきりなしに掻いたり、ときおり窗戸から看えるけしきをのぞいてみたりと、とにかくそわそわとしていて、平静をまるで失念しているようなありさまであった。されど、ふしぎにも渠のおんなくささ芬々たるぎこちなさに対し、なお気にそまぬむつかしさにより身を軋ませることをせず、むしろ春風駘蕩のごときおだやかなる心を以て、わたしは渠のとまどうようすをおかしくおもい、紐がほどけるように眯み笑んだ。熟練の假笑にあらざるまことのほころびであり、いままで寸途あったはしたなき慷慨のほむら抔もはやふつに熄んで罢っている。人間たちはみな均しく狷介であるのをさとり、爾来誰かにふかき信を置くのをはばかり、おのれのみを怙恃にするようになるほどひねくれてしまったわたしが、かくまでに他者に温和な情を熾して示すのはひさかたぶりで、きわめてめずらしいことなのである。はたしていつぶりとなるのであろうか、おためごかしでない無垢に感孚せらるるのは。わたしは少しだけなつかしい気分に浸った。
「……云いたいことはもう、全部言った。過ぎたことをぐちぐち責め立てるのは時間の浪費だし、勘弁してあげるよ」
心証はけだし好くなりつつあるけれど、どうもやはりほのかな警戒はおぼえずにはいられないのか、わたしはいかにもすげなくよそおった。しかたのない、のぞまない性であるとはいえ、本音とはうらうえの冷淡な詞をはなつことにはうしろぐらさを禁じえなかった。
「……ごめん、邪魔したね。すぐに帰るね」
渠は脊をかがめてあたまをさげたあと謝罪した。
「それから、吾侭なのは百も承知なんだけど、いつもみたいに手紙でやりとりできたらうれしいな。またね」
おもてをあげてそう言ったとき、数滴のしずくが燦と彗星のようにひらめいて降りおつるのを、わたしは慥かにはっきりと視認した。うしろぐらさがいよいよにじむように膨張してゆく一途をたどったのは言を俟たない。刹那的にあらわにした”陰”をふたたびもらさず、”陽”のかがやきに牣ちた玲瓏たるえがおで別れをつげる渠のけなげさに琴線をふれられ、うらさびしき音いろの餘韻嬝嫋たるたまゆら、ひとりでにわたしは猿臂をのばし、いざ歸らんと身をひるがえす渠の右肩をむずとつかんだ。ひき勾められる感に髪をつままれた渠はすぐさまこちらへとふりかえり、かくまっていた悲哀を惜しまず存分に湛えたよこがおをようやくのぞかせるのであった。まなじりがほんのりとした桜いろに染まっており、鬢から頚すじへと澪引くように緩々とながるるつゆがまばゆかった。しかも馬脚を露してもなお、気にかけなくとも大丈夫といった風に眼を眯めたり、口角をむりやりあげたりしてとりつくろおうとするから、より心ぐるしくなる。トドメいろの黭黮しかうつらぬ断崖の下へとつきおとされたかのような……そんなおそろしさが胸膛のうちでうごめいていた。渠自身はどうせきづいていないのだろうけれど、そのわたしを傷つけまいとするつよがったはからいこそが、かえらまにわたしを傷つける皮肉な歸趨をいざなう、いまわしき迪しるべにほかならないのである。ゆきすぎたやさしさはよろずの悪意と斉一で、まったく拯救としてはたらかないどころか、相手が感じているやましさをさらに増進させかねない。斯くのごときことわりを秋毫の微も識らぬ天衣無縫こそが、関口純が背負う宥しがたき大罪であり、同時に自分が渠に惹かれた主たる要因であるともいえる。だから、うらむにうらめないというのが正直なところである。
「どうしたの?」
あわてて暗涙をふいて、渠はたずねた。
「せっかく来てくれたんだ。くつろいでいきなよ」
「え、迷惑にならないかな」
気おくれする渠がどこかちゃんちゃらおかしくて、わたしは失笑した。
「すでに迷惑だよ。だけど、どうせ迷惑をかけるなら最後までかけていったら? 勝手に来ておいて、なにもせずにそのまま歸ってしまうとか、そういうひやかしも大きらいなんだ」
「……あまえてもいいのかな」
「もじもじしないでよ、おとこのくせにさ」
さよう。はじめて渠と出会ったときは新鮮であった。衝撃でもあった。わたしが知るおとこといえばたいていはあらくれた小さな獣であり、このようなおとなしい珍種も生きているのだとわかったときは寝耳に水であった。茫漠としたおのれの未知をしりぞける一陣の風が奔逸した。いくら歳をかさねても、おとこどもは善く言えば純粋のままでいて、悪く言えば精神がまるで熟していない阿呆でいる。さわぎと聞けばおもしろがっては馳せ参じ、小突かれたていどの軽い叱責を受けたらえらそうにさかうらみをする。そんなショート寸前の欠陥思考回路を頭蓋に斂めるおとこを、わたしは穉いころから永らくさげすみつづけており、生活していくうえで必要であるほかの場合での交流は忌避する姿勢をいまでもつらぬいている。意地を張ってきたのがわざわいして、免疫が極端に減ってひからび、いつしか異性と咄をすれば緊張をおぼえる尫弱な体質へと退化して、気がついたらまわりはおんなだらけとなってしまっていた。だから恋愛をしてもみずから手を出すことにおじけづき、相手の出方をうかがうわるいくせが目立つようになった。おもい切ってこのような陰気くさい体質を克服するために、そしてひとりよがりの恋心をみたすためだけにとあるおとこと交際をしてみたたけれど、その経験はわたしのなかの男性像をしてより醜悪たらしめる而已となった。やつを「元恋人」と呼称するのも癪なので、あえてよそよそしい「おとこ」という代名詞で呼称してやりたい。そして、わたしを海へとつれていった例のおとこなのだが、渠は典型的な好青年であり、非の打ちどころがまるでない。本来であれば交際を申し込みたかったけれど、さきの一件で懲りたわたしは、そのおとことの友人関係をさえ打ち止めにしてしまった。徜若一番目のおとこがこの世に居なければ、わたしと二番目のおとこの縁が切れることなく健在でありつづけていたのかもしれない。そうおもうと檸檬のような酸いをふくむくやしさが口腔内にたまり、あのときの怒りが息をふきかえしそうになる。
……だが、よくよく考えると、渠がわたしに友情的な意味をふくんだ好意を寄せることができても、きっと恋愛的な意味をふくんだ行為までは懐けないだろう。そうなると渠が他者から色眼鏡で見られることになるのだから。自身の印象をおとしめるリスクのある行為をするもの人間など、海角天涯まで行脚しても、見つかるのはほんの一握りである。
しかし、可けない。いま過去の辛酸を思い起こすと、目のまえにいる無辜な関口純にやつあたりをしてしまう。わたしはこみ上げてくる怒りをなんとかこらえた。
「……どうしようかな」
わたしはつぶやいた。
「え?」
渠はきょとんとした顔となる。
「ゆっくりおしゃべりするだけというのも単調だし、そうだね……将棋とかしようかな」
「あ、いいね」
「ちゃんと将棋のルールをわかっているの?」
「小学生だったころ少しだけ齧ったことあるよ。といっても、ルールを把握しているだけで、別段つよくはないけど」
「ふうん。意外だね……さてと、どこにしまっておいたっけな」
箪笥の抽屉を一段ずつ開けていき、目を凝らして将棋の駒箱をさがした。なんせ他人が宅に来るなどめったになく、そもそもおなじ趣味を持つ知人もひとりもいなかったため、そうそう駒箱をとり出す機会がおとずれない。じつを言うと、このときのわたしはひさしぶりに将棋ができるのにわくわくしていた。欣喜雀躍のあまり、心臓が銅鑼を息まずに打つような鼓動をきざんでいた。ちなみにわたしの将棋の腕前はどれほどかというと、あくまで趣味の領域にて儃佪しており、手煆煉たちのように何手先を読んで、相手の戦術を分析するなどのような高度な業はなせない。もし関口純がほんとうに玄人ではなく、ただ単にへりくだっているだけなのであれば、どんぐりの背競べみたいな対局になるであろう。
なかなかお目当てのものが見つからず、時がたつにつれていらだちをおぼえはじめるわたしを見て不安がったのか、渠はとりあえず話題をふってわたしの焦燥をしずめようとした。
「友だちとよくやるの? 将棋」
「……もうそうとうむかしになるけど、ひとりだけつきあってくれたおんなの子がいたよ。将棋を指せる女子なんて貴重だからね、あの子が親のしごとのつごうで転校し、遠地に行ってからはそれっきり。もう全然やっていないよ。金将や銀将のうごかしかたなど、あまりにも基礎的なことまでたまにわすれかける」
「そうなんだ……ぼくもね、むかしある女子と勝負したことがあったな……その女子がめっぽうつ よくて、というよりはこわいって感じかな。だからあまり勝てなかったけれど。……あれ」。
ふと渠はぬぐいされない違和感に小首をかしげた。
「べつに女子だけに限定しなくても、男子だったら将棋できる人が多いんじゃないのかな。おとこ友だちはいなかったの?」
「……ごもっともな疑問ね」
さかしい子だとわたしは感心した。これでもかと女子と強調しているのだから、逆に怪訝におもわないほうこそ無理があるか。
「抵抗があったんだよ」
「抵抗? おとこの人が苦手ってこと?」
おおむね正解ではあるけれど、たちどころにわたしはいらえをかえせず、しばしの沈黙をあいだにはさんだ。
「センチメンタルなだけ。しあわせな者も、そうでない者も……誰もが心のおくそこに秘めるよわさ。わたしとて例外じゃない。そのよわさに膝蓋を屈したなさけないやつだよ。あらがってもしかたがないと諦念したなさけないやつなんだよ。……いずれきみにも、それがわかるときときがやってくるのかもしれないね」
はぐらかしたかのような口調に、渠は困惑することもしなければ、わたしの台詞の裏に韜晦する真意をさぐろうともせず、ただ穏和に「わからなくもないよ」とだけ云った。
「そうか、きみはおとこの人を憎んでいるけれど、憎みたくないのが本音なんだね」
「つくづくさかしい坊やだね」
赤肌をさらけだせぬわたしの懦弱にこころづき、つきなみにあわれみをもよおさず、おとこなのに窈窕な雰囲気をかもすやさしい笑みをうかべる渠。絵画に描かれる天使にもひけをとらぬその笑みはあまりにも無邪気で、まさに信ずるにあたいする稀有な人間である証としか言いようがなかった。陰翳に支配されていた視界が蛍光灯のようにぱっと光ると、たちまち玻璃のように澄みわたり、いまだ甞て感受したことのないうずきが全身を疾駆していった。やさしさをかけられて安心せず、むしろ悪寒を感ずることのほうが多いこのわたしが、かくもたやすく渠のやさしさに風動せらるるとは想像だにしなかった。
駒箱は箪笥にはなかった。もうつかうことはないだろうときめつけて、ほとんど手のとどかない寝床の下に入れてそのままにしたのをあとでおもいだし、わたしはうす暗い寝床の下をしゃがみながら模索した。箪笥のほうでさがすのについやした時間をいそいでとりもどすいきおいであった。
記憶はまちがっておらず、慥かにそこには駒箱があり、将棋盤がその下敷きとなっていた。だが、そこにはそれら以外のものもあった。ようやくお目当てのものを見つけられわたしは、ひといきをつく間もなく、粉々にやぶかれた紙らしきものが一帯に散乱しているのを目にした。皺にまみれていて、幽かな惆悵の残滓のようにも感ぜられる。どうして茲にこのような紙の埖があるのだろう。気に食わないことがあったから、憂さを霽らすために紙をやぶき、茲に捨てたのだろうか。引っかかるけれど、とりあえず奥にある駒箱と将棋盤を取り出した。
「やっと見つけたよ。梃子摺らせるな、こいつは」
「ながいあいだやっていないのだから、さすがに置き場所をわすれるよね」
「そうだね、じつに五年ぶりに見たよ、この箱。なつかしい」
「五年かあ」
「ノスタルジアに浸るのはもうたくさん。さっさとはじめるよ」
「え? う、うん」
やはりというか至極当然なのであるが、渠はわたしのなかで鳴りをひそめている嫌悪を嗅ぎ付けても、嫌悪の理由をもさとるに至っていないようであった。人が人に好意をあらわすときに、その好意をうらづける明瞭な理由は意外にもついてこず、逆に人が人に嫌悪をあらわすとなると、明瞭をとおりこした、いやに具体的な理由が追陪してくる。それゆえ、ふくざつをきわめる嫌悪の理由を完璧にこころえるのはたいそうむずかしく、さすがの渠もそれをなしえるほどの穎敏さまでは持ち合わせていなかった。
駒箱の盖をあけたのち、わたしはそこに収納されていた一群の駒をわしづかみにし、無造作にゆかに敷いてある絨氎におとしていった。いとまを出されて兵役よりしりぞいてから、すでにいつとせの星霜が経ている。それからは日の目を見ることがなくなり、しめじめとした匣に籠もって懶惰に漬かるばかりでいる。瀲灩たる秋水にしずむ丸石のように積まれている駒のわびしさに、わたしは類縁を感じられずにはいられなかった。独楽鼠をかたどったデジャヴュが脳髄を趨りまわっているかゆさがあった。
「王将と玉将……ね。お好きなのをえらびなよ」
ちらばった駒をひとつひとつ鄭寧に盤上にならべながら、わたしは云った。すると、渠は面妖な面持ちとなった。
「えっと」
「なに?」
「ごめん、いまさら聞きづらいんだけどさ」
「はやく訊きなよ、じれったいな。嗤いも怒りもしないからさ」
「ぎょくしょう……ってなに?」
「知らなかったんだ」
「うん」
申し訳なさそうに厷をさする渠をまえに、わたしは頭を掻いた。
「そのていどのことで怒るほど、わたしの堪忍袋の緒はゆるくない」
「あ、ごめん」
「あやまらないでよ……」
「ほんとうだ、王に点がついている。玉になっている」
駒の山からちらりとのぞいている玉将をつまんで、興味ぶかそうにためつすがめつながめる渠の双眸にはくもりがなかった。これまで知らなかった事実を知ったことがうれしそうであった。まばゆい純朴に惘れつつも憧憬を抱くわたしの双眸はというと、渠みたいにきらきらしてはおらず、そばに立つ姿見鏡へと臉をむけてみれば、鉱毒に冒されて死にかえる鯔を髣髴とさせるような濁ったまなこがまざまざとうつっていた。わたしと関口純は雪炭、月鼈、霄壤の差、うってんばってん。劣等感がひとしお痛烈に腹を刺して沁み込んだ。
「にしても、解せないなあ」
渠は疑問に思った。
「王と玉には、どういうちがいがあるのだろう」
「……なんか、きみといっしょにいると、照れてしまうな」
電視の教育番組に似た状況に置かれて、おもわずはにかむわたしであった。
「ちがいは知っているけれど、すなおにおしえる気が失せた。もうその純真無垢を辞めてくれるかな、いたたまれなくなるから」
「ええ、それは困るよ、おしえてよ」
「だからその純真無垢を辞めろって言ったのが聴こえなかったの? こっちに寄らないで、近い」
「魚の小骨が咽喉にひっかかるような感じがしてきたなあ。まずいなあ、今夜はこの異様なもどかしさのせいでねむれなくなりそうだなあ」
「咽喉にひっかかった痛みで息ができなくなり、そのまま窒息して永遠のねむりにでもついていなさい」
「むごいことを言う。減るもんじゃあるまいし、おしえてよ」
急激に距離をちぢめてきた渠にぞわりとしたわたしは卒然とのけぞり、腰にかかりそうになっている渠の手をたたいてはらった。
「近いって言っているだろう? さっさと離れて」
「あ、ごめん」
「そう熱くなっちゃって、おなじ十八歳だとはおもえないよ」
わたしはずれた座布団をもどして、そこに坐った。
「所詮は点があるかないかのちがいにすぎないんだよ」
すじみちを立てたり、相手がすぐに呑み込めるようわかりやすく工夫したりするのが億劫となり、わたしはおそろしくいいかげんな回答を渠におくった。
「なんかざっくりしすぎて、かえってしっくりこないよ」
「上手と下手のちがいなんて癇に障る。将棋の実力が上の人間が王将をつかい、下の人間が玉将をつかう。つまり作法が関係しているんだ。分別しないで、おとなしくどちらも玉将のままにしておけばよいのに、いまいましい」
ぶつぶつと将棋の作法をあなどるつぶやきをしているが、それには渠が追求している答えがすました貌でまぎれこんでいる。斜にかまえながらも悃篤におしえることはするという、ひがみとひがみを貫徹しえぬ甘さのコントラストにわたしは倦厭した。
「ああ、そういう意味なんだ」
「まあ、わたしもつい最近知ったんだけどね。で、どうだった? たいしておもしろくなかっただろう?」
「そんなことはないよ……上手と下手ね……」
渠はひとさし指を顎に当てて、考えた。またなにか渠のなかで疑問がわきおこったのではないかとおもったが、ちがった。
「じゃあ、ぼくが下手でいいよ」
「……まったく以てかまわないけれど、いちおうそうしたい理由が听きたいな」
「きみにはどうも敵わない。そんな感じがいつもしているから……」
「かなしいね」
「性分なんだよ」
「謙虚すぎるきみがかなしいと言っているんじゃないよ。きみにこわがられているわたしがかなしいと言っているんだ」
悲嘆するわたしだが、今日唐突に宅までおしかけられたときに見せた怒りなどを例に、こわがられる要因ばかりつくっているわたしのほうにこそ非が多い。だから、このときは苦いうしろめたさの灰汁が口のなかで分泌されている感じがした。
「こわくないよ、全然」
「むりしてつくやさしい嘘は余計にわたしをかなしませるから、やめてくれない?」
「……ごめん」
またしても高飛車になってしまった。謙虚でおもわずあやまる渠とおなじように、だれにでも横柄な態度をとるのも亦わたしの性分であり、拭いてもすすいでもとれない頑固汚れにちかしいものなのだろう。
「ぼくはさ」
渠は云った。
「永遠に下手なんだよ」
渠は卑屈に腰をかがめて、右手でいじりまわしていた玉将を自分側の陣地にそっと置いた。
「だからって、わたしが上手になることもないよ」
「上手だよ。きみはつよい。だからうらやましい。玉将……下手……ぼくにもっとも似合っている」
「おそらくきみがおもっているようなやつじゃないよ、わたしは」
きみのほうがよほど上手だ。そうおもったけれど、わたしは口に出さないようにした。
「……むりしてつくやさしい嘘は余計にぼくをかなしませるから、やめようよ」
鸚鵡さながらにわたしの詞を万引きする渠の目は張りがなく、あの純朴とはかけはなれすぎていて、それを見たわたしの脊すじはまばたく間に氷河をむかえ、棲息するすべての細胞が凍結に瀕した。今日はすがすがしい快晴であるはずなのに、冪々たる暗雲が浮世の穹を盍う陰惨をどうしたって錯覚してしまう。どんよりとしたなか、わたしは駒をならべ訖えたあと、咄嗟に或ることをたしかめたくなった。うしろをふりかえりたがらない好奇の重力に引っ張られて、また一度渠の臉を一瞥してみると、ドッペルゲンガーに遭遇する場面に出くわしたかのような股栗が慥かにあった。危険な信号をつたえるための電流が、全身の神経をコンマ一秒で駆けめぐった。この時点で渠のおぞましき正体にうすうす勘づくも、それをあばくのは禁忌であると躊躇して、あえて貝のように口をつぐんで沈黙するのをえらんだ。うかつに正体を尋ねたりすれば、井戸の底のようなのぞきえぬ狂気に呑噬されるのかもしれないと、自然に不自然なおそれに見舞われていたのである。おもいかえせば、渠は二年まえにはじめて出会ったときから寸途ふしぎな存在でありつづけていた。安心をもたらし、それと同時に不安をももたらす……霊感をくすぐってやまない、人間の常識をはるかに超越した何かのようであった。おとこらしからぬ優柔としとやかなやさしさ、それらを有するおとこなど、宏大な世界でさがせば鰯のようにうじゃうじゃいるのはわかっている。しかしながら、二年まえの屈辱からすぐに渠がすがたをあらわす。けだし偶然にしては妙に折が佳すぎる。これをほんとうにただの偶然としてかんがえれば事が済むのではあるけれど、わたしの霊感が峻厳なるもてなしでそれをいなんでいるから困る。だが、わたしの意志は霊感のお告げを黙殺して、実際のところわたしのばかげた誤解だったのかもしれないという一縷の希望に賭けていた。
「嘘つきじゃないことを願っているよ。たがいにね」
駒がすべてそろうと、わたしはすげなくそう云って、対局を開始した。
初手は二・六歩。定石にしたがったやりかたである。むかしわたしは頻繁に飛車を主力として敵陣の突破を図っていた。戦法にはいろいろな通りがあるのは悉知しているが、それでもわたしはあくまでも四間飛車や雀刺しにばかり拘泥し、いくどかわたしと対局してくれた友人からは横紙やぶりな棋風であると苦笑されることが往々にしてあった。友人はわりかし慎重な性格をしており、守りを固める傾向に沿うのが常であった。だからわたしの強烈な威圧感を放つ戦法にくるしめられては頻繁に頭をかかえ、「恐怖の高飛車戦法」と綽名をつけては揶揄していた。いましおもえば、その戦法の綽名はげにわたしに似つかわしいかもしれない。二年まえの屈辱が起きる以前のわたしはまだおとなしいほうで、野放図に走りがちな猜疑心にゆだねて人をつまはじきにするとげとげしさはまだ丸みを帯びていたのだけれど、どうもおとなしさは全豹の一斑でしかなかったらしく、とげとげしさのほうこそがわたしの全豹……つまり本性なのかもしれない。将棋を指すことでおのれの心を瑩磨し、そうして本来秘めていた眩耀をあらわにする。これはわたしにかぎらず対局相手にも亦謂えることで、関口純と将棋を指してくうちに渠の本性を垣間見ることだってある。啻につれづれをしのぐためのみならず、無難に、間接的に関口純の正体をつきとめるためだけに、わたしは将棋というすべをあえて採用したのである。渠のふだんの指し方、指しているときの感情の起伏、状況に適合した機転を洩らさず仔細に観察し、それを経たはてにようやく、わたしのなかに浮かびあがっている渠の本来の人物像の真贋を甄別しえるのだ。
わたしが歩兵をすすめると、電光のごとくに渠は手をのばして一・四に歩兵をすすめた。鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、わたしは出張って来た相手の歩兵をみつめて、云った。
「なぜにそれをうごかしたの?」
相手の指し方に茶々を入れるようでわるいけれど、気になってしかたがなかったので、いちおう訊いてみた。
「なにとなく、かな」
渠はきょとんとした臉となった。
「邪念だけかとおもっていたけれど、考えも無かったようだね」
てっきりトリッキーな香車の田楽刺しをしかけてくるかと推測してみがまえたが、どうやら只のおもいすごしだったようである。いまのでわたしは完全に理解した。渠はルールこそわかっているのだろうけれど、指し方に関しては素人と評価することさえなまぬるいものであった。はじめの歩兵のうごかし方が肝心なのに、なにもかんがえていなかったというのは驚駭であった。それにしてもわたしが茲まで相手の一手に敏感になるとは、かの慎重な友人の性格にすくなからず影響されている……やはりそういうことなのだろうか。
「最初はフォーリングですすめることが多いからね、ぼく」
「落ちてどうする。まさかフィーリングと云いたいの?」
「あ、そうそう。それだよ、それ。フィーリングだよ」
深刻だった渠の表情が、いつのまにかすずしいものへと変わっていた。
「思慮がたりなさすぎだよ。こうなったら一から将棋の基礎をおしえてあげなきゃいけないようだね」
「面倒見がいいんだなあ」
「うるさい」
わたしは照れくさくなった。
「なんだかんだ将棋にくわしいんじゃないの?」
「このくらいの基礎をしっかりわきまえているだけだよ」
「それで、さっきぼくが指したこの歩はもどしておいたほうがいいかな?」
「どうして?」
「最初はどうすべきかおそわってから、またあらためて指そうかなって……おしえてくれないの?」
「……思慮のたりなさの危険さからおしえるのを優先する。いまは好きに指してみなよ」
「わかった」
開局というよりもはや開講となってしまっているが、それからのふたりは夢中であった。時計の針が二から四へとかたむいたのにも気がつかずに将棋を指しつづけていた。対局中にいろいろな戦法やルールを渠におしえていくのに比例して、わたし自身の将棋に対する自信もますますみなぎっていった。搾り粕のように少量のあさい知識しか持たないかとおもっていたが、案外わたしもそれなりに将棋への造詣が深かったらしい。残念にも今回の対局で渠の正体を知るための糸口をつかめず、唯一わかったのは渠が粗忽で短慮であるかという点である。収穫がたったのそれだけ。そうおもえばおもうほど歯がゆさが鰑の旨味のように出てきた。憮然とするわたしを見た渠ののうてんきな微笑は、即興で筆舌につくせぬほどにはらだたしかった。
「負けちゃったかあ」
よほどの味音痴なのだろうか、敗北の苦汁を嘗めても渠はさわやかなえがおをたやさない。子どものころのわたしは将棋で負ければくやしさでたまらず、勝つまで何度も再戦をもうしこむ不屈を誇っていた。目をぬすんで駒の位置をずらす耍頼をされたら、執拗にその人を責め立て、それでもなおしらを切られたら、もの廕にかくれて啾々と哭く。とにかく贏輸への執着が人一倍つよくて、そしてそれはいまも不変の儘である。ゆえにわたしは負けてもへらへらとしている渠が気に入らず、ふたたびきびしい口調となった。
「負けたのにうれしそうにしないでよ」
「うれしそうって……」
お門違いなことを言われて、渠はむっとした。
「くやしくないの?」
「そりゃあ、くやしいにきまっているよ? くやしくないほうがどうかしている。ぼくが笑っていることにもけちをつけるのは、さすがに参っちゃうな」
もっともである。いちいち目くじらをたてる自分もうつわが小さくてあさましい。
「負けたから笑っているとかじゃないよ。たのしいから笑っているんだよ」
「たのしい?」
「遊戯をやっているんだよ。たのしくないわけがないだろう? まさかきみはたのしくないのかい?」
「勝ったときはたのしいかもね。でも……」
勝つか負けるかさだかでない真剣な勝負の合間となると、なみなみならぬ緊張が骨の髄にまで食いこむ。緊張に人格を乗っ取られるときのわたしはみながおぼえるほどのしかめっ面で、いかにも練磨を積んでゆくうちに将棋を享楽する余裕をうしなった達人のようになってしまう。むろん一敗地にまみれるとさきほど陳べたとおりにすさまじく、誰の手にもおえぬほどにすねることになる。
「屈辱をあじわうのがいやなの」
「繊細だね。でも、将棋はあそびなんだよ。負けたからって死ぬわけじゃないんだからさ……そう気に病むこともないとおもうのだけれど」
「価値観は千差万別だよ。外界の人間が口出ししたところで、わたしのなかで革命なんて起こりやしない」
「……ひたすら勝つ。それのなにがたのしいのかな」
「相手を蹂躙できる心地よさかな。でも、一回だけおもい知らされたよ。代わりに蹂躙される側は断腸に息をきらすと」
蔓茘枝よりもはるかににがい経験をあじわってからも、わたしはそれでも勝利、もとい他者を蹂躙するよろこびにこだわりつづけている。己の欲せざる所は人に施すこと勿れとは謂うけれど、故人の箴言にすべての人間の心が安易にくぎづけになるほど、この世はやすかない。わたしは敗者のみじめさを知っているが、だからといって敗者に憐愍を垂れるわけにはならない。脆弱であるがゆえに他者につけいられる裂け目ができる。金甌無欠と謂えるほど強ければ他者に付け入られることはない。なので、脆弱を克服しようとせず、向上心を一切持とうとしないやつはとことん鼻につく。
「うしろ向きだね。それじゃあよくないよ」
煮え切らなさで下馬評にのぼる渠が、めずらしく逡巡を捨ててわたしの考え方を言い消した。
「負けるということも、向上心をあげるためのきっかけにもなるよ。人はどれほどつよくたって、いつもいつも勝てるとは断言できないよ」
「それを経ての向上心なんて要らない。負けるのがきらいなんだ。吐き気がするんだ。……結局、きみはわたしの全部をわかっているようで、その実わかってくれていないんだ」
「わかっているのが前提でなきゃ、こんなこと云わないよ」
「あまいんだよ、きみは。もういい。今日はこれでおひらき。さっさと出て行って」
「……聞いた咄なんだけど」
唐突に渠はべつの話題を持ち出した。
「ぼくと会うまえのきみは、いまとは別人ではないかとうたがわしいくらいに、人にやさしい子だったんだってね」
「……あたかもいまのわたしはやさしくないみたいな言いぐさだね」
「まちがいなくいまもやさしいよ。ただ、さほどしたしくない人だと視野がせまく、人のうわべしか見れないんだ。きみがやさしさを必死に隠してしまえば、みんなはきみのことがこわくなる」
「……むかしのことなんて一銭の価値もない。大事なのは現在、そして未来だよ」
「きみの現在はかなしい。そしてたぶん未来も目も当てられないほどにかなしくなるはず。予言者じゃなくても予言できる、あからさまな、くつがえしがたい真実だよ」
「いつもとちがって口数が多くなってきたね、なまいきな」
「そもそも、ぼくがもともと茲に来た目的はだね」
「どうせ説得かなにかをしたくてのこのことやってきたんだろう? 念をおしておくけど、学校にはもどらないよ。いや、もどれないというべきかな、もう退学しちゃったからね、どうしようもないよ」
「立ちなおりが学校にもどることとは直結しないよ」
「じゃあわたしになにをのぞんでいるの」
「それは……」
かまびすしい文句をよどみなく宛転と吐き出していた渠の口がふさがり、たじろぐ隙をついてわたしは畳みなすように反駁に徹した。
「はりぼてなんだ。莫非説得だけしにきただけではないだろうなとおもっていたけど、案の定そのとおりだったよ」
「……ぼくにどうすべきだというの?」
「めんどうな思考をおしつけるのはやめて。というか、わたしに思考の義務なんてない。きみの義務だよ」
儼たるわたしの反撃にひるんだ渠は、とうとうくちごたえをしなくなった。
「まあ、無理してそれを義務にしなくてもいいんだよ。わたしにとっては万々歳だからね」
「いや」
「咄は終わりだよ」
けだるげとなったわたしは会話を強制終了し、だまった。
興がさめたのち、ふたたび窗戸のそとをのぞいてみると、快晴だったはずの穹は知らぬ間に溟濛としていて、幹をゆさぶる風は飈々(ひょうひょう)とうなり、しろくて線のほそい雨は篠をつくようにたけだけしく、ときおり窗戸を敲いてはにぶい音をたてていた。室の内にて居坐っているもかかわらず、そとのさむさが膚ではっきりと感じ取られ、どこかゆゆしき気配があるようにおもえた。
そこからの会話がとぎれると、ふたりのあいだに厖大なる逕庭が生じ、渠にとってもわたしにとっても簡単に踰えられるものではなかった。渠はわたしが延々と発する重圧にたえかねて、言葉を一文字も置いてのこさずに房間から立ち去り、宅をはなれた。そとから纔かながらに聴こえる靴音には、なんとも謂えぬ奥妙な哀愁が篭っていた。見かぎられたかのようにとりのこされたわたしは両ひざをかかえ、紅蓮のパトスをかえりみておのれのいくじのなさを慨嘆した。ほんとうは疾うにさとっているのである、負けをみとめずに逃避するおこないこそがなによりの脆弱であると。たった一度蹂躙されたくらいでおびえて、荏苒として歳月をいたずらにすることこそ大いなる惷愚であると。かなしいほどよくわかってはいるのだが、許容してしまえばそれは変節であるようにもとれて、それはそれで罪悪感をおぼえざるをえないから、迷っているのである。わたしとて、心がみすぼらしくなった自分をみにくいとさげすんでおり、どうにかして甞ての自分をとりもどしたいとせつに希っている。
「あれ」
靴音が聴こえなくなった。渠の気配がめっきりなくなると、予兆なく雨があがった。奇妙におもっては立ちあがり、いそいで窗戸を開けてそとを見渡してみると、昼とまったくおなじ快晴で、ついさっきまで風雨が猛威をふるっていたのがまるで嘘のようであった。きつねにつままれたように茫然自失となると、おもいだしたかのように電信柱、自宅の庭、となりの家屋、生い茂る植物など、くまなく処々に目をやった。霑れていないどころか、一滴のしずくさえもうつらなかった。どこもかしこも太陽のはなつ熱にさらされていて、堂鴿は避暑のために宅の陰にてやすみ、道ばたに転がっているドライアイスは紗幕のようなうすい乳白色のけむりを噴き出していた。土瀝青の黒は香ばしく焦げたあとなのではないかとおもうほど、暑さがきわまっていた。わけがわからなかった。さきほどの風雨は、あやかしによるいたずらとでも謂うのだろうか。怪異や霊験を日ごろより人心をまやかす虚妄といやしんできた自分だけれど、このときばかりはその虚妄を信じてしまっていた。
おそろしくなった。関口純がおとずれてきたこの日、頭が変になった。そして渠の正体がますます気がかりとなって、頭がいたくもなった。顔面が紅潮し、冷えたゆびさきがふるえをおこし、脱力感が血液のながれにしたがうように全身に回り、歯を浸蝕する不快感で嘔吐をもよおした。うしろからつよく押されるかのように房間から出て階段をくだり、洗面台にむかってそこで漱いをした。漱いをした数は一桁ではおさまらず二桁にまでのぼり、水しぶきはあたり一帯に飛び散っていた。しかしそこまでしてもなお、得体のしれない不快感は毫も消えてはくれず、いまだに自分のなかで輪王座を決めていてとても図々しかった。
「がまん、できない」
分泌される唾液に舌を刺すようなはげしい独特な酸味を感じた。酸味に耐えられなくて、洗面台に何度も唾液を吐いた。
胸膛が痛かった。
よだれが止まらなかった。
殴打されたような麻痺が、頭のなかであばれていた。
このままではいけない。かろうじてそこまで思考がまわったぼくはいそいで二階の自分の房間へもどり、小きざみにふるえる手で携帯電話の画面をひらいた。
「はやく、出てきてよ……はやく……」
とつぜん体調が劇的に悪化した源因はなんなのか? その答えは追求したくなかった。答えをわかってしまえば、悠久の孤独の囹圄に鎖される未来がおとずれる。そんな気がしてやまなかったからである。
携帯電話の呼び出し音が、じれったくなるほど延々と鳴りつづけていた。
渠の来訪からはや一週間が経った。日ごとに信匣に投じられる手紙が絶えたというのに、わたしの心には靄がかぶさったままであった。あれほどわずらわしいとおもっていた渠の手紙が、暗にわたしの精神の乾坤を撐える軸として機能していたのだと豁然として大悟した。手紙が来るのに対するわずらわしさが、いつのまにか手紙が来ないのに対するわずらわしさへと変貌していた。謝罪、そして感謝を一刻もはやく渠につたえてあげたくて筆を執ったが、先日の無礼をいかに詫びようとまよい、どのつらをさげて手紙を書いているのだというやましさでなかなか筆をすすめられなかった。なぜ手紙がおくられなくなったのか。考えるまでもない。きっと剛情を張ってばかりなわたしが手に負えなくなって、あきらめたのであろう。されども、勇気をしぼって宅までやってきたのにこれを無下にあしらったわたしも悪いけれど、一度きりの失敗ごときで踏ん切りをつける渠もいかがなものかともおもった。それはすなわち、わたしのてだすけがしたいという気持ちがうわべだけで、実をともなっていないことではないか。あの来訪の日、刹那的にではあるが、渠には囚われの姫をすくいにきた王子に似たアウラが感ぜられた。もしかしたらわたしの心になんらかの化学変化をもたらしてくれるのではないかと、正直期待に胸膛をふくらませていたのだけれど、どうやらわたしの勘ちがいだったようである。期待でふくらんだ胸膛が、おとざたがなくなったはずみでむなしく罅ぜていった。なのに自分がなおも渠の存在を欲するのは、せんずるところ、蕭条たるがらんどうとなるまで荒廃した心をうめるためなのであろう。わたしは、ただただ純粋に、渠にそばにいてほしかったのであろう。逆説的であってもいつわりではないこの情緒にまつろい、「ならばなおさらはやく書かなければ」と、わたしは右手を急かした。ちかごろやたら痙攣が躰じゅうに趨る。痙攣が来るまえに書かないと、かなり日にちを引っ張ることになる。そうなるとわたしと渠との間柄が凍結した儘であり、雪解けをむかえるときが遠のく、もしくはとこしえにうしなわれることになりかねない。だが、焦れば焦るほど、あたまに収斂されている語彙の量をひきだすのになやむ。
つたえるべきたくみな言葉をひねりだせずに起きるつれづれを、文字を書きつらねる筆を回してまぎらわすわたしの脳裏では、ふうわりとした昔日の情景が霧をなしていた。まぶたを閉じてこうべを垂れると、その情景は少しずつではあるがどういうものであるのか見えるようになった。暑さをくらます夏風の肌ざわり、あまったるくて模糊とした眠気、みだりに鼓膜をなぐるようなおとこの声と、神経をさかなでするおんなの声がまじわるざわめき……これらの感覚を、わたしは鮮明におぼえている。一年まえにわたしが捨てた学校にいたときの感覚である。なつかしさとともに、いまいましさがあった。
「ひとめぼれ、なんだ」
あまりに唐突で突拍子のない告白が飛んできた。大胆な発言をしたのはいったいだれなのか、声がした方向へとふりかえると、そこにはなよやかにふるまうやさおとこが立っていた。熟悉しているもなにも、一週間まえに会ったばかりのおとこであり、知らないわけがない。
関口純。それが渠の名前である。
「だめですかね?」
おなじ級友とはいえ、かたみに口を利いたことのない他人であった。はじめてわたしに声をかけたときはえらく臉がこわばっていて、瞳孔が活きの好い金魚のようにおよいでいた。むりもない。わたしとて話しかけたことのない人間にかかわろうとすれば、たちまちこのような体たらくとなる。
「つまり、なにが云いたいの?」
慳貪にもわたしは、詞を吟味してその意図をしっかりと解しているのにもかかわらず、わざとたずねるような物言いをした。すると渠は二の足を踏み、つぎになにを言うかおちついて考えていた。
「なかよくなりたい……ということかな?」
わたしのつめたい態度が怖くなったのだろう。気さくを演ずるがあまりつい敬語が抜けおちている。意思の疎通のしかたが致命的なまでにおそまつだが、わたしは警惕の等級を何段階かひきさげた。なぜなら、渠は「友だちになりたいな」という言い回しをしなかったからである。友だちという詞を瞬時に、なおかつ流暢に口にできないということは、ひとづきあいをひどく不得手とする、すなわち人心の掌握に長けているわけではないということになる。逆にやたらなれなれしいやつであれば、当然ながら信用できない。親切という名の釣り針に食いつけば最後、垂らした者の手によって俎板に載せられ、好きに料理される。かるはずみに釣り針に食いつくやつは、意識がひどく弛緩している阿呆にほかならない。そして非はどちらにあるかと謂うと、その阿呆にこそあるとされがちである。すくなくともわたしはそのあわれな阿呆にはもうなりたくない。
第一、万が一渠があのおとこのように粗暴な性格であったとしても、もやしのようにかぼそい渠の体躯を見るに、おそわれても返り討ちにするのは非常に容易であるとおもわれる。
「だめですかね?」
また一度渠はわたしの許容をもとめてきた。ひとめぼれと言っていたから、怕らく交際を申し込もうとしているのだろう。交際の申し込みとなると人はなおさらデリケートとなり、平生とくらべて冷静をたもてずに浮き足立ってしまうのは、恋愛ごとにそれなりの関心があったわたしには十分に理解できる。だからこそ息づまるのだ。糅ててくわえて渠は貌似いかにも芯がもろそうなので、対処はそうとう慎重にいかなければなない。一寸の衝撃でくだける虞のある硝子細工をてがけるような緊張が、わたしの心をゆさぶった。
「だめというか……」
辭をえらぶのに梃子摺ること一分。その間に渠はかたくるしい真剣な面持ちでわたしを凝視して、よい返事でも絶望的な返事でも受けて立つといった風であった。こういうところはじつにおとこらしい。きっと渠にとって、咄をすることよりも、接点を持たない人に声をかけることのほうがずっとためらいがあったのであろう。
「ひとめぼれというのは?」
「え、だから、きみを一目見て好きになった」
「どういうところを見て好きになったの?」
「かわいいな。そうおもったの……」
やはり外観が決め手となっていたのだなと、ついとおりで浮薄な動機にあっけをとられた。しかし奇妙にも渠の告白はまんざらでもなく、むしろそれは大きな網となってわたしの心の海で回遊しているうれしさをつかまえていて、豊漁であった。両者の間隔がせばまっているのにきづかぬ渠は、いまだに筋力をほぐさずにこわばっている。わたしはそのようすを一瞥して、他者をだまくらかす真似をするつもりはないだろうという確信に至った。たいてい人は相手をうまく利用しようとするとき、顔いろをうかがいながら何手先を読み、そうしてつぎの一手を投じてくるのだけれど、渠はそんな計算高さを持ち合わせておらず、わたしににらまれるのにおびえてなるべく目をそらそうとしている。先刻までこちらの返答に臨んでいたときは緊張で動悸を打っているさまであったのに、いざその返答が曖昧模糊で望みうすと察すれば、肩と腰につめられた空気がぬけたようにしょぼくれる。どう見ても、何手先を読んでいる玄人ではない。一手を投じたあとはなにも考えず、そのうえ王手をかけられたと早合点するかわいい素人である。
「……きみのことはきらいじゃないよ、なんだったら好意的だ。だけどあいにくわたしにはもう彼氏がいてだね」
「ああ、ヤッパリいるんだ。そうだよね」
受け入れがたき真実をつきつけられた途端、渠はかろうじて生気だけが残っているしかばねのようになった。
彼氏というのはもちろん、渠との距離をちぢめるのに警戒し、回避するための方便としてついた残酷な嘘である。
「ごめん、迷惑だったかな」
「迷惑だなんてとんでもない。きみのことはきらいじゃないって、そう云ったばかりじゃないか」
残念がる渠がかわいそうになって、念をおしていまの告白できらいになったわけではない旨を告げるわたし。ことわる気分とことわられる気分、はたしてどちらのほうがつらいかは想像できないけれど、わたしにこれ以上の忖度を需められるのは酷であるのは、まぎれもない真実にほかならない。「しかたがないであろう。すでにわたしのまわりにべつのおとこのにおいがただよっているのだから、真っ向から想いを告げる渠の純情を閑卻するのが正しい。どちらかと謂えば、純情を受け容れろというほうが忌まれるべき不徳の極致ではないのか。渠の期待をうらぎるようでわるいが、いまわたしに追陪する恋人をうらぎるわけにはいかないのである……」と、あたかもほんとうに恋人が存在しているかのような暗示を自分にかけて、襤褸をださないような演技をこころがけた。わたしはこの暗示を心のなかで嘲笑した。人の純情を身勝手な嘘でしりぞけることこそ彝倫に乖いているだろうと。だが、わたしは後悔していない。世の中で正直な生き方をすると損ばかりで、それで後悔するのであれば、嘘をつきまくるほうがましだからである。
「じゃあ、そういう関係じゃなくていいから、ふつうになかよくしてくれる?」
「……それなら、いいよ」
茲からわたしと渠の関係がはじまった。なんらへんてつのない友人の関係であった。
「その、彼氏さんはどんな人なの?」
自分とおなじ人を好きになった人間に興味がわいたのだろうか、渠は厷をにぎりしめながらたずねた。そのおかげで、わたしは架空の人物を捏造することに脳細胞をはたらかせるのを強いられた。
「いさましい……まずはそこかな。危険をかえりみずに首をつっこんでくる無謀さとも云い換えられるから、長所なのかどうかはふくざつなところだけど……まあ、そういう人間ってそうそういないからね」
「へえ、いい人なんだね」
そんないい人、できればめぐり会いたいものだ。そう云いたい気分だった。
「ほら、人ってめずらしいものに心うばわれるよね? 真珠とか金剛石とか……めったにあるものではないから惹かれる……それとおなじ理屈だよ。わたしにもそういう俗っぽさがあったのさ」
「なるほどね」
渠は納得したけれど、矢継早につぎなる質問をくりだした。
「危険をかえりみずに首をつっこむような人って云ったけど、なんかほんとうにそういうことがあったの?」
嘘をつけば、またひとつ嘘が殖えてはきりがない。渠の好奇心にほとほと困ったわたしは、あらゆる幻想を練るのを得手とする小説家となることを強いられた。
「あったよ。わるいやつを退治してくれていたね」
「わるいやつって?」
「……あまりおもい出したくないけどね。渠と出会う以前にも彼氏がいたんだよ。そのおとこは幼なじみで、むかしからつきあいがあったの。一年くらいまえに再会して、交際をはじめたんだけど……」
「そのおとこの人がわるいやつだったの?」
「……そうだよ」
脈絡なくひとつまえの彼氏の咄をしだすということは、そのひとつまえの彼氏こそが性悪な人物であるとしかおもえない。おっとりしてはいるが、そのじつ渠は賢明であるようだった。
「マンネリズムに陥った三文小説に書かれていそうな悪役だよ。いまでもどこかで薬を售りさばいたり、馬鹿なおんなをたぶらかしたりしてるんじゃないかな……どうでもいいけど」
「薬?」
不吉な単語を耳にした渠の臉はたちまち蒼褪め、わたしにむける眼光もあやしいものへと変わっていった。うっかり口をすべらせるどじを踏んだわたしは、めんどうなことを訊かれる気配を察して、眉をひそめた。
「だいじょうぶだよね、その人にへんな薬を飲まされたりとかしていないよね」
案の定渠はそういう心配をしはじめた。道徳に乖離するおとこの邪気にあてられて、わたしもそのおとこと同様によこしまに染まっているのではないか? そうおもうのは無理もないけれど、想像までにしておくのをいさぎよしとせず、真相をたしかめる欲望につられてたずねてくるとは、尊敬せざるをえぬ大胆さである。
「……いまわたしの精神に異常があるとおもう?」
「……全然健康そうに見える」
「つまりはそういうことだよ」
そこでわたしはあぶない話題を早い段階で打ち止めにした。これ以上話題を展開すれば、
渠と出会う一年まえ……すなわちいまから三年まえのことなのだが、わたしは小学時代にしたしくしてくれた幼なじみと再会した。宅に居座ってばかりいると気がふさぐし、真夏の輻射熱でじわじわ炙られる拷問を耐えきる自信もない。心にとぐろをまく鬱屈を駆逐するために散歩にでかけて出かけたそのやさき、わたしは幼なじみと鉢合わせした。
ひさしぶりに渠と臉を脗わせたときの感想はというと、渠が著名な私立中学に入って以来会うことがめっきりなくなったので、すなおにこの邂逅によろこぶよりほかなかった。容貌と風采はわたしの記憶にあったものと同一で、あいかわらず恰好好かった。むかしとくらべて目立った変化といえばせいぜい身長がのびたくらいである。
時効だからこそあえて茲にて白状するが、わたしにとっての渠はあこがれの人であった。目でその存在をじっくりと鑑賞するだけでも満足でき、すこぶる眼福であった。あまりにも恰好好いため、当然ながらほかの女子からの人気もあつめていて、それをわたしは嫉妬におもいつつも驕傲ともしていた。そして、そんな渠の幼なじみという良席に坐れるのも至高のしあわせであった。それゆえ渠と邂逅したときは春の木洩れ日のようにあたたかな気持ちとなった。この奇遇に感きわまったのはわたしだけではなく渠も亦同様であり、その後ふたりでよくかよっていた茶寮に行って久闊に叙することとなった。茶寮で渠といっしょにいたひとときは幸福感にあふれていて、なごみをかたどった胡蝶が銀いろの鱗粉をふりまきながらわたしを祝福してくれていた。小学生のころにふたりが経験した成功や失敗、ともにあそんでいたときの思い出、それから現況の報告など、舌にねばりつく唾液がかわくまで談話にのめりこんだ。夢のひとときであった。
たのしい咄に花を咲かせていると、赫奕たる斜陽のひかりがみそかにあらわれ、時間の終焉をかなしそうにつたえていた。そろそろ帰途をたどらなければならない。また会えなくなってしまうのではないかというくるおしい不安が胃腸をしめつけた。茲で別れればまた出会うとはかぎらない。だからわたしはおのれを鼓舞し、どうにかして渠の連絡先を頂戴するまでにこぎつけた。携帯電話の画面に表示される渠の電話番号と網址を嬉々(きき)としてながめながら、かろやかに街路を歩いて行ったときの記憶は、慥かに広大なる脳のキャパシティに残存している。
宅に帰るとわたしは房間に這入り、寝床によこたわりながら携帯電話を取り出し、さっそく渠にその日の悦楽を圧縮したメッセージを送った。渠は勉学に忙殺されているからかすぐには返信が来なかった。いつ反応を見せてくれるのかがたのしみで胸膛がはずみ、夜のねむけをふきとばすほどであった。しかしそのはなやぎもながくはつづかなかった。二日目も、三日目も、四日目も、五日目も……返信は依然としておくられておらず、ものさびしい雰囲気が電子文書の画面を徘徊していた。そこまでいそがしくて携帯電話を見る機会がなかった。そんな蓋然性もいなめないと云いたいところだけれど、既読の表記がしっかりとある時点でその線はきわめてうすい。だとすれば、わざとわたしのメッセージを無視しているということになる。あの日の渠は以前と変わらずに親切な感じであったのに、わたしからのメッセージを見て見ぬふりでとおすとは、とてもではないがにわかには信じがたかった。渠が薄情な人間であるとも考えにくい。まさかわたしと別れたその日に事故に遭ったのではと、さまざまな憶測がわたしのなかで蝙蝠のごとくに乱雑に飛び交い、不安に拍車を掛けて行った。
二週間が経ってからようやく返信が来た。おそすぎたので、わたしもそのころはすっかり渠のことをわすれていて、図書館で借りたぶあつい本に没入していた。あれだけ渠の返信を心待ちにして、渠の平穏無事をいのっていたのに、時間を経るとそれに対する熱情がしだいに風化してゆく。客観すれば意志が薄弱であるとしかおもえず、わたしは羞恥で火照った。
返信の内容はこうであった。
「ごめんな、そっちのメッセージはちゃんと見たんだが、期末テストでちょっと大ポカをやらかしてな。それで親に携帯電話を没収されちまって返信が遅れたんだ。ゆるしてくれよ」
ふまじめな学生ならばえてしてそうなることがあるゆえ、わたしは欠片ものの猜疑をせずにそれを鵜呑みにして、とにかくなにごともなかったようだと安堵した。わたしは送られてから間を置かずに自分の切実な気持ちをつたえた。
「よかった。二週間もいなかったから、不安でびくびくしていたよ」
気持ちをとどけたあと、渠はあらかじめ打っておいたかのようにすばやく、用件をこちらに寄越した。
「あさってに駅ちかくの公園で待ち合わせできる? だいじな用があってさ」
「だいじな用?」
「うん」
「え、気になる。どんな用なの?」
「それはね……いや、やめておく。その日のおたのしみだよ。ここで言ってしまうとつまんないからさ」
「ふうん」
「で、あさっては空いているのかな?」
「空いているよ。まあ、わたしはひまだからさ、いつでも空いているんだよね」
だいじな用とはいったいなんなのだろう。椅子のうえで正座し、ゆっくりと丹念にその意味を吟味していると、足が段々としびれていった。しびれたのは足だけではなく心も亦しかり、かずかずの妄想が生まれては肥大化し、わたしのなかのおとめ心をくすぐった。ひさしぶりの再会だったものだから、幼なじみであるわたしの存在がいかにかけがえのないたいせつであるかを会得し、そのあげくの告白をしてくれるのではないか? わたしは恋にもだえた。
「ただ、くわしい時間をおねがいできるかな?」
と、わたしが訊くと、渠はなやむことなく返信をくれた。
「朝の六時ちょうどに来て」
やけに早いな。恋ばかりがうつっていても、ものごとの不自然を見落とすほどわたしの目はふしあなではない。六時といえば空は藤のむらさきでひろがっていて、月はいまだに隠れず朦朧と掛かっている時間帯である。だから、そんな早くに公園に寄りつこうとおもえる人はごく少数なのだ。人がいたとしても、その人はきっとたゆまず懸命に慢跑をする人なのであろう。渠の云うだいじな用とは、周囲の視線を気にするようなものなのだろうか。さすがに不審を打たざるをえなかったわたしは、気道になにかがつっかえたかのような感覚がした。けれども、いちいち渠の意図をさぐっても埒があかない。ひとまず渠の要請をこころよく受け容れることにした。
「わかった。じゃあ六時にそっちに行くね」
「ありがとう! じゃあ公園の入り口付近で待っていてね」
「いえいえ! さそっておいて遅刻するのはやめてね?」
「そんなヘマしないって」
「冗談だよ。またね」
会話が終了したあと、わたしは携帯電話をしまった。
まぶたを伏せて渠をおもいながら身をふるわせ、明後日がはやく来ないものかと恋心が虫さながらにさざめいていた。子どものころははじらいにまどわされて、恋心を披歴せずに袖を噛むかなしみをあじわうことになったけれど、連絡先の交換に成功したのだから、今回も勇気をふりしぼればきっとうまくゆくはず。わたしはそうして自分をはげました。
翌々日の早晨をむかえると、いつもはねむたくて起床を困難とするわたしが、めずらしく颯と蒲團から出て、慌慌忙忙と身じたくをととのえた。昨晩は動悸で息がくるしくてなかなか寝付けなかったけれど、月が降りて日が昇ったこのときでも動悸は止まらなかった。
もはや履くことはあるまいと決めつけ、箪笥の最奥につめて封印した白い短裙をとりだした。中学に入る直前に購ったやつであり、一度も身につけたことがなかったため、まだまだ新品らしいつやがあってかぐわしいにおいもした。日の目をおがむことができたその短裙は、今日わたしが渠に会うために履くお気に入りである。これと掛け合わせて、灰いろの縁飾の目立つブラウスを着て、わたしは待ち合わせ場所へといそいで向かった。むかしはあかぬけていない質素な服装ばかりだったので、はなやかないでたちで渠のところへ行けば、きっと渠も目を皿にして吃驚してくれるであろう。それがたのしみで、おもわずほころびてしまう。わたしだって気のつよい一面を持ってはいても、それなりに愛嬌をふりまくおんなでいたいつもりなのだ。
待ち合わせ場所に着いたが、渠のすがたどころかほかの人影さえそこにはなく、鴨の群れが索莫としてゆらめく池にたたずんでいるのみであった。しばらく待っていても来なかったので、わたしはひまをもてあますようになり、大きなあくびをしながらあたりを逍遥してあちらこちらを看廻した。わたしと渠がまだ小学生ですらない幼稚園児だったころ、ここら一帯で花見に興じたり、駆けっこをしたりしたなと、宝石にもおとらぬすてきな思い出がつぎつぎと脳裏をよぎっていった。
思い出に魅せられるわたしはげにめでたいやつである。渠が茲を待ち合わせ場所にさだめたのには、きっと身の毛がよだつおそろしい意味がこめられていたのだろう。きらびやかな思い出はやにわに闇におおわれた直後、わたしはぼんやりとした痛みに酔い痴れ、そのまま意識をうしなった。そこからさきに起こったできごとは絵に描けるほどはっきりとおぼえているのだけれど、だれにもこれを赤裸々に披歴したことはない。
意識がもどったのは、その日の深夜であった。
蚊とんぼが翅を振動させ、渇きを満たす水をさがしあてる夜に、意思をないがしろにしてまでわたしを糧とするおとこが三人、ひっそり閑としている黮黭から溶け出るようにすがたをあらわす。ひとりは見知らぬおとこと、見知らぬおとこ、そして甘いマスクを脱ぎ、みにくいすがおを明かしたおとこ。それぞれの容姿をくらべてもなんら大差のない、悪しきこころざしをともにする種族であり、わたしのようなヤワな存在には未来永劫理解できない、異界の住人であった。汚水のくさみが鼻を刺戟し、おとこたちの暴慢な嗁びとわたしの悲痛の叫びが反響する。快楽を得るための苦労が滲み込んだ汗と、云い知れぬ恐怖が滲み込んだ汗とがまじわり、それによって合成されたおぞましい液体が四肢六体にまとわりついてはなれようせず、軛にしばられて自由をとりあげられた絶望が炸裂四散する。幇助をもとめられる善人がそばにいない隔絶感が惨憺としてわたしをおびやかす。頚には扼痕、腕には打撲痕、瓜をやぶかれては衊されるよう苦痛が駆けぬける。保障されているはずの尊厳を土そくで踏みあらされる。それに対する嫌悪感を嘔き出すように阿鼻叫喚をつづけるが、わずらわしく感じたやつらによってむりやり口をふさがれる。臉をゆがめるほどの痛みを怺え、暖簾に腕押しの結果に訖わるだろうと知ったうえで、せつせつたる愬えをやつらに嘷える。決死にもがくさまはかえって渠らの欲望を煽るだけだと云うのに、それなりにプライドのあるわたしはあらがうのをやめない。そして、弱きをいたぶるのに飽きが回ってきた渠らは、わたしから力の竭きるまであばれる決意を察知すると、わたし自分たちの血をわたしに頒けあたえてだまらせようとする。するどい痛みが走り、ひんやりとした感触が静脈にとどまり、そうして血液のながれにさおさして、一気に全身へとめぐる……もう、なにもかもがおしまいだと諦念すると、たちまちわたしはねむりにつくように目をとざした。無明、つぎに無音、しまいに無感覚……そこからはもちろんはっきりとおぼえているわけではないが、現実より遊離することができて、のぞんでいたやすらぎをようやく得ることが愜ったのは慥かであろう……わたしがおぼえているのはこれだけであり、さらにくわしい記憶を掘り起こせというのは無茶な注文である。
意識がもどったのは、翌日の早朝であった。
あわてて躰を洗面台の蛇口から出る水で澡い、やつらがもたらした不浄をきよめた。それから、おぼれるように水を大量にほおばって、頏を灼く白いほむらを消すのにもあけくれた。ほむらはしぶとくて水ごときでは消えてくれず、ひたすらながされて胃袋に漂流しただけであり、つぎは胃袋が溶けるような感覚に窘しむこととなった。なぜわたしがこんなめんどうなことに精力を浪費しなければならないのだろう。沸騰して冷めるきざしを見せないressentimentに身をふるわせながらも、わたしはそれをひとまずおさえて宅に帰るのを優先することにした。帰途をたどってゆくうちに、枯れたなみだに糊着する臉蛋を、風はやさしく愛撫してなぐさめ、ひりつく痛みにすずしさをはこんだ。ふだんあたりまえのように吹いているがゆえに気がつかなかったけれど、風とはこれほどまでに穏和であったのだなとあらためて実感した。服はやぶれているうえに灰いろの泥水がにじみ、全身の傷がひどく目立っている。だれがどう見てもあきらかに異様であるため、わたしはなるべく裏路地を利用することで人目をしのび、宅へとそそくさと帰っていった。親に朝帰りの理由を追及されることはたぶんない。べつにあのおとことは正式な恋愛関係にまで発展していなかったし、渠と会うのもてれくさかったので、友だちの宅にあそびに行き、そこに泊まるとあらかじめつたえておいたのである。だからなにかたいへんな目に遭ったのではないかと推量されるおそれはない。それが不幸中のさいわいというべきか、おかげでわたしはまだまだ見栄を張っていける。甘ったるくてやすい誘惑に乗った結果、にがい憂き目に遭うことになっただなんて、はずかしくて周囲に知られたくない。せめておいうちをかけられるのだけは避けたい。わたしのメンタルは鋼鉄のように堅固ではないのだから、それくらいの自衛はこころがけておかなければならないのである。
朝の五時半だったため、母はまだ就寝中でありわたしのみじめな帰宅に気がつかなかった。もし意識をとりもどすのに時間がかかりすぎていたらとおもうと足がすくむ。陰惨なわたしの躰が誰かに目撃されたことで警察沙汰となり、今回の顛末が親や友人などに知れわたったりしたら、さすがに心がもたない。
抜き足差し足で浴室に這入り、お気にいりだったブラウスと短裙をぞんざいに洗濯機のなかへと放りすてる。大きなためいきをつきながら、ひからびかけている花に如雨露の水を澆ぐかのように、あたたかなシャワーを浴びて肉体に必要なうるおいをおぎなった。馥郁たるソープのかおりが鼻の粘膜をさまよい、わたしの心が負う深手に応急処置をほどこしてくれた。
シャワーを浴びているさなか、手元からはなれた冷静をふたたびつかむことができたわたしは、走馬灯のようにめぐる昨夜のできごとを映したビジョンをつらつらとながめて、あれからあのおとこはどうしたのだろうと考えた。あのおとこの素性といい、つれていた仲間といい……わからないことはだらけだった。凄惨をきわめる暴力をふるわれたのにもかかわらず、しあわせにも似た恍惚がわたしのなかでうごめいているのも亦はなはだしく奇怪であった。マゾヒズムにめざめたおぼえはまったくないのに、なぜこうも安心感でいっぱいなのだろうか。いまなお躰がうずいているというのに、心はあたかもそんな事実はなかったとでも云いたげであった。気持ちがわるいのに、気持ちがよい。乱離骨灰となった感情に、わたしはどうしていいかともどかしくなった。
シャワーを終えて浴室から出ると、わたしはあることをたしかめたくなった。洗濯機に放りすてられた短裙の口袋に手をさしいれて、浄化の渦にまきこまれそうになった携帯電話をとりだした。電子文書の画面をひらいて渠にてきとうなメッセージを送っても、返事など来るはずがないのはとっくにわかっていた。いや、送ることすらできない。なぜなら渠はすでに電子文書の用戸を削除しており、電話しようにもそもそも番号がわからない。
あのおとこが退出したという表記を見て、谿にしずんでゆきそうなほのぐらい虚無感でいっぱいとなった。
房間にもどると、あのおとことわたしのなかむつまじさを描いた写真が視界に入った。けしからぬ皮肉にものぐるおしくなり、憎悪のまにまにその写真を手に取り、そしてそれをこなごなにやぶき、あらあらしく虚空に投げ飛ばした。うつし世に一切の夢はないとだれにともなく漫罵をくりかえし、まくらのくぼみに臉を埋めては号哭した。夢を信じた者の末路がこれである。
まぶたのうらに浮かびあがっていた過去は、茲でさえぎられた。垂直に上昇してくるわたしのマグマのような激情によって。
寝床の下に置かれていた駒箱と将棋盤のそばでころがっていた紙の破片たち、あれらの正体はわたしが引き裂いたいまわしき記憶の残滓だったのだ。忘却したはずの憎悪をふたたびおもいだしたわたしは、つくえのうえのコップを手で薙ぎはらった。ゆかに落とされて割れるコップの音は、壮大な失恋を一瞬であらわすむなしさでみちていた。なかに淹れられていた珈琲はつくえにかかっていて、文字が書きつらねられていないまっさらな手紙が茶色となった。
「……地獄から、抜け出せない」
なにもかもがどうでもよくなって、脱力感にまかせてだらしなく椅子にもたれかかるわたし。
「自分を信じていいのかな、純」
関口純にすがるしかない。あとにひけなくなった自分は、袖でつくえにまみれる珈琲をふきとり、あらたに一枚の手紙をそこに置いて……そうつぶやいた。自分はなにを書きたいかわかってきたのである。
「先日の無礼に関してはほんとうに申し訳ない。『どのつらをさげて詫びに来たのだ』……おそらくそうおもっているのだろうけれど、自分は……詫びなければならないという抵抗しえない義務感に駆られ、そして同時にどうしてもたのみたいことがあったからこそ、こうして筆を執ったのだ。
「もしも不快であれば、全然無視してもらってもかまわない。困難をまのあたりにしたとき、かならずしも他者の手をさしのべてもらうべきであるとは言えない。その困難から逃げればいいだけの咄なのだから。真剣に聞いてほしい、これが自分の最初にして最後のたのみで、引き受けるか引き受けないかで自分のこれからの人生が左右される。
「そのまえに告白の件、おぼえていないはずはないよね。あれはほんとうにびっくりしたのだから。云いづらいけど、じつは自分には彼氏がいないんだ。その真実を茲にしるしておくよ。ごめんね。あれは自分へのアプローチをことわりたいがために咄嗟についた嘘だったんだ。そう、わたしは卑怯な人間なんだ。ながい人生において、たかが一日の挫折と屈辱にうちひしがれたていどで落ち込むのもそうだけれど、あろうことか挫折と屈辱を盾にして世間のしがらみを堰き止め、弱者を気取っておどおどしてみせるほどの卑怯ぶりだ。だから居然として彼氏もできなければ、おとこにひろわれることもない。卑怯な人間つかうべき気なんか存在しない。もう気をつかわなくて結構だ。好きなだけ軽蔑しておくれ。さて、あの日の告白のことなんだけど、いまあらためて返事をするよ。答えは『イエス』だ。いまごろ云ってもおそい……とおもうよね。
「さて、本題だ。単刀直入に謂うよ。自分といっしょになってほしいんだ。
「将棋を指したあの日にわたしはさとった。信用できない人とまじわりたくないから宅に引きこもっているけど、かといってずっと独りでいるのも精神を削るだけでなんの解決にもならない。なら、どうすればよいのか。答えはさがさなくてもあきらかだ。自分がぜったいに信用できる者を取り込めばいいだけの咄だ。……信用できる者は、もうさがすまでもない。関口純しかいないんだ。あのときは感情にまかせてめちゃくちゃなことを云って、わたしへのまごころをないがしろにしてしまっていたけれど、あとになって冷静に考えれば、帰するところわたしのおとこに対する憎悪を捌けるためのやつあたりにすぎなかった。関口純はひたむきにわたしの未来をうれい、救おうと必死になっているのだと、そうさとったんだ」
しあげに、わたしは願いを書き添えた。
「どうかおねがいします。わたしのそばにいてください。いまの自分はくるしいんだ」
冗長になっているところが散見されるけれど、推敲する気力があまりおきなかった。擱筆ののち、わたしは惘乎として臉をあげて、うえの天井にひろがっているシミに蒼白い視線をやった。
そうしていると、これまで平常をたもっていた心がまたもやあばれだして、わたしの人格を乗っ取ろうとした。
「また、くるしくなった! いくらなんでもはやすぎる……最近、楽な時間がどんどんみじかくなっている……!」
熊や蛙の冬眠よりもながく巣で行住坐臥を過ごしてはや一年。ペシミズムの羈縻に依然としてつながれたまま、肉眼ではとらえられぬうっすらとした幻影にせせら嗤われる日々を、わたしはおくっている。卒塔婆のならぶ墓場のほとり、ひび割れてひずむしずかな水鏡、黄泉国へ旅立たんと土にもどるされこうべ……それらにおとらぬ不気味さにさいなまれつづけている。いちおうその不気味さが一旦押し黙り、おとなしくなることはあるけれど、そうなると今度は例のただならぬくるしみがにわかにどんちゃんさわぎをし剏めるから、やすらぎのときはほとんどないと云ってよいであろう。なので、なにもせず房間に閉じ籠もっているだけでも、ストレスを感じることはさけられないのである。
だだをこねるようにあばれるくるしみに耐えながら、わたしは澄明なる鏡をのぞいてみた。怠惰をむさぼっていても、食事はそれなりに摂っている。それなのに鏡には、枯稿憔悴し、顔貌峭刻となりはてたおんながつくねんと坐っているのがうつっている。肌膚は黄ばみ、ラズベリーみたいな面皰がぶつぶつとできていて、螺子が弛んだかのように眼窩がごっそりと陥没してしまっている。はたしてこれはどういうことなのだろうか。わたしが熟知しているそのおんなはというと、齢纔か十八であり、ねびる皺なくみずみずしき乙女であった。しかし、いつの日か甞ての面影さえのこさぬ媼に変貌しており、このように生気のほどがかぎりなく無の域にまで落ちている風となっている。軻遇突智を産んだことで焼け死に、黄泉に堕ちてしまった伊弉冉を髣髴とさせるそらおそろしいすがたで、それをじっくりながめるのに飽いたわたしは、矯めざる本能のまにまに椅子の脚で鏡を割ってこわした。
「すごい音がしたけど、だいじょうぶ⁉」
このやわらかなこわいろは関口純のものにまちがいない。いつのまに宅に来ていたのだろう。渠の気配がわたしの敏感な意識をすりぬけたという事実に、うちつけに舐められたかのようなおどろきがあった。そして、自分の醜悪な臉を見られたくないというおそれもあった。とにかくいまは房間に這入らせてはいけない。
「なんでもないから! いまは這入ってこないで!」
焦燥に駆られたわたしは大きく口をひらき、壁に沁み込んでひびくほどの甲高い声を出して、渠の入室を必死に止めようとした。
「ゆかが振動していたよ? 怪我はしてないの?
「平気だよ!」
「……なにをそんなに必死になっているの?」
けどられた。
「きみがそうやって焦ると、だいたい何かあるよね」
「なにもないってば」
「いや、あるよ。心配だから這入るよ……」
やはり、渠のお人好しは厄介だとおもった。以前のとつぜんの来訪もそうだ。人を心配するのは結構なことであるけれど、そのあまり他者の意思に対して素知らぬふりをするところが見られる。ふだんでこそなよなよしているが、ひとたび頑固となれば融通が利かなくなる一面があるのだ。
頑固となったらもはや手がつけられない。わたしは覚悟をきめることにした。それに、わたしは信じている。もともと渠はわたしの心身を心配しているからこそ、日ごとに手紙を寄越してくれたり、以前のような勇気ある来訪を実行しえた。だから、わたしの醜悪な臉をまのあたりにしても、決してこわがることをしないのだろうと。
いきおいよく房間の扉がひらかれた。ぼくがおびえながらそちらへと目をむけたその瞬間、切り替えの釦が押された。世界がコインのようにくるりと裏から表へとひっくりかえった。
「関口くん!」
おんなの声がした。
「関口くん!」
听きおぼえがあるなんてものではない。いつまでもまとわりつく影とおなじく、非常になじみぶかい声であった。
「ぼく……いや、わたし? わたしは平気」
おとこの声がつづいた。
先週に听いた、やわらかなおとこの声であった。
「あれ、おかしいな?」
おとこの声はふるえていた。
「なんで、『ぼく』なんだろうなあ……」
絶望が水に溶ける墨のように、わたしのなかで淡く、ゆっくりとひろがった。
「関口くん?」
「なんできみがおんな?」
「え……?」
扉をひらいたのは、まぎれもない、わたしであった。花姿柳腰をかざる婀娜なる黒髪に、皚々たる雪に梅のはなびらが落ちたかのような宍いろがまばゆくて、どこからどう見ても、夢見たすえにうつつとなったわたしのすがたであった。
「なにを云っているの? 関口くん……」
「ぼくなの、ほんとうにぼくなの?」
「『ぼく』って……なんで急にまたそういう一人称にもどったの……それにしてもちょっと見ないうちに、ひどくやつれているね」
「もうわからなくなってきた。ぼくはおんななの? それともわたしはおとこなの?」
混乱した。全身の力が神隠しにでも遭遇したかのようにぱっと消え失せた。さすがにこのようすにあやぶんだ彼女は、たおれた鏡をまたがってこちらのほうへと歩み寄った。
とある衝動がぼくのなかで紫電のごとくによぎった。消え失せたかとおもわれた力が生還し、右手に集中した。右手はあらあらしく彼女の頚をつかんで、うらめしく絞めた。
「なにをするの?」
うすら紅の頬が、しだいに青くなってゆく。
「やめてよ。それはしゃれにならないって……」
しかし、その痛切たる愬えを聞き容れる耳を、このときのぼくはもたなかった。
「頂戴」
ひっきりなしにその辭をやすまずにくりかえすのみであった。
「やめてって云ってるの!」
彼女は乱暴に手をふりほどき、ぼくを押し飛ばした。
押し飛ばされて壁に頭をしたたか打った直後に、ぼくはやっと彼女が誰なのかを、白熱電球が光ったかのようにぱっとおもいだした。彼女は、学校を辞めたぼくの心身を案じて、頻繁に宅におとずれてくる世話焼きの子だ。ぼくがなりたい剛毅でうつくしい女性を具現化したような子だ。
纔かではあるが正気がもどり、彼女の正体のみならず、自分の正体も段々とおもいだせるようになった。自身がおとこであるのを忌みきらい、あこがれの的である彼女の人格を借りなければ満足を得ることができない。それがぼくであり、ぼくでしかなかった。
おさないころからおとこの麁雑さとうるささを厭い、同性とはいえおとこと距離をつめることに辟易してきた。幼稚園のころはそうでもない。小学校に入ってからそうなった。おとこのくせにたよわく、四六時中おどおどとしていて周囲の視線におびえているのが目立ったものだから、そのせいで小学一年生になるとおとこたちにからかわれ、場合によっては気に食わないとなぐられることもときおりあった。なぐられたときは、どうしてこんなひどいことをいともたやすくやってのけるのかという疑問が沸き起こっていたと同時に、どうしてぼくはほかのおとこの子とちがって剛毅でないのかというなやみのタネもできた。自分の特殊がいまわしくて、誰よりも普通を欲していた。ぼくと似たおとなしいほうの子もいくらかはいたけれど、渠らは悪意にさらされているぼくに幇けの手をさしのべないどころか、卑怯にも見て見ぬふりをつきとおしてばかりでいて、それがよりぼくの渠らに対する同族嫌悪をあおりたてる芭蕉扇となった。あらけなきもおとなしきも大差ない、とかくおとこはみにくくてなさけない。剏めて知った際の巨大な衝撃。それのもたらす余波は、ともすれば死ぬまでずっと残ることが多い。念のために茲にてしるしておくが、ぼくはおとこに対して偏見を持っているのをきちんと自覚しているけれど、惜しむらくはなかなか消えてくれないからこそ偏見と謂えるため、自力でこの偏見を殺すのにはそうとう骨が要る……あるいは命も要るのかもしれない。
幽霊のように透明でつかみどころがなく、うかつにちかづくとあとがおそろしいとしておんなをも避けていたのだけれど、とある経験がぼくの警戒をゆるめるきっかけとなった。弱きであるのをいいことに、一団となってぼくをオモチャとするおとこたちのいやしさを見ていたおんなの子がいた。善くない見世物を見せられて堪忍袋の緒がきれたのか、その子はおんなとはおもえぬ腕っぷしのつよさを発揮して、いまわしいおとこらを追っ払ってぼくをたすけてくれた。フィクションにありがちというか、フィクションにしかないような咄で、いまなおぼくはそのときのことを現実での経験ではなく、夢での経験ではないかとうたがっている。実際おぼろげな記憶であるので、おとこに思いきり顔面をなぐられて鼻血をたらしたことはおぼえていて、どういう風に罵詈雑言を浴びせられたかについてはあまりおぼえていない。ひとつだけ明瞭におぼえているのは、やはりおんなの子がおとこに馬騎りになって、蜂に刺されたかのような腫れが出るまでその子の臉をなぐって成敗したことであろう。強烈すぎる場面であったためわすれられない。というか、わすれるほうこそどうかしている。ちなみに小学校のそとでのできごとなので、そのおんなの子はおなじ幼稚園には属しておらず、ほんとうに見ず知らずの赤の他人であった。性がことなるがゆえにちかよりがたく、天使のようにやさしくてつつましいのが、自分のなかにおける従来の女性像であったために、その裏におとこをも凌駕するたくましさがかくまわれていたというのは、甞て前例のないゆえの新鮮な風味があった。さっきも云ったが、剏めて知った際の衝撃は巨大であり、その余波はほとんど永久に残存する。彼女にたすけてもらったときにぼくは、おんなはやさしくてつつましいが、いざというときはおとこにも負けぬ剛毅をはたらかせることもあると考えるようになり、そしてその考えは消えずになお頭の箪笥にしまわれたまま、ほこりをかぶり、黴が生えてくるのを待っている。
それからのぼくはおんなという生きものにつよく惹かれてゆくようになった。中学生になると少々色気づいてきて、容姿やしぐさもやがておんならしいものとなり、筒服のほかにも短裙なども履くようになったほか、年ごとの流行に脗わせたあそび、グルメ、ファッションにも鼻が利くようになった。母ははじめこそわたしの極度なおとこぎらいを懸念し、どうにかしておさないうちにぼくのおとこらしさをとりもどそうと齷齪していたけれど、ときが経つにつれてすっかり順応していったのか、いまとなってはわたしへの理解をふかめるようになった。おんなはおとことちがって薄弱であるとおもいこんでいたけど、あの日からは薄弱とも謂えず、よくよく考えればおとこよりも芯がつよいところがある。きれいで、つつましくて、そのうえたくましい。おとこよりも完璧な生きものではないか。世間の男性の怒りをあつめかねない考えであるのはむろんわかっているが、おのずと頭にうかんだ考えであるのだからしかたがない。どうしても否定したければ、ぼくの脳を削岩機で穿鑿してくれても一向にかまわない。とにかくきらいなものはきらいなのだ。
独自の信念にてらしあわせて、学校でも女装してゆくつもりだったが、案の定教師の顰蹙を買うこととなって断念した。もちろん女装で学校にかようことに関してはぼくのほうが異常であるのはわかっているので、控訴はひかえておとなしくおんならしさに踏み込まない、無難な服装で自分をかざるのをよしとした。あくまでこちら側に正当性がないとすなおにみとめただけであり、こころのこりがないのかと問われると、ないと答えればきっとそれは嘘となる。だいたい、あの学校に自分の情を酌んでくれる寛容なうつわを有する人間などいないだろうから、是が非でも女装していけば気味わるがられるのは火を見るよりもあきらかである。学校からの赦しを得られないのであれば、そこ以外での場所で女装すればよい。そうしてぼくは自分を説き伏せ、くやしさをまぎらわそうとした。
女子たちとはそれなりに親密な関係をきずけており、おもしろいほどに両者のこのむ話題が共通していて、雑談に興ずることが常でありまったく飽きなかった。逆に男子とはうまくいっておらず、心についたてを立てておとこにのぞかれるのをふせぎ、なるべくして自分から話しかけることをひかえていた。異性たる女子たちの居るのところにばかり寄っていき、そのにぎやかな羣の輪に這入りこんでともにたのしくさわぐぼくは、おとこのなかでもなかんずく目立っていて、異性に尻尾をふるいやしいおとこという認識が、渠らのあいだでひろまっていた。そしてその認識が根源となり、おとこ固有のばかげた妄想によって敷衍した根も葉もないうわさ咄とか、ぼくの印象をいちじるしくゆがめるそしりがうずまいた。いかにも白百合のようにきよらかで穏和であるのをよそおっているけれど、化けの皮が剝がれたらぜったいにおんなに飢えただけのあさましいやつであるだとか、そういうたぐいの咄を知り合いのおんなから小耳にはさんだ。いちおうぼくも男子にひどい偏見を持っているとときたま反省することがあったが、そのときばかりは執拗に自分をお笑いぐさにしたがるおとこたちに対して大いなる失望を抱いた。もはやきらわれなければ死んでしまうのではないか? そんなかなしいヒールを演じる運命を背負っているのかとおもわせるほど、おとこたちは平生ぼくに悪態をつき、あまつさえ美術で描いた絵に低劣ないたずら描きをしたり、つくえのなかに溶けたスライムを入れ込んだりした。小学校にのさばっていたおとこたちとちがい、渠らは腕力にまかせた暴力をふるうのをつつしんでいるらしく、タチがわるいことに口にまかせた暴力をふるうのを主としていた。中学生と謂えばおとなの領域の一歩手前であるため、虫が好かないという動機で他人を傷つけてしまえば、将来的にそれが大きな痛手となりかねない。悪意の虎を千里の野にはなつのに不可欠な檻の鑰……渠らにもそれを汗なくしてにぎれるほどの胆力がなかったということである。だからこそ面とむかってののしらず、なぐって怪我をさせないようにと、臆病風に吹かれている傲慢を終始していた。いざぼくをしいたげていた事が露見し、犯人さがしがはじまったりしたら、悪意を直接むけてきた者がまっさきにうたがわれるようになり、紫斑などが残っていたらそれはなぐった者にとどめを刺す証拠となる。おとこどもはいやに慎重であった。ぼくごときのために神経を削ってくれているとおもうと、きわめて滑稽であり失笑をさそう。
とはいえ、一概に渠らを責めたてるのもよくないのかもしれない。元をたどっていってみると、めんどうごとのタネとなったのは自身のおとこぎらいであり、それさえなければ色眼鏡で見られずに平穏に暮らせるはずだった。ぼくは慥かにおんならしくありたいとはねがっているけれど、同時にそう願っているがゆえに見舞われる不幸になげいていたのである。
唯一せまい心をくぐりぬけられたのはあの幼なじみだけだった。幼稚園時代からのながいつきあいであり、ぼくが憧憬を抱くことができた稀有なおとこであった。むりして笑ってみせればぎこちなく、ひっそりと哭くことであれば他の追随をゆるさない。そんな日夜どろんとした憂鬱に陥っているぼくのそばに寄り添ってくれた。おとこはもちろんのこと、おんなを信ずることさえままならない。人をよすがとしたくない猜疑心が全盛の時代をむかえていたぼくにとって、渠はあまりにもかがやいていて、魅力的にうつった。いまになっても、渠が自分をさんざっぱらカモとして利用したという事実を吞み込めない。ぼくをカモとして見るようになったのは、はたしていつからであろうか。ぼくに手をさしのべてくれたあのときからか、それとも、しばらくぼくと会っていないときからか。もし後者であれば、渠になにがあったのだろうか。うらむべきであるのに、やはり後ろ髪を引かれる感覚があって、めめしく渠が悪の迪を往ったわけをつまびらかにしたがるぼくであった。
「金儲けだよ。それ以外に、おまえに会いに行く理由なんてないだろう?」
脳裏に焼き付かれたあの日の夜がフラッシュバックした。その閃光は一瞬にして胸膛をさばいて、心房をぐさりとつらぬいた。
「子どものころからかわいい臉をしているなとはおもっていたんだけど、まさかその臉をいまこうやってつかうだなんてな。むかしのおれだったら、ぜったいに想像だにしなかっただろうね」
とっくに忘却の埖箱に扔てたのに、あの日の夜に渠がはなった冷酷な一言が、ご丁寧にもそのときの渠の表情とまわりの背景まで添えて、まざまざと泛かびあがって出てきた。
「勘弁してくれよ。こうでもしないとさ……おれのほうがおまえみたいな目に遭っちゃうんだよ……スケープゴートになってくれよ、ひとだすけとおもってさ」
虫唾がはしった。ぼくの躰を浸蝕してやまない穢れを目にして、よく「ひとだすけ」だなどという詞を持ち出せたものである。
「もっと、うれしがれよ」
幻聴かと思った。この劣悪な状況に置かれた人間にむける詞だとは、にわかには信じがたかった。ぼくが怒りをあらわにすると、渠はためらわずにぼくの脇腹に踢りをいれた。
「先輩たちは、おまえがかわいいからそうやってもとめているんだ。……もとめられているんだぜ? うれしいことだろ? おれの生き方はこうなんだ。こうしたほうがまだしあわせなんだ。おまえには一生わからないことだろうけど」
一方通行の好意をぶつけられてうれしがる人間なんてどこにいる。そう云いたくても、渠の先輩であろうふたりのおとこらに口をふさがれていたため、云えなかった。
「……このあいださ、先輩たちがおれの宅にあそびに来たとき、おまえの写真を見て、好みだとか言ったからさ……だからおまえを茲につれてきたんだよ。住所を変えてないと知ったときはほっとしたよ。もし引っ越していたらいまごろたいへんなことになっていたろうな。先輩たちから大目玉をくらってしまう」
と云って、渠は邪悪な笑みを見せた。
しかし、ぼくはこのとき、とある違和感をおぼえた。
友人を売って、他者に搾取させる。そんな没義道をやってのけた渠のまなこには、なぜか一點の濁りもなくむしろなどやかであった。立場がうえの人間に対する畏怖で瞳孔がゆらいでいて、そのようすにぼくはおもわずはげしい共感に身を投じた。
ぼくは渠をうらんでいる。それはくつがえしがたきとこしえの真実ではあるけれど、渠をゆるしてあげたい気持ちもなくはなかった。なにかぼくの知るところではないふかいわけがあって、たとえば先輩とやらに弱みをにぎられたがゆえにしかたなくぼくを売ったのではないかと推量したのである。さりとていかなる理由があろうとも、ぼくを結果としてはずかしめたのには変わりがない。そういったきびしい考えもぼくの頭のなかにあるので、ゆるしたいという気持ちにどぎつい殺意がまぎれこむことも亦頻繁にあった。……一貫性がないために説得力がないだろうが、どちらかといえば、一貫性がなくてごちゃごちゃしているからこそ妙に説得力がある。人間の感情とは理にかなわぬ不可解なものであるのがふつうで、掌握するのはそうたやすくない。自分の心なのにわからない。これが本心であるのかどうかに自信が持てない。これらのような一見ばかげた現象は往々にして起こるもので、ぼくもいくどか経験している。自分が完全に理解できないのが自分の心であり、他人が理解した気になるのが自分の心である。だから、矛盾しているのは承知したうえでぼくは云う。ぼくは渠を殺したいくらいににくんでいるが、渠の精神に善が根に張っているのを信じて、ゆるしてあげたい。怕らくこれが、自分の本心であるとおもう。
だが、ひとつだけ諒解したことがある。やみくもに人を信じて自分の弱みをあらわにする。これがいかに愚にもつかぬ軽率なことであるかを、身を以て知ることができた。おとこがますます信ずるにたりぬ存在となったのは自明のことわりで、ついにおんなにもひねくれた視線をむけるようにもなった。なかよくしていた女子とも距離を置いた。つまりぼくは、人間そのものを見限ってつきはなして、狷介孤高な生き方をしていくことをさだめたのである。やがてそうしていると、まわりの人間が渠のように陰湿な人間にしかうつらなくなり、学校に行くのにも抵抗をおぼえるようになった。碇をつけられているのかとおもうほど、そこへはこぶ足が重くてならなかったのである……
へし折らんとばかりにぼくは目のまえに居る彼女の頚を絞める。彼女に魂魄を口から吐かせ、その魂魄を自分が吸い盡す。失敗作たる自分の魂魄を彼女のものとすりかえるつもりなのである。彼女はそれを必死にこばんでいるようだけれど、残念ながらいまのぼくにはそれに応えられるいつくしみの心がない。
彼女が鬱血により失神したちょうどそのとき、携帯電話から着信があった。着信音はぼくの期待の鐘を搥ち、璆鏘たる快楽の音を刹那的に鳴らしてくれた。ぼくはいま見ているもの、それはぼくが欲しくてたまらないもの。携帯電話の画面に表示されている幼なじみの先輩の名前と、携帯電話のすぐそばに置かれているいとしい注射器と。
<了>