08.王城大パニック
一方。
アドリーヌことエヴィが王城を抜け出した翌朝、王城は大騒ぎとなっていた。
朝食には必ず出席する彼女が席にいない為、不思議に思った王と王妃がどうしたのか近くにいた女官に確認した。体調不良で休んでいるのか心配した為だ。
そして昨夜の惨状を知り、ひっくり返りそうになったのは言うまでもない。
未だショックでふて寝しているのだろうという女官を伴い、部屋へ向かう。
ふて寝など……そんな事があったのでは、さぞ心細かった事だろう。
きちんと謝って、安心させてあげなければ……そんな一心だ。
「……朝の声掛けの時はどうだったんだ?」
「お声は掛けましたが、お返事がなく……余程ショックで話したくないのだろうと思い、そっとして差し上げた方が宜しいかと……」
国王の剣幕に、女官が言い難そうに口を開く。
つまり、誰も昨夜からアドリーヌの姿を見ていないという事だ。
一緒に歩いていた王妃が顔を見合わせて眉を顰める。
部屋の前に立ちノックをするが、勿論返事はない。気配を探るが身じろぎひとつ、動いている様子はなかった。
「……鍵を貸しなさい」
部屋の鍵は、基本は部屋の主と掃除の人間が開け閉めするものだ。
主に頼まれれば、側近や侍女など他の者が開閉する事もある。
「しかし……」
「いいから!」
渋る女官からひったくるように王城所有の鍵を取り上げると、王自ら躊躇なく開く。
「アドリーヌ、申し訳ないが勝手に入らせて……アドリーヌ?」
断りながら部屋へ足を踏み入れると、人の気配が全く感じられない。訝しんで王妃の顔を振り返る。
後ろに控えていた騎士が異変を察し、部屋の中を素早く動き出した。
部屋はきっちりと整理整頓され、執務机の上には『引き継ぎ書』と書かれた本の様な厚みのノートが五冊、置かれていた。
その上には、『次の王太子妃候補の方へ』とお手本の様な綺麗な文字のカードが置かれていた。
その隣には、王と王妃に宛てた封筒が。
封を切れば、王室が支給した全てのものの所在が書かれた覚書であった。
お小遣いとして渡したものも一切、手を付けていなかったようで、日付と金額が残さず網羅されていた。
「寝台でお休みになった形跡がありません……こちらにはいらっしゃらないようです」
王妃は顔を真っ青にして、小さく震えていた。
「一体、これはどういう事なんだ!」
王が女官と侍女に視線を向けると困ったような顔をして、視線を下げていた。
「クリストファーは?」
「本日は早めに学園へいらっしゃると言って、既に出られたそうです」
「……今すぐ城へ戻るよう、学園へ伝言を。城内と庭園隈なく探してくれ。それと実家へ帰っている可能性もある。シャトレ伯爵邸へ確認を」
御意、と言って騎士たちが動き出すのと入れ違いに、侍従が早足で向かって来るのが見えた。
***************
今から三十分ほど前。朝の交代の時に裏口の門番が、貴族用の忘れ物預り所へシーツに包まった荷物を持って来た。例のドレス一式だ。
落とし物の内容確認の為、その包みを開けた係の者が手紙を見て小さく悲鳴を上げ、慌てふためいて上司の元へ駈け込んで行ったのも言うまでもない。
同じく慌てふためいた上司の指示で、既に帰ってしまった門番は呼び戻され、侍従に連れられて国王の前に引っ張り出された。
備品管理係の上司は部下が開封してしまった手紙を侍従に渡すと、全く状況が解らない状態で、門番の隣で控えているのみだ。
騎士を確認へやったシャトレ家から、親友でありアドリーヌの父親であるシャトレ伯爵も真っ青な顔で城へ飛び込んできた。
同時に、王の元へ進言にやって来たルーカスも話し合いに加わる事になり。
加えて王は昨夜の夜会に居合わせた人間に話を聞き、デュボア男爵とミラも招集される事となった。
そして今。
非常に厳しい顔をした国王と、涙にくれる王妃という、非常に身の縮む思いのツーコンボを前にして、全員が沈痛な面持ちで怒れる王の姿を見ているところであった。
女官が昨夜の説明をしていたのだが、どうも自分たちに咎が無い様に説明する様子が見受けられた為、ルーカスが代わりに説明を引き受ける事になった。
アドリーヌ(エヴィ)を見失った後、すぐさま周囲を探したが見つけられなかったルーカスは、仕方なく大広間へ戻った。そしてすぐさま複数人に騒ぎの顛末を確認したのだった。
彼は離れた場所で社交をしていた為、騒ぎの殆どを目撃してはいない。見ていたなら止めていた事だろう。
複数人に聞いたのは、それぞれの主観で歪曲しない為に、客観的に判断する為である。
「……して、どうして女官と騎士は直ぐにアドリーヌを追わなかったのだ?」
騎士が口篭もりながら発言する。
「殿下に言い渡された内容が、非常に衝撃的な内容でしたので……落ち着いているように見えましたが、お気持ちを整えたいのかと思いまして、暫しお一人で過ごしていただいた方が良いかと……」
各所に衛兵が警備を固め、定期的に見回りもしている王城は、確かに国で一番安全な場所と言っても過言ではない。護衛という意味では看過出来ないものの、そっとしておいてやりたいという気持ちも解らなくはない。
その後姿が見えず緊急配備を敷くか、王に進言するかという意見も出たが、多分部屋へ戻っているのだろうという判断になったという。
部屋を確認し声が無かったがここでも泣いているのだろうという判断になったそうだ。
普段従順で大人しい彼女が、ひとりで王城の外へ出るとは誰も思わなかったのだろう。
今度は門番が口を開く。
「俺……いえ、私が裏門の番をしておりましたら、メイドのような恰好をした女性が『帰る途中なのだが落とし物があるのでどうすればいいだろう』と尋ねられまして」
そこで預かると申し出た事。
『帰る』と本人も言った為記帳して貰った事を正直に説明した。
「顔は見ていないのか?」
「チラッとしか……お名前はアドリーヌ・シャトレ……様と頂いております」
記帳も発言も綻びが無い事から、事実を言っているのであろうと思われた。
貴族や正式な招待客なら正門から出入りする筈で、裏門を通るのは平民の使用人が殆どだ。
一応顔は確認するが、王城には沢山の下働きの者がいる。長く務めている人間ならともかく、全員の顔を覚えていないというのが現状だろう。
門番が謂われない罪で処罰されないよう、ドレス一式と一緒に入っていた方の手紙には、『偶々居合わせて扉を開けて貰う事になる誰かを責めないで欲しい』と書き添えられていた。
確かに、まさか王子の婚約者が供もつけずに裏口から出て行こうとするなどとは思わないであろう。
社交界に出入りする人間なら知っていて当たり前でも、平民の彼が王子の婚約者の名を知らなくても、責められるべき事でもない。
「なぜそんな質素なドレスを……」
「誘拐された場合に、王家に迷惑が掛からないよう、正体がバレないよう対応するようにと言われている。そう言っておりましたよ」
ルーカスが責めるように言う。
「……どういう事だ?」
「アドリーヌは不……地味な顔立ちだから、そういう兆候がある時にはドレスを脱いで平民の服を着ていれば解らないという事だろう?」
嫌そうにクリストファーが説明した。
寝耳に水な発言に、王は思わず眉を顰める。
「それで、サイズが変わる度に……」
納得したような様子でシャトレ伯爵が頷く。
王が視線で確認すると、ちょっとだけ遠慮がちに言った。
「あの子が実家に戻って来る時に、時折質素な服を買いたいと言う事があって……それ以外はほとんど物をねだらない子なのでどうしたのかと聞いたのだが、身体を動かす時に使うのだと言って。てっきり個人の趣味で身体を動かす際に使うから支給されないのだろうと思っていたが」
「な……っ!」
王と王妃が絶句して女官を見る。
「その他はご不要とご判断されたのでしょう」
「使う暇もない位、忙しくさせていたのではないの?」
ルーカスが棘のある言葉と共に女官を見遣った。
多分この中で一番、彼女の不遇を感じていたのがルーカスだろう。
とは言え、他家の教育方針に口出し出来る筈もなく、手をこまねくだけで何も出来なかったのだから、結局は彼らと一緒なのであるが。
身の回りの物や学用品など、必要なものは事前に支給されている。
それ以外に必要なものは都度申請になるが、余程の物を頼まない限りは却下される事はない。
「大した物ではないのでそう聞いてからは、頼まれた時に買い与えていたが……」
やはり王家側へも何かが欲しいという発言はなく、気を利かせて渡した個人使いのアクセサリーどころかお小遣いも、全て手が付けられていなかった。
「それじゃあ、夜会でそんなにも酷い扱いを受けた上に、メイドに間違われる位に質素な服を着たのみで、本当に何も持たずに外へ出たというの……?」
王妃は涙声で言った。
王妃にはクリストファーと、もうひとり九歳になる王子がいる。
ふたりとも男の子である為、将来の義娘を可愛がっていたのであった。
……いたのであったが、やはり実の子どものようにはいかないのは言うまでもない。
未だ結婚していない為、あくまで『知人の娘』であり『息子の婚約者』である。
その上、貴族の……更には王家の子育ては沢山の人間が介入する事が当たり前であり、何処か距離があるのだ。他人ならなおさらであろう。
かなり幼少期に実家から離された為、実家とも何処か遠慮がちな関係だった事も察せられた。
てっきり実家に帰ったのかと思ったが、クリストファーの言いつけを守り、何も持たずにひとりで国外追放の沙汰に粛々と従った可能性が強いのかもしれない。
余り関わりのない実家に迷惑をかけないように、自分だけで対応しようとした可能性もある。
もしくは、実家に戻る途中で人攫いに攫われた可能性もある。
何せ王城から殆ど出た事が無いのだ。勉強ばかりしていて、人と関わる事も少ないように見えた。
そんな世間知らずな若い娘が、夜道を一人歩きしていたら……
その場の全員がそう考え、暗い表情になった。
そのきっかけを作ったクリストファー自身、本当にアドリーヌが一人着の身着のままで出て行くとは思っておらず、事の重大さに腹立たしい思いと戸惑いとが半々である。
「……アドリーヌ付きだった者達は暫く自宅で控えていてくれ。適正な対応が出来ていたのか周りに確認をしてから、それぞれの処遇を決めたい」
国王の言葉に、焦った女官が口を開くが、すぐさま侍従に止められた。
「陛下! 我々は王家を思って……」
「控えよ!!」
下がって行く女官と侍女、騎士たちを見ながら、自分付きの騎士に声をかける。
「緊急で捜索してくれ。もしかすると宿屋にいるかもしれないし、何処か休めるところにいるかもしれない。馬車で移動している可能性もある……」
何か言いかけて、口を噤んだ。
暫し待ったが王から続きが出なかった為、騎士が下がって行く。
「後ほど公爵家からも手伝いを出したい。終わり次第合流するので、話を聞かせて欲しい」
「承知いたしました」
ルーカスが騎士のひとりに声をかけてそう言うと、了承して頷いたのであった。
王はクリストファーに向き直ったが、すぐさま視線を手元へ落とした。
シャトレ家に送ったという手紙と婚約破棄の書類を手に取り、嘆かわしい事だと思った。
「……この書類に書かれた内容と、先ほどルーカスが説明した内容で相違ないか?」
「はい」
小さな声だが、はっきりと返事をした。
何故こんなに愚かに育ったのか……
誑かしたのか誑かされたのか解らないが、目の前で神妙な顔をしている少女と息子の顔を交互に見てはため息をついた。
「まず、シャトレ伯爵家とアドリーヌ嬢には本当に申し訳ない事をした。全力でアドリーヌ嬢を探すと約束しよう」
「……ご対応ありがとうございます」
とりあえずは王直々の謝罪に、受け入れざるを得ないという顔を見せた。
「正式に破棄するかしないかは、アドリーヌが戻った後にもう一度話をしよう……」
「いえ。破棄して下さって構いませぬ」
「シャトレ……」
そう言ったままシャトレ伯爵は口を噤んだ。
とんでもない事になっているらしい様子に、デュボア男爵は額の汗が止まらなかった。
どうも、自分の家の養女が王子とその婚約者の間に入り、略奪したらしいという事が解った。
(……なんて事をしてくれたんだ……!)
今後デュボア男爵家は、社交界で辛い立ち位置になる事だろう。
ただの婚約破棄で済めばまだしもだが、万一シャトレ伯爵家のご令嬢が儚く身罷ったりしたら……
「クリストファーには準備が出来次第、すぐ留学をして貰う」
「えっ!?」
クリストファーとミラは驚いたように声を発して、国王を見遣った。
王はアドリーヌが残した引き継ぎ書類を見て、ため息をつく。
王子の執務の殆どではないか……全部あの子にやらせていたというのか。
そう問えば、王子の侍従とアドリーヌの女官がしどろもどろに言ったのだった。
「王子はお勉強や鍛錬に忙しく、執務に時間を割けないようでして……ただ関係部署の締め切りもありますので、将来の妃であるアドリーヌ様にお手伝いを……」
確かに書類の手跡を確認すれば、アドリーヌの物で間違いがない事が確認出来た。
「デュボア男爵。そしてミラ嬢。
ミラ嬢へは猶予を。執務を覚えられたなら王子の帰国後、愛妾として迎え入れる。無理ならば王城への出入り禁止。その後の処遇は男爵家に任せる」
国王の言葉を聞いてクリストファーとミラが青ざめるが、デュボア男爵は別の意味で青ざめた。
「いえ……いえ! 今すぐ下がらせていただきたくっ!!」
「ならぬ」
――晒しものだ。
再度頼み込むが、国王は首を縦には振らなかった。
それ以上異議を唱えるのは不敬であり、デュボア男爵がどんなに受け入れ難くとも、受け入れるしかなかったのであった。
そこへクリストファーが割って入る。
「……そんなのは横暴です!」
「横暴? 孤立無援の婚約者を、大勢の人間の前で貶めたお前が言うのか?」
「結婚するのは私なのです!」
「王家の婚姻を何だと思っている? まして罪のない相手を……お前は馬鹿か!?」
「な……っ!」
「それに婚約破棄を私も王妃も了承などした覚えがない……それがどういう事を意味するのか、流石に知らぬ訳ではあるまい。これで済ますのは温情以外の何物でもないと思うが」
馬鹿と言われた事にもカッと来たが、見た事が無い程の父の怒りにもびっくりした。
思わず何も言えず口篭もったが、鋭く睨まれて終わりであった。
王妃は思い詰めたような顔をしていたが、小さく頷くしかなかった。
ここまでシャトレ伯爵家と王家に泥を塗るのならば仕方あるまい。
「第一王子クリストファーの立太子を取りやめ、第二王子を立太子する事とする」
「父上!!」
「こんなの酷いです!」
それまで黙っていたミラが、泣きながら反論をした。
父に手を引かれたが、振り払った。
「殿下も可哀想ですし、私たちただ愛し合っているだけなのに……!」
「可哀想?」
ミラに向かって首を傾げた。
「息子が何か言ったのかもしれんが、それでも君自身も、婚約者のある人間に対して失礼のないよう配慮するのは当たり前の事なのだよ?」
周りの人間が頷いたのを見て、ミラはたじろいだ。
「自分とアドリーヌの立場を入れ替えてみなさい。ただ愛し合っているのだから退けと言われて、大勢の前でこれみよがしに言い募られて。君は納得出来るのか?」
「…………」
「それに、だから愛妾として迎えて良いと許しているのに」
「そんな……」
「何処が可哀想なのか誰が可哀想なのか、言ってごらん」
「ミラ!」
声なき声で怒鳴られ、父の隣に座らせられた。
力なく頽れるように腰を下ろす。
「君はこの場合普通のご令嬢が下されるだろう、同じような処遇に甘んじて貰うか、大人しく執務を覚えて愛妾として支えるかしかないのだよ」
ミラはここで初めて、自分がした事がとんでもない事だったのだと思い至る。
多くの人にちやほやされ、王子に優しくされるばかりだった為、いつの間にか自分がその立場に取って代わっても問題ないと思ったが、王子の為だとすら思ったが勘違いだったのだ。
*************
王都にいるとばかり思っていたが、宿屋にも何処にもアドリーヌの姿はなかった。
公爵家の騎士とルーカスも捜索に加わり、街の関所などに緊急配備を敷いたが、全く効果がなかったのであった。
それはそうである。その日の夜に、アドリーヌことエヴィは王都を脱出しているのだから。
アドリーヌの女官や騎士たちは、その対応の状況によって処罰をされた。
職を辞した者、配置換えになった者、減給のみの者。
クリストファーは一週間という短い時間で、離れた国に強制留学となった。
ミラは逃げ出さないように見張りを付けられ、懸命に執務を覚えている。
あれだけの事をしてしまえば、彼女にまともな縁談は来ないであろう。
それはクリストファーについても同じであるが……
幾ら貴族の婚姻は家と家の結びつきとはいえ、自分の娘をあんな風に扱われる事を良しとする親はいないであろう。
あの夜会以来、誰もアドリーヌを見た者はいない。
王家と公爵家、伯爵家の懸命の捜索にも関わらず、有力な情報は何も上がって来なかったのである。
派手な見目ではない為、化粧を取り服が質素であれば、悪目立ちする事はない。闇夜に紛れ家路を急ぐ事もあり、隣を歩いている人の事など気にかけない人間が殆どだ。
せいぜい目敏い人間が、良家のお嬢様がお忍びでお出かけをしているのだろうという位にしか思わなかったのである。
日数が経てばそんな事も忘れてしまう位に希薄なものだった。
そして日数が経ち、攫われたのではないか、国外へ出されてしまったのではないかと噂された。
もっとはっきりした者達には、多分もう生きてはいないだろう……と囁かれていた。
王城に囚われてこき使われた挙句捨てられ、着の身着のまま国外追放の沙汰を守ったが為に、人攫いに攫われて殺されたか売り払われたかと噂された。
可哀想な伯爵令嬢の行方は、杳として知れなかった。