12.それぞれのその後・再び男爵令嬢ミラ
クリストファー王子との夢のような日々は瞬く間に過ぎた。
貴族としては慎ましいながら、孤児の頃に比べれば破格の生活。楽しい学園生活。上品な友人達。美しく心優しい恋人。
クリストファーからは、親に決められた婚約者がいると悲しそうに告げられた。
元々王子と男爵令嬢である。はなから結ばれるだなんて思ってもいなかったが、クリストファーは熱心になんとかするといってきかなかった。
その上、心の通わない冷たい婚約者に辟易していると。
相手も自分を愛してはいないと。
王族という役割を熟しながら、好きでもない相手と結婚せねばならないクリストファーをとても不憫に思えた。こんなに愛情深い人が、愛情の欠片もない政略結婚によって、唯一安らげるであろう家庭までもが冷たく孤立したものでしかないなんて、と。
相手の女性に対しても、もし義務感でのみその立場にいるのだとしたら、開放してあげた方が幸せなのではないかとも思ったのだった。
男爵家に引き取られたミラの周りには親切で優しいご令嬢が多かったが、極一部の高位貴族のご令嬢は、ミラを苦々しく思っている様子が見てとれた。
身分差で詰め寄られたら何も出来ないため、極力関わらないように気を付ける。
(きっと、彼女たちのように選民意識の塊のような方なのかもしれない……)
まるでミラを居ないものとして無視する彼女達に、話だけを聞く、まだ見ぬ『恋人の婚約者』を重ねていた。
学園にも殆ど通わず早期に卒業し、誰に会うこともなく王城の奥でひっそりと暮らす高位貴族のお姫様。
そして仲が深まるにつれ、ミラ自身もクリストファーを深く愛し始めていた。
(なぜ、本当に好きな人と結ばれてはいけないのかしら……)
王族という立場が大変ならば尚のこと、家族になる人間くらいは心を許せる人間であった方がよいだろうに。
マナーや必要な勉強なんて幾らだって学べばいいし、自分なら喜んで学んで見せるのに。
クリストファーとミラは、いつしかミラを王妃とすることを本当に夢見はじめていた。
……馬鹿なことをと今になれば思う。
だけど、全てが順調に進んでいるようにしか見れない日々に、もしかしたらという期待が混じってしまうのはあり得ないことだろうか?
「今度、城で夜会を開こうと思うんだ」
ある日クリストファーが囁くようにミラに耳打ちした。
「夜会ですか?」
王城での夜会。それはどれ程煌びやかで賑やかなものなのだろう。
お伽噺のような世界が頭の中に広がっては、ミラはうっとりした。
「そこで、婚約を破棄しようと思っている」
「……えっ?」
大きく波打つ心臓の鼓動を感じて、ミラは二の句を継げない。
「家と家の婚約なので、ただ解消したいというだけでは無理だろう。なのであいつが学園で好き勝手していたことをでっちあげる」
「……でっちあげるって、バレたら大変なことになるんじゃ……」
クリストファーは笑いながら首を横に振った。
「王城での夜会でみんなの前で言い詰められたら流石に動揺するだろう。そこをつけば大丈夫。王子が証言するんだ、みんなも私の言うことを信用するに決まっている。ましてや学園の中で、ミラや私、ごく一部の人間にしか解からないことを証明しようもない」
「そんな、簡単に行くかしら」
「あいつは通うのが面倒だから、何だかんだと理由をつけてさっさと自分勝手に卒業して、高位貴族の学生の本分である生徒達を見守るという役目を放り投げた。元々自分本位で勝手な奴なんだよ。教師たちを懐柔して、飛び級なんて嘘をついて……裏工作が得意な人間なのさ」
「勉強熱心なんじゃなくて? 小さい頃から頑張ってるって聞いたわ……」
「いや、ただただ役目を遂行しているだけさ。私たちの間に愛情なんてこれっぽっちもないんだよ」
渋るミラに、クリストファーは優しく笑いかける。
「学園でも優しくて優秀なミラが嘘をつくなんて誰も思わないよ。優しいミラに嘘をつかせるなんて可哀想だけど、話を合わせてくれるだけでいい。それで婚約は破棄されて、ミラも私も、アドリーヌだって幸せになるんだよ?」
「アドリーヌ様も……?」
そんなことがあるのだろうか。
王子様のお相手は、貴族女性の夢ではないのだろうか。
「あいつだって私と結婚なんてしたくないんだ。ここを出て家に帰って、清々するだろうさ」
「結婚したくない……?」
「うん。嫌々王宮にいるって、女官が言っていたよ」
大勢の前で話を進めてしまえば、納得せざるを得ないというのがクリストファーの弁であった。確かに、偉い貴族たちの前で大きく揉めたなら、お互い溝が大きくなって結婚は無理だと周りも思うだろう。矜持が傷つけられて、伯爵家から婚約解消のお願いをしてくるかもしれない。王様が乗り気な婚約らしいけど、流石に了承せざるを得ないのではないだろうか――
「そんなことをして、クリストファー様が叱られたりはしない?」
クリストファーは不安げに揺れる瞳のミラを抱きしめた。
「私を心配してくれるの? ありがとう。でも大丈夫だよ。私はこの国の王太子だからね」
学園の卒業と同時に立太子することが決まっているときく。
未来の王――国のかけがえのない存在だということだ。
「……話がまとまったら、でっちあげる内容は勘違いだったって言えるかしら」
「アドリーヌのことも心配してあげているの? ミラは本当に優しいね……」
そっと細い肩を抱きしめると、右手でそっとミラの髪を梳く。
さも愛おしいと言わんばかりに、優しく。
そして夜会当日。
沢山の貴族の前で嘘の断罪と婚約破棄の言い渡しが始まったのであった。
アドリーヌは想像よりもずっと綺麗な人だった。
華美過ぎない品の良いドレスに身を包み、亜麻色の髪と碧色の瞳が印象的な、穏やかそうで清楚なご令嬢だとミラは思った。
いきなり冤罪を突き付けられ驚いていたようだったが、すぐ何かに納得したような様子だった。
動揺するどころか次々にクリストファー達の暴論を論破して行き、その上で婚約破棄を了承して。あっという間に書類を作ると、会場を収めて去って行ってしまった。
婚約が嫌だったのは本当だったのだろう。ミラを労い祝いを述べた時の晴れやかな顔は、確かに本心からのものにしか見えなかったのだから。
ただ、結果はクリストファーが描いていたものとは全く違う様相を見せた。
まずミラはこっぴどく男爵と夫人に叱られた。下手をすると男爵家に連なる者全員が処刑されかねないと言われ、驚愕する。
(処刑!? どういうこと?)
叩かれた左頬の痛みが消し飛ぶくらいの衝撃がミラを襲う。
床に倒れ込んだまま、強張った表情で男爵を見上げる。
「で、でも! クリストファー様は王太子だから自分が言えば大丈夫だって……」
「ものには限度があるだろう! そんな事も解らないのか!」
「両陛下も了承しているなんて……伯爵家に泥を塗るだけでなく、王家を謀ったのだもの。殿下だってただでは済まないはず」
「……そんな……」
謀ったという言葉が衝撃的過ぎて、喉がひりついて声が出ない。
とんでもないことになってしまった。
確かに微妙な引っ掛かりはあった。そんなに簡単に行くのだろうかという疑問も懸念もあったのに。
貴族の婚姻は平民のそれとは違う、いわば『契約』であるとのことであった。
そしてたとえ親子であっても、国王に対して嘘偽りを述べることは許されないことなのだという。
公衆の面前というのも良くなかったのだ。
もっとプライベートな空間なのだったら、お叱りで済ませられるかもしれないとしても。冗談では済ませられないように、王子が、自分たちがしてしまったのだ。
「よりによって、なぜそんな嘘を客人のいる夜会で言ったんだ……!」
取り乱すように頭を掻きむしる父親を瞳に映して、ミラは今まで感じたことがない程に深い絶望を感じていた。
(もっと、ちゃんと聞いて考えるべきだったんだわ……)
事態の収拾などという生易しい状況ではなくなった現状に、ただただ悔やむことしかできない。
クリストファーが言ったような簡単な話ではなく、アドリーヌや周りに納得させるためについて出た言葉の数々は謀り事となり、ふたりは厳しく追及されたのであった。
命までは取られなかったものの、クリストファーは立太子の権利を剥奪。ミラとの接触を避けるために離宮に閉じ込められ、一週間後外国に留学という形で一度も会えぬまま旅立って行った。
ミラは王城の一室に部屋を与えられ、公妾となるべく教育を受けることとなった。
男爵家にいた頃よりも、格段に良い待遇は公妾の待遇だという。学び始めたばかりで何の役にも立っていないというのに、きちんとその身を遇しているということに他ならない。
だが実は、一日中監視されているのと同じとすぐさま悟ることとなる。
朝起きてから眠るまで、様々な学びでびっしりと埋め尽くされていた。礼節、外国語、歴史に芸術に始まり、会話に至るまですべて。それと同時に執務の厚みのある手引書が数冊。
(これを、あの方はひとりで熟していたのね……)
クリストファーの婚約者であったアドリーヌに同情的な人は多かった。婚約破棄からの行方不明というセンセーショナルな現状から余計そうさせているのかもしれないが、確かに可哀想な話であろうと思う。
彼女が赤ん坊の頃から王城に暮らし、彼女を良く思わない女官の手で厳しく教育され、クリストファーが執務をさぼる為に執務の大半を請け負っていたことを聞かされた。
「私たちが楽しくお茶を飲んでいる間、アドリーヌ様は執務をこなしていらしたのね」
「…………。実は気晴らしに散歩に出られた際に、おふたりのお姿を拝見することも多々ございました。アドリーヌ様はおふたりにご配慮されて、道を変えてお戻りになることも多うございました」
自分達侍女にもよく労いの言葉をかけ、優しい方だったと顔を伏せた。
クリストファーに着の身着のまま出ていけと言われ、王室から支給されていたもの全てを置いて、夕闇の街に独り消えたのだという。
誰もがてっきり実家に帰ったのだと信じて疑わなかったが、言いつけ通り国外追放の沙汰を吞んだのだろうということが噂された。
ミラも初めは信じられず、なんて浅はかなお姫様なのだろうと思ったが……
(アドリーヌ様にとって、実家も王城も『孤児院』と同じなのだとしたら?)
多分、そうなのだ。
実際に折檻することなどなくても、言葉や態度で、傷つけ続ける。
(ああ、私もクリストファー様も、なんと愚かなことをしてしまったのだろう!)
今考えれば、自分こそが浅はかだったと解かる。
厳しい学びと息苦しい暮らしも相まって、ミラの心はどんどん追い詰められていく。
女官も侍女も、本心はどうあれミラを『未来の公妾』として丁重に扱ってくれたが、それが余計に辛かった。いっそ『全てお前のせいなのだ』と罵ってくれた方が、どれだけ楽なことだろう。
気晴らしに庭を散策に出ると、貴婦人たちの話し声が聞こえて来た。
顔を合わせ難く、薔薇の茂みの陰にそっと隠れる。彼女達が去るのを静かに待っているが、一向に立ち去ろうとしない。
「いまだアドリーヌ様の行方は知れないのでしょう?」
「そうらしいですわ……多分、もう、生きていらっしゃらないのではないかってお話ですわね」
「……まさか、ご自分で?」
貴婦人は扇で口を隠すと、首を横に振った。
「賢い方ではありましたけど、外の世界を知らない方でしたでしょう? 夜道で人攫いに攫われ奴隷として売られたか、もしくは……」
「ご令嬢が奴隷となったなら、生きてはいられませんでしょうね……お労しいわ」
「まあ、確実なことではなくあくまでも噂ですが……」
(奴隷……)
ミラの口から小さな声にもならない空気が零れた。
嘆くような貴婦人たちに背を向け、ミラは項垂れてふらふらと歩みを進める。
同じように視線を下げた護衛騎士と侍女が続く。
数日後、ミラは国王に謁見を願い出た。
「もう音を上げるのか?」
「面目次第もございません……毒を煽る覚悟でおります」
王の大きな怒りを買えば死罪もあり得ると聞いた。幽閉や禁錮、国外追放も。
「君を罰してどうにかなるとでも?」
静かに問う国王の顔を見ることが出来ず、更に頭を垂れた。
間違っていたから許してほしいなんて、どの口が言えるのだろう。
『愛してるから』なんて気持ちだけで動いてはいけなかったのだ。
沢山の人の人生や命までもがかかわってしまうなんて、慮ることが出来なかった。
「君を信じて留学しているクリストファーはどうするんだい?」
「私の身には過ぎたことでございました。大変申し訳なく思っております」
「…………」
「取り返しのつかないことではございますが、クリストファー殿下の愛妾にというご厚情を辞退させていただきたく存じます」
「……勝手なものだな……」
「申し訳ございません」
当然だと言わんばかりの様子で頭を垂れる。
心底後悔しているのだろう、二か月前の食って掛かる姿からは想像もできない程に萎れた姿であった。
また、多くを学び努力もしたのであろう。所作に言葉遣いに令嬢らしさが感じられることを王は認めた。
「王城を辞するのであれば、今後クリストファーに会うことは出来ない」
「はい。承知しております」
(自分達はしてしまったことに責任を取らなくてはならない……)
自分達だけが幸せになることに躊躇があった。
……それに、このまま甘んじてふたりが添い遂げたとして幸せになんてなれるのだろうかという疑問が尽きない。
国王と王妃からの信頼を得ることはないであろうし、高位貴族たちからは白い目で見られ続けられるであろう。
クリストファーを愛していない訳ではないが、新しい事実を知る度に、気持ちに自信が持てなくなってもいた。
(心が通わないのは当たり前だわ……自分の婚約者を蔑ろにして、あんなにも軽んじていたなんて)
誰だって心が折れるだろう。
努力家なアドリーヌはきっと何度も彼に歩み寄り、それが叶わないと都度心に刻むうちに、クリストファーとの関係を諦めたに違いないと思った。
見本として見せて貰った執務の手跡の量は、誇張でもなんでもなくクリストファーの数倍の量だった。
(こんなに努力していた婚約者を? どうしてなのか?)
『劣等感だよ。自分より上に立つ人間が疎ましいのさ』
公爵令息であるルーカスが、吐き捨てるようにいったのを聞いたのはいつだったか。
(人間はみんな、誰にでも優しい訳じゃないけど……)
ミラには心底優しかったクリストファーの顔が思い出せない。思い出しても違う人のように感じてしまう。
――本当に彼は優しかったのかと思い、背筋が寒くなる。
自分は間違えたのかもしれない。勘違いしたのかも……そしてそのために、懸命に努力していた人を傷つけてしまったのかもしれないと思い、心が張り裂けそうになる。
「君はまだ若い。してしまったことは変えることは出来ないが、悔い改めることは出来るだろう」
「ありがたく存じます……しかと肝に銘じます」
ミラは、深く深く頭を垂れた。
王城を出て、馬車に揺られる。
当たり前のように男爵家を出ることになり、地方の小さな修道院へ入ることとなった。
クリストファー王子へは『至らずごめんなさい』とだけ書いた手紙を国王へ託した。自分の意志で王城を出たという証ということであった。
貴族でなくなったミラは、今後祈りながら生きて行く。
(どうか、無事に生きていてくださいますように……!)
クリストファーがそれを知るのは、もう少し後のことである。




