12.それぞれのその後・とある女官
王太子妃候補の教育係に任命された時は、耳を疑った。
高貴な身分ともなれば生まれた時から婚約者が決まっていることはままあるものだが、よもや我が国の王太子のお相手が、伯爵令嬢だなどと。
女官として信頼も実績も重ねつつある自分に、本家筋である侯爵が王子よりも三歳年上の彼の娘を両陛下に御目通りさせたいのだと言って来た矢先のことであった。
「お畏れながら。差し出口かとは存じますが……シャトレ伯爵令嬢を含めた上で、幾人かのご令嬢を『候補』となさった方が宜しいのではありませんか?」
婚姻に身分や序列の明確な法律があるわけではない。
とはいえ、慣習のような常識のような暗黙のルールは存在する。
伯爵家からのお輿入れはかなり珍しい部類に入ることだろう。
……国王の言葉に表立って反対は出来ないものの、極常識的な提案を行い、懸念を示すくらいなら問題ないであろう。
「それだと却って色々、軋轢が生まれるからね」
あらかじめ反論は織り込み済みなのであろう。含みを持たせるようにゆっくりと告げる国王に、女官はどういったものかと考えを巡らせた。
そんな雰囲気を察したのか王はにこやかに、だけれど釘を刺すように続ける。
「彼の家は伯爵家とはいえ、王家の血も入っている名家だ。特に家柄が劣っているとは思わないよ」
それに、と。
「私はね、そもそも君と議論するつもりはないのだよ。シャトレ伯爵令嬢の教育係に任命したいのだが、君が役目を引き受けるのか否か、それが聞きたいのだ」
善い臣下とはときに主を諌めることができる者と言われるが、基本、上位者に尋ねられれば諾と応えるのが道理である。
まして相手はこの国の王だ。自分はしがない女官の一人。未来の国母の教育係に任命していただけるなど、誉れ以外の何物でもないだろう。
第一、『やれ』と否応なしに命じられても文句は言えないのに、希望を聞いて頂けるのは充分過ぎる程こちらに配慮しているといえる。
もっとも、否と言った場合、今後の仕事や配置換えにどの様な影響が及ぶかは想像に難くないのだが。
「……謹んで拝命させていただきます」
女官は表情を出さないように注意しながら深く礼を取った。
……が、きちんと取り繕えているのか自信を持てない。一体自分はどんな顔をしているのか。
そう心の中で呟きながら、気づかれないよう口の内側を強く嚙んだ。
そうして部屋やら侍女やらを手配して暫くした頃。
授乳期を終えたシャトレ伯爵令嬢こと、アドリーヌが王城にて暮らすことになった。
実母である伯爵夫人からひったくるように取り上げたが、夫人は諦めたような顔で丁寧に娘を宜しくと挨拶すると、一瞬だけ何か言いたげに自分の娘をみつめては項垂れた。
一方のアドリーヌは泣きもせずじっと周りの人間の顔を見たまま、静かに抱かれたままであった。
元々貴族の子どもは、乳母に世話をされることが大半である。
時代が変わり自ら子育てをしたり、子どもの成育に多く関わる貴族が増えたものの、伝統を重んじる家や親世代が力の強い家などはまだまだ他者の手によって子育てされると言ってよい。
そして身分が高くなれば高くなるほど、他者の手が多数入る。
国王がそれほど抵抗なく王城で暮らせばよいと言ったのも、別段両親からアドリーヌを取り上げるつもりで言ったわけではなく、そういう背景もあるのだ。王にとっては親以外の人間と過ごすことは、別段特別なことではないのである。
ただ、初めからそういうものであると沁みついていることと、他者から無理やり取り上げられるのでは、気分も勝手も違うというだけで。
アドリーヌは非常に育てやすい子どもであった。
幼いながら、勝手が違うことに暫く不思議そうにしていたものの、幼い彼女は泣きわめくこともなければよく食べてよく眠った。
鈍感な子どもなのだろうかと思ったが、すぐに反対だということに気が付く。
少し大きくなって会話が可能になれば、説明すればキチンと納得して行動できる子どもだったのだ。礼儀正しく、思いやりにも満ちている。
ある意味、子どもらしい子どもとして侍女たちを困らせる王子よりもずっと賢かった。
見目も派手さはなく目に見えて華やかではないものの、清楚で気品ある姿に育つであろうことがうかがえた。
世話をする侍女たちは口々にアドリーヌを褒めていたが、家門から何かしらの頼みごとをされている者たちは渋い顔を隠せなかった。賢い人間はこちらの考えを見抜くうえ、誘導されるのをよしとしない。
出来過ぎると、可愛らしさが欠落して感じるものだ。
出来なかったらそこを追及されて面倒な為、アドリーヌはアドリーヌで必死なのであるが、厳しい対応にも腐らず努力する姿はこれ見よがしに感じられてイライラする上、自分達の至らなさや心根の暗い部分を突き付けられるようで腹立たしく、まるっきりの悪循環であった。
『伯爵令嬢なのに』王子の婚約者に収まった、王城で王女のように教育される、将来王妃の座につく子ども。
『教育の賜物』なのか、王子以上に賢く育つ伯爵令嬢。
『冷たく接しているのを感じている筈なのに』こちらを思いやり、決して文句を言わない女の子。
『悪口を言われているのを聞いている筈なのに』ちっとも泣かない、折れないのはなぜなのか。
大層大人気ないと自嘲しながらも、見えない棘で傷つけることを止めることが出来ないのはなぜか。
情が移るどころか、憎々しさが増して感じるのはなぜなのか――
「アドリーヌ様。あなた様は伯爵令嬢なのですから、マナーくらいちゃんとなさいませ」
遥か頭上から冷たく見下ろす瞳と氷のような表情の女官を見て、いまだ幼児であるアドリーヌは小さく息を吞んだ。
「……申し訳ございません。次からは気をつけます」
幼いながら、表情を曇らせれば再び叱責が浴びせられることを知ってしまっているアドリーヌは、反発的な表情にも困り過ぎた表情にもならないようにと心砕きながら女官に頭を下げる。
文句の付けられないことに苛立ちながら、女官はアドリーヌを見つめた。
同じ伯爵令嬢であるのに。特別綺麗なわけでもないのに。
同じ時代に生まれていたのなら――
愚にもつかないことを考えて、女官は自らの感情にハッとする。
年甲斐もないそんな考えに恥じ入りながらも、より心は黒く焦げ付くようにチリチリと痛みを訴えるのを黙認する事しか出来なかった。
嫉妬。
これは嫉妬だ。
気づいてしまえば、もう止めることは出来ない。
意識すればする程、存在は大きくなっていくものだ。
自嘲と羨望とやっかみと、色々な感情が混ぜこぜになってしまっている心を押しつぶそうとするように、強く拳を握りしめた。
****************
もしこれが物語なのだとしたら、自分はさも酷い悪役に違いないであろうと思う。
周囲の悪意にもめげず、努力を続け、自らを磨き続ける伯爵令嬢はきっと主人公に違いない。
出来ないと言わせてやろうと厳しくしても、音を上げずに熟してしまうアドリーヌ。
それどころか予想以上の成果をもたらすアドリーヌ。
女官の導きと教育の賜物だと、王家からも周囲の貴族からも賞賛を受けるが。
意地悪をすればする程課題を積めば積む程、折れるどころか相手が輝き、その光で自分も輝く。
なんという皮肉なのか。
評価と地位が上がる代わりに、プライドは傷つけられるばかりだ。
自分も、これが物語なのなら素直にアドリーヌを応援することだろう。可哀想だと涙するかもしれない。
(だけど、これは現実)
悪役である自分を、悪い奴だなんて本心から言える人間がどのくらいいることか。
お涙頂戴の物語を見て涙する人間が、実際に虐められる人間を見て見ぬふりするなんてことは珍しくはない。
それどころか一緒になって笑いものにする人間のいかに多いことか。
どんなに綺麗ぶったところで、結局人間にはそういうところがあるものだ。
(関わって痛い目を見たくはないし、自分より下の人間を作って安心したいもの)
王城は閉鎖的な空間だ。
外の敵から安全に護られる反面、中の危険は外に見え難い。
物事には良い面と悪い面が必ず存在する。
****************
王城の大広間で、第一王子主催の夜会が開かれた。
ほんの初めに顔を見せただけで、国王、王妃両陛下はすぐさま下がって行った。
余計な口出しをしない為だ。経過と結果は後ほど侍従や女官に訊ねるのであろう。
会の殆どを差配したのはアドリーヌと、第一王子付きの女官や侍従などであるが、アドリーヌは自分はかかわっていないとし、王子殿下を持ち上げる為に一度下がってから再び会場入りした。
本来婚約者を伴って会場に入る筈なのに、殿下はお気に入りだという男爵令嬢を伴って入場した。ざわつく会場。
通常ならあり得ない対応であるが、元々王子は自由過ぎるところがある。そのうえ王家が絶対的な権力を持っているので、貴族達は陰口を叩くだけで何をどう出来る訳でもない。
常識を知らない王子と陰で笑って流されるだけだ。
(だが、男爵令嬢はいただけないわ……後ほど殿下付きの女官に、どうにかしろと言わなければ)
愛妾にするつもりなのかどうなのか知らないが、外聞が悪すぎるだろう。
身の程知らずな男爵令嬢が助長しない内に、事を穏便に片づけるべきだろう。そう思いながらアドリーヌを探した。
小さく給仕に指示を出していた彼女が、騒めきに振り返る。
微かに驚いたような顔をしたが、すぐさま取り繕って王子殿下へ向きなおり、礼を執った。
(ざまあみろ!)
女官は険しい顔のクリストファー王子を見てから、頭を垂れるアドリーヌに視線を移す。
ざまあみろと再び心の中で繰り返して、自分の顔も嗤うように歪んでいることに気づくが、なんだというのか。それよりも、
(あの伯爵令嬢は、どんな顔をしているのだろう?)
哀しいか、悔しいか。それとも怒りか。
そう思って上げた顔を見れば、いつもの如く取りすましてクリストファー王子に顔を向けていた。
やや鼻白んでは、ふたりのやり取りを観察する。
本来ならば止めるべきであろうが、成人した王族に否を差し込むことが果たして良いのか悪いのか――王子が激高している様子を見て、自分に累が及ぶことを懸念し全員が様子を見守ることにしているようであった。
クリストファー王子の口から発せられた『婚約破棄』という言葉に思わず耳を疑った。
未来の王妃になるべく時間をかけて育てられた伯爵令嬢と、ついこの間まで市井で暮らしていた男爵令嬢とをとって替えようというのか。
(正気の沙汰とは思えない)
何を愚かなことを言っているのか。
思わずクリストファー王子と男爵令嬢を交互に見遣る。
全く現実味のない発言に、いつもの『お戯れ』で流せばよいと息を吐いた。
そして。
(……どうなの、こんな大勢の前で泥を塗られる気分は?)
自分の婚約者から、夜会の、大勢の人間の前での婚約破棄。矜持も体面も面目もボロボロであろう。
更には未来の王妃という立場を、男爵令嬢ごときに追い落とされようというのだ。
流石にあの伯爵令嬢も涙するに違いない。この衆目の前で、身も世もなく無様に泣き縋り、喚くがいい。そう期待して見れば。
(……笑っている……?)
強がりなのか。
泣いて詫びるでも縋るでも、ましてやいつものように失言する王子を言い含めるでもなく、ほのかに微笑みを湛えていた。
「わたくしはおふたりが仰ったような事は一ミリたりとも致しておりませんし、出来ませんが。殿下のお言葉をしかと重く受け止めまして、婚約破棄をお受けいたしますわ」
意気揚々といった様子でそう言うと、いつも持っている古いカバンから紙とペンを取り出すと、サラサラと必要な書類をしたためだした。
「アドリーヌ様……!」
足早に近づいた女官の口から非難するような声が出る。
(王子が愚かなことを言ったのなら、取りなし、諫め、取り繕うのがお前の役目だろうに!)
頭だけは良いらしいアドリーヌは、執務という点では多少使いようのある娘かと思っていたのに。
揃いも揃って愚かなことを言い出すふたりに心の中で舌打ちする。同時に怒りと驚きで音をたてるかのように血が下がって行くのを感じる程だった。
諌めてもたしなめても、アドリーヌは平然と言い訳を繰り出すと、あっという間に書類を作成し、クリストファー王子に署名をさせ、会場にいる人々に知らしめた。
王子の暴走だとわかっている癖に、素知らぬふりで何度もそれは事実かと確認する。
責任の所在を明確にする為だ。
侍従が意を決して王子に首を振るが、知らぬふりをしているのか、そもそも目に入っていないのか……
(意地っ張りで物事を深く考えないクリストファー王子が、これほどの衆目を集めた状態で否と言える訳がないことを知っているだろうに!)
諭しても諭しても、ちっとも慮る様子を見せないアドリーヌに、声を荒げそうになるが、沢山の目がある為に懸命に押し止める。
「それに王家の方々……殿下の仰ることは絶対だと皆様、言っていたではございませんの。ですから、この事も正式な王家からのお言葉として、わたくしが粛々と受け入れるのは至極当然のことではございませんの?」
そう言いながら小首をかしげた。
「ですので、両陛下もご納得されているのでしたら、おふたりを祝福いたしますわ」
どよめく会場。
段々と大きくなる騒ぎに、端の方で社交をしていた人々も気づいたようで、揃って視線を向けて来た。
「美しいご令嬢に替わって宜しゅうございましたわね? 王太子妃候補の再教育になりますが、どうぞ丁寧に教えてあげて下さいませ」
女官たちにそう言うと、丁寧にその場の人々に頭を下げ、アドリーヌは会場を後にした。
途中クリストファー王子が、アドリーヌの背に厳しい言葉を投げつけた。
(まさか。ここまで自信満々に言うということは、陛下は本当にお許しになったのかしら……?)
アドリーヌのことなどどうとでもなるので、後回しで構わない。虚勢を張ってやけに落ち着いた様子でいるが、伯爵令嬢の矜持であろう。
王城の中以外で生きる術もなければ、何も知らない籠の中の鳥と同じだ。
(せいぜい隠れて泣けばいい)
それよりも、今は本当のことを確認しなくては。
会場を走るように進むルーカスを瞳の端に捕らえながら、女官は背を伸ばして王子と、その腕に手を絡ませた男爵令嬢の方へと歩みを進めた。
女官の想像とは裏腹に、ことは大きく動いた。
泣くことしか出来ないと思っていたアドリーヌは、なんと単身王城を抜け出したのだった。周到に用意していたのか、まるで仕組まれたかのように全てが綺麗に取り揃えられていた。
****************
クリストファー王子付きの者とアドリーヌ付きの者が丁寧な聞き取り調査を受け、その対応や立場上のあれこれを加味して部署の移動や罰則が決められた。
アドリーヌ付きの女官の大半が退職することとなった。
女官にとってはとんだとばっちりであるが、少しでも心証が良くなるようにと、国王と王妃へお詫びと挨拶に訪れた。
「大変申し訳ございませんでした」
「…………」
「殿下をお諫めするでもなく、御招待客の皆様に取りなすでもなく、勝手に出て行ってみんなに迷惑をかけるなどと……私の教育の手落ちでございます。アドリーヌ様に代わりましてお詫び申し上げます」
女官は低く頭を下げるとそう言った。
やはりクリストファー王子は陛下方に了承など取ってはおらず、大変な騒ぎとなった。
そして腹を立てたのか、勝手に出て行ったアドリーヌは行方不明になっていた。
(当たり前だわ、良家の令嬢が夜に一人で出歩くなど。考えずともどうなるか解るでしょうに、愚かね)
何度も何度も取り調べのように聞き取りを受け、白い目で見られ。踏んだり蹴ったりである。
(きっと人攫いに攫われて売り飛ばされているか、身を穢されているかでしょうね)
もう命すらないかもしれないと思って、ちょっと憐れんでいたが。
このようにあの娘のせいで厳しい立場に立たせられているかと思うと、いい気味だと思ってしまうのは仕方がないであろう。
「…………。そなたは、何を言っている?」
国王が信じられないような何かを見る表情で女官を見た。
「……? 王家に忠誠を誓うべき身でありながら、勝手をするようにしか育たず……いろいろ配慮はしたのですが、元々曲がった心根まではどんなに頑張って躾けようともどうにも出来なかったようです。力不足で申し訳ございませんでした」
王妃は絶句して、気味が悪いものを見るように眉を顰めると、こんな人間に育てさせてしまったのかと、堪えきれずに俯いて顔を両手で覆ったのであった。
(以前は仕事ぶりが優秀で真面目な、王家にも強い忠誠心を持つ良い臣下だと思っていたが……)
「そなたは、領地でゆっくり静養でもするといい……」
歪んでいる。
怒鳴りつけてやりたいが、選んだのも見抜けなかったのも自分達の責任だ。
多分なにを言ったところで無駄と悟った国王は、何度も首を振った。両主君の嘆いたような表情を見て申し訳なく思いながら、女官は丁寧に礼を執り部屋を出る。
そして。話を聞きつけた夫には励まされるどころか離縁を言い渡された。舅と姑には、悪魔のような人間だと罵られた。
行くところのない元女官は仕方なく実家へ帰るが、励まされるでも労われるでもなく父には叱られ母には泣かれ、家督を継いでいた兄には大層嘆かれた。
そして今。女官はひとり馬車に揺られていた。
領地へ行く為ではない。嫁ぎ先からは離縁され、実家には勘当同然のように扱われ、修道院に行く為に静かに座っていた。
(なぜだろう? あんな小娘のせいでこんな目に遭うなんて――王家に仕え、ずっと頑張って来たのに、自分が悪いように言われるなんて)
理不尽さに、悔しくて涙が滲んだ。
(……あの娘も、もしかしたらこんな気分だったのかしら。きっと、自分が悪いなんてこれっぽっちも思ってなかったのだろうし)
迷惑なことだ。なんて酷いのだろう。
(あんな娘に関わったせいで、私の人生はこんなことになってしまった!)
大きな声で罵ってやりたい。貴族女性として考えれば、夫になる人間を立て、家の為に尽くすべきだと解るだろうに。伯爵家とはいえ高位貴族でありながら、そんな矜持もないなんて。
だから、他のご令嬢も候補に入れれば良かったのだ。そう、国王に進言したのに――それ見たことか。そうしたら、殿下だって他の候補をお気に召したかもしれないのに。
「死んでしまったからまだ溜飲が下がるけど、本当に嫌な、迷惑なご令嬢ね」
女官は悔しそうにそう呟いた。
陽の光を遮るように、樹々の影が馬車の窓に映る。
その合間に見える青空を見ては、可哀想な自分の為に優しくハンカチで涙を押えた。