12.それぞれのその後・シャトレ伯爵
シャトレ伯爵は居なくなってしまった娘が生まれた時の事を思い出していた。
あれは初夏になろうかという頃の早朝。
季節雨が明ける前で、明け方から遠雷の音と強い雨が叩きつける。
初めての出産の為なかなか産まれず、妻は分娩に長時間苦しんでいた。暗雲たる空と光る稲光、轟く雷の音と屋敷に響く妻の苦しそうな声。
何も出来ない自分に頭を掻きむしりながら、若きシャトレ伯爵はただただ祈っていた――母子共に何事もなく無事に産まれますように――どのくらいの時が過ぎたのか、全てを引き裂くようにこだました嬰児の泣き声。
生まれて来た赤ん坊は女の子で、父譲りの碧色の瞳と、母から受け継いだ亜麻色の髪は、確かに両親ふたりの血のつながりを感じる姿であった。
親バカと言われるかもしれないが、派手さはないものの清楚で賢そうな顔を見て『アドリーヌ』と名づけた。
比較的産後が安定していた夫人とシャトレ伯爵が落ち着いた頃、伯爵の幼馴染である国王から内々に手紙が届いた。
――『シャトレ家息女のアドリーヌと、第一王子クリストファーの婚約を打診したい』と。
「これは……」
言葉に詰まる伯爵と、絶句して口を手で覆う夫人。暫し二人きりの部屋は沈黙した。
若き国王は常に疲弊している。足を引っ張ろうとする輩、気を許せない大臣たち、敵か味方かわからない臣下たち。
乳兄弟であり親友であり、裏を勘ぐることなく付き合えるシャトレ伯爵を近くにという考えが大きいのだろう。
まだ生まれたばかりの娘を婚約させるという事実に、伯爵も夫人も、正直気持ちがついて行かなかった。
「非常に、名誉なことなんだろうが……」
言葉が続かない。
名門と言えたかだか伯爵家。その伯爵家から王太子妃、ひいては未来の王妃が誕生するのだ。家だけでない。それこそ一族のことを考えれば、この上ない僥倖である。
夫人としても、未来の国母の生母なのだ。
本来なら喜ぶべき筈のそれらが、何だかとても重たく感じてしまうのはなぜなのか。
(……かといって、王家からの打診を断ることなど出来ないだろう)
子どもに不具合がないのであれば、喜んで受けるのが道理。断るのは王家の決定に否を突き付けるのと同義だろう。
貴族の、それも高貴な身分になればなるほど、幼い内に婚約が整うことは珍しくない。
特に令嬢であれば、なるべく早い内により良い家柄の令息と縁を繋ぐことが必須であると共に役目でもあり、また幸せであるともされている。
国王は親友である伯爵に、国一番の家柄の良い令息との縁を繋ぐようにと苦心してくれているとも言えるであろう。
伯爵も夫人も貴族として生まれ、育ち、それらを熟知している。
握りしめられたアドリーヌの小さな小さな手を見て、大き過ぎる未来を掴めるのかと、潰されやしないかと不安で堪らなかった。
伯爵は無理を承知で、国王に不安を吐露した。
……臣下としてではなく幼馴染として、伯爵家の令嬢が王妃というのはどうなのだろうかと『相談』したのだ。
王も幼馴染として接する事を承知したらしく、砕けた雰囲気で答える。
「うん……普通の伯爵家ならそうかもしれんが、名門シャトレ家であればそう問題でもないと思うが?」
「それは友人の欲目なのではないでしょうか」
「いや。過去に王女も降嫁している家柄だ。なんなら侯爵へ陞爵するか?」
まんざらでもない微笑みを浮かべる王に、一方のシャトレ伯爵は渋い顔をした。
当家が重用される身びいきだの取り入っただの、碌なことを言われないのが想像できてしまう。
「……それこそ周囲に何と言われるか。当家を想うならそんな無謀なことは止めていただきたい」
無謀かなぁ、と王はボヤいて首を傾げる。
「そんなに不安なら王城にアドリーヌの部屋を用意することにしよう。そして誰にも爵位がどうこうと言わせないくらい、淑女にふさわしい最高級の教育を施すと約束しよう。万一身を狙われたとしても、王城ほど厳重に守られている場所もないだろう」
「それはそうですが……」
焦っている、と思った。
目の下の隈と疲労の滲み出た表情の友を見れば言わずとも解かる。
反対勢力や中立派との折衝やら山ほどの執務。そして多大な重圧とに疲れ切っているのだ。それを熟してこそ王だとさも簡単に言われるが、熟す方の身としてはそう簡単にいかないのは言うまでもない。
そしていつだって付け込もうという人間はいるものの、一番多いのは即位したての一番余裕がない時期に足を掬ってやろうというのだ。慣れて様々に余裕が出来ては攪乱が難しくなるので当然と言えば当然なのだが、性質が悪い。
だから、せめて身近に信じられる人間を置きたいという気持ちが、シャトレ伯爵にも痛いほどに察せられてしまう。
そしてまた、自分自身も焦っている。
生まれたばかりの幼い娘を政の荒波に放り出してしまうことや、とても早くに自分達の手を離れてしまうことに。
そして、ここまで国王が熱望している状況を、臣下としても友としても貴族としても、覆すことは難しいと思ってもいた。
「そんな……」
伯爵夫人は夫から告げられた言葉に絶句した。
「家柄を出したのが却って不味かったようだ。誰にも文句を言われないよう、王城で王女と同じ教育を施すと言われた」
「勿論、断って下さったのですよね?」
「一応はな。だが、アドリーヌの身の安全を考えれば王城で警備した方が良いだろうと言われた」
あの後も、王城に部屋を賜ることは遠慮すると断った。
だが伯爵家の懸念を潰す為にも、王は頑なな程に配慮を口にした。
王は王で、自分がわがままを言っているだろうことも解っている。だからこそ親友の心配を少しでも解消したいと、懸念は全て解決したいと思っているのだ。
「とても、余計なお世話なんだとは言えなかったよ」
伯爵は妻の顔を見ることが出来ず、伏し目がちなまま俯いた。
それに、王家にそこまで配慮していただくことは有難がりこそすれ、表立って迷惑だなんていう貴族は何処にもいないであろう。
「貴族令嬢として、アドリーヌはすべき務めを果たさねばならない。それが多少早かっただけだ……」
元は侯爵令嬢である夫人も、それは充分に解っている。解り過ぎる程に。
何か言いかけた唇を引き結んで、夫へと伸ばした手を掴むことなくダラリと下げた。
アドリーヌは乳離れすると、早々に王城に移り住むこととなった。
何も判る筈のない赤ん坊のアドリーヌはキョトンとした顔で、これから育てられる女官と侍女に連れられて行く。辛抱強く人見知りもしないアドリーヌは、泣きもせずにじっと女官の顔を見ていた。
取り乱しはしないものの、涙を浮かべながら見送った夫人は帰りの馬車で『子どもが欲しい』と言った。自分達の手を離れてしまった以上、何をどうしたって戻ってはこないのだ。子であることも親であることも変わりはないが、その存在は余りにも遠い。
跡継ぎが必要であることは確かであるし、妻自身支えのような目標のような、そんな何かが必要なのだろうと伯爵は夫人を慮った。
願いが届いたのか、幸いにもすぐに懐妊することとなった。
夫人は自らのお腹に優しく語り掛け、出来る限り身体によいものを食し、最大限に配慮して生活をした。
そして無事、珠のような男の子が産まれた。
夫人はのめり込むように子育てに全力を傾けるようになる。
二人分、なのだろう。
優しく、時に厳しく。
そして伯爵夫人としても充分過ぎる程に家政を取り仕切り、社交を熟す。
いつしか夫人は、シャトレ家の賢夫人と呼ばれるようになったのであった。
王家へも夫へも、言いたいことを言う社交界の噂にも。一番は自分自身への意地だったのであろうと伯爵は思った。
いつしか、シャトレ伯爵家は夫妻と跡取り息子という家族の形で、穏やかに収まっていった。
血縁的には自らの子ではあるが、アドリーヌは未来の王妃であり王家の人間である。
喚こうが嘆こうが返される筈もなく、おいそれと会えないばかりか、国王に望まれて次の国王ともに国民を導き、支える人間になったのである。
いわば自分達の主なのだ。
遠い存在と言ったほうがいいだろうか。一緒に過ごす時間もなく、物理的にも離れているというのは、なるほど、肉親としての感覚も段々と薄くさせる効果があるらしい。
幸せでいて欲しいとは思うものの、自分達にどうこう出来る存在でも対象でもなく、敬う存在であり気遣う存在であり……
******
ある時から、アドリーヌが年に何度か帰宅することとなった。
実の親子で水入らずの時間をという王家の配慮らしいが。親子であって親子でないような微妙な関係に、気まずい時間が流れるだけだろうに。
「僕の、お姉様なのですか……?」
恐る恐るといった様子で姉であるアドリーヌに話し掛ける息子。
屋敷にいない、一度も一緒に暮らしたことがない人間が姉だと言われてもピンと来ないというのが本音であろう。それはアドリーヌも同じ筈だ。
姉は王子の妃になるべくお城で生活をしており、大切な御身なのでわがままを言ったり、怪我をさせたり煩わせてはいけないのだと言い聞かせられた幼い息子は、城から来た女官と姉を交互に見ては、首を縮こめて母の後ろに身体を隠した。
「アドリーヌ、お元気でいらっしゃいますか?」
「はい。皆様のおかげです」
「大きくなられましたね」
「はい。ありがとうございます」
上品に微笑むアドリーヌは、まるで公務の一環を熟すそれである。
それでも何度か過ごす内、一度だけ、どうして自分は王城で過ごしているのか、家で暮らす事は出来ないのか、また勉強が厳しく辛いという事を問うたことがあった。
かなり賢いと聞いていた為、下手に誤魔化したり隠すよりもきちんと説明した方が良いだろうと、王子のお父君である国王が望まれたことから始まる現状を説明した。
「……そうなのですね」
哀し気に顔を曇らせるアドリーヌを見て、父と母も困ったような表情で元気づけた。
「今は大変かと思いますが、きっと将来お役に立つかと思います。どうぞ頑張ってくださいませ」
「国王・王妃両陛下の言う事をよく聞いて、励まれますよう」
「……はい」
ああ、解決に動いてくださることはないのだなと悟ると、アドリーヌは心底がっかりした顔をして頷いたのであった。
両親も幼い娘に背負わせる責任に、心苦しく思いながらも、自分の力が及ばないことに苦々しい表情を隠せなかったのである。