第伍話:落日を見る月
バスに乗り込んですぐに眠気に襲われた私は眠りに落ち、何度か途中起こしてもらいながら乗り継ぎを繰り返していった。目的地である蛇ノ塚に近づけば近づく程乗客の姿が少なくなっていき、周囲の景色にも自然が増えてきていた。そしてとうとう目的地であるバス停に着いた頃にはバスに乗っている乗客は私達だけになっていた。
「行こう」
「う、うん」
乗車券と金を支払うとすぐに外へと出た。周囲を取り囲んでいるのは大自然ばかりであり、それらに守られるかの様に立っているダムの姿が遠くに見えた。ここからは交通手段が無いため徒歩で行くしかなく、車も滅多に通らない舗装路を二人で歩き始めた。
「ねぇ殺月さん」
「えっ……な、何?」
「殺月さんの不運っていつからなんだっけ?」
「えっと……覚えてるのだと、しょ、小学校3年の頃からかな?」
「そっか」
「う、うん……」
殺月さんは私がもっと何か返事を返すと思っていたらしく、何も返って来ない事に困惑している様に見えた。
何故それを聞いたのかというと自分に何か出来ないだろうかと考えたからである。元々殺月さんは私の監視対象だった。最初は本当にただ仕事で付き合いを作っただけだった。しかし一緒に友達として行動している内に少しずつ彼女の事が好きになっていった。もちろん今でも一番はアサちゃんだが、それでもお人好しな彼女にはどこか放っておけない不思議な魅力のある子だった。だから多少怪異などに対する知識を持っている私に何とか出来ないだろうかと思い話しかけた。
「……殺月さんはさ。その名前の事どう思ってるの?」
「ど、どうだろう……お父さん達が付けてくれたな、名前だから贅沢言っちゃ、駄目だと思うし……」
「もし、もしだけどさ、名前を変えたら不運を消せるって言ったら、やる?」
「……え?」
殺月さんは私の言葉を聞いて困惑していた。それも当然である。私は普段から怪異や呪いなどを相手にする仕事をしているが、一般人からすればそんなものはオカルトなのだ。あくまで創作上の存在でしかなく、本当にこの世に存在している訳ではないと普通であれば考える。名前を一つ変えるだけで運勢を変える事が出来るなどと言われても信じない人が大半だろう。
「ど、どうなのかな……た、確かにあたしは運良くないけど、でもあたしの家族は無事に済んでるし……もしかしたらなんだけど、不運をばら撒く代わりに身内は巻き込まれないみたいなアレなのかなって……」
彼女のその返答には驚いた。まさか彼女がそこまで自分の能力の真相に迫っているとは思っていなかったのだ。自身に不運を撒き散らす力がある事には気が付いていても、そのメカニズムにまで近付いているとは予想していなかった。
「多分それ正解だよ」
「え?」
「周りを不幸にして自分達の悪運を強める。本当にそういう呪術の類なんだと思うよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ日奉さん……そ、それじゃあ、それじゃあまるで……」
「お父さん達がわざと付けたみたいって?」
「……」
「わざと付けてるんだよ、あの二人は」
彼らがどこで名前を使った呪術を見つけてきたのかは分からないが、彼女に『真臥禧』なんて名前を付けている時点でまともではない。あのお守りの中に入っていた紙にも書いてあったが、『まがれ』というのは本来は『凶れ』と書く。つまり相手に対して「不幸になれ」と言っているのだ。自分の娘にそんな意味を孕んでいる名前を付けるというのは真っ当な親では絶対しない事だった。
このまま何も知らないまま過ごさせるのは可哀想だと感じた私は彼女に名前に関する真実を伝える事にした。かつての私であればわざわざこんな事はしなかっただろうが、今日が最後になるかもしれないと感じていたため全てを伝えた。ここまで手伝ってもらったお礼という意味もあった。
私が全てを伝え終えると殺月さんは立ち止まってしまった。彼女は両親が自分に対してそんな事をするとは思っていなかったのだろう。その気持ちは分かるが今ここで立ち止まると時間を無駄にしてしまうため、背中に手を当てて前に進む様に促した。
「殺月さん……気持ちは分かるけど今は歩いて」
「ぅ、うん……ごめん。あの、日奉さん……それって、本当なの?」
「本当だよ。友達だから言ってるの」
私は鞄の中に入れていたお守りを取り出すと、それを開けてあの紙片を見せた。
「これ、覚えてる?」
「あっそれ……もしかして……」
「うん。今はもう浄化してあるけど、これは悪意の塊。神聖な物を穢してより穢れを高める。そういう意図を持って作られた物なの」
「そ、そういう事だったんだ……あたしてっきり……」
殺月さんは恥ずかしそうに顔を赤らめて少し俯いた。
「てっきり何?」
「う、ううん! 何でもないよ! それでえっと……名前の事、なんだけど……」
「やっぱり変える?」
「か、変えない。今のままにしとくよ……」
「いいの? そのままにしたら親の思う壺だよ?」
「う、うん……」
何が彼女を縛っているのかが分からなかった。彼女にとってはそんなに親が怖い存在なのだろうか。親の目的のためなら自分の不運がこれから先続こうとも構わないというつもりだろうか。きっと私は今日で最後になる。もし私が居なくなれば彼女を救える人間は居なくなってしまうかもしれない。アサちゃんが一番大事なのは間違いないが、彼女の事もまた一人の友人として大事なのだ。出来る事なら幸せになって欲しい。それなのに彼女はそれを拒んでいる。いったい彼女は何を考えているのだろうか。
それからしばらく歩き続けた私達はようやくダムの入り口に辿り着いた。まだ明るいという事もあってか怪しまれる事なく観光に来た人間として普通に入れてもらえた。階段を上へ上へと上っていき一番上へと到着するとダムの中を覗き込んだ。
「行けそうだね……」
「ぅ、うん……」
殺月さんに買ってきてもらったダイビング用品を袋から取り出してフィンを付け始めると、殺月さんは意を決した様な顔をして大きな声を上げた。
「日奉さん!」
「びっくりした……どうしたの殺月さん」
「さ、さっき名前の事教えてくれたでしょ……?」
「うん」
「ほんとはあたしも不運は嫌なんだ……で、でもね……もしかしたら、今変えるのはまずいんじゃないかなって思うんだ……」
殺月さんの詳しい話を聞いてみると、彼女が先程名前を変えないといった理由は私のためなのだという。もし私の推理が正しいのであれば、彼女自身や両親などの強い繋がりがある人達は悪運が強くなる。彼女はそれを利用しようと考えているのだという。
「どういう意味? 利用するって……」
「ぅ……ご、ごめんなさいっ!」
そう声を上げた彼女は突然こちらに踏み込んできた。私と彼女の唇が触れていた。
あまりに予想外の動きをされて思わず止まってしまい、仕掛けてきた張本人はというと顔を真っ赤にしていた。
「殺月さん……今のは……」
「あ、あたしの不運がもし本当に! 身近な人には発生しないんだったら……い、い、今すぐそうなればいいかなって思ったの!」
つまり、私が身近な人間として不運の対象にはならない様にすれば上手くいくのではないかという考えだった。そのために彼女は私と唇を重ね、ただの友達という関係性を大きく越えようとしたのだ。この程度の事であの呪いの隙を突けるとは思っていなかったが、どうやら彼女としては本気で考えた方法らしかった。しかしそうであれば、何故もっと早くその事を伝えてくれなかったのだろうか。それこそさっき名前について話している時にでも話せば良かった筈である。わざわざここまで引っ張った理由とは何なのだろうか。
「殺月さん、言ってくれれば私……」
「……っ無理だって分かってるから!」
「え……?」
「ひ、日奉さんは妹さんの事が大好きで……あ、あたしは友達でしか居られなかった! 本当は友達って言ってくれて嬉しかったけどでもっ! ……それでもあたしは一番には……」
彼女の真っ赤になりながら必死に伝えるその姿を見てようやく理解した。私が彼女の身近な存在すれば不運から逃れられるというのはあくまで建前であって本筋ではなかったのだ。こんな言い方をするのは良くないのかもしれないが、彼女の本当の目的は私自身だったのだ。
「殺月さん」
「……!」
「ありがとう。今まで気付いてあげられなくてごめんね……」
「……い、いいの。気付かれない様にしてたから……」
殺月さんは私と特別な関係になりたかった。友人を越えた存在に。しかし私の心はアサちゃんへと向いていた。それは今でも変わらないし変えられない。どれだけ大切な友人から伝えられた真っ直ぐな思いだったとしても、それでもやはり私にとっての一番はあの子に変わりはない。しかし、このまま彼女の力に頼ったまま全てを終わらせるといのは私の性に合わなかった。彼女の思いに何とかして答えたかった。
私は鞄の中からいつも持ち歩いているメモ帳とペンを取り出すと、一枚の小さな手紙を書いた。それは私が持っている知識を全て盛り込んだ手紙だった。古代から続く神代文字であるヲシテによる祝詞をペンで小さく書き込み、それを全て終えるとペンとメモ帳ごと渡した。
「殺月さん、これから先、ずっとこれ持ってて」
「こ、これは……?」
「多分それを持っておけば不運の力を少しは抑え込めると思う。気休め程度にしかならないけど、これからもその名前で生きていくんなら持ってて損は無いと思うよ」
「あ、ありがとう……」
必要な物を渡し終えた私は少し恥ずかしい気持ちになり、その気持ちから逃れる様に潜水の準備を始めた。服はそのままにボンベを肩から体に巻き付け、全ての準備が整うと端へと立った。
これが彼女との最後のお別れになるかと思うと少し悲しさもあったが、下手に思い悩めば時間が無くなってしまうと考え、頭から余計な思いを振り切ろうとする。
飛び降りようとする私に殺月さんが声を掛ける。
「日奉さん! 本当に……こ、これでお別れなんだよね……?」
「そうだね……多分もう上がってはこれないと思う。本当にお別れになるかも」
「そ、そっか…………。じゃ、じゃあえっと……萌葱さん!」
「……」
「幸あれ!!」
それが私に彼女が言った最後の言葉だった。彼女の優しさに満ちたその言葉を聞いた私は一つだけ返事を返すと、手摺を乗り越えてダムの中へと身を投げた。
その中は思っていたよりも暗かった。今はまだ日が昇っている時間帯であるため、ある程度は見えているがそれでも地上と比べれば遥かに暗かった。
記憶を頼りに水中を泳ぎながら進んでいるとやがて目の前に山が見えてきた。いや正確にはかつて山だったものという言い方が正しいのだろうか。既に木々の姿はどこにもなく、その地面だけが辛うじて残っている様な有様だった。そしてそんな見るも無残な山こそが、アサちゃんが連れて行かれた最後の場所なのだ。
何か手掛かりになるものは無いだろうかと近寄ってみると意外な事にそれはすぐに見つかった。一ヶ所だけ岩場になっている部分があり、そこには小さな祠の様な物が立っていたのだ。あんな物が存在していた記憶は私には無いため、恐らくあれがアサちゃんの失踪に関係しているのではないかと直感した。
急いでそこまで泳いで行ってみると祠には石造りの扉がついており、隙間に指を引っ掛けて開けてみるとそこには一つの箱が入っていた。複雑な細工がされている様な箱であり、開けるには決まった順番で動かす必要があるらしかった。しかし私からすればこの程度のパズルはどうって事なかった。物に宿っている過去の記憶が読める私には一発で解ける様な代物だったのだ。
箱を手に取り、頭に引っ付けてみると映像が見えた。誰かがこの箱を開けている様子であり、その手の動きから逆算して開けるための動きを割り出す。そして記憶の中で箱が開くと映像は途切れたのだが、その際一瞬だけ人の持つ記憶の様なものが紛れてきた。しかもそれは本能的に自分に非常に近い存在によるものだと理解出来る様なものだった。
記憶を頼りに一つずつ細工を解いていき、いよいよ最後の一つを解いた時、箱の蓋がゆっくりと開いた。そこで私はようやく出会えたのだ。ずっと望んでいたあの子と。
「ごめんねアサちゃん……」
彼女は箱の中に納まってしまう大きさにされていた。この姿にされる時に痛くはなかっただろうか。苦しくはなかっただろうか。そんな考えばかりが頭の中を駆け巡る。
この姿にしなければならない儀式というのがいったい何なのかは最早私には分からなかったが、もうそんな事はどうでも良くなっていた。もしこれで何かまずいものが目覚めたとしても私には関係ない。この子を解放出来ればそれでいいのだから。
箱の中に納まっていたアサちゃんをそっと取り出すと目を瞑って水中用ゴーグルを取り外す。そして私とアサちゃんは久し振りにお互いの頭を引っ付けた。酸素を吸引するための道具も外す。
苦しくはなかった。アサちゃんから流れてくるのは懐かしい温かい記憶ばかりだった。昔一緒に遊んだ川の記憶、一緒に虫を捕った記憶、一緒になってうんうんと唸った勉強の記憶、どれもこれも全てが私のものと完全に一致する記憶だった。
体が沈み始める。意識が過去の中へと溶け始める。ようやくすべてが終わる時が来たのだ。これが最後なのだからもう一度だけ心の中で祈っておこう。『真臥禧さんに福来れ』。
「――ちゃん」
最後に見えたのは沈みゆく私を抱き締めてくれるかつてのあの子の姿だった。