第三話
高校一年生の頃。
「――ねぇ、見てよこれ」
そう言って佳子がスマホを見せてきたので、初美は画面を覗き込んだ。SNSアプリのタイムライン上で流行っている、いわゆる診断系サイトの画像だった。
「へぇ、面白そうだね」
「でしょー? で、これをタップすると……」
診断サイトのリンクへ飛んだが、一瞬だけ読み込まれたかと思うと、すぐに読み込みバーは消滅し、真っ白なブラウザの真ん中に灰色のメッセージが表示された。
――エラー:このページは不適切なサイトであるため制限されています〔詳細〕――
詳細ボタンをタップすると、設定画面へ飛び、このサイトがペアレントポリシー、親からの管理によって制限されているということが示される。
「マジでありえん」
「うわぁ……」
「前に私がこのサイトで遊んでいるのを親に見られてさ。それで粗探ししたら、エッチな診断の個人投稿が2・3件あったんだって」
スマホをスリープ状態にして教科書の上に置いた。
「そんなのどうせあれでしょ? SかMかの診断とか、そんな程度のやつじゃないの?」
「そう。けど、そんなの何の問題にもならない――って言っても、ウチの親、一旦ヒステリーなると全っ然、人の話聞かないからさ」
そんな愚痴が日常会話の基本だった。
佳子の母による束縛は、SNSといったわかりやすく批判されるものに留まらない。例えば、初美と佳子の二人でカラオケへ行こうという話が持ち上がったことがあった。しかし、佳子は両親に大反対された。赤の他人と二人きりなんて、とか、何だとか、そういった言葉のかけらはちらほら覚えていたが、流れが支離滅裂すぎて佳子は話の全体を理解できなかったし、覚えられなかったという。その時は、初美が佳子の親に直接会ってSMSアプリのIDを交換することでなんとか話がついた。二人でカラオケを楽しんでいた時、佳子の親は初美へ大量のテキストを送って、何度も何度も電話をかけ、挙げ句の果てにはカラオケ中にはずっと通話を繋いだままにしていろとまで言いだしたので、アカウントをブロックしてトークルームを削除し、二人で笑いながら歌い飛ばした。その一件のあと、佳子が親からかけられる圧力はさらに強くなったらしかったが、そのことについて初美を責めるようなことはしなかった。
「あの時、“だったら私の携帯にSMSアプリを入れるのを許してよ”って言ってしまえればよかったのにね」
そう言って自らを責めるばかりだった。
そんなある日、突然、佳子が学校へ来なくなった。先生からの通知も無く、全クラスメイトがおおいに困惑した。しかし、一週間程度で特に何もなかったかのように日常が回り始める。その後も全く音沙汰のないまま、三週間が過ぎた。
クラスメイトの中で佳子のことを気にかけているのはもはや自分だけなのではないか、と初美が考え始めた頃である。佳子が再び学校へ顔を出した。二月中旬のことだった。
以前から佳子の顔には光が足りていなかったが、その時の暗さは今までと比べるべくもないほどだった。
「……久しぶり」
何か下手なことを言うと佳子の“地雷”を踏み抜いてしまうのでは、とみんな考えていたから、誰も佳子へ話しかけようとしなかったし、特別佳子と仲の良い初美でさえ、そんな一言をかけるのが精一杯だった。
「……おう。ちょっと、しばらく家出してた」
それでも、二人の関係性の深さによって、話題は自然と、初美の疑問を溶かす方向へと転んだ。
曰く、SNSを通じて連絡を取った大人の男性の家へ居候させてもらっていたらしい。佳子はSNSアプリのインストールを親から禁止されていたが、検索エンジンを用いたネット閲覧は制限されていなかった。だから、なんとか親の目をかいくぐってSNSアカウントをアプリなしで作り、泊めてくれる人を募ったという。始めのうちはなんの反応もなかった。フォロワーが十五人程度に差し掛かると、明らかに性的な考えから言い寄ってくるアカウントが増えたが無視した。フォロワーが六十人程度になったところで、首の痣と、根性焼きされた足の写真をアップした。すると、今まで良くて三件程度だったリツイートが十六件ほどされたのと同時に、DMが二日で三十二件届いたという。その中から、性的な考えを持っているであろう者やその他を排除して七人に絞り、さらに厳選して信頼に足ると考えた一人の男性にDMを返した。
そこでは特に何の問題も起こらず、ただ居候させてもらっていただけだったが、行政にとってそんなことは関係なかった。
男性の家へ警察が押し入った。ドラマのようにしっかりと令状を提示し、土足で上がって腕を掴み上げ、彼を連行した。佳子は被害者と呼ばれて同行を求められた。あらゆる理由によって、佳子は同行せざるをえなかった。
佳子はここまで話すと、その先について、断片的なできごと毎でしか語れなくなった。あまりにもひどい体験で思考の整理が追い付かず、思い出したものから語ることしか出来ない様子だった。例えば、自分の意思でやったオーバードースについて、「”飲むと気持ちよくなれるよ”と男から言われたために呑んだ」とする事実無根な調書を作られたり、性的関係は無かったと証言しても「けど、男と女じゃん」と否定されて調書に取られなかったりしたと彼女は言った。いくら真実を証言しても聞く耳を持ってくれなかった。そうして作られた数々の調書について、「も、これでいいよね? ね?」と言う具合に迫られその場で署名してしまったということだった。
児童相談所へ送られる車の中で、やっと思考の整理がついたと言う。刑法における日本の司法制度は、検察側が”なるべく罪を重くしよう”と努力し、弁護側が”なるべく罪を軽くしよう” と努力し、その様子を見届けた裁判官が判決を言い渡す仕組みだ。この仕組みに関して佳子は特に不満を持っていなかった。しかし、どうにも検察の威光が大きすぎるのか、真実に基づいて証拠を集めるだけなはずの警察が、何故か検察に忖度する。ありもしないと分かり切った証拠をでっちあげ、弁護士制度について十分に説明せず、精神と体力を疲弊させるだけ疲弊させて思考力を奪う。大きな権限を持っているからこそ正義の使者であろうとする検察官たちだが、関係組織に勝手に忖度されて汚い仕事を引き継がされるのではたまったものではないだろう。そう、取り調べの最中であの警官に言ってやればよかった。佳子は車窓を流れる夕焼けの薄雲を眺めながら深く後悔した。ビルに隠れては顔を出す、大きく赤い太陽に、嗤われているような気がした。
その後はしばらく児童相談所のセンターで過ごした。彼女の期待とは裏腹に、数日のうちに両親と行政の話し合いが纏まってしまい、すぐに家へ返されることになった。最終日の前日、佳子は児童相談所が行なっていたレクリエーションに参加した。内容は、地域の老人ホームでの交流。歌を歌ったり、寸劇をしたりして、老人とふれあうといったものだった。出し物に参加するのは嫌だったから断ったが、佳子は家へ帰される前に一度、マトモに優しい大人というものに触れてみたかったのだ。ちょうどその時、有名なドキュメンタリー番組の取材班、撮影班が来ていて、センターから出発する前に“自分の様子がカメラに映ることに同意するかしないか”という書類にサインをさせられた。なんとなく、同意しないに丸をした。
ひとしきり楽しんだ後、フリータイムということで、老人達と会話をする時間になった。彼女はお年寄りが好きだったので、すぐに彼らと打ち解けることが出来た。しかし、佳子が“親とケンカしている”と漏らした時、相対して話していた優しいおばあさんが顔色を変えて体を少し乗り出し――
――ダメよ、親とケンカだなんて。だって、親なんだから――
――叱りつけるようにそう言った。甚だ無神経な発言だ。この人は、私たちが両親からどんな仕打ちを受けて育ってきたのか知らない。もしかして、今回きている子供は児童相談所からの子供だと聞かされていないのだろうか。おばあさんが微笑む。その笑みは嘲笑にも似て、佳子にはどうにも、「してやったり」といったような不敵な笑みに見えて仕方がなかった。そうか、この人は、全部わかった上で、それでも自分が正しいと、子供の方が間違っていると、そう確信した上で、”説教”をしてきたのか。荒くなりかけた息を撫で、見開いてしまった目を閉じて「そうかもしれませんね」と、その場では笑って過ごした。
しかしその後、どうしてもこの時のことが思考から離れなかった。おばあさんの真意は何だったのか。直接問いただす勇気は無かった。だから、いくら私が考えたところで、結局のところ決めつけにしかならない。そうとわかっていながら、しかし考えを止めることはついぞ叶わなかった。考えて考えて考えて、結局先生へ報告するようなこともせず、その日の夜は部屋のベッドに入った。
自分はお年寄りが好きである。彼らは優しく穏やかだ。
あのお婆さんは私のことを殺すような言葉を撃った。
相反する感情は、ぶつかって淀み合い、夢現の中増長された。その日に見た夢の内容は奇妙で不気味だった。勝手に自分がテレビ局に撮影されていて、ドキュメンタリー番組のコメンテーターから非難される夢。彼は老婆の意見に完全同意し、思うままな語彙を浮かべて罵詈雑言を挿入してきた。ああ、次にこんなことを言われたら嫌だな、と思った矢先、その通りなセリフを的確に刺してくる。耐えられなくなって、コメンテーターの背後、VTRの映る画面から幽霊のごとく飛び出し、彼の胸ぐらを掴んだ。喉仏を食いちぎってやりたくなった。顔を横にして前歯を突き立てる。けれども世界はユメウツツ。なんだか通り抜けているような、グニョンとねじ曲がってしまったような、そんな感じがして、彼女の前歯は彼に届かない。ふと左のほうを見やると、間合いに入った警備員がちょうど警棒を振り上げた所だった。
痛いのはもう嫌だ。
そう思った瞬間、彼女はベッドの上にいた。全身に汗をかいていた。気持ちが悪くて体を起こし、寝間着の首をつまんでパタパタと空気を送る。顔にも汗をかいていることに気づいて、そのまま寝間着の布を伸ばし、額に当てて下ろした。はぁっと息を吐いて、壁の方を見つめた。カーテンの隙間から見える静かな明け方の曇り空は、近づきたくないと思うほどに冷たそうな蒼だった。
佳子の話を聞いている間、初美はただただ佳子を肯定してやることしかできなかったし、それがいちばん佳子のためになるんだと思っていた。頭に手を乗せ褒めあって、肩をポンポン叩いてやって、夕日に横顔を照らされながら二人で下校する。初美たちのそんな日常は、佳子の失踪前と全く変わらず続いているし、これからも続いていく。初美はそう思っていた。
一年生も終わりに近づいたある日、教室へ投稿してみると佳子は居なかった。珍しい。学校があるのに家にいると親に締め出されてしまうので体調が悪くとも無理して登校をする佳子が、学校に来ないのはただ事ではなかった。家出をした時と同じくらいの事態に佳子が身をおいているのではないか。初美はそう思って佳子のことを心配したが、現実はこれを大きく超えていた。
HRの時間になって、教室へ入ってきた先生は、一本の花を持っていた。花の種類はよくわからなかったけれども初美は嫌な予感がした。先生はそのまま教卓へは行かずに教室の後ろに置かれた一つの花瓶を取ってきて、初美の一つ後ろ、佳子の机の上に置き、持っていた花を挿した。
それから先生がどんな話をしたのか、よく覚えていない。把握できた事実は一点、佳子が最上階の教室から海に落ちて死んだという事だけだった。その日のうちにクラスメイトやらなんやらが噂をしていて、そこから耳に入った情報によると、どうやら海に落ちる直前まで佳子と話していた上級生がいるらしく、また、佳子は海に飛び込んでもしばらく死なず、苦しみながら水を吸ってじわじわ死んでいったらしかった。授業の内容は全く頭に入ってこなかったし、終礼が終わった後もしばらく、初美は席を立つことができなかった。一番前の窓側の席。夕日の射す教室の中、初美は花瓶と共に一人きりになった。
「まだ居たのか」
教室へ入ってきた先生がそう声をかけたが、初美が返事をしないのを見て、先生も気を使ってか沈黙し、明日の授業の準備を始めた。
「――先生、佳子は“自殺”したんですか?」
いきなり問われて、先生の作業する手が止まった。しばらく黙ったあと、初美の方を向いて「先生としては、まだ何も言えない。生徒たちが噂をしていたからもう知っていると思うが、直前まで一緒に居たらしい上級生に事情を聞いて、しかるべき判断をするつもりだ」と返した。
チョークを別の色に持ち替えて、黒板の右端に明日の日時を書き込む。
「知っての通り、あの子は父親から暴力を受けていたらしいから、そういう家庭周りのことについても考慮に入れないといけなくてな。学校として、かなり慎重な判断――」
「なんですかそれ」初美が先生の話を遮る。ピタリと先生の手が止まった。
「……君は佳子と仲が良かったから、知っているものと……」冷や汗をかきながら目を合わせずに訊いてくる。
「いえ……知りませんでした」
二人とも大きなショックを受けた。しかし二人の心情には決定的な違いがあって、先に根をあげたのは先生だった。
「マっジか!!! やらかした。てっきり君は……ごめん。これ、先生から言ったってこと、他の先生には言わないでもらっていいかな」
「いいですけど……」呆れた。と同時に、初美はこの精神状態の中で奇跡的に一瞬、頭を回すことができた。
「その代わり、教えてください。先生方はいつからその事を知ってたんですか」
先生は拒否することができなかった。
「――具体的に認識したのは、児童相談所から連絡があった時だ。けれども、それより前から、職員は皆なんとなく察していた」
「そうですか……」
児童相談所も、学校も、明確な事実として虐待があった事を認識していたし、学校はそれよりも前から把握していたのに、佳子を家へと返したまま、なんの行動も起こさないで、ただただ日常を過ごしていたらしい。佳子はもはや、身の回りにいる全ての大人達が、信用できなかったに違いない。初美の脳内で燃え盛ったのは、当然ながら、怒りだった。そしてこの炎は同時に、自己嫌悪と、自らの過去の姿勢に対する反省に飛び火した。どういうわけか私は、父親からの暴力について、佳子からこれっぽっちも聞かされていない。これはどういうわけだろう。これはどういうわけだろう? これは。これは……。
一瞬意識が後ろへ傾いた。助けを求めたのだった。しかし、もう佳子は居ない。
「……先生」
俯いたまま震え声でそう言うと、顔を上げ、はっきり目を合わせ、続けた。
「その、“直前まで一緒に居た生徒”ってのは、いったい誰なんですか?」
涙と髪と目と肌が、強い強い西陽に照らされ彩色を持ち、初美の感情を強調した。先生は唾を呑んで顎を引いた。数秒ほど、教室からはなんの音もしなかった。瀬戸内海の穏やかな波音に空気が溺れた。
「……それは……流石に、言えない。すまない」
すんでのところで、先生は理性を保った。
「そうですか……」
これ以上、何も言うことはなかった。
席を立って、荷物をまとめ、カバンを机に置き、上着を着ると、花瓶を掴んで窓を開け、教室の外へぶん投げた。
投げ方が悪かったのか、教室に水が飛び散って、初美の髪と上着を濡らす。投げられた花瓶は空中で花と分離して、放物線を描き、海に落ちた。大きな水柱が立ったらしいが二人からは見えなかった。水しぶきだけが木霊していた。
ただ真顔になって見守るしかない先生の目から、初美の表情は、濡れた髪に隠れて見えなかった。
そのまま先生へ顔を見せることもなく、初美はカバンを肩にかけると、何も言わずに、下校した。
事情聴取での佳子の体験は知人の証言をもとに書いています。