白い駆け落ち婚
私は汚されてしまった。
私を追ってきた男達は私に殴られた仕返しに私を殴り、そして、押し倒した私の口に汚い口の中の舌を突っ込んで来たのだ。
吐くほどの体臭と口臭によって私の鼻は侵されているのに、汚らしい男の涎で口の中まで汚された。
男の手は私の体をまさぐり、けれど、それで終わったのは悪魔の使いのような大きなあの黒い犬のお陰であろう。
あの犬はニーナを捕えていた男にまず襲い掛かり、黒犬に突然に襲い掛かられた男はニーナから手が離れ、ニーナが男の手から転がり逃げたその時には男は黒犬の体重と牙を受けて倒れていた。
毛むくじゃらの顔もわからない黒犬だが、唸る時には普通よりも大きな牙が白く光り、私の上にいた男も犬の出現に脅えたのが分かった。
「うぅわ。おい、待て。う、うわ。」
ゆっくりと大犬は唸りながら近づき、男が完全に身を起こそうとしたとき、男の頭上で鈍い音が鳴った。
男は再び生温かく臭い体を私の上に落としたが、彼は痛みにうううと唸っており、男と私の上では逃げたばかりのニーナが石を抱えていた。
「あ、ありがとう。ニーナ。」
私は男の身体から逃げ出そうと動いた。
「ね、姉さま!きゃあ!」
しかし、私は再び身を起こした男によって捕まえられており、ニーナは男の手で突き飛ばされて転ばされた。
「……このがき、ぶちころしてやっぎゃああああああああ!」
黒犬はニーナを突き飛ばした男の腕をがぶりと噛みつき、男をそのまま引きずっていった。
「やめてくれ、放してくれ。ぎゃああああ、痛い。許してくれ!」
二年前のフレンドリーさなどどこへやら、黒犬は地獄の犬と化していた。
そして驚いた事に、犬は先ほど倒した男の上にその男を乗せ上げ、それだけでなくどんと体重を乗せてその男の背中の上に飛び乗ったのだ。
大きな犬に背中に乗られ、いつ首筋をがぶりと噛まれるか分からない男は、犬に首筋で唸られたそこで恐怖からか気を失った。
気を失っていなくとも、単に動けなくなってしまったのかもしれない。
動いたら確実に首を噛まれるのだ。
「ああ、ありがとう。黒犬さん。」
「ありがとう。黒犬さん。」
私とニーナ、それぞれが黒犬に感謝を捧げると、犬はそれを判ったというようににこりと笑い、さらに、鼓膜が破れんばかりの雄たけびを上げ始めた。
「それが起きた事の全てなのかな。」
私は震えながら頭を上下させた。
私の結婚相手のもしゃもしゃ伯爵は表情が解らないけれどとっても安心したような吐息を大きく吐き出し、私が汚れてなどいない、と言った。
「で、でも、わたくしはあなたと結婚はできません。こ、こんな男に唇を奪われて!で、でも、分かったんです。私には恋をした方がいます。私にはその方以外とそのような事ができません!」
覚悟を決めてアルマトゥーラ伯爵と結婚してニーナを守ろうと思ったのに、思っていたのに、私の身体は絶対にできないと叫んでいた。
ああ、でも、ニーナを守らなければいけないのに!
「え、ええと、その方の名前を教えてくれるか?」
「え?」
「いや、そいつが君を守るというならば身を引こう。どこのどいつだ?」
低い声には怒りのようなものも含んでいたが、なぜかその怒りは私に向けられていないという事は判った。
でも、彼の従僕などと言えるわけはない。
「お名前どころかどこの方かもわかりません。一目会って、それで恋に落ちてしまいましたの。」
「そうか。それじゃあ、私と結婚しましょう。あなたがここにいるという事は、ええ、あなたが抱きしめるニーナ殿のその頭を見るに、あなた方を家には帰せない。結婚すれば私があなたを守れる立場になれます。けれど、あなたが私が嫌だと言うならば私はあなたを本当の妻にしません。白い結婚ならばいつでも結婚を終了する事も出来ます。いかがですか?」
私は高潔な申し出にただただ恐縮していた。
なんと騎士道精神に溢れた方なのだ。
「あなたを犠牲にすることは出来ません。」
「いいえ。わたしはあなたを幸せにしたい。それだけです。私はあの日の公園であなたに出会ってからずっとあなたを想っていました。」
伯爵の告白でどうして彼の従僕が私の部屋のベランダに来たのか理解した。
そして、誰に恋しているか詳しく言わなくて良かったと神に感謝した。
伯爵が私を知り、そしてあの時だって私を助けようと家の者を使わせていたという事だったのだ。
従ってあの彼が私を想う気持ちは主君から頼まれただけというそれだけで、私の恋愛など成就するどころか思い切らねばならないものだ。
「ねえ、ミア。私は戦場で生き抜くための戦術や戦略を知っているが、それが戦争じゃなくて普通の生き方でも使える事も知っているよ。たとえば今回の君と私の結婚も生き抜くための戦略と言ってもいいのかな。君は私を犠牲と言ったが、私は君と過ごせる時間が手に入る。そして君達姉妹は安全を手に入れられる。私は君と友人になりたいんだよ。いい作戦だと思わないかい?」
私はお受けしますと答えていた。
そして、私に恋をしていると言った目の前の男性の高潔さのお返しの為に、私は本当の結婚の誓いを彼に誓おうと思った。