善は急げ
一か月後の結婚式など待ってはいられないと、私は荷物を纏めるとその夜のうちに家を飛び出した。
家の金をギャンブルにしか使わない男だ。
数年間あの男から隠し貯めていたお金と一週間分の食費を持って逃げたっていいだろう。
私に手を引かれた妹は、私の手を命綱のように握っている。
「お姉さま、どこに逃げるの?」
「まず、田舎。お母様の叔母様の家に行ってみる。そこで追い払われるかもしれないけれど、二日ぐらいはしのげるはずよ。図太く行きましょう!」
「お姉さまったら。」
しかし、私達姉妹は世間を知っているようで世間知らずだ。
郵便馬車の最終便は出た後であり、切符の販売所も閉まっていれば徒歩でどこぞに行くしかないが、私も妹も夜道を歩き回れば父親の家にいるよりも悪くなるだろう事はよく知っている。
「か、帰らないと、駄目なのね。」
「いいえ。公園で一晩明かしましょう。それで、朝一番の便で首都を出るわよ。」
私は妹の手を引くと公園へと歩き始めたが、私達の後ろをひたひたと歩く足音がかすかに聞こえてくると不安が増した。
アルマトゥーラ伯爵家に逃げ込めばいいのかしら。
名も知らない彼はなにかあれば飛び込んできてほしいと言っていた。
私はそこで足を止めた。
どうして今日まで何があってもアルマトゥーラ伯爵家に逃げ込まず、そして今は理由をつけて別の場所に行こうとしているのか気が付いたのだ。
誰かに恋をしているからこそ、その誰か以外の男性と結婚したくないのだ。
恋をした男性が結婚相手の従僕なのだとしたら尚更だ。
「お姉さま?」
私を伺うニーナの顔つきは迷子で不安な幼児そのもので、私はこの小さな妹が見ず知らずの男の嫁にされる事を考えて、そこで気持ちが決まったのだ。
いや、覚悟か。
アルマトゥーラ伯爵家に飛び込もう。
「行くわよ。ニーナ。私の結婚相手に助けを求めましょう。断られたら当初の目的通り叔母の家に行くわよ。よろしくて?」
ニーナはただでさえ力を込めていた手にさらに力を込めて私の手を握り、真っ白に血の気を失った顔付きながら覚悟を決めた様な顔でこくりと頷いた。
「大丈夫、私達は絶対に大丈夫。そうやって生きて来たでしょう。」
「ええ。」
ニーナが笑ったその時、私の荷物を持つ左腕は後ろにグインと引っ張られ、私はなけなしのお金が入ったカバンを取られまいと、鞄を引く相手に突進した。
引く力に引き返すのではなく押し込み返すのは、侍女の振りをして公園に行っていた数年の間に男達に絡まれて覚えた技だ。
まあ、何度か、というか、一番最初の時に恐怖で力が出ない上に躓いて、私の腕を掴んで引っ張る人に突撃してしまっただけの話だ。
勢い余ったその男は転び、私は地面に転がっていた石を掴むと男の鼻をしたたかに殴り、そして無事逃げ出せたとそういうわけだ。
今回も男は仰向けに倒れ、私は男が倒れて緩んだ手から鞄を取り返すと、それを大きく振り上げて男の腹に打ち付けた。
「ぐほっ!」
「さあ、逃げるわよ!」
私とニーナは手を繋ぎ直し、とにかく安全地帯かもしれないアルマトゥーラ伯爵家目指して駆け出した。