たった一度だけ会った人
5/21 男性の服装の描写を追加しました。
私は父親の前では泣かなかった。
だから部屋に戻って少しだけ涙を流した。
涙を流さなければ気持ちは落ちつかないが、泣きすぎては目元が腫れ上がり、泣き顔を父親に見つかれば陰気な顔で気分が悪くなると言って叩かれるのだ。
私はそっとコルセットの鳩尾の辺りを触った。
私は二年前から太り気味だ。
そういう事にしてある。
彼が殴られる私の為に鎧を作ってくれたのだ。
「金属の板を入れて綿を入れて置いた。俺が君を助け出せるまでこれで自分を守るんだ。いや、これはもしもの際のものだから、何かあったらあの家、公園のすぐ目の前にあるアルマトゥーラ伯爵家に逃げるんだ。いいね。」
彼は黒犬に襲われたその次の夜に私の前に現れた。
私の部屋のベランダにいつのまにやら立っていたのだ。
栗色の髪は短く、だが、毛先がほんの少しクルンと巻いていた。
瞳の色は水色だ。
しっかりとした男性的な顔だちなのに、その髪の毛や透明な水色の瞳が彼を若々しく幼くも見せており、月の光を浴びた彼は大天使のようだった。
そして、そんな大天使に見惚れていた私に私と妹の不遇を知っていると言って、恥ずかしい事に、この普通でないコルセットを「私に」渡してきたのだ。
「恥ずかしいわ。家の恥を知られるなんて。」
「恥ずかしいのは君達を叩くあの男だけだ。さっき、あいつの右腕の腱を痛めつけて気絶させてやった。奴は夢だと思っている筈だが、今までよりは腕の力は出なくなるはずだ。しばらくはね。」
「まあ。でも、見ず知らずのお家に逃げ込むなんて出来ないわ。」
「俺はアルマトゥーラだ。忘れちゃった?君を襲った大犬こそあの家の飼い犬だ。大丈夫だから逃げておいで。」
「あ、ありがとう。ええと、お気遣い感謝します。」
「お気遣いじゃない!」
「え?」
「いや、俺は君を守りたいだけだ。また来る。」
「いいえ。もういらっしゃらないで。私はいつか誰かの所に嫁がねばなりません。その方を醜聞に巻き込むような行動は控えねばなりません。」
私の母は醜聞に巻き込まれ、妹を生んだ時に命も落とした。
父が壊れたのはその時からなのだ。
「いや、来るよ。」
「困ります!」
「わかった。困るというなら何かあったら手紙を出して!フォルス・アルマトゥーラ宛てに書けば、絶対に手紙は俺に届く。」
「あなたは彼の従僕ですの?」
従僕と尋ねながら、私は彼は従僕ではないような気もしていた。
彼は黒いズボンとシャツを羽織っていたが、何度も洗って着古されたような質感のものだった。
従僕は女主人に付き従う小間使いと同じに召使いの中では身分は高い。
こんな粗末なものを着ているはずは無い。
ぼろ布しか纏っていない私が言う事でもないが。
「いや、俺は。」
彼は自分の自己紹介がまだだった事に気が付いたが、私は彼の口元を塞いで先を言えないようにした。
「あなたが何者か知らせないでください。私とあなたは今後は別々の人生を歩むはずです。どちらの醜聞にも、いいえ、記憶にも残してはいけません。」
彼から手を離すと、彼の胸を突いた。
彼は私から一歩下がり、私はガラスではなくカーテンを引いて彼と自分の間を別った。
「さようなら、親切な方。私の為にお帰りになって。」
「絶対に迎えに来る。絶対に助けるから待っていて。」
「いいえ。お忘れになって。贈り物は大事にします。ありがとう。」
私は二年前の記憶に再び涙が零れた。
「ひぃいいいいっく。」
私は自分の泣き声でない泣き声に振り向いた。
「まあ、どうしたの、ニーナ。」
金色の髪をした青い瞳の美しい少女は、ようやく肩に届きそうなくらいにまで伸びた髪が、坊主に近いくらいに再び短く刈られていた。
「まあ!なんて姿に!」
私は自分が泣いていたことも忘れてニーナを抱き締めた。
「お、おとうさまが。」
「ええ、誰がやったか分かっている。あなたがお母様に似て美しいからだわ。」
「お、おとうさまが。」
「ニーナ。私がアルマトゥーラ伯爵様と結婚したらアルマトゥーラの家に逃げてくるのよ。いいえ、結婚式が終わったらすぐに私があなたを引き取るわ。」
そこでニーナがうわんと泣き出した。
泣きわめく彼女の言葉を整理すれば、ニーナはあの父親によってどこぞの金持ちの老人に明後日には売られるという事だ。
6/2 『~この普通でないコルセットを私に渡してきたのだ。』→『この普通でないコルセットを「私に」渡してきたのだ。』に変更。
ミアは父親に殴られるだけの妹との閉鎖した世界の住人でしたので、初めて貰った自分への気遣いと贈り物という事で感動しての文章となります。そこで、私に、と敢えて書きましたが、文章的におかしいと感じられる文になっただけだったようですね。すいません。
そこで、ミアの気持ちを強調するためにカッコをつけて「私に」と修正しました。
ご指摘いただきましてありがとうございます。