アガート侯爵夫人
リーブスの言った通りに十時きっかりに侯爵夫人は現れた。
マルグリット・アガート侯爵夫人は一人ではなく、強面のボディガード二人と弁護士を連れていた。
彼女自身は中肉中背のそれ程特徴も無い体型であったが、顔は年齢を重ねたことで皺で皮膚が弛み、まるで不機嫌そうなペルシャ猫のようだった。
また、彼女の着ているドレスは我が母のようにレースとフリルがいっぱいで、スカート部分など一昔前の円錐状に広がっているというものである。
カミラがいれば前時代的鎧姿と言い放つことだろう。
俺は侯爵夫人の服装から自分の母親と同じぐらい頑固で、きっと困ったぐらいに思い込みが激しい人なのかと考えた。
母は娘が欲しいという気持ちが強すぎるのか、息子の嫁を可愛がっても金を持たせて自由にさせるという事はしない。
まるで奴隷のようにして領地のマナーハウスに閉じ込めているのだ。
彼女達が俺と結婚したがるのは母が望む唯一の結婚相手であり、俺と結婚すれば母から自由になれると考えているからかもしれない。
彼女達も実は被害者みたいなものなのだ。
叔父連中が俺に次々と婚約者を仕立てて来たのは、その歪さに気が付いていたからかもしれない。
「初めまして。単刀直入に言います。私の可愛い娘達を返してください。」
俺はアガート侯爵夫人が何を言い出したのかと思考が止まり、数秒間程侯爵夫人を見つめ続け、次に何でも答えを出すはずのリーブスに助けを求めた。
リーブスは俺から視線を浴びても執事の鏡のごとく微動だにしなかった。
いや、俺の執事だったら動いてよ、何が起きてるのか教えて!
俺は困ってんの!
「こちらを見てください。伯爵様。」
俺が公爵夫人を見返せば、彼女は右手を軽く振った。
すると彼女が座るソファの隣に控えて立っていた弁護士が鞄から二枚の紙を取り出し、それを俺が確認できるようにして座卓の上に置いた。
「なんでしょうって、それは後見人の書類ですね。ミアとニーナの後見人になられていらしたのですか?一体いつから!」
「そのような事は尋ねる必要も確認もする必要もありません。私は怒っているのです。あんなにも健気な子達が、意に染まぬ結婚をあんなろくでなしな男に押し付けられているという現状に。」
弁護士が立ったまま侯爵夫人が為したらしきことを語り始めた。
「亡くなられたツェツィーリア・ヘリュグリューン様のお父上コンラート様より、アントワーヌ・アガート侯爵にツェツィーリア様への後見と財産管財を委任されたという書類でございます。ツェツィーリア様が受け継いだ財産はそのお子である娘様達に相続され、その管財と後見もアガート侯爵がお引き受けされていますということです。」
「はい。お分かり?勝手な結婚はその財産権の侵害となります。ええ、実の親でも、我が夫と相談なく勝手に縁談などしてはいけないの。」
俺は弁護士が差し出した書類を読み直し、ミアとニーナの安全にはとても都合の良い条項が記載されている事にとても楽しい気持ちとなっていた。
「お見事ですよ、さすがに元帥閣下。いや、全てあなたの仕業か。これでニーナはあのオール云たらの婚約に脅える事は無いのですね。」
侯爵夫人はニヤリと笑って見せた。
「あの男は婚約の白紙を認めなければ小麦一粒だって動かせなくなるの。結婚相手にふさわしい男か経済状態全てを調べさせていただく必要がありますからね。」
「恐ろしい。」
「ただし、フラッゲルム伯爵が姿を消しました。」
「どういうことです?」
公爵夫人のボディーガードらしき男の一人が一歩前に出た。
「初めまして伯爵様。私は首都の警護をしております首都警察のものです。」
「警察の方でしたか。侯爵夫人!あなたは付き添いなしで歩いているのですか!」
「――侍女は部屋の外で控えております。あなた、意外と昔の男なのね。」
俺は申し訳ありませんと侯爵夫人に頭を下げ、俺の下げた頭の上で警官と弁護士と、なんと執事までのクスクス笑いが聞こえた。
畜生と思いながらも伯爵らしい無表情を作ると顔をあげ、再び警察官に話をするようにと偉そうに目線だけを動かしてみた。
警察官は高慢な貴族の振る舞いに慣れているのか、俺の高慢ちきな動作に怒りも無いようだった。
違う。
リーブスが俺の様子に笑い出しており、それで俺の振る舞いが単なる虚勢だと警官にバレていただけだ。
親切な警官は失礼な執事のように俺を笑わずに、プロらしく俺に伝えたかった情報を語り出した。
「フラッゲルム伯爵はお病気により爵位を甥のベルナール様に譲られて入院をされてましたが、病院から行方不明になられてしまいました。現在捜索中ですが、未だに見つかっておりません事を報告いたします。」
俺はフラッゲルム伯爵家の借金状況も調べてあった。
どこまでも小心者の男だからなのか思ったよりも少ない借金額で気が抜けたが、フラッゲルム伯爵にはそれを返せる返済能力など絶対に無い。
ミアとの結婚でそこは俺が返済する予定でもあった。
結婚後は有無を言わさずに彼の甥に伯爵位を譲らせて、どこぞの田舎町の屋敷に奴を軟禁して飼い殺しにする予定だったが、侯爵夫人に先を越されていたらしい。
ただし、素人がやってしまう失敗も彼女はしていたようだ。
檻のある場所に監禁するなど、なんて下手を打ったんだ。
「やり過ぎましたね。全てを失った人間は怖いですよ。」
俺は侯爵夫人を見つめた。
彼女は理知的な黒い瞳で俺を見つめ返した。
「ええ、危険だと思いますわ。ですから娘達を我が家に迎え入れようと思います。我が家ならばあの子達を愛のない結婚からも守る事が出来ますし。どうぞ、あの子達のお引き渡しをお願いします。」
俺は嫌だと突っぱねたかったが、ミアに意に沿わぬ結婚を強いて不幸にすることは出来ないと侯爵夫人の申し出を飲んだ。
彼女には心に抱いた男がいるのだ。
それでも、俺は彼女を手放しがたかった。
「あの、一つだけお伺いできますか?」
「なんでしょう。」
「どうしてここまでミアとニーナに肩入れをなさるので。書類だけの子供達では無いのですか?それをお聞かせ願えないのであれば、私は彼女達をあなたの元へ送り出す事が出来ません。」
侯爵夫人は俺に向かって優しく微笑んだ。
それでも不機嫌な猫だが。
「私は最近まで死んだ息子が設立した図書館の敷地内の管理人室に住んでいたの。夫は戦地や領地ばかりで私の所には戻って来ないし、孫娘は駆け落ちで私の前から消えていった。そんな一人ぼっちが広いタウンハウスにいるのは辛くてね。ええ、わざと狭い粗末な管理人室にこもって、自分は不幸だと思っていたの。だけど、知り合ったあの子達は不幸でもいつも笑っているの。私がピアノを弾いただけで天の恵みだと大喜びする子達なのよ。」
「侯爵夫人。」
「ええ、あの子達の薦めで孫に手紙を書いたのよ。元気って、ただそれだけを。そうしたら孫夫婦は曾孫を連れて首都に戻って来たの。夫まで領地から飛んできて煩くしている。これは恩返しが必要だと思わない?」
俺はこれからのミアとニーナには幸福だけがあると確信せざるを得ず、侯爵夫人に彼女達を手渡すしか無いと観念した。




