三話 隠された泉
私が夢で見たのはまさしく、この写真の景色だ…食い入るように写真を見つめていると
「これ撮ったのバンドの仲間なんだ」
「………バンド…?」
杉井の言葉にぼんやりと呟いた。杉井はそれに答える様に
「ああ。趣味でバンドやってるんだ。元の同僚とか、学生時代の仲間とか集めてね。コイツはギター弾いてるんだけど、時々ヴォーカルもやったりしてて…」
「…」
私は杉井の言葉に注意深く聴き入る。
「羽八生吾っていうんだけど、この間ヨーロッパ行ったらしいんだ。…その時撮ってきたのかな…でも、なんで間違えて交ざったんだ?…」
杉井はしきりに首を傾げて不思議がっているものの、私はそんな杉井には目もくれずに写真を見ていた。
けれど…私の頭の中は真っ白だ…
「…どうしたの?」
驚きのあまり声も出ずに黙りこむ私に杉井が声をかける。
「…大丈夫?」
私は写真を握りしめたまま
「……ね、今度、バンドの見学に連れてってもらえる? 聞いてみたいの、演奏」
口走ると、自分で言いながら、迷いが生じるのを感じていた。
杉井の話によると、羽八生吾は出版社に勤務していた頃の同僚で現在はフリーのカメラマンをしているとの事だ。
何故その人物が撮影した写真が杉井のプライベート写真に混ざっていたのかは分からないが、そんな不思議な偶然でもない限り私がそれを目にする機会は訪れなかっただろう。
杉井と別れた後、一人になった私はバンドの練習を見に行きたいと言った事を早くも後悔していた。それは、杉井とは今後二人で会う気はなかったのにも関わらず、約束をしなければならなくなった事もあるし、それに…
『…そんな事、現実に起こるはずないじゃない?…これはただの偶然なのよ。会って確かめて失望するのがオチなんじゃないかしら…それよりも…もしかしたらあの人かもしれないって…想い続けている方が素敵なんじゃないかしら…』
私は自問自答を繰り返しながら、写真に写った森や小径がいつか見たそれに酷似している事に恐れを抱いていたのだ。
また、現実を知った途端、小径の向こうで手を振るその人が消えてなくなりそうな気がした。羽八という男がその人であるのかを確かめたりせずに、このままそっと、胸の奥にしまっておきたい…そんな気分にもなると、踏み出す勇気が萎んでしまう。
まっすぐ帰宅する気になれない私は、自宅の最寄りにある駅ビル内の書店へ立ち寄ると「羽八生吾」という男の事がどうしても気にかかり、彼が写した写真は無いものか…彼の写真が載っていそうな雑誌を探す事にした。
けれど…私は舞い上がっているのか、それとも、思いがけないハプニングに心を乱されているのか、地に足が着いていない感じだ。
『羽八生吾って…どんな人なのかしら…あの人、であるはずないわ…そんなバカな事、起こるわけないじゃない…ただの偶然よ…そうよ、そうに決まってるわ…』
一人、書店内で雑誌や写真集を手に取る私は上の空だった。
『羽八生吾……ないわ…』
確かめたい、でも、確かめたくない…相反する気持ちのまま期待に胸を膨らませつつ「羽八生吾」の写真が見あたらない事に失望を感じ始めていた。
もう帰ろう…そう思った矢先だった。
ふと手に取った男性向けのビジネス系雑誌の中に、心惹かれる写真を見つけた私は白抜き文字の記事へと目を移した。それは絶滅の危機に瀕している花色の水葵の群生を写したものだ。
『綺麗な花…』
可愛らしくもどこか儚げなその花に見とれながら頁の下に目を移すと、小さく「羽八生吾」とクレジットが入っているのを認めた。その途端、思わずその場で飛び上がってしまいそうなほどの喜びと衝撃が全身を走り抜けていく。
『なんて事なの!!………今日はなんて一日なのかしら…』
慌てた様に雑誌を掴むと会計に向かった私は、予想すらしていなかった偶然の連続に頭の中がひっくり返るような感覚を覚えると、心がゆらゆらと揺れ出すのを感じていた。
家に帰った私は袋を開けるのももどかしい気持ちで雑誌を取り出すと、水葵の頁を開いた。
『……これが、森の写真を撮った人なの?…』
飽く事無くその写真を眺めていた私は、何度か見た小径の光景を思い出すと水葵の写真の上にその映像を重ねていた。
あれは…夢だったのだろうか…それとも……私は何度思い返しても判断がつかない。
分かっているのは、繰り返し見た森の中の一本道の向こうで手を振るその人とその光景は、こうして目が覚めている時に思い出しても鮮明だったという事くらいだ。
『現実的じゃないもの…実在する場所や人じゃないのよ…きっと、ただの夢だわ…』
長年そう自分に言い聞かせ、そう思い込もうとしながら時を過ごしてきていた私は、思いがけない形でそれと巡り会い、動揺していた。まさか、そんな事が起こるなんて…これまで考えた事もなかったのだ。
ベッドの上で仰向けになり目を閉じると、杉井から写真を見せられて以降、波だっていた心が静まっていくのを感じた。やがて、体の奥の方から深い情動が顔を覗かせると、絶え間なく湧き出る泉のように激しく、強く、熱を帯びた感情が流れ出してくるのを覚える。
私の深層の意識は、こんこんと湧き出る泉の様に…忘れていた何かを思い出しそうになっていた。
お読み下さいましてありがとうございます。
御無沙汰しております。体調不良が重なり臥せっておりましたが、なんとか3話を書き上げる事が出来ました。
美味しい生牡蠣を見つけてしまい先月からすっかりはまっていたのですが、連日の様に頂いていたのが災いしたのでしょうか。遂にあたってしまい、高熱に浮かされていました。皆さんもお気をつけ下さい。また、お風邪など召しませんよう、ご自愛下さいね。
小路




