六話
それは、ある日の夜の事だった。
フローラ・ヘヴン宅に、誘拐犯が強襲を仕掛けてきた。
相手は複数。
手慣れた動きをしていたことから、常習犯だと彼女らは確信していた。
男達はフローラを攫い、両親から彼女を引き剥がしたという。
フローラ・ヘヴンの父親は天才的な発明家であった。一方で彼女の母親も、天才的な学者であった。彼女はその血を受け継いだのだろう。フローラ・ヘヴンは天才だった。――いや、天才と呼ぶには稚拙だった。
わずか齢十歳の頃、彼女はとある、魔術理論研究家たちが集うコンペティションに参加し、魔法という世界に新しい概念を与えた。
それが、魔法(Magic)と魔術(Magick)の言葉の概念が別れたきっかけとなった。
フローラが人攫いに捕まり、連れてこられたのは、とある山小屋だった。
最近配電設備が整ってきたばかりのためか、まだその場所までは電線が引かれてはいなかった。
ランタンの淡い光に呼ばれて、パタパタと舞う蛾等の羽虫の姿を、彼女は恐怖と共に鮮明に記憶している。
その後、誘拐グループはその小屋の地下に作られた、シェルターのような場所へ連れて行かれた。
どうやら、周囲の人たちの話を聞く限り、どこかの誰かに、私を攫ってほしいと頼まれたようだ。曰く、明後日の夜に迎えをよこすだそう。
(逃げるなら、今の内しかない)
幸い、彼女は魔術を使用するための仕掛けを所持していた。
これは、彼女が組み立てた論文を参考に、父親と母親が協力して造りあげたものだ。
疑似精霊回廊と呼ばれる霊的な不可視な回廊を通して、所有者のロゴスを思考と共に読み込ませる。
それは言わば、人工の物質的な精霊であった。
フローラは服に忍ばせた人工精霊にロゴスを流した。
結果的に、作戦は巧く行った。
誰にも気づかれずに、私はその場を駆け抜けたのだ。
恐怖と不安で、胸がいっぱいだった。
張り裂けそうな心臓の鼓動が鼓膜を打って、ゼェゼェと息を弾ませながら、少女は森を駆け抜けた。
――が。
少女が屋敷へと帰ってくると、そこはもぬけの殻と化していたのだった。
瞬間、彼女の中で、何かが弾けた。
(アイツらか……。あの下郎共か……)
おそらく、狙いは初めから私一人ではなかったのだろう。
いや、本命は私ではなく、両親の方だったのかもしれない。
途端に、フローラの中にどす黒い何かが生まれた。
それは、怒りと悲しみ。そしてそれを超えた殺意。
彼女はボロボロの姿のまま、その場を抜けて、山小屋へと駆け出していった。
それから、拷問が始まった。
最初こそ躊躇いはしたが、最初の一線を超えてしまえば、案外易いものだった。
しかし、結果は芳しくなかった。
誰もが口を揃えて、知らないと答えるのだ。
フローラは怒りのままに山小屋を昇華させると、その場を離れて街へ向かうのだった。
街には沢山の人が出入りする。
沢山の人が出入りするということは、それだけ情報が集まりやすい。
フローラはそう検討をつけたのだった。
そして、その街へ向かう途中。偶然にも、盗賊に絡まれている異世界人(Irese)に出会い、今に至る。
出雲神人は、そんな彼女の事情を耳にすると、静かにそうだったのかと呟いた。
「そういう事なら、俺も協力するよ。いや、そうじゃないな。そうでなくても、俺はきっと君に協力しただろうし」
「それは助かる。吾輩、実はあまり他人にこれを見られたくはないのだ」
フローラはそう言うと、服の下に忍ばせたペンダントに手を重ねた。
「そうか。なら、俺は君の護衛役って事だな?」
「そういう事だよ、ナイトさん」
そう言って、からかう様に微笑むフローラ。
その笑顔には、どこか自分自身を励まそうとしているような、そんな暗い影も見て取れた。
どうやらフローラは、作り笑いが苦手らしい。
神人はそんな彼女の頭に、ポンポンと手を載せると、そっとその髪をなでた。
ブロントの髪は、まるで絹のように滑らか……とはいかなかった。
当たり前だ、あれから三日ほども水浴びをしていないのだから。オマケに森の中で野宿だ。
綺麗なままでいられるはずがない。
「なら、まずはその服装をどうにかしないとな。どこか近くに、村とかあったりするのか?」
何気なくそう尋ねてみると、フローラは驚いたような表情を見せた。
「お前、この世界の言葉わからないだろ?まぁ、通訳は吾輩がなんとかするが、それ以前にお金がないじゃないか。どうやって身支度を整えろと?」
言われて、神人はハッと顔を強張らせる。
言われるまで忘れていたが、ここは異世界。しかも、日本語がそのまま通じるというご都合主義的な世界ではないのだ。
そこまで考えて、彼はさらに頭を悩ませた。
「ん?じゃあどうしてフローラは、日本語が話せているんだ?」
「ああ、それか」
少女は一つ頷くと、服の上から、そのペンダントに触れた。
「これを使って、自動的に言語を翻訳しているんだよ。残念ながら、効果範囲は吾輩だけのものなんだがな」
へぇ〜。
魔術って便利だな……。
「だから、別に吾輩が日本語とやらを理解しているわけではないのだよ」
そう言うと、彼女はふぅと息をついた。
「だがしかし、それもそうだな。この姿のままでは、街に通してはくれなさそうだ。神人、何か売れるものとか無いか?」
「売れるもの?」
フローラの出した提案に、神人はそうだなと色々ポケットの中を物色し始めた。
「んー、あ。携帯のキーホルダー。これなんてどうだ?」
そう言って取り出したのは、アルミ製の剣の形を模したキーホルダーだった。ちゃんと鞘から剣を抜くことができる作りになっていて、刃の部分はペーパーナイフになっているのだ。
「うん、それなら銀貨二枚くらいにはなるだろう」
……え?銀貨、二枚?
神人は唖然と、そう告げるフローラの顔を眺めた。
銀貨二枚というのが、どれほどの価値があるかわからないが、少なくともそれほど安い値段であるようには感じなかった。
何せ、ただのガチャガチャで百円ほどの代物なのだ。
まさか銀貨一枚がたったの五十円ぽっち、とはいかないはずだろう。
「ちなみに、貨幣の価値って、どんな感じなんだ?ほら、銅貨何枚で銀貨とか、普通一日に必要なお金とか、そういった諸々」
すると、彼女は顎に人差し指を置いて、考える素振りを見せた。
「普通の会社員の月収は、だいたい銀貨五枚から六枚くらいだな。一ヶ月普通に過ごすなら、銀貨一枚か二枚は貯金できる。冒険者の平均収入は大銀貨一枚から二枚。ニュービーの冒険者なら、大銅貨三枚くらいかな」
フローラ曰く、貨幣の価値は十進数で統一らしく、銅貨十枚で大銅貨一枚。大銅貨十枚で銀貨一枚らしい。
銅貨より価値の低い鉄銭も存在するが、これは量が多く、細かいのであまり使われないらしい。ちなみに、鉄銭は百枚で銅貨一枚になるらしい。
(ということは、鉄銭一枚が一円位か。銅貨一枚百円だとしたら、銀貨一枚は……一万円!?てことは、このキーホルダーこの世界じゃ二万円相当てことか!?)
いや、ありえないだろ。
彼女の説明から察するあたり、この世界の文明レベルは明治初期くらいだろう。
なら、これくらいの技術はあってもいいと思うんだが……。
「ペーパーナイフは高いんだよ。この国だと、そのペーパーナイフを所有しているのは大方貴族くらいだからな。そりゃ、その分値段も高くなる」
よくわかったような、わからないような。
そんな事を思いながら歩いていると、ようやく二人は森を抜けた。
「おぉ……」
思わず、息が漏れる。
ザーッと強い風が吹いて、森の木の葉が舞った。
森の外に広がる、広大な平原。
その向こうに見える、巨大な防壁。そして、その手前に広がる、簡易的な村。
神人はブレザーのポケットから携帯端末を取り出すと、思わず写真を撮った。
幻想的なその風景は、普段写真を撮らない彼でさえ、残しておきたいと思うほどの絶景だった。
「やっぱり、凄いか?」
「ああ。こんなの、初めて見たよ」
「そうか。喜んでくれて何よりだ。さて、ここからあそこまで、徒歩で一時間くらいだ。早く行って、服とか諸々の支度を整えよう」