十一話
「あー、染みる〜」
そんなおっさんめいたうめき声が、扉越しに響いてくる。
たしか彼女はイイトコのお嬢さんだったようだが、今の態度には丸でその影が見当たらない。
どうやら午前の討伐で、多少荒々しい事をした為か……いや、それよりも以前に、神人と出会ったその頃から、その凶暴の一端が垣間見えていたようにも思えるが。どうやらそのせいであろう。
フローラはうんと伸びをすると、目を瞑って一人考え事を始める。
……先程の子供。たしか特級冒険者のエミリーとか名乗っていたか。
彼女はどうやら日本語が話せるらしい。それも、フローラとは違い、ナチュラルな方法で。
「ぐぬぬぬぬ……」
フローラは唸り声をあげると、彼女の思惑や、これから取るであろう対応について頭を悩ませた。
まずそもそも。
なぜ、入ってくる時に日本語でこちらに話しかけたのか。しかも大声で。
これが一番の謎だ。
彼女――エミリーの性格を鑑みるに、何も考えず、ただ自分が知っている日本語で会話している神人の声が聞こえたから、という可能性もある。
だが、扉の外から聞こえたと言うのであれば、それはまた違った意味を持ってくることになる。
それすなわち、昨日の会話も、誰頭に聞かれていた可能性だ。
まさかこんなところに奴らの手先が紛れているとは考えにくいが……。いや、吾輩のような能力を持っているのだ。何かしらの方法で生き残るに違いないと、吾輩なら考える。
なら、村に手下を配置するという考えも頷ける。
ただし、そんな数の人員がいるとは思えない。
……考え過ぎだな。
エミリーが神人に対して罵倒を叫んでいたことからも解るように、彼女は彼に興味がなさそうだ。
あとは神人の精神衛生上のうんたらかんたら及び、今後の面倒事対策として、引き続きバベル語の教養を施すだけだな。
フローラはもう一度伸びをすると、今度は湯船から出てもう一度体を洗い直すことにした。
しかしこの時、彼女は気がついていなかった。
エミリー・ホーキュエルはフローラ・ヘヴンに対しての質問にも、日本語を使っていたことに。
出雲神人は外国語が苦手だ。
必修科目である英語の成績は、五段階評価中三であり、小学生の頃は『良くできました』『できました』『頑張りましょう』『無理ですね』の四段階評価中、連年『頑張りましょう』を獲得していた。
それでもまだ『無理ですね』という謎の、教師からの断定の「あ、この子学ばない子だわ」と確定されなかっただけ、まだマシというものである。
因みに幼馴染の芦原神奈は、国語、算数、理科、そして社会と四教科とも『無理ですね』を断言された時期があった。
あの頃はたしか、親父さんにすっごい怒られて、泣き喚いた結果家出して、そこから数ヶ月くらい共に寝食したことがある記憶がある。
さて、そんな回想はさて置き。
「それじゃあ復習だ。バベル語で私の名前は出雲神人ですと言ってみろ」
ベッドの端に腰掛け、足を組んで肘をつきながら、さも面倒臭そうにそう支持するフローラ。
(えっと、私はイヒで、名前はナンム。be動詞に当たるのがイズィットだから……)
「イヒ ナンム イズィット 出雲神人」
「違う。イヒじゃない。Ichだ。ヒじゃなくて、こう、フィとヒを同時に発音するみたいな感じだ。あと、ナンムじゃなくてname。ナはほとんど発音しないようにして、だけどこう、ンナッみたいな感じだ。istはイズィットじゃなくて、ist。最後のtはほとんど発音しないし、最後は消えるようにしてist。わかったか?」
「……わかった」
神人は難しい表情をして、再度発音に挑戦する。
そんな様子を見てフローラは、先に文字を教えたのが不味かったかと、少しだけ後悔した。
バベル語の文字の形は、英語のアルファベットによく似ている。
違うのは、eの形が左右が逆だったり、Aの形が上下反転していたり、Wという文字が存在しないところだろう。因みにこの言語では、Wに当たる文字はUの上に波線のようなものが引かれているような形をしている。中には形そのものが違う物もあるのだが。
だからだろう。
彼は文字を見て、それにアルファベットを当てはめて考えている。それ故に発音がなかなか上達しない。
神人は思う。
文法や単語は英語に似ているが、発音はいつの日か祖父が話していたドイツ語に似ているな、と。
でも、神人はドイツ語なんて習ったこともないし、そんな興味はついぞ持たなかったため、その細かい発音というのが難しい。
特にnameという単語。
話し続けていると、なんだか喉が詰まりそうになる。
ほとんど発音しないというのも難しい。
英語で言うlightのghとはまた感じが違うのだ。
「じゃあ次。はいはバベル語で?」
「えっと……なんだっけ?」
「Phayだ。じゃあいいえは?」
「……ヘッツ?」
「Hetな。ツじゃなくて、こう、詰まる感じでhetって言う感じ。はい、練習開始」
――こうして、日課の授業をしながら、夜は更けていくのであった。
(どこにいるんだろ、あの泥棒猫)
日本の、某私立高校の教室。
キーンコーンカコーン、という何か独特なチャイムを聞きながら、芦原神奈は机に肘を立てて、シャーペンのヘッドで、下唇を突いていた。
「かーんなっ!っとわっ!?」
「うわっ!?あっぶな……どうしたの、佐藤さん?」
後ろから突如抱きつこうとしてきた友人に、ほぼ条件反射で手刀を繰り出すが、ギリギリでセーフする神奈。
「え、さと……あ……うん。えっとね?何だか、我、此処に非ず!って顔してたから、気になっちゃって。ほら、数学の木下がキーキー言ってたのに、えーっと、なんてったっけ。ミンチ?切ってたでしょ?」
「それって確かメンチ切るだよね?あとそれだと睨むって意味になるよ、佐藤さん?」
「あれ、そうだっけ?……まぁいいや。それで、どうしたのさ?さっきの体育でいい男でも見つけたの?もしかして浮気?」
「次言ったら骨折では済まさないから」
「ごめんって!あと目が笑ってないよ、怖いよ!?……で?」
(わざとらしい……)
人を食ったような話の振り方をする彼女に、正直ため息をつきたい気分になりながら、どうせ信じてもらえないだろうと思いつつも、今朝の出来事を話して聞かせる。
「ふぅん?だから今日は愛しのダーリンと登校してこなかったわけか」
しかし、彼女は思いの外すんなりとその話を信じてしまった。
(い、愛しのダーリンだなんてそんな……。佐藤さんってばもう……///)
「え、信じるの佐藤さん!?」
そんなことはおくびにも出さず、とはいかなかったようで、顔を真っ赤に紅潮してみせる神奈。
怪訝に思ってそう尋ねてみると、彼女はへ?という顔をして、それからしばらくすると、肩をすくめながら言った。
「だって神奈、そういう変な嘘は吐かないでしょ?あと演技だとしても、アンタは嘘つくの下手だからすぐにバレるっつうの」
「……」
ぽかーん。
そんな擬態語が、中空に滲み出て目に見えるような顔で、彼女は唖然とその友人を見つめる。
このふたり、実は今年になって初めて出会ったのだが、既に互いのことをそれなりに理解し合っているようだった。
「それで、何時集合?」
「集合?」
突如、そんな風に唖然としている神奈にそう提案してくる佐藤さんに、神奈はなんの話かわからないという風に聞き返す。
「探すんでしょ、愛しのダーリン――出雲神人君を」
またしても愕然とする神奈。
何この子、もしかしてエスパーなの?
そんな下らない思考まで浮き上がってくるほどに。
「どうしてわかったの、佐藤さん?」
「アンタの事だから、一人で突っ走って、闇雲に探そうとするんだろうなって思っただけよ。それに、出雲君一筋で、元気があまりあって溢れかえっている友達がそんなにしょんぼりしていたら、こっちとしてもイヤなのよ」
神奈は、その少女の話を聞いて、ニッと口角を上げた。
「ありがとう、佐藤さん!」
「あ……うん。いいけどさ……。あの、神奈?さっきからキミは佐藤佐藤って言ってるけど、私の名前は伊藤だからねっ!?」