12/26(月)
隣に座る、胸元の大きく空いたドレスを着た女が微笑みかけてくる。アルコールがきっちりと回った頭は、それに一応笑い返すという世間と迎合した行為を拒否した。
「はなでーす。お隣いいですかぁ?」からの、「みんな同じ会社の人なんですかぁ?」へと続く一連を面倒くさいと思いながら適当に受け流し、途切れる会話にウイスキーのお代わりを頼む。
昨日も少し動きすぎた。そこへ来て今日の今年最後の追い込み。簡単な食事会からのキャバクラ。まぁこんなものだろうという流れ。
元々得意ではないこういった空気の中で更に全てにうんざりしつつあり、それはどこか違う世界の事の様にさえ感じた。
高野が歌う安っぽい愛の歌が耳に刺さる。隣のテーブルの就労ビザ組が騒ぎ立てる声。隣の女の、ねぇ大丈夫?などという猫撫で声。
「ごめん、飲み過ぎたんでちょっと休ませて」
「えーと。水くださーい!」
香水の匂いを振りまきながら目の前に置かれる氷水の入ったグラス。それを一気に煽り、不愉快に柔らかいソファへと再び体を埋めた。
気が乗らないどころではない二時間をやり過ごしてタクシーへと乗り込んだ。使い込まれた携帯電話を開き23:15という無機質な数値を眺め、それを閉じる。
皆は、まだどこかへ行くらしい。付き合いが悪いという言葉も頭に浮かんだが、最低の気分は俺をその場から逃げ去らせるのに大した迷いも生み出さなかった。
窓から流れる黒い風景たち。
思惑通りお役御免になった昨日までの電飾たちを、心の中で嘲笑った。
そんな事を考えている間に程なく車は家までたどり着いた。
稼ぎ時なのであろう勢いよく走り去るタクシーの後姿を一瞥した俺の足は、何となしに家とは逆の公園へと向かう。
見慣れた風景を眺めながら、今日はなんとなくブランコの囲いに腰かけていた。
尻にめり込むパイプの冷たい感触を感じながら携帯電話を取り出す。
やたらと眩しく感じる23:30の表示は、俺が諸々を捨て去るまでの時間が残り短い事を教えていた。
煙草に火をつける。
なんと言うか、少し清々しい気分でもあった。全てがなかった事になる、いや、自分の意志でそうするのだ。
さてどこに引っ越すかな、などと考え、その行為が少しばかりの貯金を大きく抉ってしまう事に気付く。しかしその貯金自体がもうどうでもいいなどと思っていた癖に、それを吐き出してしまう事への葛藤を感じる自分に一人苦笑いを浮かべた。
23:48。再び開いた携帯電話の画面に表示される時刻。
次の煙草に火をつけた。終いの場所はここでいいだろう。
脳裏に焼き付けられた妄想に、いつまでも縛られている訳にはいかない。
叶う事がない希望。その温かい感覚は、もはや呪いと同意だった。
奇跡だなんだというのであれば。
ただの一度でもいい。
彼女の声が聞きたかった。
煙草の吸い過ぎと、醒めつつある酔いが残す頭痛に軽く顔を歪める。
相変わらず眩しいその表示が23:49へと表示を変えるのを見ながら再び深く煙を吸い込み、顔を上げる。
……そこにある光景に、思わず目を見開いた。
今までもそこにあったかのように、しかし有り得ない光景。
俺から十数歩の所だろうか。
小柄な女が立っている。
浅黒い肌。黒い髪。少し吊り上がった大きな目。長く尖った耳。そして奇怪な装飾が施された所謂それは……水着といえばいいのだろうか。
このくそ寒い中に水着で現れた女がこちらを睨みつけ、口を開く。
「@+#!/@.&%#!スワーッカサ!%=#%!」
日本語とは明らかに違う、明らかな敵意のこもったその言葉たち。イントネーションのおかしい俺の名前。
しかしその言葉は。
俺の妄想が、妄想ではない事をこの場で証明していた。
「%_$_-&/!=$……」
何かを小さく囁く女が姿勢を下げた。どことなく猫に似ているようなその顔をこちらに向け、右手を地面に着ける。
未だ酔いの残るその頭は、しかしかつての戦場、あちらの世界を脳裏へと即座に蘇らせた。
魔族と呼ばれるもの。
大きく分けると彼らは2種類。戦闘型と魔法型。圧倒的な身体能力を誇る前者の中でも特に優れた一部は、下げた姿勢から弾丸のように飛び掛かり、相対する者の首を素手で吹き飛ばす。
それは猫や虎、豹のような動きであり、少し溜めるような動作からその死は放たれていた。
そう。ちょうど目の前の女のように。
かつての経験がそうさせたのか、煙草を放り投げながら反射的に右へと大きく跳躍する。それは女が公園の砂を蹴り飛ばすのと同時だった。
全力で右へと跳躍した体が地面を滑り、揺れる視界の中で慌てて手をついて立ち上がった。
再び視線をやる先。そこには。
先程立っていた場所から幾らも変わらない場所で、鼻を抑えうずくまる女がいた。
顔を上げた女がこちらを見て急いで立ち上がり、再び姿勢を下げる。……再び、同時に右へと跳躍した。
立ち上がった俺の十歩ほど先。……先程と大して変わっていないのだが。
再び顔を上げた女はもう涙目だった。膝から少し血が出ている。派手に打ち付けたのだろう、鼻が心なしか赤い。
「……えぇと」
「%_$_-&/!=$!」(どうなってんだ!)
ひたすら懐かしい言葉を泣き顔で発しながら女が再び立ちあがった。しかし流石に寒いのだろう。少し内股になり、両手で肩を抱えるようにしている。
「?$=+&..?_/++#&=$$*.*」(もうやめとけ。こっちじゃお前らも俺も、何の力もない)
「=@?%/*=%*-!++*-/.#.+/!」(ふざけるな。仲間の仇、討たせてもらう)
「/_=#?@//=?……」(無理だって……)
再び姿勢を下げた女が、不細工な蛙のように一人で地面へ飛び込むのを眺めていた。
「%_$_-&/!=$……」(どうなってんだ……)
完全に泣き顔になりながら顔を上げるそれに近づく。
慌てて立ち上がろうとして再び盛大にずっこける彼女に、来ている安物のジャンパーを投げてよこした。
「++?@&!*!++??。$..$$$$__@=_#?-*=.」(取引がしたい。あと、それ着ろ)
久し振りで少したどたどしい言葉に、悔しそうな顔を浮かべている。しかし当たり前だが、恐らく尋常でなく寒いのだろう。少し紫色になった唇で頷きながら素直にそれを羽織る女。
「$=-$+&&*=」(ついてこい)
「_&$!%./.#&$*/+-_-=_?!?」(どこへ行く気だ!?)
「*#+=&%@_!+*.=.#-@+-*。@_!+*.=.#-@。」(取引って言っただろ。寒いからあっちで話すだけだ)
「$!%.$*/……」(くそ……な、お前何で泣いてんだ?)
自分も寒いが、そんな事はどうでも良かった。
こいつが存在するという事は。そしてここに現れたという事は。
浮かび上がったのは、笑みでは無かった。
軽くべそをかきながらアパートへと足を向ける。
現実が安売りの奇跡を駆逐し終え、やっと日常を取り戻した頃。
それは少なくとも俺にとっては。遅れて来た本当の奇跡だった。