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承(陽)31

あれから更に数日が経っていた。

昨日は妹のところと一緒に回転寿司を食べに行き、それが生魚が少し苦手だという事実が分かったが……明日の晩からは既にどうでもいい事だった。少なくとも俺の記憶の中で、あちら側では生魚を食べる習慣がない。

まぁ要するに。今晩が満月だ。


「じゃあ、そろそろ準備しろ。出掛けるぞ」

「でかけるっていうか、かえるってかんじだよなー。お前はちがうんだろーけど」

「んな事ねぇよ」

「マイにはちゃんと話したか?」


「ちゃんと? あぁ、昔の事は気にしていないとかって話なら」

「そっか。あと、こっちのしょりとかなんとか?」

「大丈夫だ。出来ることはしたし、そもそも当人居なけりゃどうにもならん。妹にも相続出るような財産ないから放棄しろって話になってる」

「そーぞく?」


「ああいや。とりあえず大丈夫だって。逆に最後まで迷惑かけっぱなしで……色々謝った」

「マイもいい奴だよなー」

「……そうだな」

確かに。俺に加えて、突如現れたこいつの事を「本当に宜しくね」などと心配する程度にはいい奴だ。


「じゃ、わたしはもうだいじょーぶ」

「大丈夫ってお前、そもそも荷物ってほどの物なんてねぇだろ」

「お前だってそんなふくろだけでいーのか?」

それが見詰めるのは俺が肩から掛けたトートバックだった。見た目よりも物は入る。入っているのは数日分の下着と煙草くらいのものだが。……あちらの下着は少し難がある。

ついでに、それがこちらに着た折に身につけていた、下着と遜色ない程度の布切れも入っている。

後は現地調達で十分だろう。


「何とかなんだろ。じゃ、行くか」

「おー。うまくいくといーな」

「まず問題はそこなんだけどな」

「だいじょーぶだって」

「……おう」

時計を確認しようとして、既に何もついていない壁へと視線をやり、軽く苦笑いしながら腕時計へと視線を落とす。そこには23:00と表示されている。……その行為を行う頃には、恐らく日も跨いでいるだろう。


「てつうまも今日でさいごだなー」

「だと思うんだけどな」

相変わらずチョークを引くまでもなくあっさりと火の入ったエンジンが、深夜の住宅街に低い音を響かせる。

既に世間体など気にする必要もないが、迷惑をかけて気分がいい訳もない。それが後ろに跨るのを確認し、右手はごく浅くスロットルを開いた。


平日のこの時間であり、道路上の車は少ない。

上がる車速で少し惜しいような感じを覚えつつも、しかし目的地は足早に近づいた。海沿いの広い道に出た所で更に排気音と車速が上がる。

最後……になる予定のツーリングじみた行為は結局一時間もかからずに終わりとなり、俺達は既に見慣れつつある駐輪場へと降り立っていた。


いつも通りの動作。自分のヘルメットをホルダーに掛け、それの被っていた物を受け取りそれも金具に通してから鍵を掛ける。

そして恐らく数日はこの場所に車体が残る事を考慮してセンタースタンドをかけ、ふと振り返った俺に笑って見せたそれと共に公園の奥へゆっくりと歩き始めた。


「なー」

「何だよ」

「あのあったかい飲みもの、もっかい飲みたかったなー」

「あれが売ってる時期まで、俺の作った野菜炒めを何回食べる羽目になると思う?」


「ごはんは私がつくるからだいじょーぶだってば」

「あのなぁ」

「しょーがないかー」

「こっちでの最後の望みがそれかよ」


「こっちにきて、お前にあれもらった時が一番おいしーっておもったんだよなー」

「柑橘と砂糖と蜂蜜ならあっちでも作れんだろ。同じ味になるかは知らねぇけど」

「うーん」

「落ち着いたら作ってみるか。少し先になるんだろうけど」

「あー、えーと。……そーだな」

再び笑って見せたそれ。

そして足元の芝生。防波堤の先の海。その頭上には丸い月がやたらと輝いている。


「じゃ、やるか」

「おー」

柄にもなく少し緊張したような表情のそれの手を握った。








全身に蓄えられた魔力。それを自分の起点となる部分へと集中していく。自分を中心に1メートルほどの範囲の空気が静かに歪み始めるのを感じていた。

あちらで使っていた転移の魔術の……上位とでも言えばいいのだろうか。恐らくその根本は変わらない。自分が繋ぎ止められた点を開放し、目的の点に繋ぎ変えるだけだ。


言葉にすれば簡単なのだが。

感覚的には……足元と言えばいいのだろうか。世界との繋がりを掴むような感触を感じた瞬間に、差し込んでくる不安。

この世界という根本からまず自分の存在を切り離したとして、繋がるべき点が都合よく見つかるのだろうか。そしてそれが見つからなかったら。

一度伸ばしていた手をひっこめるような感覚と共に、閉じていた目を薄く開く。視界の端でこちらを不安気な顔で見詰めるそれに、しかし思わず苦笑いを浮かべていた。


いや。上手くいかない訳などない。目の前のこいつと俺自身が証拠であり、こいつがここに居た期間は俺がそれを為せる可能性であり、そしてその可能性は今の時点では満点に近い。勝率が100%に近い賭けに何を恐れる必要があるのだろうか。


「……俺を誰だと思ってんだ」

「スワツカサだろ?なに言って――」

反射的に答えたのであろう、それの言葉が続くが……悪いがそれは耳に入らなかった。


「英雄の一人で魔王を屠った者達の一人だ。そりゃあこっちじゃあ――」

自分でもなにを言っているのか分からない言葉を吐きながら目を閉じる。再び指先に触れるような感触を力任せに握り、そのまま粉々に打ち砕いた。


「え? わ、わわわ……」

すっかり聞き慣れたそれの声がすぐ近くで聞こえる。やたらと遠く感じる体の感覚が、それが俺の左腕にしがみついているのを他人事のように認識していた。


繋がっていた筈の世界から解放された俺達が、再び繋がるべきところ。帰るべきところ。その座標を懸命に探す。

やたらと広い部屋の中の一点のような、或いは途切れることのない樹木の枝のような。


消耗する魔力が、続く供給と釣り合わないのは明らかだった。少し焦りながら目的となる点を探すものの、このままではどこにもつながらない漂流者にでもなり兼ねない想像に必死に感覚の指先を動かす。

そこで思い当たる単純な事実。

こいつがこちらに移ってきた時に、目的としていたのは何だろうか。誰だろうか。


「……リオナ」

額に浮き出す汗が、もはや上なのか下なのかもわからない方向に泳ぎ出す頃。閉じた目には何も映らないが、恐らくは虚無の空間に漂っていたのであろう俺の口から吐き出された明確な目的。

その人物。段々と薄れつつある表情と、凛とした印象。いつも自分に勇気を与えてくれた声。細い指先が触れる感触。俺が気力を失わずに生きられた、俺の根源。

その名は。砂場の中に光るガラス片が、小さくしかし明確に光を反射するようにその場所を俺に指し示した。


「――っ!」

残る力を振り絞るように、駆け寄るような、泳ぎつくような、引き寄せるような。そこへ至る事以外の全ての感覚が暗転する。

最後に残ったその光に腕を伸ばす感触だけを最後に――俺の意識は途切れた。


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