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承(陽)29

俺が一時間強を掛けて確保した小さなレジャーシートはその役目を終えつつあった。

周りに同じように陣取っていた者達が立ち上がり、談笑し、歩き出し……そして皆等しく奇異の視線を向けてくるのを感じながら立ち上がる。


「おい。」

「……。」

相も変わらず顔を伏せたままのそれ。

八つ当たりのように、向けられた幾つかの視線を睨み返しながらその前にしゃがみ込む。


「取り敢えず、立て」

「……。」

「……あと。悪かった」

その言葉に、少しびくりとしたようにひどい顔が上がるのを見て立ち上がる。


「……べつにわるくない。こっちこそごめん」

「いや。えぇと。とりあえず、端の方いくから立て」

それがのろのろと立ち上がるのを待つと、人の流れに逆らうよう幾分か人が少ない方向へと歩き始めた。




浅はかだった。

負の感情ばかりの世界で生きてきた者に、こんなものを見せて何になるのだろうか。まして、これからそこへ帰ろうとさえしている。

何とかしてやる、など言ってはいるが実際のところ俺だってどこまでできるかわからない。戻れば再び血生臭い毎日が始まる。

そんなこいつに、こんな煌びやかで欠伸の出るような世界を見せてどうする。そんな所には帰らないで、ここに居れば楽しいぞ? とでも言っているようなものだ。

軽くため息をつきながらそれの隣に座り込む。


「改めて。悪かった。もうこんな茶番は無しにする」

「いいって。……きらきらしててすんごかった」

「確かにすんごかったな」

「こっちじゃああいうのもあっちこっちに――」

ポケットの中から響く着信音。まぁ、妹か旦那からだろう。口を止めたそれに一瞥し、二つ折りの携帯電話を開いた。




「こっち来るってよ」

「……そっか。マイ、見られたのか?」

「知らん。そんな事よりお前さ」

「うん」


「……こっち残るか?」

「……。」

「答えなくてもいい。ていうか今は答えないで良く考えて決めろ。で、そうしたいなら早めに言え」

「お前。そんな事できるのか?それに私は――」

「答えるなって言ってるだろ。俺が向こうに行くからって、別にお前が消えてなくなる訳じゃない。色々問題はあるけど」

色々どころではない。どこの誰かも分からないこいつが生活するのにはそれなりに問題もあるだろうが。

それでも、何とかなるだろう。何しろ、こいつは確かにここに居る。


少し離れた所で手を振る妹の姿を見つけ、立ち上がった。


「……うん。わかった」

「じゃ、いくぞ」

「あのさ。えぇと。なんていうか……ありがとう」

考え込むように帰った言葉。

それに軽く頷いて見せ、先ほどの場所から一歩も動いていない妹たちの方へと歩き出した。






「リおちゃんごめんねー?」

「なにが? あ。マイはざんねんだったなー」

「まぁ、また来るからいいけどねー」

後部座席から聞こえるそんなやり取りを聞きながら車の窓を開ける。

あの後もぐずり始めて止まらない姪の状況から結局さっさと帰る事になった俺達は、再び座り心地のよい高級車のシートに腰を埋めていた。

まだ帰る人間は少ないらしい。駐車場に並ぶ大量の車が見切れていくのをぼんやりと眺めていた。


「これ、返る時に混んでたら悲惨だな」

「そうなんですよ。久し振りにすんなりの帰り道ですね」

「そんなしょっちゅう来んのか?」

「まさか。疲れちゃうんで一年に一回がいい所です」

「年に一回も来るのかよ」

恐らくは想定外であろう感想を述べながら、窓を閉める。

俺のよく知っている所謂車とは対照的に静かな車内。サイドミラーを眺めると、口を半開きにして眠っている妹が映っていた。


道理で静かな筈だ、などと考えながら軽く振り向くと、後部座席の3人は眠りこけていた。

どうでもいいが。それが思い切り口を開けたまま眠っているのが目に入り、軽く眉間に皺を寄せながら前へと視線を戻す。


「まぁ、疲れますからねぇ」

「俺だって疲れるっつの」

「お義兄さん、煙草吸い過ぎですよ」

「確かにちょっと今日は本数多かったな」


「少し減らした方がいいですよ?」

「減らねぇだろうなー」

「でも、これから行く先、同じ銘柄の煙草あるんですか?」

銘柄どころではない。そもそも、煙草自体が無い。


「……。」

「ですよね。やっぱ減らした方がいいですよ」

「そうだよなぁ……」

残り二本になっている筈の煙草の箱の在りかを探るように太もものポケットを撫でる。


「所で。」

「ああ。」

「お義兄さん、りおちゃん、何かあったんですか?」

「……まぁ。あった」


「余計なことしちゃいましたかね」

「余計な事だったとは思うけど、それは多分俺が悪い。あれの状況が分かってるのは残念ながら俺だからな」

「意外な台詞ですね」

「茶化すなよ。真面目に話してる」


「あぁ、すみません」

「あのさ、戸籍も何にもない奴が普通に生活できるもんか?」

「難しいですね。まずは警察のお世話になる必要があるかもしれません。そういう世界で生きるのなら別ですけど」

「……こんだけ色々充実してるのに、人間一人、普通に生きるのが難しいんだもんなぁ」

正確には人間ではないが。


「充実というか。色々整備されているからこそ、そこから外れた人間には厳しいんですよ。うちの会社も下手すれば1回失敗したらもう席ありませんし」

「何だそりゃ。俺なんてさんざ失敗してるからとっくに無職だな」

「現に無職ですしね」

「そうだなぁ」


「ちょっと色々当たってみますよ。伝手もあるので」

「悪い。当人がそうしたいって言った時に無理っていうのも何だし」

「いやぁ。随分な熱の入れようじゃないですか」

「だから――」

「別に茶化していませんよ」

「……。」

そんな言葉に溜息で答える。

それきり静かな車内には言葉も流れず、ただ数人分の寝息を聞きながら、白いセダンは安アパートの前に到着した。






「風呂、先入っていいか?」

「あーい」

先ほどまでとはひどい落差を感じるフローリング。その先にある少し変色したユニットバスで行水を終え、ぼんやりと座り込んで待っていたそれに顎で風呂場を指して見せる。

無言の背中を見送り、煙草に火をつけた。


「あぁ。減らさなきゃいけないんだった……」

タバコの吸い過ぎの鈍痛を噛み殺すように、吸い込んだ煙を吐き出す。

それが狭い部屋の空気に消え失せていくのを眺めていた。


とりあえずはあれが結論を出すのを待つしかないだろう。

いずれにせよ「その時」までには答えを出して貰う必要がある。……とは言え、その為に時期が遅くなっても少しくらいは許容すべきだ。少なくとも、変なものを見せつけてしまった責任は俺にある。


黄ばんだ壁に掛かったカレンダーを眺める。

予定している「その時」まで、あと2週間ほどだ。それが一度で成功する保証もないし、今ばしゃばしゃと頭から湯を被っているのであろうあれにも悪いが……そう遠くない未来、彼女のいる場所へと帰れるという希望が心に薄く満ちる。

記憶から薄れつつある彼女の笑顔をなんとか思い出した頃。ユニットバスの戸が雑に開く音が部屋に響いた。




「じゃ、寝るか」

「きょうはいいのかー?」

「二週間後、満月だ。そこでダメ押し。十分だ」

「……そっか」


「俺の事はいい。失敗するかもわからないしな。とりあえずお前は――」

「うん。わかってるよ」

軽く微笑んで見せるそれの少し腫れた目。


「そうか。じゃ、俺は寝る」

「うん」

「電気、消して寝ろよ?」

「あ。消していいよ」

無言でリモコンのボタンを押して横になる。

ある種、それの定位置でもある窓際。そこに腰かけた憂鬱そうな顔に一瞥し目を閉じた。


「……あのさ」

「んだよ」

「私のお父さんは魔族の長だ」

「知ってる」


「みんな戦ってる」

「知ってる」

「あの後、死んだやつだって沢山いるとおもう」

「そうだろうな」


「それに――」

「ちょっと待て」

「……?」

薄い月明かりに照らされた涙の痕が残る顔、そこから視線を逸らして起き上がった。


「ここに居たいって言っても誰も責めない。向こうの奴らもお前は死んだものだと思っているだろうし、俺だって余計な事は言わない」

「いや、わたしは――」

「気持ちは分かる。後ろめたさも義務感を感じるのも理解はする。けどこの場合、その辺りに重きを置くべきじゃあない……と思う」

「……。」


「あと。もしお前がいなくても、俺は向こうでお前の仲間たちを助ける努力をする。これは約束する」

「そっか。ありがと」

「お前は自分がしたいようにすればいい」

「……。」


「もう少し考えろって。でもな、こっちの世界もいい事ばっかじゃねぇぞ。働かなきゃ飯だって食えないし。戦いがない事だけは事実だけど」

「……。」

「俺にしてみればこっちの方が理不尽な事は多く感じるし、やってらんない事だって――」

「お前はこっちが嫌いなのか?」

困ったような表情を浮かべるそれに、首を振って見せる。


「違うって。脅すつもりはないけど、後でやっぱり帰りたいって言っても出来ないからな」

「あぁ、そっか」

「多分、俺にできるまともな助言は少ない。お前ら魔族の事は戦う相手って事以上はよく知らねえし、少なくとも、俺は向こうの方が居心地が良かった」

「……。」


「満足な答えを返せるかはわかんねぇけど相談には乗るし、どっちを選んでも誰もお前を責めない。その上で、お前の選択に俺も協力する。そういった意味では……まぁ安心しろ」

「うん。……ありがとう」

「あんまし礼ばっか言うなよ。なんかやりづれぇから」

「にひひ」

返るのは少し困ったような笑顔。つられたのだろうか、少し口の端が上がっているのを噛み殺しながら再び布団に横になる。

表の通りを車が走る小さな音を聞きながら、俺の意識は闇の底へと沈んで行った。


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