承(陽)24
何事もなく毎日を過ごしていた。
普通に考えれば生きる糧に関わる時間を無駄だとは思わないのかもしれないが。
少なくとも今の自分にとっては月に一度の満月の日を待つ、暇潰しに他ならない毎日。
であれば、仕事という暇つぶしに関わるストレスという物は比較的小さい。
いつでもこんな稼業は放棄できる上、そうでなくとも数か月後にはおさらばだ。
……おさらばなのはこの世界丸ごとなので、もはや仕事とかそういう問題でもないのだが。
とは言え、そこへの注力を一切放棄して顰蹙を買うような真似をする程、情がない人間でもない。
体力を出し切りくたくたになる、という表現が適当な程度の仕事を終え、いつも通り家への道を歩く。
こちらも最近では連日の買い物も必要なくなっておりストレスも少ない。
強いて言えば煙草の残りを気にする必要がある。その程度だろうか。
「ただいま」
「おー。おかえりー」
間延びした返事を聞きながら作業靴を玄関に放り投げる。
「夕飯なんだ?」
「まーぼーってやつ」
「豆腐?茄子?」
「とーふー」
「そっか」
そんなやり取りをしつつも、キッチンからはガスコンロを着火する音が響いている。
どうかとは思うが、こんな生活はあと2カ月ほどだろう。
何しろ今晩は満月だ。
確信は持てないが、恐らく自分の体に貯めておけるであろう魔力は、もう最大値に近い。
今通っている現場である建設中のホテル、あれを更地に戻すくらいは可能だろう。まさかそんな事などする理由もないが。
聞き慣れてしまって相槌を打つでもない「うまいー」といういつもの言葉を聞き流し、中辛の麻婆豆腐を口に運ぶ。
それも事はわかっている。
食べ終えた皿をそそくさと流しに運び、いそいそと家着のジャージから服を着替え始めた。
「なぁ。少しは隠せよ」
「えー。ふろはせまいんだよ」
「じゃあ俺があっち行くって。言ってから着替え始めろよ」
「いひひ。恥ずかしいのか?」
「……早くしろよな」
ジャージの下から抜き始めたそれから目を逸らし、煙草をくわえてユニットバスへと歩いて行く。
狭い空間に響く換気扇の音。
この所の不満のない生活の中、強いて言えばこの換気扇が弱々しいことが悩みだろうか。
それが寝静まった後、まぁ諸々を処理する訳だが……どうも朝になっても臭う気がする事が時々あった。今はその空間に煙が充満している。
いや。匂い以外にも問題はあった。……ひたすら思いを巡らす妄想の中、俺の中でのリオナと入れ替わるように「にひひ」などと笑いながらそれが出てくる事の方が厄介だった。
つい思い出し、お前じゃねぇ、などという独り言を煙と共に吐き出す。
「おーい、もういいぞー?」
「……わかった」
返事と共に、根元まで灰になった煙草を便器の中に放り込んだ。
時計の19:15という表示を一瞥して扉を開ける。
先日買ったサマーニットの帽子を被るそれを伴って家を出た。
まだ混雑の残る海沿いの道を低い排気音がすり抜けていく。
家を出て一時間半。俺達は、最初にそれが満月との関係を発見した海沿いの公園に至っていた。
わざわざこんな所を選ぶ理由。
道に慣れている。夜は人が殆ど居ない。治安も悪くない。突飛な距離でない。何より知り合いに会う事がない。流石に家の目の前の公園で手を握り合うのは御免だった。
いつかそれが手すりで派手に跳躍した昇降口と書かれたガラス張りの塔の脇をすり抜ける。
その先に広がる、手入れされた芝生の斜面。
すっかり日も落ち、遠くまで見渡すのが若干難しくなりつつそこで、適当な位置に座り込んだ。
隣に座ったそれが、レモン味のスポーツドリンクをごくごくと飲んでいる。
「じゃ。いいか?」
「おー。今日は朝まで頑張るぞー」
「明日仕事だからあまり遅くはならない。っていうか、その表現はやめろ」
「?」
意味が分からない、というような顔をするそれに左手を差し出す。
思い出したように差し出された少し冷たい右手をそっと掴んだ。
取り出した携帯に視線を落とす。
02:00という時間とメールが届いている表示を見ながら、近くに置いてあったコーラを喉に流し込んだ。
目の前でうつらうつらとしているそれの肩を軽く叩く。
「そろそろ帰るか」
「え。あれ? ……うん」
あまり気乗りしない様子のそれ。
正直なところ、俺もあまりいい気分ではなかった。
見慣れたとは言え、苦しい生活や恐怖に染まった場面を繰り返し見て、いい気分な訳がない。
兎も角。それは立ち上がりかけ、再び座ってしまった。眠いのもあるのだろうが。
流石にその手を引き上げてまで立ち上がらせる気にもなれず、ぼんやりと辺りを見渡す。
目も暗い中にすっかり慣れていた。
数十m先。植込みの近くに蠢く、重なり合う人影。流石に行為に及んでいる訳ではないのだろうが。
思わず顔を歪めて視線を戻した所で、ちょうどこちらを見上げたそれと目が合ってしまう。
「どーした?」
「あぁ、いや。あれ」
俺が顎で示す先を立ち上がったそれが軽く眺め、ははは、などという乾いた笑いをこぼす。
「うらやましーのか?」
「別に。帰ろうぜ」
「にひひ。そーだなー」
何と言うか。
能天気に笑って見せるそれの表情。先程の座り込んでしまった折の表情は今とかけ離れたものだった。
恐らくそれを見下ろしていた俺の顔も暗いものだっただろう。
そしてそれを勢いで流したどこの誰とも知れない男女。
……まさか礼を言う気にはなれないが。
バイクのエンジンをかけながら、すっかり慣れた手つきでヘルメットの顎紐を締めるそれに告げる。
「あと2回くらいで行けると思う」
「……そっか。良かったな」
「ああ。もう暫くだ。宜しくな」
「こっちこそ」
あまり感情の籠らないようにも聞こえるその返事。
眠さもあり、それに何か反応するでもなく。
再び低い排気音が夜の道に響いた。




