承(陽)20
三階部分までが完成しつつあるビル。その麓で空を眺めながら煙草の煙を吐き出していた。
月曜日の朝9時を回ったあたり。
いつもなら休み明けの陰鬱な気分を引きずったまま、必死に汗を流している頃なのだが。
理由は単純だ。現場監督が自殺した。
何人かが掛けた電話に応答しないので元請けの会社に連絡した所、そういう事だったらしい。
らしい、というのは人伝の話などその程度の信憑性だという認識のせいだが。
何度か見かけた彼はこの所、顔色が蒼白だった。
人手が足らずに夜も現場事務所で必死に図面を書き足していたらしく、灰皿の脇で座り込んでいる姿を何度か見かけていた。
死ぬくらいなら逃げればいいだろうなどとも思ったが……そもそも自ら命を絶つ人間にまともな判断を下せる訳もない。
結果的に迫る納期と少なくとも今日明日あたりは仕事にならないであろう状況で、しかしそこについて文句を垂れる一部の職人達に同意する気分にもなれなかった。
俺が戻ろうとしているあちらの世界では、命は軽かった。安かった。
自身も数えきれないほどの命を屠ってきたし、絶命した仲間の姿も目にしてきた。
しかし、それでもその死を悼む気持ちは大半が持っていた。
少なくとも。工程が遅れるとか、仕事にならないとか、そんな事で命を貶める者などいなかった。
文明が発展し、法が整備され、極めて効率よく物事が進むこの世界。
少なくとも俺にとっては些細な事で縛られた世界。
居所のなさを別にしても、それでもここは息苦しくて堪らない場所だった。
例えば。
仮にあちらの世界に戻れないなどと言う状況になったのならば、俺は自殺などするのだろうか。
かつてはそれを考えた事実もあるが、逆に一度希望を持ったところで再びそれが叶わないというのは相当に堪える。
俺がそうした場合、残されたそれはどうするだろうか。
今頃、じきに現れる妹を待ちながら朝食でも食べているであろう姿を想像し……そこに一片の悲壮感も感じない事実にため息をついた。
当人の希望である元の世界への帰還こそが自殺であり、その望みが叶わないとなれば逆にこの世界で生存する未来だけが残る。
この所、簡単な日常会話程度ならこなしつつあるそれは、順応性も高く感じるし何より根本が前向きだ。
最悪そういった事態になれば、諸々の手続きには苦慮してもなんとかやっていくだろう。
そしてその未来を望まない俺としては。
もう一度溜息を吐く。
「鶏肉でも買って帰るか……」
「どんな独り言だよ」
いつの間にかすぐ近くにいた高野が、苦笑いしながら煙草に火をつけた。
「悪かったな。献立考えるのが心底面倒くさいんだって」
「いやー幸せな悩みだね」
「だから面倒くさいって言ってんだろ」
笑いもせずに文句を垂れる俺から視線を外した高野が空を見上げる。
「なにも死ぬことねぇのにな」
「真面目な風だったもんな。もっと手え抜きゃよかったんだ」
「今日はもう上がれってさ。さっき社長から電話あった」
少し意外な言葉を聞きながら煙草を灰皿の中に投げ込む。
昨晩の雨が溜まっているそれから、じゅっ、という小さな音が響いた。
相変わらず荒い運転のワンボックス車を見送る。
まだ昼も回っていないがいつも通り夕飯の材料を買って帰るためにスーパーに立ち寄り、家を目指して歩き始めた。
ビニール袋をがさがさと言わせながら鍵をポケットから取り出そうとして、鍵が開いている事に気付いてノブを捻る。
開く扉と振り返る2人の視線。
そこに言い訳じみた事を告げながら、靴を放り投げる。
「休みになった。まぁ気にせず続けてくれ」
「お兄ちゃんさ、なんでこういう時に帰ってくんの?」
「家に戻ってきて何が悪いんだよ」
「込み入った話をするところだったのに」
「込み入った話?」
「まぁいいや。りおちゃん、ご飯食べよう?」
「やさいいため」
「また野菜炒め?」
「いつも」
「うるっせぇ。作るのやめんぞ」
内容は兎も角、たどたどしいながらも正しい言葉のやり取りを残してキッチンへと向かうそれ。
一連の部屋の空気に脱力しつつ、つい言葉が出る。
「……大体、りおちゃんて何だ」
「名前、リオナちゃんって言うんでしょ? 嘘ばっかじゃん」
「お前ら。仲良くなりすぎだろ」
「妬いてんの?」
「連れて行っていいぞ。必要な時だけ呼ぶ」
「またまたー」
「またもくそもあるか。俺は心に決めた相手がいるんだって」
「……。」
つい漏らしてしまった本音に、初めて見る妹の間抜け顔が返る。
「とにかく、そういうんじゃない」
「鳥肌立つほど気持ち悪い言葉を聞いた」
「お前、嫌がらせしに来てるのかよ」
「まぁそういうのがあるのなら安心だけどさ。またどっか消えるんじゃないかって思ってねー」
鋭い指摘ではあるが。
煙草に火をつけながら振り返り、電子レンジのあたためボタンを押し込むそれを眺める。
言葉を覚えつつあるとは言え、まさかあちらの世界や魔術について説明する事など出来ないだろう。
妹はしっかり昼まで食べると、また明日聞かせてね、などと言って帰っていった。
気だるい空気が流れる部屋。
暇を持て余し、パソコンの画面を見詰めるそれを眺めながら、ぼんやりと過ごしていた。
「で、どうだ?」
「まだまだかなー。ぱそこんは早すぎて聞き取れないし全然わからない」
それが指さすのはパソコンの画面に流れる格闘技の動画。……解説は英語なのだが。
悔しそうな顔をするそれに苦笑いを浮かべつつ、次の煙草に火をつけた。
「あのさー。妹なんだけどさ」
「あぁ、なんだ? もう習うのやめるか?」
「違うって。おまえのこと、いろいろ聞かれた」
「例えば?」
「お前が昔何やってたか、とか」
「なんて答えた?」
「戦ってた、っていっといた」
「……。」
「そしたら、ガイコクかなぁとか言ってたぞ」
「確かに外国ではあるけどな。そういうのは良くわからないって答えとけ。大体、あっち側の世界がどうこうって、説明できないだろ?」
説明できないどころか、二人揃ってよくわからない病院にぶち込まれかねない。
「よくわかんないけど。たぶん、心配なんだと思う」
「次は面倒掛けないように片付けて行くから大丈夫だ」
「……うーん。まぁいっか」
「余計な事言うなよ?」
「分かってるって」
以前消えた折には、住処を含めて相当の手間をかけた筈だ。
今回はその辺りもしっかりと処理して消えようと思っている。問題はない。
大きくため息をついて立ち上がる。
「夕飯、鶏肉な」
「鶏肉はいいよな!」
予想以上に嬉しそうな顔をするそれ。
安上がりながらも予想通りの反応で、変に安心してしまう。
野菜炒めの材料ではなく、少し高めの鶏肉を購入した動機が何だったのかは忘れてしまったが。
三枚用意したもも肉は、夕飯と明日の昼の分だった。
さんざ迷いながらも翌日に割り当てられる筈の二枚目を平らげたそれ。
満足げな顔で皿を洗いに立ち上がるのを呆れ顔で眺めながら煙草に火をつけた。
じきに作業を終えたそれを待ち、三日おきの作業の準備を始める。
少し冷たい右手を握り、目を閉じて集中を始めた。
事を終え、布団で薄目になったそれが首をこちらに向ける。
「あのさー」
「なんだ? ……眠いなら寝ろよ」
「寝るけどさー。おまえの妹はいいやつだな」
「わからん。面倒掛けた割に色々して貰えてるからいい奴なんだろうけど」
「あんまり好きじゃないだろ」
「何か聞いたのか?」
「きいてないけどさ。この間、お前のむかしのことが見えたから」
「あぁ……。取り敢えず、昔の事だから気にしてない」
気にしてなどいない。少なくとも、今の自分には居場所がある。
帰るのに時間がかかっているだけだ。
「あのさ。本当に帰るのか?」
「当たり前だろ? 何言ってんだ今更」
「戦いもないし、ごはんもうまい。家族だっている」
「……。」
「本当にそこまで――」
「俺にとってはあっち側が正しい居場所だ。もう黙れ」
「……。」
「大体、犬死にする為に戻ろうとしてる奴が言う事か?」
「……犬死にじゃない」
「負けるって分かってる戦いするんだろ? 俺からすりゃそれこそ理解できねぇよ」
眠気に薄くなっていたそれの目は大きく見開かれ、何か迷うように唇が少し動く。
しかし、結局なんの言葉も紡がなかったその口からは大きなため息が漏れた。
「……。」
「……。」
「寝る」
「あぁさっさと寝ろ」
「……。」
「言い過ぎた。悪い」
「よけいなこと言ってごめん」
「いや。……さっさと帰ろう」
「うん」
静かに寝息を立て始めたそれから視線を外し、再び煙草に火をつける。
溜息と共に吐き出される煙に一瞥し、明日の目覚ましの時間を確認し始めた。




