承(陽)18
「――きろ――!」
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
「起きろって!」
「何だようるっさいな……」
ゆっくりと明瞭になる意識。
薄く開いた目に映るのは、少し明るくなりつつある海。フェンス。ベンチ。そして目の前にある何とも言えない表情を浮かべたそれの顔。
「起きろってば!」
「起きてるから……」
欠伸と共に吐き出される言葉。
腕時計に視線を落とす。そこに表示された6時半という時間を見てそれを押しのけるように慌てて立ち上がり……今日が休みだという事を思い出す。
困ったような表情のそれを一瞥し、再びベンチに腰掛けた。
「なぁ、だいじょーぶか?」
「悪い、少しやり過ぎた。起きるの待ってる間に寝ちまった」
「えーと。寝るのはいいんだけど……」
「……あ。」
申し訳なさそうに隣に座り込むそれ。その表情の理由に合点がいき、少し表情が強張るのを感じた。
印象に残っている場面が流れ込んでくる。それは一方通行ではあるのだが……先程の行為は今までとは逆だった。それが何を意味するか。
「何が見えた?」
「いや。えーと。なんて言うか……ああいう顔してるんだなって」
「顔?」
「お前が戻りたい理由のやつと、他にもいろいろ」
流石にいい気はしなかった。その内訳が予想通りなのが救いだろうか。
平静を装い、茶化して答える。
「そうか。どうだ? 美人だろ?」
「いやそれはいいんだけどさ……」
「……?」
「ごめん。この前、すぐにやめた理由がわかった」
「なんだよ。一体何が見えた?」
「またこんど話すってば。もう帰ろうよ」
「気になるだろうが。話せって」
「うーん」
こちらに視線を向けたそれは再び海の方へと向き直る。
その口が開かれるのを待つように、煙草に火をつけた。その仕草に観念したらしいそれが、やっと言葉を発した。
「えーと。泣いてた」
「あぁ。向こうに帰りたくて何度か泣いた。みっともないけど」
「帰りたくて? そっか。でも何とかなりそうだし、よかったな」
「そんな勿体ぶる程の話じゃないだろ。自分が何を気にしてるんだか不安だったけど、まぁ予想通りで安心した」
「そ、そっか。ならいいや」
「帰ろう。腹も減ったし」
「おー」
「牛丼でも買って帰るか」
「うん。ぎゅーどんがいいな。はやしらいすは飽きた」
「贅沢言うな。毎日ふりかけにすんぞ」
「ええぇ……」
まぁそんないつも通りのようなやり取りを終え、立ち上がった。
しかし振り返った先のそれは地面を見詰めて固まっている。
何となく。先程の話に嘘が混じっているのは感じていた。他にも、何か気が滅入ったり考え込むような内容が含まれていたのだろう。
しかしそれが何だというのだろう。
あちらの世界への帰還。俺が生きる上で、それ以上のものなどない。
「何だよ。本当にふりかけがいいのか? 道混むから早く帰ろうぜ」
「……え? あぁ、そうだな。早く帰ろう」
思い出したように立ち上がるそれから視線を外し、改めて駐輪場へと歩き出す。
貯め込んだ魔力は予定を下回ってはいるが当たりはついた。満月が月に一度だとして、後2カ月もあれば俺も満たされるだろう。無尽蔵に魔力を垂れ流せたあの頃のようにはいかないが、魔術の行使で一度に吐き出せる量にも限度がある事を考えれば必要十分だ。
未だ煮え切らないような顔をしたそれにヘルメットを被らせ、家への道に太い排気音を撒き散らす。
◇◇◇◇◇
かつて自分達を統べた魔王と呼ばれる者を屠った1柱。スワ・ツカサ。
なにかあったか?、とでも言い出しそうな顔で先程こちらに一瞥をくれたが、今はただ眠そうな顔でぎゅーどんを口に放り込んでいる。
ただひたすらに恐ろしい敵だった筈のこいつは、会ってみればどちらかというと親切で、さんざ叩き潰してきた他の人間と変わりなく貧弱だ。
そう。本当に貧弱で……か弱い人間だった。
べにしょうがの袋をぷらぷらとしながら、さっき流れ込んできたこいつの記憶を思い出す。
暗い世界。
遠くに見えるのは恐らくこいつの両親と……こいつの妹であろう小さな女の子。しかしこいつの視線は、およそ家族に向けるそれではなかった。ただ自分以外の人間がそこにいるというだけの感情のこもらない風景。
両親が妹の頭を優しく撫でるのを眺めながら、心の中をびゅうびゅうと冷たい空気が通り抜けるのを感じていた。
場面が変わった。
相変わらず低い視点から沢山の子供をただ眺める繰り返しの光景。その何度目かで少し高くなった視線もやはり人の集まりをやたらと遠くに眺めているだけだった。
時折近くに現れる人影と、それに伸ばす細い腕。その手が届きそうになった瞬間その人影は踵を返し、他の人影たちと同じように手が届かない遠くへと早足で歩み去る。
記憶が流れ込んでくる間、休む事なく冷たい風が体の芯を凍えそうに冷やす。その細い両腕がどんなに強く肩を抱いても、冷たさが癒される事は無かった。
突然暖かい日差しが暗い世界に差し込み、冷たい感覚が途切れた。
誰も触れられず、肩を抱くのも諦め、もうぶら下がっているだけだった細い腕。その手をそっと握るあたたかな感触に、地面に落とされていた視線が前を向いた。
目の前に立ち、軽く微笑む女が腕を開き……凍える肩をそっと抱きしめた。
涙で歪む視界。ただひたすらに心地のよい暖かさに、思わず自分さえも微笑んでしまいそうだった。
いつの間にかその女の周りに数人の人影が立っている。そこから延びてくる掌。それを順に握り返す細い腕。
それらが、突然消えた。
ただひたすら暗い世界が再び訪れる。
ひどく早い呼吸。再び涙で歪む視界。這いつくばって辺りを探し回る手。
それは段々と動作を緩慢にしてゆき、やがて完全に動きを止めた。
再び吐息さえ聞こえない静寂と暗闇が訪れる。
絶望の感情だけが流れ込み、体の芯が再び冷たくなる感触。
呼びかける声に視線を上げた。
何か言っていたらしく、眠そうな顔がこちらをのぞき込む。
「寝てんのか? 食べるか寝るかどっちかにしろよ」
「ねてない。考えごとしてた」
「そうか。取り敢えず、さっさと食べろよな」
「ごめん、すぐ食べる」
「……どうかしたか?」
「考えごとだってば」
「まぁいいや。寝ていいか? いや、寝る」
「わかったー。でんきはこれ押せばいいんだよな?」
「そうそれ。あぁ、風呂入るならちゃんと髪拭けよ。風邪ひくぞ」
「わかったってば。だいじょーぶ」
「あーそうかい」
スプーンを口に運びながら、のそのそとふとんに潜り込む宿敵を眺める。
こんな恵まれた世界で。戦いなどない世界で。こいつはあちらに戻りたいという。
戻りたい理由が腕を広げた女である事は明白だ。似たような事を聞いた時にも否定はしなかった。その時には情けない奴だ、などと言ってしまったが。
自分を受け入れてくれる暖かい世界が、どんなに恵まれていなくても、争いに満ちていても、そこに戻ろうとする。それは端的に言えば、自分が帰ろうとしている理由とひどく似ていた。事実、自分は恐らく命を落とすであろう皆の元へ戻ろうとしている。
しかし。もしも。仮に。その理由が――
「おい」
それが思い出したようにふとんから起き上がった。
「わ!? なんだよ?」
「何見たのかは知らないけど忘れろ。俺も気にしない事にしてる。……意味がないだろ」
意味がない。
こいつが知る私の記憶。私が知るこいつの記憶。それらに、きっと意味などない。
目的を終えればこいつと私は敵同士だ。助けてくれるとは言っているが、そんな約束で全てうまくいくと信じる程ばかでもない。
余計な期待など、しない方がいいに決まっている。
「うん。わかってるよ。次もがんばろー」
「ああ、そうだな。寝る」
言い終わるのと同時に再び布団に潜り込む姿から視線を外し、ふかふかした頼りない白い器へ目を落とす。その器の先に映るのは、じゃーじーとかいう服のついでに買ってもらった服だ。濃い青色の厚手ズボン。ついでにやたらと肌触りのいいシャツを2枚。
親切を通り越してお人好しもいい所だ。戦い方を教えるなどという行為もまさにその表れだろう。
あまり意識もしていないのかもしれない。
きっとこいつは包まれる事に飢えている。それが満たされる向こうへと帰りたいというのも納得した。
「でもお前……」
先程遮られた思考の先が再開し、ふと口をつく言葉。
しかしそれは先程の『意味などない』という言葉に再び遮られた。
そうだ。向こうに戻るという目的。少なくとも今はそれ以外、こいつにとっても私にとっても意味がない。
余計な思考を振り払うよう軽く頭を振り、残り一口のぎゅーどんを口に放り込んだ。




