12
納期の迫る仕事を片付ける。
別にこちらの都合など関係ない。客がそう言えば間に合わせるものだ。少なくとも末端の俺達は兎も角、仕事の元請けとはそういう物なのだろう。
できない事はできないが、努力として少しの残業を終え帰りの車に乗り込む。
少し微睡んだ意識の外。運転席と助手席の間で垂れ流される文句を聞き流しながら窓の外を眺めていた。
ここ数日でお決まりとなった近くの幹線道路……と交わる道路端で車は止まり、そこで車から降りる。
相変わらずな運転で走り去る車の後ろ姿を眺めながら、この所毎日のように立ち寄るスーパーへと向かった。
「いるか?」
「いるよー」
相変わらず何も考えていないような声を聞きながら家に上がった。
ここ数日、毎日のようにぞわぞわする、などと言っているそれ。
日中全くする事がないそれは、暇潰しに、俺がトレーニング用に持っていたダンベルを毎日使っているらしい。
「今日はカレーな」
「かれえ? まぁいいや。ありがとう」
「茶碗、水につけとけって言っただろ?」
「あれ? あ、ごめん。明日から気を付ける」
どうでもいい会話もそこそこにして料理を始めた。
「うまいー」
「あー。そうかい」
溜息のように適当な返事をしながら、スプーンを口に運ぶ。
「なぁ?」
「なんだよ」
「ちゃわん、ごめんな?」
「は? ああ」
「なんか怒ってるのか?」
「怒ってない」
カレーは楽でいい。楽というのは、量を作っても手間があまり変わらない、という所だけかもしれないが。
それでも明日はこの作業をしなくていいと思えば少しは気も晴れる、筈だった。
……若干、苛立っていた。
何も手掛かりのない状況。犬の世話でもするような毎日。光明が見えた事で逆に焦りを感じつつある。
時折ちらちらと見るそれを無視してコップの水を飲み干し、お代わりを取りに立ち上がった。
再びそれを小さなテーブルに置き、カレーに突っ込んであったスプーンを口に運ぶ。
「なぁ?」
「だからなんだよ?」
「あのさ。私、何かしたか?」
「いや。強いて言えば、何もしてない」
「ごめん」
「何が」
「いや、そのさ。なんで怒ってるんだ?」
「……怒ってない」
「そっか」
気まずそうに視線を逸らして再びスプーンを口に運ぶそれから視線を逸らす。
大きくため息をついて、空になった皿を流しに雑に置いた。ほぼ同じタイミングで食べ終わったらしいそれがのこのこついて来て、皿に水を注いでいる。
煙草に火をつけ、部屋の隅に座り込んだ。
「なぁ。やっぱり怒ってるだろ?」
「怒ってないけど苛立ってる。少し話しかけんな」
「な……わかったよ。ごめんな?」
「何かしたのか? 何でもないのに謝るんじゃねぇって」
「……ごめん」
八つ当たりなのは自分でもわかっていた。それが更に苛立つのだが。
無音の部屋で少し黄色い天井を眺めながら煙を吐き出す。それは諦めたらしく、部屋の隅の布団の上で窓の脇に寄りかかって表を眺め始めた。
灰皿の真ん中のレバーを押す。仕込まれたばねで皿が回転し、吸い殻が缶の中へ吸い込まれるのを見て立ち上がる。取り敢えず、皿を洗おう。
数分の事でも、水に満たされていた皿は流水だけでその汚れの大半が落ちる。一度それを流し切り、やれてきているスポンジに洗剤を落とし皿を掴んだ所で、すぐ隣でそれがその様を観察しているのに気が付いた。
「なんだよ。驚くだろうが」
「なぁ、それ私やるよ」
「……皿割りそうだからいい」
「大丈夫だって。昨日も見てた。任せろ」
軽い溜息と一緒に皿を流しに置く。手に着いた洗剤を洗い流し、場所を代わった。
そう技術がいる訳でもないその行為は、特に皿の枚数が少ない今日にあっては問題などある訳もなく。
最後にスポンジを揉み洗ったそれは、自慢げにこちらに振り返った。
「明日から私がやるからだいじょーぶだ」
「あー、そーかい。皿割るなよ」
まぁ、それならそれでいい。
再び先程と同じ場所に座り込んだ。
時折聞こえるのは、家の外を走る車の音。周りの住居の生活音。そして煙草が灰に変わって行く小さな音。
立て続けに二本の煙草を灰にした頃、ある種自分の中での溜飲が下がったのを覚えた。
正直に言うと、満腹感がそれに強く寄与していたことは否定できないだろう。空を見上げているそれの事をあまり馬鹿にするべきではないのかもしれない。
時計の21時半という表示に立ち上がった。
それを見て、窓の外をずっと眺めていたそれが慌てて口を開く。
「なぁ。もう話していいか?」
「ああ。悪かった。もう寝る」
「あ……ちょっといいか?」
「公園とか言わないよな? もう寒いぞ?」
「今日はいいよ。少し吸い取っていい。調子いいから。それと」
「それと?」
「あのさ、こっちの月ってたくさんあるのか?」
「ねぇよ。どういう話だそれ」
「毎日形が変わってる」
「満ち欠けがあって段々形が変わる。登っているのは毎日同じ月だけど。歯、磨いてくる」
「へぇ……」
ひどく感心したようなそれを放っておき、洗面台へと向かう。
歯ブラシを口に放り込み、面倒なその作業が佳境に入った頃。目の前のガラスの端に、それが映り込んだ。
無言で向ける若干抗議のような視線に、それが済まなそうに口を開いた。
「あのさ。明日でいいんだけど」
「ああ」
「どこか出掛けられないかな」
「明後日も仕事だから手近なら。どういう話だよ」
「毎日家の中にいるから、少しでいいから出掛けたいんだよ」
「公園?」
「いや、もっと遠く。高い所がいい。てつうまでいいから」
「帰りが早かったらな。というかそうさせてくれ」
「わかった。」
少し冷たい手を握る。
慣れつつある、細い川を維持するような行為。巨大な風呂桶の底に薄く溜まった水のような感覚は相変わらずだった。
いつも通り欠伸をし始めたそれに一応もう眠るかを確認し、部屋の電気を落とした。




