09
朝日を背に、それが両手を伸ばしながら欠伸をしている。
相変わらず気だるげではあるが、少なくとも数日前よりは調子もよさそうだ。
「顔洗ってこい。飯の作り方教えるから」
「……ええぇぇ」
明らかに不満の籠ったその声を聞いて、煙草に火をつけた。
「俺、明日から仕事で昼間いないから。飯抜きでいいなら構わないけど」
「ちょっと待ってろ」
「お前、飯しか興味ないのかよ」
「そんな事ない。いいからちょっと待ってて」
否定できていない否定の言葉を残し、洗面所に向かうそれを見送った。
「カップ3杯擦り切りな。わかるか?」
「あー分かった。3回だな」
「擦り切りだ。多いと固くなるからちゃんとやれ。それでだな――」
炊飯釜に水を流し込みざっと米を洗い、3合という刻印まで水を入れた。
「無洗米だから洗うだけでいい。ここまで水入れろ。いいか?」
「むせん?洗って水入れればいいんだな。任せとけ」
「線の場所覚えろ。この数字の所だ。わからんだろうが」
水を張った炊飯釜に顔を突っ込みそうな勢いで顔を近づけるそれ。暫くそれを眺めて顔を上げた所で釜を炊飯器に入れ、炊飯と書かれた赤いボタンを押して見せる。
「で。これ押せば大丈夫だ。音楽が鳴ったら完成。炊けたあとは熱いから気を付けろ」
「……もう一回最初っからいいか?」
「マジか」
「なぁ。まじってなんだ?」
仕方なく一度水で洗う所からやり直して見せ、どうも不安が残る顔で頷くそれから目を外した。
差し当たり、俺が仕事に行くのは仕方がない。
その間、腹が減って訳の分からない事をされるのは本当に勘弁だ。その辺りをふらふらと出歩かれたり、火事など起こされたら大変だろう。
炊飯器程度なら問題ないだろうと考え説明したのだが。
「なー。所でさ。私のご飯ってこめ?だけなのか?」
「贅沢言うな。夜は帰ってきてから何か作る。昼は我慢しろ、ふりかけあるから。これかければ白ご飯もうまいぞ」
差し当たり、明日からの食事については解決できたとして。栄養が偏るのは一旦仕方ない。明日からは夕飯を少し多めに作って残りものでも食べて貰う事にした。
「で、調子はどうだ?」
「うーん。あんまり。この間程じゃないけど」
「見た目通りだな。もう2,3日待つか」
「いや、やってみよう。布団もあるし」
今朝まで俺が寝ていた新品の方の布団に座り込むそれにわざとらしく嫌な顔をして見せた。やっぱ駄目かー、などと言いながら煎餅布団の方へと移動するそれの目の前で、新品の布団を畳む。
「お前なぁ、俺はお前の部下じゃない。せめて寝床くらいはいい方を使わせろよ」
「悪かったよ。私こっちでいいからさ。あとご飯くらいは作るから」
「不安で任せられねぇよ」
「じゃあしょうがないじゃないか」
「……。」
「……ごめん」
大げさにため息をついて見せた。
確かに仕様がない。
言葉は喋れない。計算は出来ない。調理器具の使い方も知らない。そもそも身分だって証明できない。こうなると、家でただ空気のように何もやらないでいて貰った方が俺の負担は小さいのだが。
とは言え、何もできないという部分では歯がゆさもあるだろう。
少なくとも目の前のそれは俯き、気まずそうに頭を掻いている。
「悪い、言い過ぎた。何れにせよ早く調子を戻して貰うのと、まずは米だけやってくれ。少しずつ教えるから」
「ごめんなー。何もできないからさ」
「仕方ないだろ。あっちとは勝手が違う。少し苛立って八つ当たりした。悪かった」
「私も悪かったよ。いろいろ覚えるからさ」
「あぁ。頼む」
「任せろ。結構器用だぞ?」
当てにならない言葉と笑顔を向けられた所で、部屋の隅に放り投げてあった携帯電話が鳴り出した。
突然の電子音に浮かべていた笑顔を引きつらせながら振り向き、部屋の隅を見つめるそれ。
「電話だ、気にすんな」
「でんわ?」
間違いなく説明するのが面倒なその問いを無視し、音の出所を拾い上げて表示を確認する。
社長。またひどくいい加減なその表示を見ながら、通話の釦を押した。
「おはようございます」
「諏訪か?今大丈夫か?」
「はい。家です」
「言ってた通り、明日からな」
「時間もいつも通りで大丈夫ですか?」
「高野にも連絡してある。いつも通りでいい」
「わかりました。あぁ、今年も――」
「なー、お前一人で何喋ってんだ?」
「……。」
電話の向こうが沈黙している。多分、いや間違いなく聞こえただろう。そんな冷静な分析とは相反し、俺は口元に指を当て静かにしろ、というジェスチャーに忙しい。
「え?なに? あ、黙れって事か?何だよそう言えよー」
内容は全く伝わっていないだろう。向こうにしてみれば訳のわからない女の声が部屋に響いている、といった所だろうが。
「諏訪?」
「は、はい!?」
「何だ女いるのか?お前もそろそろいい歳なんだから――」
「違います!!」
「何語だ?ベトナムか?フィリピン?」
「本当にそういうんじゃないですから」
「何だ、そんなに否定しなくてもいいじゃないかよ……」
「……。」
結局、用件の伝達自体は既に済んでおり、聞こえないふりをして切ってしまえば良かったのだが。
なんだよー、とでもいい出しそうなそれの顔から視線を外し、電話を折りたたむ。
「なんだよー」
予想通りすぎるその言葉に疲れた笑いを浮かべながら、電話というものについての説明をする羽目となった。
「よし。いいぞ」
煎餅布団に横になり、右手を差し出すそれ。
電話のせいでかれこれ小一時間ほど中座する羽目にはなったが、予定通りのその作業にかかる事にした。
隣に座り込み、その手をそっと握る。
「じゃあ、いいか?」
「いつでもだいじょーぶだ」
「具合悪くなったら早く言ってくれ」
「わかった」
軽く緊張の見える顔から、握った手へと視線を移した。
以前と同じ、体の境界線を取り払うような感覚に精神を集中していく。
暫くの後。
繋がった感覚の中、流れ込んでくる細い糸のような何か。それを先日よりも細く絞り込み、適当なその流れの速さを探る。
恐らくは数分程の時間の後、握り返された手をゆっくりとほどいた。
「今回は大丈夫だろ」
「少し眠いくらいだなー。なぁこれくらいだといつ頃戻れそうだ?」
「1年くらいかかると思う。感覚的には、この部屋くらいの池に手ですくった水を流し込むようなもんだ」
「……そっか」
「少しでもお前にマナを集めて貰わないといけない」
「わかった、頑張るよ。……所でさ」
「なんだよ」
「やっぱり少し寝ていいか?」
「ああ。次の休みにはまたどこかに行ってみよう。それ以外の日は休んでくれ」
「あのさ」
「何だよ。寝ていいぞ?」
「ごめんな?」
「……さっさと寝ろ」
如何程の時間もかけずに寝息を立て始めたそれから視線を外し、煙草に火をつける。
それはやたらとしおらしい雰囲気を出している。そもそも責めるつもりもないのだが、しかし先程の感覚は嘘ではない。この調子では本当に1年以上かかるだろう。
「さて。どうしたもんか……」
相変わらず手探りの状況。そして先程と比べればほんの少しだけ体に満ちたマナの感覚。
それらに再び溜息を吹きかけ、俺は夕食の準備を始めた。
「じゃ、行ってくるから。取り敢えず、大人しくしてろよな。まだ5時だ。音立てるのはもう少ししてからにしてくれ」
「分かった。こめは任せろ」
「ああ。なるべく早く戻る」
「うん。頑張れよ」
「……。」
「なんだ?」
「いや。それ、やめてくれ。大丈夫だから」
「???」
どうも有り難くないやり取りに気を取り直し、玄関の鍵を掛けた。
久々の仕事に向かうため、1週間ぶりの合流地点である幹線道路へと向かいながら考える。若干前のめりだが。
理由は簡単だった。行ってくるから。頑張れ。……なんだこのやり取りは。
客観的に見ればただの同棲と変わらない会話。あまつさえ、横になったそれと手を繋いでみたりしているのだ。
浮かない表情をしていたであろう俺の視線の先。相変わらずな速度と急ブレーキで止まるワゴン車の重いスライドドアを開ける。
「諏訪さん、あけおめっす」
ただでさえ憂鬱な所に響く、アホそうな高野の声。
「今年もよろしくな」
「何嫌そうな顔してんの。今日、現場中止で工場だから」
工場というのは、現場ではなく加工場での作業を意味する。なにかしらの理由で予定通りに作業に入れないのだろう。
「マジか。終わるのかよあの幕張の現場」
「ちょっとヤバいよな」
「応援あるのか?」
「無理でしょー。社長の事だからなんとか終わらせろって言うよ」
「あぁ……そうだよなぁ」
仕事のそれは兎も角。
揺れる車内で憂鬱な気持ちを振り払い、今まで通りの日常へと再び歩み始めた。それはいつも通りの雑な運転のせいだけではなかった。
動き出したのはなにも仕事や社会だけではない。
俺の目的もゆっくりではあるが動き始めている。
改めてそれを思い出し、少し柔らかくなる気分を感じながらタバコに火をつけた。




