03
所謂年末の夜。冷たい空気を吸いながら、ハンドルの釦を押す。
きゅるきゅるという音の後、一際低く響く排気音。
少し肩をびくりとさせる女にまだ新品のヘルメットを渡す……前に、簡単にかぶり方を教える。
車体購入後はじめてタンデムステップを張り出そうとして、その動きの渋さに顔を歪めた。
「取り敢えず、いくつか行ってみよう。何かあるかもしれない」
「なぁ、これ乗るのか? ……馬なのか?」
「明らかに馬じゃないだろ……」
道路まで押し出したバイクに跨り、不安そうな顔の女を見る。
覚悟するように頷いたそれが、よいっしょ、などという声を立ててタンデムシートに乗ろうとしてバランスを崩すのに、慌てて手を添える。
「なんだよこれ……。振り落とされそうだ」
「肩掴んでろ。反対の手は後ろの棒だ」
素直に左肩を掴まれる感触を確認し、ゆっくりとアクセルを開く。
「うわわわああぁぁ……」
裏返った悲鳴を背中で聞きながら、バイクは走り出した。
この時期の夜。車は多くない。大晦日前ではもっと少なくなるだろう。
比較的穏やかな車の流れに逆らわず、無理しないように走る。いつもより車重も重い。感覚が馴染むまで、そう無理はしないべきだ。
信号で一度止まった。その肩を後ろからばんばんと叩かれる。
「なんだよ?」
「なぁこれってさ」
「悪い、あとでな」
青信号を見て再び開かれるアクセル。
後ろから再び響く悲鳴はその排気音にかき消された。
目的地は、先日向かった静岡方面。但しその先には超えず、恐らくまだこの時期の夜にはすいている鎌倉辺りを経由して帰るつもりだった。
高速道路の入り口で料金を支払い、再びアクセルを開ける。そのまま時折料金所だけで止まり、数時間バイパスを乗り継いだ後、再び国道へと降りた。
時計を見る。まだ早いその時間を見て一度コンビニへと立ち寄る事にした。
広い駐車場でエンジンを止め、振り返る。
「降りていいぞ。煙草吸わせてくれ」
「おっかねぇぇ……」
言いながら降りようとする足が少し震えている。
「なんだ、早く言えよ」
「お前が後でって言ったんだろう……」
「後で? あぁ……悪かった。何か飲むか?」
数時間前のやり取りから今まで黙っていたらしい。
辺りを一度確認してからヘルメットを脱がせ、ニット帽をかぶらせた。
駐車場で、飲み物どころか軽食までを済ませ、再びエンジンをかける。それを見て、肉まんで機嫌がよさそうだった顔が再び曇っていた。
「おっかないなら、もうしがみついとけ。幾らかましだろ。こっから峠道だしな」
「峠道……」
流石に意味が分かったらしい。
肩に置いた手が離され、一度躊躇った手がゆっくりと革の上着の前に回る。行くぞ、などと言いながら再びアクセルを開いた。
暗い道を照らすライト。
もう何度も感じた事ではあるが、排気量の大きい車体を選んだのは正解だった。小排気量車のそれと比べ、車と遜色ない程に光量は高い。
車体が左右に振られる度に胸のあたりを締め付けられる感触に少し顔を歪めながら少し高い排気音が夜の山を登っていく。
ひたすら加減速とバンクを繰り返し30分ほどだろうか。道は湖へと行き当たる。この湖自体ではないのだろうが、近くにそういった雰囲気を感じた場所だった。
バイクを停め、遠くで走る車の音を聞きながら湖の畔へと歩く。
「どうだ?」
「……寒い」
「そうじゃねぇだろ……」
言いながらも確かに低い気温で指先が冷たい。自販機に硬貨を放り込み、ゆず、などと大きく描かれた温かい飲料を手渡す。
それを両手で顔に当てる様を眺めながら、自分の缶コーヒーを開け、煙草に火をつけた。
「何も感じないか?」
「うー、寒くてわからん」
「どんだけ寒がりなんだよお前……」
薄手のズボンではあるが、その上にオーバーパンツを履かせており、上着はダウンだ。まぁ、寒いのは事実だろううが。
先が長い取り組みに、まぁいい、などと言いながら空を見上げる。
あちらの世界とはまるで違う見慣れた星空。
向こうの世界の彼女も同じように空を眺めたりするのだろうか。
煙と共に、彼女の名前を小さく吐き出す。
「リオナ。もう少しかもしれない」
「何がもう少しなんだ? やっぱり寒くてわからないぞ?」
ただ吐き出した独り言にすぐ近くで返った、気だるげな返事。
「……なんだ?」
「呼んだだろ? 何がもう少しなんだ?」
「俺、お前の名前知らないし」
「?? 今呼んだだろ。リオナって」
「……お前、ふざけんなよ?」
「ふざけるなって……。なにが?寒いのはしょうがないだろ?」
「なんなんだよ……」
「何怒ってるんだよ。なぁこれ、どうやって開けるんだ?」
大きくため息をつきながら、ペットボトルを受け取る。
最悪な事態だった。
目の前で蓋が開くのを期待の眼差しで眺めるこいつは、彼女と同じ名前なのだという。
向こうでの風景を思い出す。
少しもやがかかった後ろ姿の彼女が振り返る。その顔は、うまいーなどと言いながらペットボトルを傾ける女の、少し猫っぽい顔にすり替わっていた。
「悪夢だ……」
思わずしゃがみこみながら、ため息のように吐き出す低い声。
俺の悪夢が、何だこいつとでも言いたげに顔を歪めていた。
すっかり冷めているであろう飲み物が無くなるのを待ち、再びバイクの方へと歩き出す。
「なぁ。何怒ってるんだよ?」
「別に怒ってない。次行くから早くメットかぶれ」
「怒ってるじゃないかよ」
「怒ってない」
「……。」
再び響く低い音。01:13と表示された腕時計を袖の中へと仕舞い込む。
迷いなく胸の前に回される分厚い手袋の感触に、再び溜息をつきながら右手をゆっくりと捻った。




