後編
銀河系の惑星の位置関係を、素晴らしく正確に言えることとか。
円周率をどこまでもどこまでも暗唱できることとか。
恐ろしく分厚い詩集を一ページも余すことなく諳んじられることとか。
君の【図書館】は、無秩序で混沌としていて、私はその品揃えが好きだった。と、思う。
兵法の本。銃器の取り扱い文書。爆撃機の操縦マニュアル。医学書。解剖学書。
それらはするすると頭の中にインプットされていった。まるで自分がUSBになったかのようだった。文字を一度なぞれば、それらはまるでコピーされるかのように記憶されていく。一度覚えたものは、二度と忘れない。なるほどつまり、使い方次第で【それ】は素晴らしく血生臭い【武器庫】になるのだった。並べる本が変われば、そこはもう図書館などという名前で呼べる代物ではなくなる。
「春栄」
私がおめおめと父に従い、言われるままにこれらの本を読み漁った理由は唯一つ。
「お前は間違いなく一族の中でも最高峰の人材だと信じている」
この世のあらゆる情報を収めろ。軍部のトップに今度こそ遼家が君臨するのだ。そして我々が国を動かす。
遼家は軍部の名門。男子はすべからく軍人となる。全員が漏れなく【ギフト】を持っている。
全員が。持っているのだ。父も、その前の祖父も、その前の、その前の、その前の、全員が。
【ギフト】を獲得してきたのだった。
どうして私だけが例に漏れることなどあっただろうか。
「立派に務めを果たせ」
私は、縫い取られたように動かない唇が許せなくて。
「はい、父様」
涙すら出なかった朝があって。
私が、君の、大きくて雑多な、世界の全てを飲み込んでしまったと分かった朝。
君のためではなかった。私は私のために、君を見つけると誓った。どんな手を使ったとしても。
何日も何日も絶望に沈んだ果てに、溺れて溺れて、ずぶずぶと息を失い、とにかく私が引きちぎった光だった。
「戦況は?」
「上々。まあ特別部隊がいなかったら危なかったけどな。噂には聞いてたけどあれはちょっとやばいんじゃないの」
家に来るなり暑いからシャワーを貸せとのたまった男のために風呂を沸かしてやる。久しぶりに連絡が来たので驚いたが、元気そうで何よりだ。十五分、と宣言した通りきっかり十五分後に出てきてバスタオルで頭をガシガシと拭きながら彼は顔をしかめた。
「あれはもう人間っつーより兵器だ兵器。うちの部隊がベテランも入れてごっそりやられた。一面がさ、血の海だったぜ」
酷いもんだった。タオル越しのくぐもった声が、その時のことを思い出しているのか低く歪む。ああ、そうだろう。トップニュースで大きく取り上げられた現地の様子は一部とはいえその壮絶さを言葉以上に伝えていた。そのニュースを見て丁度、幼馴染の彼はどうしているだろうと案じていたところだったのだ。元気そうで本当に良かった。やはり敵地へ赴くならなおさら、最悪の状況も加味した医療部隊の同行は必要だ。私ならそうする。そしてその中には必ず能力値の高い医療系能力者を数名混ぜる。最近の軍部の部隊編成は医療班の同行を注視しない傾向にあり、私としては些か不安ではあった。我が国はもっと医療系能力者の育成に力を注ぐべきだ、絶対に。まあ、とにかく、この友人は今回の遠征に同行していた医療系能力者のおかげで命を取り留めたという。医療系の中でもレベルの高い【機能再生】の能力者がいたのだそうだ。
「ま、暫くは多分、どこにも行かないだろうな。うちがやられたんじゃ一般部隊も出てったところで無駄死にだろ」
「そうだね」
最も、土地や財産、権力の奪い合いには無駄な死が決して少なくない。少なくないと分かっていて、あるいはその現実を無視して、私たちはいつだって繰り返してきたのだ。
友人は私が用意した服――私の服だ。彼には少し小さいが仕方ない――を勢いよく頭から被り、にゅっと腕を通して「あー」と親父くさい呻り声を上げた。
「もうさあ、背中がバキバキ」
「ストレッチをさぼるからだろう。柔軟性は大事だよ。筋力だけあればいいってものじゃない」
「分かってっけどさ」
言ったそばから首をコキコキと鳴らしてみせる。呆れた奴だ。学生時代からそうだったが、この幼馴染は基礎を怠るきらいがある。「春栄は基礎トレの鬼だったからな」。笑っているが笑いごとじゃない。基礎の上にこそ応用があるのだ。精神も肉体も隅々まで丁寧に磨いておかなければいざというとき、それこそ命を落とすだろう。とりわけ軍部にいる限りは肝に銘じておかなければならない。
(まあ、ここで私が説教するのもな)
今や同じフィールドで闘いを共にすることもない。この友人含め、かつては畑を同じくした同期や後輩たちに、私は求められない限り発言を控えるよう気を付けていた。なんとなく、いや、情けないことに後ろめたいのだ。彼らの生きる場所が、常に命をやり取りする場所であることを嫌という程知っている。そしてそこに私もかつては身を置いていたのだ。かつては…そう表現する程遠い昔の話でもないか。つい最近までの話だ。
棚から緑茶を出して急須に振り入れお湯を注いで暫く待つ間に、私は自分の仕事着をクローゼットに仕舞いテーブルを拭いて細々しく動く。休日にはまとめて家事をやってしまう、屋敷を出て自立してからのルーチン。やることは沢山あった。それを、椅子に座った彼が静かに見ていることを視界の端で把握しながら。
「休日だってのに、悪いな。忙しそうだし」
「いや、ここ最近溜めてしまっていたんだ。先週もなんだかんだ終わらなくて」
「珍しい」
ちょっとね、と笑って見せる。今日はよく晴れているから、洗濯物もよく乾くだろう。洗濯機が回り終わったら後で彼にも手伝ってもらおう。そうだ、それなら思い切って布団も干してしまおうか。それがいい。
「眠れてる?」
「ああ」
緑茶はいい香りがした。湯呑に移すと綺麗な緑色が透けている。この湯呑は実家から持ってきた数少ないもののひとつで、とある有名な職人が焼いた特注の高級品だった。家で茶を飲むとき時折使っていたものだが、出るときになんとなくの思い付きで内緒で拝借してきた。かつては大きな質のいい茶卓の上で澄ましていた高級品が、この安価なアパートの、セール期間に格安で買った小さなテーブルの上でこぢんまりと座っているのはなんだかとても可笑しい。可笑しくて愉快だ。多分、これが見たくて拝借してきたんだろうと思う。どうだい、中々悪くないだろう。家の中できっちりと磨き上げられ、堅苦しく正座させられて、おそらく一生そうなる運命だったのだろうが、そんなのはきっとつまらないだろうから連れ出したんだ。たとえ安物の上でも、手足を伸ばして自由でいられるのは中々いいものだと思ったから。
テーブルの上に置くと、「あー、いい匂い」。友人は嬉しそうに言う。傷が付きくすんだ地面の上で、心なしか、本当に湯呑も愉快そうに見えた。
「春栄の家の緑茶ってだけで高級そうだよな」
「お茶だけは未だにちょっと贅沢してるよ。取り寄せてる」
「お前好きだもんなあ。ほんと昔から爺さんみたいなとこある」
ふふふっと楽しそうに笑って、私もつられて笑った。ずず、と音が響く。爺さん同士のお茶の時間、みたいな、穏やかな空気。ほわほわしていて暖かい。久しぶりの空気に肩の力が抜けているのが分かる。いいな。単純にそう思った。有り難い時間だ。
しばらくそうして二人、ゆるゆるとお茶を啜っていた。湯気のせいで私たちの頬は上気して、ほうと吐いた息も湯気の名残りのような温かさ。薄いカーテンを引いた窓から日の光が洩れ、埃が舞ってチカチカ光る。それをぼーっと見ている。頭の中が、疲れているのだと分かる。衣食住を支えるために働き、隅のほうではいつもノアのことを考え。自分の頭の中が細かく仕切られた箪笥の中のようになっていて、どこに何が入っているのかを冷静に把握している私がいる。分かっている。それで、ふとした瞬間に、こんな風に思考が勝手にポーズしてしまうんだろう。チカチカ。埃が舞っている。小さい頃、あれが埃だなんて微塵も思わなかった。何か綺麗で、キラキラした宝物のような、宝石のかけらみたいなものだと思っていた。ノアはあれをなんだと思っていただろう。屋敷での私の部屋で、こんな風に晴れている日はいくつもあった。君がいる日もいくつもあった。君と、私と。カーテンはやっぱり薄い生地のものが引いてあって、光も差していた。君は読書か絵画に集中していたから、埃なんか見ていなかっただろうか。いや、一日中屋敷の中にいる君だ。きっと私のいない間にも、沢山あっただろう。君だけの日常が、あっただろう。
(ああ……また考えている)
私の思考回路はショートカットで君へ辿り着いてしまう。脳が、かつての主人を覚えていて、還りたがっている、のだったりして。君の【ギフト】は、脳にあるのか。いや、どこにあるのだろう。私は研究員ではないから、専門的なことはよく分からない。例えば百冊の論文を丸ごと頭の中に収められたとしても。君より有益に、使いこなせたとしても。
「春栄」
名を呼ばれた。高い声だった。君の声ではなかった。振り返る。友人が、こちらを見ている。
「なんだい」
私は彼が今、私の向かい座っていたことを忘れていた、ということを誰にも悟らせないように慎重に返事した。
友人は厳しい訓練と業務で日焼けしていた。年中している。学校でも大半のものがこんな肌の色だったが、私はそうならなかった。夏でもだ。元々がそういう体質だったのだと思う。
「やつれたな」
観察するような目で友人が言った。付き合いは随分長い。私のプライベートテリトリーにいる人間は極少ないから、本当に貴重な人物だ。感謝している。私は彼が好きだ。気持ちのいい性格も、豪快な食べ方も好きだ。失いたくないと思う。失いたくないものは探せばまだ、私の中に色々ある。失いたくないということは、それだけまだ持っているということで、私の世界は君に出会ってしまってもなお、私が思っているよりも意外と開けている。悲しいことだろうか。悲しいことにしたいのは、何故だ。私は、本当はいつまでもずぶずぶと沈んでいたいのだろうか。悲しいことにして、溺れて力尽き、そのままスリープ、あるいはシャットダウン。そうなりたいと。どこかで願っているのだろうか。
「そうかな。繁忙期じゃないけれど。忙しいけれど君たち程じゃないさ」
「そういうんじゃなくて」
骨ばった指がぼりぼりとこめかみを掻いた。眉間にぐいと皺。「んーと」。呻る。一度ぎゅっと閉じた目が開いて、下から救い上げるように茶色い水晶が私を映した。
「家からはまだ戻れって言われてんの」
伺う目つき。逞しい腕にケロイドがあるのを見つけた。ぱっくりと一直線に肉が盛り上がっている。
「言われてるよ。母からは。父からは家を出で以来何も言われていない」
「そっか…」
一瞬の沈黙。頭垂れた頭がもう一度持ち上がった時、今度は瞳に迷いがなかった。
「あのさ、これは俺が言うことじゃないかもしれないんだけどさ」
「構わないよ」
「お前が軍部入った後しばらくしてから部署移動…したじゃん」
「ああ、うん」
「あれから大体二年経つよな」
「…そうだね」
「もう一度、本当に戻ってくる気はないか」
一瞬の沈黙。 今度は私がそれをつくった。
兵学校時代の記憶も、軍部に籍を置いていた半年間の記憶も、鮮明に思い出す。常に火薬の臭いがしていた。足裏から響いてくるような衝撃音。怒号。悲鳴と、べた付く汗、ぬるつく血液。縦横に規則的に並んだ列が徐々に乱れ、蜂の群れのように乱雑に。ほどけていく。交戦。怒号。悲鳴。あの独特の臭いは、離れてしまうとすっかり嗅ぐことはなくなってしまい、そうか特殊な場所だったのかと離れてみて初めて気づいたものだった。
「君の意図が読めない」
こんな風に回りくどいことをする奴ではなかった。今だってきっとそうだろう。纏う空気はぶれていない。
「会わなくなってからお互い音沙汰なかった。それが突然連絡してきて…いや、嬉しいよ。だけどこういう、遠回しに攻めてくるのは君らしくない」
何か隠しているなら、早く出してくれないか。
湯呑の中は空になった。茶葉の残りが底に溜まっている。
目が合って、それから彼は自分の湯呑に目線を落とした。彼の湯呑も空らしい。ふう、と息をついて、
「あー……」
髪の毛を両手で豪快に掻き上げ、腹の底から声を出し切ってしまうと
「あああああああ……」
今度は両手を額に当ててずるずると突っ伏すしてしまう。ふいーっと深いため息が聞こえた。
「…下手かな」
「何がだい」
「いや………」
部屋が暗くなった。窓のほうを見ると、曇っている。日が陰ってしまった。降水確率は二十パーセント。雨は降らないだろう。「なあ」。彼のほうに首を動かす。
「何だい」
「何だいって…あの、俺さ、お前のお袋さんにさ、実は言われてたんだよ。息子を説得してくれないかって」
「母が」
うん、と気まずそうに彼は頷いた。「部署移動してすぐ」。
「でも、お前俺の説得で動くような奴じゃないっていうか、一回決めたら覆さないじゃん。だから無駄だろうって思ってたんだ。てか俺も遠征とか訓練とかあって忙しかったし、しょっちゅうどっか遠征行くからお前と会う機会ってあんまないし…正直お前のお父さんが言うんなら上司だし、やばいけどさ、お袋さんだから俺もいいかなって思ってたとこあったし」
でも。
「でも?」
ちらりとこちらを見る。母がこの友人を訪ねていたのはまあ、妥当な線だろう。彼には迷惑をかけて申し訳ないと思うが、母のとった行動には別段驚かない。彼女はどうしても私を元いた世界に還したいのだ。あの、土煙と死の臭いのする世界に。友人が髪の毛をくしゃりと掴んだ。眉間に皺。「俺たまたま聞いちまったんだ」。
あの丘の廃墟みたいな家に住んでる男が。
近いうちに別の場所に移動するらしい。
お前が関係ある奴だろ。俺、一昨日たまたま休憩時間に、話してるのを聞いたんだ。あの男、基地の人間の間じゃ結構有名人だろ。事務の人間でも知ってるもんな。本当はS級の訳あり殺人鬼だとか、将軍クラスの人間のキチガイ忌子だとか、やばいクスリ飲んでからずっとあそこに収容されてるとか、まあ色々噂はあるけど。…研究員だった。ちらっと名前が出ただけだから他はよく分かんなかったんだけどさ、でも、お前に話したほうがいい気がして。すげえたまたま俺が聞いたけど、なんか、それもタイミング的にさ、意味があるような気がしてさ。
「その男、お前の知り合いなんだろ」
情報処理を放棄していた。ので、自分が頷いたのを他人事のように俯瞰した気持ちで感じていた。ノアをあの家に連れて行ったのは父だ。それは間違いない。私が見つけた時、ノアはすでにあの家で一人、息をしていた。空っぽのまま、そう唯、息をしていた。
「春栄」
がたりと椅子が音を立てる。テーブルを回って、友人が近づいてくる。私の上に影ができた。覗き込み、手のひらが肩に乗った。熱い手のひら。布地を通して伝わってくる。そう、生きているものの手のひら。生きて、笑い、泣いて、重厚な中身を持つものの手のひらだ。目線が合う。
「なあ、話してくれないか。そろそろいいだろう。お前何にも言わないんだもん。俺、何も気づかなかったよ」
なんで軍部を辞めたんだ。その男ってなんなんだ。
「眠れてるのか、飯食えてるのかよ。俺、お前のこと心配なんだよ」
私の世界は、開けているのだ。そう、こんな風に、きっと。大きな何かを失くしてもまだ残るくらいにはきっと抱えている。友人の茶色い瞳。翠の、あの洞穴のような目の、奥の、私からはきっと遠い遠い宇宙。
失ったのだ。きっと誰に話したって分かってもらえない。
失ってしまった。それは事実だ。
「……軍部を辞めたことは、沢山の人に迷惑をかけたし、悪いと思っている。だけど、だけどそうするしかなかったんだ」
「迷惑とか、そういうことじゃ、」
「悪かった。とりわけ君たちには申し訳ないと、思ってる。だけど、」
だけど私は、父や母の人形になることはどうしても出来ない。出来なくなってしまったんだ。
「私は、自分の罪を償わなければならなくて」
それで、
それで。
そうではなく。
「私は」
そんなことをしても、ノアは元には戻らない。
枝のように細い腕が動き、節くれ立った指が握り、カンバスに色がのる。着古したスウェットの綻び。何にも興味がなさそうな顔と、緩く一文字を結ぶ薄い唇。君の頭の中の図書館に一度も私は入れてもらえなかった。今も、辿りつけない。君の【ギフト】が私のものになっても。
「大切な友人なのか」
「友人、」
友人だっただろうか。分からない。
もしかしたら、君は私のことなど、どうでも良かったかもしれない。
「本が沢山あったから、絵を描く道具があったから、私のところに来ていた、のかもしれないんだ」
会話には中身などなく、私たちはそれでなくとも口数が多くなかった。 彼はどことなく歪みを帯びていて、空虚を飼っていて、私はそれを知っていた。
私と会えなくなったら、困ると、君は言った。
「あのさ」
俺はよく分かんないけど。
「春栄、すげえ一生懸命やってたと思うぜ。ここ二年くらい……部署移動はさすがにびびったけど」
「……うん」
「何があったのかは俺知らないけどさ、出来ることは多分、いつもあるぜ。まだ」
探したほうがいいよ。そいつ、死んだわけじゃないんだろう。
顔をあげると、真剣な顔の友人がいた。今まで見たことのないくらいの真剣さだった。
そうだ。死んだわけではない。ノアは生きている。今も、あの丘の家にいて、生活している。
会おうと思えば、いつでも会える距離にいる。
「学樹」
「ん?」
「何かしてもらったわけじゃないんだ」
ただ、理由なく、なのにこんなに強い。執着かもしれない。日が経つ毎、毎日会えていた頃よりも酷く、濃く、鋭く、私を浮かせ、沈める。
自分以外の誰かが、世界を染める。唯一無二になってしまう。そんなことがあっていいのか。私はこんなに一人で、見返りもなくて、それなのにこんなに。まるで彼がいなければ生きていけないかのように。
そのくせ、私は彼を助けてやれなかった。
「……本当は、もう遅いんだきっと」
父の顔が過る。
私はあの家のために、父と母のために生きてきた。ずっとそうしてきた。彼のことを、本当のノアを、見て見ぬふりしてでも。
「いいの?」
友人が静かな声で言った。
「もう会えなくなっちゃうかもよっつってんだけど」
研究員が話してたんだぜ。頭のいいお前なら想像出来るだろ。
「いつとか、そういう具体的なのは聞こえなかった」
すまん。友人が湯呑を覗き込んだ。わずかな湯の中に茶渋が沈殿している。
「これ、お代わり」
「ああ、うん」
「春栄」
伝えたからな、と友人は強い口調で念を押した。鋭く、深い軍人の目付きだった。
「そう、うん。お前は頭のいい奴だと思う」
昔からそうだったもん。小さく呟くと、友人は目を伏せた。強い眼差しはその奥になりを潜め、しかし消えたわけではないだろう。
「うん」
私は急須を掴んで台所へ向かった。
「ラーテルって動物の名前だよな」
むき出しの足の、小指のところが赤く腫れている。先程私の部屋のドアに挟んだのだ。いってえ!と叫んだので私は慌てて彼の口を塞いだ。下の階の使用人に訊かれていたら大変だった。ノアは煩わし気にその手を振り払ったが、急に自由を奪われたことに嫌悪感があったのだと思う。少し申し訳ない気持ちになりながら、私は具合を確かめて「大丈夫そうだ」と言ってやった。しばらくすれば赤みも引くだろう。「ああ、まじで痛かった」と顔をしかめるのが内心おかしかったが、元々表情に乏しいお陰で顔には出なかった。
「ラーテルは戦闘機の名前だよ。攻撃力はそこまでだが防御力に主眼を置いていて、かなり硬い。大抵のっミサイルは弾かれる」
「へえ。俺が知ってるのは、動物のラーテル」
別名はミツアナグマっていう。
「アナグマ?」
「名前はそうだけど、イタチ科。温帯や熱帯に生息。体長六十から八十センチメートル。体重七から十四キログラム。頭部から背面、尾にかけて白い体毛で覆われ、吻端から腹面、四肢にかけて黒い体毛で覆われている。皮膚は分厚く、特に頭部から背にかけての部位は伸縮性に非常に優れ、それでいて非常に硬い。四肢には大きく発達した鉤爪がある」
「初めて聞いたな」
「春栄が貸してくれる本にあった」
図書館の本だろう。片っ端から借りて渡しているのでいつ借りてきたものかは覚えていなかった。確か動物関連のコーナーをうろついたのは二月程前だった気がする。渡したそばから淡々と読んでいるように見えるのでどのジャンルに興味を持っているのははおぼろげにしか分からないが、面白かったのだろうか。
「ラーテルの分厚い毛皮はどんな猛獣の爪や牙も簡単には通さない。さらに毒蛇の毒にも耐性がある。だからライオンにも、ハイエナにも、水牛にも―獰猛な大型動物に躊躇なく立ち向かい、追い払うことすらある。猛毒を持つ蛇にも物怖じしないし、簡単に捕食してしまう」
「すごいな…」
でもアナグマなのに全然可愛くない、という。後で調べてみるとなるほど、可愛くはなかったし、なんだか配色がナマケモノを連想させたがこの時の私は筋肉質のミリタリーチックな熊のような生き物を想像して、神妙に頷いた。
「負けることはあるのかい」
「書いてなかった」
だから分からない、ということらしい。はっきりしている。
「そうか、でも、それならそれだけのスペックがあれば怖いものなしなんだろうな。生きやすそうだ」
「なんで?」
「え?」
「なんでラーテルは怖いものがないんだ?」
なんで、と言われても。
「だって、猛獣が襲ってきても大丈夫な硬い毛皮と猛毒の耐性まであるんだろう。ええと、自分以外の、ライオンみたいな、大体の動物にまで怖がられているような猛獣からも身を守れるって、自分が圧倒的に有利だって分かっているなら、ほら、怖くないじゃないか」
自分の安全が保障されているなら、怖いものなんかないだろう。
当たり前のことを質問するから、自分で熟考して一瞬こんがらがりながら私は説明した。
「絶対安全でいられるって分かっていれば怖くないのか」
「そりゃあ、そうさ」
ふうん。
小指の腫れも赤みも、目立たなくなっていた。両の手をフローリングにつき、長い手足を持て余したノアはだるそうに身体を前後にずりずりと揺する。小指に触れ、さすり、伏し目がちの瞼から丁寧に伸びる淡い色素の睫毛。平和的で優しい色が、どこかノアに似合っているような、ずれているような気がしている。
「"絶対安全"になりたい気がする」
なあ、なりたい?。視線が絡まる。
何にも襲われず、奪われず、失くさず、有利で、危険から絶対的に遠い状態。ぜったいあんぜん、に、なりたい?
私は、しばらく考えて、「でも私は軍人になるから、それは無理かな」と言った。「そっか」。ノアは首を傾けて、短く返答した。「春栄が言うせんとうきってやつも、見てみたい。本がある?」。
「あるけれど」と私は濁した。「今度持ってきて」。「いいよ」。言ったものの、そういった本を私は渡さなかった。
(何が怖かっただろう)
彼の質問の意図が、今ならきっと少し分かる気がした。ノアは何が怖かっただろう。
訂正しなければならない。
あの時私がが言ったのは。弱肉強食の世界で本能的に生きる動物の話なんだ、ノア。人間の世界に限っては「安全」はもっと複雑で手に入りにくいものなんだよ。心が発達している為さ。人間は身体と心の二つに生死があって、どちらも生きている間は呼吸している。どちらかが侵されてしまえば、それはもう安全な状態ではない。身体の安全はこの国ではまだ得やすいけれど、心の安全は、個人差はあれど多分、皆しょっちゅう侵されそうになる。だから心がある限り、人間にとって「絶対安全」は、殆ど不可能だと思う。
『どうして?』
だから心があるから…心は身体より傷つきやすくて、治りが遅いからじゃないかな。
『うん?うん…』
ええと。そうだな。…誰でもすごく大切にしてる、宝石みたいなきらきらした宝物を持っていて、だけど持っている限りはあちこちで、あの手この手で傷つけらそうになるんだ。生きている限りは虎視眈々と狙われ続ける。毎秒狙われるならその宝石を、無傷で持ったままいることは不可能だ。だけど人はそれをものすごく大切にしてるんだ。だから傷がつくたびにはらはらするのさ。…分かるかい。全然安心できないだろう?安全じゃないだろう。
『その宝石は、誰でも持ってるもの?』
そうだよ。君だって持っている。
『おれは持ってないかも』
持っている。心がない人間なんかいないさ。
現に君は怖がっていたんだ。君は、君の宝物が深く傷つけられると分かっていた。
******
「遼さん、最近元気ないですね」
夏バテですか。いや、まあ、そうかな。遼さん細いからなあ、ちゃんと食べてくださいね。うん、ありがとう。同僚との何気ないやり取り。
食は元々細い方だ。問題はない。しかし確かに、最近は特に雑になっている気はする。最後に一日三食固形物を摂ったのは、いつだっただろうか。
ノアについて友人が話したような情報は、警務課には一切入ってきていなかった。友人の早とちり――という線は、いや、私は薄いと思っている。軍部が警務部に黙って事を進めるなんてことは、絶対にないかと言われれば言葉に詰まる。おそらくここで働く者は皆そうだろう。軍部と警務部では軍部の方がはっきりと立場が強く、警務部を軍部の付属品くらいにしか思っていない連中だって少なくない。特に警務課は、言えば動くと思われている節があるのだ。
(こちらに情報がない、ということは、ノアが遠くに離れてしまう可能性は高い)
それも、私が予期せぬタイミングで、あっさりと呆気なく。父のやり方は、もうすっかり刻まれている。
私からノアを離すつもりなのかもしれない。
それにしても、だ。母は未だ息子の進路に躍起になっているが、父からはそこまでの熱意は感じなかった。軍部へ戻るよう度々口には出してくるが、どことなく淡白な印象だ。それを今になっていきなり強引な手に出る……不自然といえば不自然。私に頭の中にある予想はただひとつに強く絞られ始めている。
父が本当にノアの住処を移すつもりなら、もう彼を見つけることは出来ない気がした。おそらく、二度と。なのに、私は動かなかった。それとも動けないのだろうか。頭の隅で警告音が鳴っているのに。何に対しての警告なのか分からないが、じわじわと脳が霞がかり、頭の中を覆ってしまう。
もしかしたら一週間後かもしれない。明日かもしれない。三日前に会ったあの時が、最後になってしまうかもしれないのだ。今、ここから出て、例えばタクシーを捕まえて走れば四十分後にはノアの住む家に着くだろう。きっと今あの家にいる。寝ているか、絵を描いているか、ぼーっと窓の外を見ているかもしれない。生きて動く彼に会うことは可能だ。今すぐ会える距離にいる。それが、ある日ふつりと途切れてしまう。あの日のように。屋敷からなんの前触れもなく君が消えた日のように。なのに私は何も出来ずに、仕事をしていた。
「午後のパトロール、どうする」
「そうですね。私はどちらのルートからでも」
「俺も特に希望はない…じゃあ、遼はBから回って。四時にはここへ戻ってこよう」
「分かりました」
日差しがブラインドから漏れている。今日もよく晴れている。ゼリーを摂っていたら、先輩職員が眉をひょいと持ち上げた。
「遼、お前顔色悪いよ。パトロール、大丈夫?」
「はい。問題ありません」
だめだぞ、体調管理はちゃんとしなきゃ。
「夏バテなら餃子とかいいよ。一人暮らしだっけ」
「はい、そうです」
「あー、じゃあ面倒臭いかあ」
何気ない会話。餃子か。作ってくれば良かっただろうか。ノアの家に行き、彼を風呂に追いやってからいつもの通り部屋中をチェックして回った。清潔であるか、不審なものはないか、―言外に、能力を抜き取った後の彼に異変がないか。最後に、チェック項目にはないが、私はいつも冷蔵庫の中もチェックする。腹を痛めたら事だからだ。きっと次に私が来るまで誰も気づかないだろう。無論彼の家には連絡手段になり得るものなど置かれていない。病気になったり、大きな怪我をしたりしても誰かが発見するまでそのままだ。
冷蔵庫の中身。この間は殆どが手つかずだった。食が進まないようだ。無理やり口に突っ込むわけにもいかず、その日はきちんと食べるようにとだけ言って家を後にした。彼は無理やりを嫌悪している。激しく、過剰ともいえるくらい敏感に。だから何かを強いることは極力したくない。
また、彼のことで思考が埋まっていく。
「…遼」
「あ、はい」
「…大丈夫?」
大丈夫です。答えて、私はゼリー飲料のパウチを潰した。
ぐしゃり、と悟ったような音。
「遼」
「はい」
「あんまり、無理するなよ」
パトロールは予定通りに終わった。
なんとなく腰が重く、退社したのは午後七時を回った頃だった。辺りは徐々に暗く、夜が帳を下ろそうとしていた。私は、無意識に自宅から遠のくように繁華街の方向へ向かって歩いた。
父のことを思い浮かべた。親し気に話をした記憶はまるでない。はっきりと思い出せるのは、立派な軍服に身を包み、厳格にこちらを睨む肖像画の父だった。それから、新聞の一面、専門誌のインタビュー。どれも唇を引き結んでいる。
夜だからこそ映えるネオンカラーが、人々を照らす。安っぽい光をぼんやりと見つめて、なんとなく安心すると思った。俗っぽいものは大抵、下品で希薄な代わり人に優しい。
アルコールをとってはいけない。それだけは分かっていた。私は意味もなく闊歩した。自分のことなのに、自分が全く分からなくて不思議だ。脳内にブラインドが降りたような感じがする。
「オニイサン」
若い女が蛇のように音もなく現れる。どきつい香水と煙草の臭いが混ざり合い、なんとも不健全な香り。ラメ入りのシャドウが瞼の上でぎらぎらと光っていた。
「一人なの?」
ガラス越しに私は、私たちを見た。柱に絡みつく蔦のようにも見える。確かにやつれているその男が、酷く過敏に何かを警戒しているように見えた。女は丈の短いドレス、針のようなヒールのある靴を器用に履きこなし、私にすり寄ってくる。ついと目線を下げると生々しい腿。
「やあだ」
むぎゅ、と音がしそうなほど胸が腕に押し当てられる。耳元でくすくすと笑う。
「ねえ飲んでいかない?」
温かい人肌の温度。ドレスは目の覚めるようなショッキングピンク。夜の街は、何もかもがきらきら、ぎらぎらしていて、アドレナリンの気を引きたがっているらしい。
「いや、やめておく」
あん、と軽薄な声。するりと腕を引き抜いて私は素早くその場から踏み出した。さっきまでのねっとりした態度が嘘のように、女はすっと空気を冷やしてまた音もなく他の男にすり寄って行く。「ねえちょっとオニイサン方、もう飲んでる?」。
気が付くと繁華街の末尾に辿りついていた。振り返ると、煩雑とした明かりが楽しそうにはしゃいでいる。きゃはは、ぎゃはは。バイクの喧しいエンジン音。ため息が出た。
(何をしに来たんだ、一体)
無意味な行動をとるなと徹底的に教え込まれた脳が舌打ちする。無意味、無駄は全て己の恥と心得よ。
地肌に爪を立て、前から後ろへがりりと食い込ませる。自販機が病人のように弱弱しく光っているのを見つけた。酒専用の自販機だ。白っぽい照明が目に痛く、細めながら近付く。無気力にコインを入れ、適当にボタンをプッシュ。ピピッ、ガコン。アルコール度数3%、爽快生レモン。
手にひんやりと冷たい。なんとはなしにふらふら歩き、小さな公園のフェンスにもたれた。プルタブを倒す。繁華街から少し離れると途端に人気なく静かで、ごくりという音がやけによく聞こえた。しゅわっと炭酸が舌で弾ける。何とも言えない苦味。
「…………」
美味しくはない。次の一口を飲む気は見事に失せ、チューハイ缶は腕を下すと重そうにちゃぷんと振動した。
(何をしているんだ本当に。)
身体がじんわりと温かくなってくる。頬がじわじわと熱い。もう回り始めたらしい。
友人の言葉が蘇った。
いいの?
いいとか、良くないとか、分からない。あの日のノアの全く無に返すような昏い目が頭の隅にこびりついて離れないのは、【ギフト】のせいなんかじゃないだろう。ノアは、どこかへ行ってしまうのだろうか。それはだめだ。だめなのに。
ふと目を上げた。繁華街で楽しんだ人々が、時折道を通る。バラララララ、と大きな音を轟かせてまた一台、バイクが走り去って行った。男女の二人乗りだった。
「ん…?」
ぼんやりと動かしていた目が留まる。バイクが突っ切っていた道路の向こう。ぽつりとひとつ寂しく機能している街灯に、男の影が映った。道の向こうに二人、気配を殺すように消えていく。
見覚えがあった。父直属の部下だ。
彼らもまた繁華街で飲んできたのだろうか。休日前でもないこの日に、彼らが連れ立った飲みに行く――想像するに違和感がある。父の部下はおしなべて生真面目で堅い気質の者が多い。
中身の入ったままの缶を地面に置く。申し訳ない気もしたが、私はそのまま脚を踏み出していた。
暗く、街灯の極端に少ないところばかりを歩く。わざとそうしているような気もした。一定の距離を置いて後ろへ付く。二人は時々辺りを素早く見まわしていた。完全にクロというわけだ。何か話しているようだが、ここからでは聞き取れない。
どこへ向かっているんだろうという疑問は沸かなかった。心臓はどくどくと音を立てている。確信に限りなく近い予想がそうさせている。
(あ、)
消えた。背の高い草が視界を覆い、あっという間に消えてしまう。見失った。
背後を振り返った。素早く周囲を見回す。…人の気配はない。ほっと胸をなでおろす。裏をかかれてつけていたことがばれていたら速攻で捕まるところだ。まあおそらく、私には気づいていなかっただろう。
空を見た。月も出ていない。星が二つだけ、目立って光っている。息を大きく吸って、吐く。すう、はあ。おそらく、ここからでも迷わず行けるだろう。私はあのボロ小屋――ノアの家へ向かって走った。
「ノア」
「なに?」
「君は何か好きなものってあるかい」
「好きなもの?」
「なんでもいいけれど。絵を描くのは好きかい」
「あー…うん。多分」
「本は?覚えることは好き?」
「…………いや、ええと…なんで?」
「いや。なんとなく、知りたくて」
「おれのこと知りたいの?」
「ああ。知りたいさ。だってもうこんなに一緒にいるじゃないか」
「……ふうん」
春栄。
「なんだい」
「寂しさとは、本来あるものが失われ満たされない気持ちのことを指す。物足りない、もの悲しい、心細い。人気なくひっそりとしている」
「ん?」
「辞書に書いてあったよ」
本来あるものが、失われ満たされない、って、どういうこと?。
丘の上の家は相変わらず、明かりもない暗がりでひっそりと大人しくしていた。人の気配はないようだ。窓にはカーテンがかかっている。夜になったらかけるようにコルクボードのメモに書いてあるのだ。
辺りをざっと警戒しつつ、私はドアの前まで小走りで近づいた。トントン、と控えめにノック。
返事はない。寝ている?予想は外れたのだろうか。
少し待った。返事はない。やめようかと思いつつもう二回叩いた。トントン。今度は少し強く。やはり返事はない。
少しだけ逡巡してから、カバンの中を漁る。この小屋のスペアキーは自宅の鍵や職場の鍵と共にキーケースに付けてある。差し込み、ゆっくり回した。確認だけだ。寝ているならそのままそっと退散すればいい。
ギイ、と音がする。ドアを開けた途端。
ガシャンと音を立てて何かが降ってきた。
「わっ」
「誰だっ!!!」
ガラガラ、ガシャン。咄嗟に避けたが首筋を掠る。振り返ると、ノアが絵を描くとき度々使っている丸椅子。ひっくり返って投げ出されている。
ノアは荒い息をして、前かがみに構え、こちらを睨んでいた。
「どうしたんだ」
「誰だてめえ!!」
今日は訪問していないので、ノアは私のことを知らない。
「落ち着いてくれノア。…何があった」
「なんでおれの名前知ってる?!」
「私は君をよく知っている者だ」
大丈夫、何もしないよ。手を上げてみせる。はあはあと荒い息を吐いて、ノアはぶるりと震えた。私が一歩進むと後ずさる。
「…何があったんだい」
「男が来た!!」
いきなり来て、勝手におれの家に入ってきて!人の身体にべたべた触っていきやがった!!
ぐい、とノアが勢いよく服をたくしあげた。脇腹のところに。
危険人物であることを示すハザードマークの印がしてあった。囚人の中でも限られた者がつけられるマーク。
息が止まる。
あの男たちだ。やはりノアのところだった。これを刻ませたのは父だろう。ノアを、囚人にでっちあげるつもりなのか。脚先から背中を冷気が昇っていく。瞬きもせず目を開いている。それで。
それでどうするつもりなんだ。ノアには昨日も明日もないのに。
これ以上何を奪うというのだ。過去も、未来も奪ったらもう、後は。そんなの。
「おい」
皮膚の上を何かが転がり落ちていく。温かくもなければ冷たくもない。液体のようだ。
ノアが驚いた顔で、但し距離はそのままにこちらを凝視している。美しい翠色を捉えてしまう。途端、私の頬は勢いを増して濡れていく。
は、は、と引きつるような吐息が漏れて、そのうち上手く呼吸できなくなる。それが嗚咽だと分かったのはノアがじりじりと近づいてきてからだった。
「なに、なんで泣くの」
私は、俯くことも目を逸らすこともできなかった。首がそのまま固まってしまったみたいに、私はそのままでぼろぼろと零れるまま放置していた。手で触れる。指が濡れて、擦り合わせるとすぐに乾いて消えてしまう。
「…大丈夫?」
大丈夫じゃない。君こそ、大丈夫じゃない。そんな風にあっさりと人にその言葉を投げないで欲しい。
それは、私が言わなければならなかった言葉だ。
私は首を振った。ノアはおろおろと狼狽えて、私の周りで手をふらふら彷徨わせる。唇を噛むが嗚咽はそれだけでは止まってくれず、わずかな隙間から落ちて溢れる。
乱暴に拭った涙は、透明だった。透明で、分かりやすく透けている。私から溢れた水だ。思考も、言葉も超えて溢れてきた。目を上げた。ノアがいた。そっと息を吸い込むと、ぐしゅ、と水っぽい音が鳴った。
「帰る」
「は?」
「また、来る」
だめだこれでは。鼻声だ。鼻の頭はきっと赤いだろう。格好がつかない。初めからついていなかったじゃないか、と心の中で私が突っ込みを入れている。さっぱり分からない、という顔でノアが眉間に皺を寄せた。
息を吸って、吐いて。通りは悪いが呼吸出来る。
「大丈夫だ」
ピンクの用紙で、マークについて心配しないように書かせてから、私はノアの家を飛び出す。
******
「遼春栄?工作班エースの?」
自己紹介のたびに言われるのでうんざりしていた。
「そんな肩書きが?」
「いや、まあ。【超記憶】なら珍しくはないけど君は使い方が上手いって。戦線出ても戦闘部隊並みだし」
元々兵学校で鍛えた身体能力と合わさって、同期の中でも仕事はずば抜けて出来ていた。軍部にはこの身一つで飛びこむことになると思っていたので戦闘技術に関しては【ギフト】所有者にも引けを取らないくらい磨いたつもりでいる。それがたまたま功をなしただけの話だった。
「工作班は実戦で前線に出るわけではないからね。鍛える目的が違うならやり方や部位も違う」
「はあ」
兵学校は国内に二つしかなく、その二つは兄弟校。よって良く名の挙がる者は既に大半の同期にプロフィールが割れている。それなりに成績をとり、遼家の出身ということで私もその対象に入っていることは自覚していた。
「元々は戦闘班希望だろ?蓋開けたら工作班にいるからびびったよ」
「うん、まあ」
なに、気が変わったの?。無邪気に訊ねる同期の男は訓練用のユニフォームの、三キロの重さがあるチョッキを着た。「これほんと、しんどい」。
「一般部隊?」
「そう。俺【ギフト】持ちじゃないからさ」
舌を出して笑い、荷物を手早くロッカーの中へ押し込むと、勢いよく閉めて鍵をかける。その一連の動きを、私は自分の支度もせずにぼんやりと追った。同期の男は時計をちらりと見やり、「やばい」と一言。
「もう行かないと。また話そうぜ」
「…ああ、機会があれば」
「お前有名だからな、友達に、会ったって自慢する」
からりと笑って男は部屋から出て行った。じゃあな、お疲れと軽く手を上げて。
口の端が上向いている。手でそっと撫でてから、下向きに引き下ろした。ぐいぐいと引っ張って伸ばす。強張りが解ける。
卒業間近、最終試験のすぐ後に長めの療養期間を設けた後そのまま卒業した。試験の結果は家で歩行のリハビリをしていた頃に告げられ、言わずもがな一番上の「優」。順位は上から三番目だったが、非能力者としては異例の成績だった。あの成績通知。証明写真の下の欄、いくつかの項目が並ぶ中に非能力者と印字されたそれは、私が持てる最後の正しいプロフィールだっただろう。
部屋のドアを見つめる。男は訓練に間に合うだろうか。ここからでは少しかかるはずだが、時計を見たところで何時に始まる予定だったのか訊いていなかった。
リリリリリリ。
軽い電子音が鳴った。ブーブーとバイブレーションも。リュックサックからしている。
こういう時の、私の予感というものは悉く当たる。掴んで引き寄せてファスナーを開け、携帯端末を取り出して。画面にでかでかと映し出された「父」。ぐらりとした。
こういうとき、一番最初に浮ぶのは父の目だ。それから厳粛に組まれた指。両手を組んでテーブルの上に置いている。メールを今開くか一瞬考えて、他の選択肢など初めから存在しないだろう私は手紙のアイコンをタップした。
<退勤後連絡するように>
たった一文。すぐに閉じてリュックサックの中へしまい、振り切るようにファスナーを閉めてから先程の男がそうしていたようにロッカーの中へ乱暴に押し込んだ。あんな風にからりと笑いたかった、と頭の隅で一人ごちる自分も押し込んで、鍵をかける。鼻からゆっくりと吐いた息はか細く震えていた。
最初はそう、対戦国が新しく開発しているという電子端末のデータ。軍部に入ってまだすぐ。配属も決まっていなかった頃だ。細部まで書き込まれた見取り図。電子系に詳しくない私には書いてある内容がさっぱり分からない。
「それを覚えなさい」
静かに、だがずっしりとした重さで父が言った。もちろん、私は少し見ただけで完璧に記憶した。空白の見取り図を渡されれば全く同じ書き込みで紙を埋められた。父は満足げに頷き、「これからは広いジャンルの知識を身に着けるように」と専門書をたくさん私に与えた。一ページ読むだけで頭の中に染み込んで消えない雑多な情報。理解するのに少し手間取ったが、それ程でもない。元々勉強は苦にならない性質だ。三か月もすれば私は少しばかり有名な大型新人扱いになり、同じ教室で励んでいた者の中には訝しんだ者もいたが、大半の者は私を並みならぬ努力家として賞賛した。【ギフト】にはいくつかのタイプがあり、稀に年齢を重ねると効力の切れる者や、逆に急に発現する者もいる。父は抜かりない人だった。シナリオはごく自然で、人工的な穴など傍目には全く分からない。
「父様」
私の知る父は昔から黙々と机に向かっている。顔が下を向いているので、声をかけない限り表情は窺い知れない。嗅ぎ慣れた匂いに振り返ると母がいた。部屋にある化粧台の前、真っ赤なルージュを唇にべっとり塗って鏡に向かいにっこりしている。
「春栄、お父様の邪魔をしてはだめよ」
鏡に向かったまま、母が言う。父のごつごつした手は万年筆をがっしりと握り、すらすらとペンが動く。後ろに母、前に父に挟まれて私は狼狽えた。手のひらの上に重量感を感じて視線を下げると、大きな翠色の石が乗っている。切り崩したような粗い断面がきらきらしていて、エメラルドの原石だと何故か私は当たり前のように思った。
「父様」
これを。
この手が、控えめに差し出した。父は顔を上げない。聞こえないのだろうか。私の口が動く。心臓が早鐘を打ち、それなのに頭から足先まで下るようにすうと寒い。手汗で石が滑りそうだ。石は小刻みに振動していて、私は自分が震えているのだと気付いた。
「父様!」
声が裏返った。ペン先が一瞬止まる。ゆっくりと顔を上げた父を石像のように微動だにせず見つめていた。私がそっくりだと言われる薄い唇が正しく真っ直ぐに結ばれ、細く筋の通った鼻はきっと乱れることなく規則的に呼吸を繰り返しているだろう。冷めた目が私を見下ろし、大きな手が机の上で組まれている。そう、父はそうなのだ。百獣の王のように私を統べる。
「あの、」
「春栄」
後ろから母の声。「だめよ、お父様から頂いたものを」。
化粧台に向かい、彼女は鏡を凝視していた。何をしているのだろう、と思っていたら、突然顔がこちらを向き。化粧っ気のない、酷く老けた顔の女が私を睨んだ。
「貴方にそんな権利があると思っているの」
「あ、」
腕の力が抜ける。滑り落ちそうになったすんでのところで石を掴みなおした。ぎゅっと胸に抱くが、段々身体から力が抜けて、私はよろよろとしゃがみ込んだ。ごくり、とつばを飲み込んだ音がやけに大きく耳に響いた。背中に突き刺すような視線を感じて、ぽたり、汗が床に落ちて墨色のしみを作る。
「春栄」
父が呼んだ。
「何をしているんだ?」
細まった目線が私の手のひらに注がれる。しゃがみ込んだことで私は完全にひれ伏してしまっていた。胸に抱えた石。きらきらと輝く美しいエメラルド。どくんどくんと鳴っているのは自分の心臓なのか、それともこの石なのか、分からなくなる。
「早く飲み込みなさい」
有無を言わせない声が降ってくる。背後からは獲物を狙うような視線が容赦なく迫り、二つの圧が私を覆い潰そうとしているのが分かる。分かっているのに、私の身体は脱力して動かない。膝に力を込めてみる。尻もちをついて無様に私は体勢を崩した。
「早くしなさい」
ばくんばくんと心臓が暴れている。何か訴えようとしているが、言葉なしには届かない。かたかたと震える手が石を掲げ、口元へ持っていく。自分の身体が自分のものではないことをはっきりと思い出したようだ。いやだ、と私は叫びたかったがはくはくと口が動くだけで、何も出てこない。
いやだ、いやだ。
「春栄」
母の声がする。父が私を監視していた。飲み込むまでそうしているつもりなのだ。目を離せない。縛られているように、貼り付けられているように父から視線を外せない。
口元まで持ってきたところで、ごそ、とそれが動いた。
「うわっ」
はっと視線を向ける。近すぎてぼやける視界で、美しいエメラルドだったものが。
「ああああああああ!!」
かさかさと糸のように細い肢体を蠢かせるもの、黒光りする胴。ゴキブリに変わっていた。父が見ている。飲み込むまで見ている。
「どうしたんだ春栄」
早く飲みなさい。
目から一滴零れたものが、墨色の筋を頬に残してどこかに落ちた。
******
「父様」
頭の中は空に近かった。だから私は父の部屋の前で立ち竦んだりしなかった。
殆んど衝動的に電車に飛び乗り、走っていけばあんなに見るのも来るのも億劫だった大きな屋敷が目の前に聳えていて、私はそこで初めて時間を確認した。二十一時五十七分。父が帰っているかは分からない。
「坊ちゃん!こんな時間にどうしたんです?」
使用人たちは驚いた顔で私を迎える。無理もない。正月など親戚も集まる大きなイベントを除いて実家には長く帰っていなかった。彼女たちは耳が非常に早く、正確性はさておき私たち家族のいきさつについては粗方情報を掴んでいるだろう。
「夜分に突然申し訳ない」
「いいええ。そんなことは…。ご連絡くだされば迎えに行きましたのに」
「急用でちょっと」
呼吸を整え、どくどく胸を叩いている心臓の音を聞きながら私は早口で言った。
「父はいるかい」
「ええ、春東様なら先程お帰りになりましたけど…」
「そうか、ありがとう」
父は広い背中を私に向けて窓の外を見ている。まるで私に気づいていないかのようなゆったりとした肩だった。
「お前はノックも出来なくなってしまったのか」
久し振りに聞く声。何百人の軍人を束ねるこの男は、迷いないその声で何度もこの国に勝利をもたらしてきた。書斎の棚に並んだ表彰楯、丁寧にかけられた制服の胸元の、いくつもの勲章。
遼家に恥じぬ人間になれ。私の息子として恥じぬ人間になれ。萎縮し、そのうちに自分に蓋をして当たり前のように首を縦に振るようになっていた。脚が震えそうだ。力を込めて立った。
「お話があります」
空調の効いた室内は懐かしいひのきのようなにおいがした。父の部屋のにおいだ。革張りの応接セット、その上の銀の灰皿。
「座りなさい」
目が合う。冷ややかな黒曜は、自分が絶対的な立場であることを十分に知っている。知っていて私と目を合わせている。
ゆっくりとした足取りで父がやって来た。このソファ。父の客人たちが何人も腰掛け、ここで父と話をしていたのを覚えている。思えばこの部屋にちゃんと入り長居したことは一度もなかった。座るのは初めてだ。十八年住んだ家なのに、そうだここは私の中で不可侵の領域だった。まさか自分も使う日が来るとは思いもしなかったそれは触れると硬く滑らかで手入れが行き届いていた。
「話というのは」
単刀直入。多忙な父に染みついたすぐに本題に切り込む話し方。部屋の中はしんと静かで、時計の音すら良く聞こえない。眉間に疲れがにじんだ父は、それでも現役らしい鋭い眼光でこちらを観察している。私は細く息を吐いた。蛇に睨まれた蛙。それでも、ノアの元を飛び出した時の衝動と気持ちは消えていない。それでいい。
君の顔が浮かんだ。眠たげな顔をしていた。いつの君だか分からないが、君が浮かんだ。
それでいい。
「…ノア・ヨンセンのことです」
ソファがぎし、と微かな音を立てた。父は驚かない。少なくとも表面上はそう見える。
「何故お前が意見する?それに軍部と警務部の間の話をここですべきじゃない。弁えろ」
「しっ、仕事上の話をしようとしているのではありません」
ごまかさないで下さい。
声は、やはり若干震えていて。父は気づいているだろう。
「春栄」
父が私の名を呼ぶのはものすごく久し振りである気がした。この人は諭すように呼ぶ。私が良い成績をとったときも、何かヘマをしたときも同じように呼んだ。春栄。
そうか、呼ばれる度にまるで期待されていないような気がしていたのだ、私は。
「私はお前が優秀な跡取りであってくれればそれでいいと思っている。他には何も望んでいない。何か難しいか」
あれにお前が入れ込むのは想定外だったが、と一人ごちて目をつぶる。煙草を吸わない人で、間が持たないとき父はよくそうした。煙草の臭いが嫌いだと言い、では私は煙草とは無縁な人間になるのだなと思った。父の嫌いなものを私は身につけられないと当たり前に思っていた。
父の所有物であること。それが私の当たり前で、世界の理。では壁一面の黒と抜け殻のような君はどこへ行けばいい。君は、どこへ行けばいい。
「ノアを保護する権利を、私個人に譲渡して頂きたい」
私は。
「許可できない」
瞬きもしない頑強な瞳が私を殺そうとしている。ねじ伏せ、パズルピースのひとつとして秩序の中へ還そうとしている。言葉が舌に絡みつく。自分の内側で暴れる。落ち着け、大丈夫だ。今出してやるから、だから落ち着け。指先が驚くほど冷たい。そのくせ汗ばむ。
「あれはあくまで軍部の管理下で、警務部は…お前は監視保護役として役目の一端を担っているに過ぎない。両部門で合意していることだ」
「それ、それは、違う」
「春栄」
気づけば全身が震えていた。かたかたと、小刻みに。ぎゅうとズボンを握りしめたが止まらない。父はつまらないものを見るようにため息をつき、腕時計をちらりと見た。
「私はやることがある。下らないことで時間を潰す暇があるなら鍛錬でもして、早く軍部へ転属しなさい。なんのためにお前に授けたと思っているんだ」
お前には正直失望しているんだ。父が席を立つ。背中を向ける。ぎゅう、と握ったところが汗で湿り、私の内側でうねっていた渦が、ものすごいスピードで。
「違う!!」
音もなく弾ける。
「違う!違う!あれはっ…あれは父様が勝手にやったことじゃないですか!」
父はノアをしばらく隔離していた。それからほとぼりが冷めた頃、半ば強引に周囲を納得させてあの廃墟同然の家に繋いだのだ。軍部側は幹部クラスの父に従うのみで、警務部側には文書で殆んど決定事項のような書き方で通知されただけだった。
「ノアの【ギフト】を抜いたのは貴方だ」
私は知っていた。父が何を恐れているのかを。私たち遼家が犯してきた歴史の重みを。思考を越えて唇が動き、震えが止まる。
「ノアをどこにやるつもりですか。ハザードマークまで印字して…」
つばを飲み込んだ。喉が動く。
「ノアを私の保護下に置かせて下さい。…これは譲歩です。出来ないのであれば…貴方がノアと私にしたことを総司令官と警務長官に話します」
二人の距離は小さな応接テーブル一つ分。父は表情ひとつ崩さずに私を凝視していた。しん、とした空気が張り詰める。
「ふふ」
冷たい笑い声がした。父が口元を手で拭う。その唇は斜め上がりに吊っている。
「お前、どうしたんだ本当に。ふふ」
「父様、私は本気です」
「もしそうするというなら春栄、」
ノア・ヨンセンを殺すぞ。
諭すような声が、日常から少しもぶれない滑らかさで口にする。
「方法はいくらでもある」
父は我が家が伝統のように行ってきた禁忌を、【ギフト】の移行を明るみに出されることを恐れていた。それは歴代の者全員が恐れ、隠しながら繋いできたバトン。「同盟国の青年で軍部に引き取り手がいたが精神的疾患により要観察人物となる。特別措置により警務部の観察下で様子観察とする」。ノアの情報が私の耳に入ったとき、私は父の胸中に気づいた。
「父様はしてはいけないことをした。分かっているはずです、こんなことが無事に続いていくはずはない。…私たちで終わらせるべきだ」
「やらなければ遼家はここまでの発展は有り得なかった」
「なんの意味があるんです」
関係のない人間を犠牲にし、不正な方法でのし上がって幹部の席に座る。そのことに、どれだけの意味がある。私はそんなものはいらない。ノアと唯静かに過ごしたあの時間が、本当はとても満たされて価値あるものだったと知っているから。だから。
「お前が兵学校に通えて幹部の席にストレートで座れるのはどうしてだと思う?遼家のブランドがあるからだ。長きに渡って築き上げた地位を、お前の馬鹿げた行いのせいで無茶苦茶にする気か?」
質の良いカーペットの上で父が音もなくこちらを向く。昔、大きな父を見上げていたことを思い出す。首を伸ばして、目を合わせないように鼻の辺りを見ていた。
「意味ならある。遼家の地位を維持させるためだ」
お前は頭がいい、間違いなく歴代の中でも最高峰の人材だと言っただろう。
「どのみち後には戻れないぞ。お前はもう【装填済み】なんだからな」
背丈は今でも父の方が頭半個分高かった。それでも、半個分。私は父の目を見る。
戻れない。そうだ。元には戻れない。私が君にしたことは消して消えたりしない事実だ。
だけど。だから、もう。
「戻れなくても私は進みます」
手はまだ冷たい。それでも、私は喋っている。父の目を見て喋れている。ノアはどうしているだろうか。あの家で、もしかしたらまだ落ち着かずにいるかもしれない。驚いた顔が鮮明に浮かび、細部まで丁寧に思い出せることが嬉しかった。脇腹の刻印。
「ノアを殺すというのなら、私の頭の中の情報を丸ごと軍部に渡す」
「情報?」
「敵国やこの国の詳細なデータ、それから公には公開されていない膨大な機密情報も」
父は私に数え切れないほどの情報を覚えさせてきた。「春栄、それを私に送りなさい」。私は父から連絡が来る度それらを父に渡していた。情報は多岐に渡り、そのお陰で本来ならば書庫から何時間もかけて調べなければならないような情報も、彼はすぐに取り出して繋げることが出来た。私がこの能力を手にしてから父の軍部での成績がぐんと上昇したことを私は知っている。
「一警務官が把握するには過ぎる情報量がこの中にはあります」
頭を指さして私は静かに言った。
「貴方がそうした。私は遼家の中でも最高峰の人材だと…」
では、貴方と私ではどちらが軍部にとって有益な存在なのでしょう。
父の顔が、明らかに強張った。
「私が軍部の幹部席に本当に座ろうと思ったら、父様、貴方はどうなる」
父は恐れていた。遼家の地位崩壊以上に、己の幹部からの転落を。だから忠実な自分のコンピューターとして私をつくりあげ、自分の思う通りに動かしてきたのだ。
だがそれはコンピューターではない。私は。
「春栄」
私は意思のある人間だ。自分で選び、道を造っていくことが出来る。
「私は本気です」
一度目を通したものはすぐに覚え、二度と忘れない。 だから。
「ノアは貴方の駒にはさせない」
ノアの保護権を私個人に譲渡して下さい。そうすれば今まで通り貴方に情報を渡し、任用期間の間貴方を妨害しないとお約束します。
父の顔が歪む。そんな顔を見るのは初めてで、どうしてあんなにこの人を大きいと思っていたのだろうと思った。視線が合わない。私の鼻の辺りを見ているのかもしれない。
「父様」
ずっと呼吸しづらかった。家に帰ってから、机に向かい、鍛錬をして食事をとって、風呂に入って眠る。迷子のような気持ちだった。自分がこの家の一部品のように感じていた。貴方がノアを連れてくるまで。
(だから父様。私は多分、貴方に感謝している)
さあ、選んで。
父は石のように動かない。どんな気持ちでいるのか、私には手に取るように分かっていた。
******
むやみやたらと生えている草がかさりと音を立てた。空気が乾いている。じっとりと肌に吸い付く服の布地を摘まんでぱたぱたとやり、僅かながら風を入れた。その風も、どこか生温い気がした。
送っていきましょうか、と言ってくれた部下の申し出を丁重に断って歩く。いつも、決まって歩くことにしているのは中身のないジンクスのためだ。自分の足で進み、自分を目的地まで連れて行く。家を出てからは益々自由にそう出来るようになった。迎えも送りもなく、こうして汗をかいたり、傘を差したり、寒さに震えたりしながら。
ノアの住む家は庭の手入れをしないために雑草が伸び放題で、夏の間に生い茂った鮮やかな緑色が勝手気ままに風任せで揺れている。本当は業者でも呼んで一度綺麗に刈り込んでしまいたいのだが、職権乱用だと騒がれては困る。機械も伝手を頼ればそれなりにその手の処理をしてくれるものを使えるだろうが、あれらは割に騒音でがなるのでノアは酷く嫌がるだろう。結果、庭は荒れ放題だった。初秋を迎えた今でも、背の高い柔らかな葉がさわさわと音を立てて、またあいつが来たぞと騒いでいる。そんなに怪しいものではないよとひとりほくそ笑んで、分厚いドアをノックした。ドン、ドン、ドン。ゆっくりと三回。
がちゃりとノブが回った。
「何」
蜘蛛の巣のような髪の毛が目の前に現れた。
「あ、」
次いで、これは、強烈としか言えない臭い。絡まりに絡まった毛束に面喰って、母音がこぼれ落ちる。白いシャツにボクサーパンツ一枚といういで立ちのノアは、私を頭から足の先までざっと観察すると、一歩引いてノブに手をかけたまま小さく唇を動かした。「あんた誰」。
「遼春栄」
この街の警務官で、仕事で君の様子を見に来ている者だ。
定型文の挨拶をすると、ノアは眉を吊り上げ、明らかな警戒態勢でこちらを見た。しばらく好きに観察させておけば一応客扱いして家の中に通してくれるだろう。数分の後に、釈然としない顔と動作でノアは私に向けてドアを開いた。
目の前に飛び込んできたのは大きなカンバス。一番大きなサイズのものが鎮座していた。いつ買ったものだろう。今月の購入リストには入っていなかった気がする。
「絵を描いていた?」
訊くと、こくんと頷く。
彼は絵を描く。但し以前私が教えた描き方ではない。それでも、彼は今も絵を描く。私は、不思議な気持ちでカンバスと、塗りたくられた絵具を眺めた。色をべたべたと重ねているだけのように見えるのに。いつの間にか、やっぱりちゃんと絵になっている。
それは濃紺一色で塗られていて、一番てっぺんに、土星のような星が慎ましく描かれていた。他には何もない。土星は、靄がかかったような金色だった。
「綺麗だね」
余計なものを一切省いたようなすっきりと冷たい絵は、確かに綺麗だった。ノアが私を一瞥したのが視界の端で見て取れる。
「ノア」
「何だよ」
「座って」
ここはおれの家だぞ、と不満たらたらにノアは椅子に腰かけた。私は立ったまま、いつものように彼に、彼が置かれている状況について説明した。
君の名前は、ノア・ヨンセン。この街に来て三年くらい。齢は、私も詳しくは知らないが二十代半ばといったところだろう。血縁者という意味では家族はいない。突然だが、君の記憶は、一日毎にリセットされてしまう。そこで警務課で君を保護し、衣食住を提供し、警務官である私が、 適度な頻度で君の様子を見に来ている。
「コルクボードを見てごらん」
重要度の高いものはピンク、それ以外は白の用紙で。昨日までの君が今日の君に忘れて欲しくないことをメモにとってある。ピンクの紙のものは特に、忘れないであげて欲しい。
風が吹いた。窓が開け放ってある。今日は曇りだから、カンバスに影響がなくて良いだろう。
「ふうん…」
ノアは虚ろな声で呟いた。納得したわけではない声色が、私の内側をぎゅうっと絞る。ノアがどんな状況にいるのかをうっかり想像してしまいそうで、想像しなければいけない気もして、私は何故か笑みを作って彼の反応に応じた。残酷で無慈悲な乖離だ。何故、口角をあげる必要があるだろう。心の内では、相変わらず恨めし気な声がする。最低、と。
ここへ来るまでずっと考えていたんだ。
君が、君の自由でなく、誰かの手によって引きずられる未来を。
そして、私の遠く及ばない力を。
何故、私は君にこんなに強烈に惹かれるのだろう。何故君は惹かれないのだろう。
何故。何故。何故。
酷く自分勝手な人間なんだ。私は。君のサインには、気づいていたはずだったから。
「ノア」
このまま一人で、君のことなど忘れて生きていけたらいいのに。君は全部忘れてしまって、私は全部覚えていて、そして、今日の記憶は二度と私の中から消えることはない。私は君と同じ力を手に入れたけれど、君のことは分からない。
酷い。あんまりじゃないか。こんなのは、私ばかりが辛いようなものだ。だって君は私のことなど忘れてしまう。
「何」
君から逃げてしまいたいのだ。走って、走って。今までの全てを、君と私の全てをなかったことにして。私の得体の知れない執着ごと、ゼロにしてしまいたい。
そうすれば、楽になれる。唯、楽になれる。それを望んでいるのだ。強く、強く。
「どうしたの」
静かな声。透明な声。私のことなどするりと通り抜けてしまうだろう。そういう声。口角の上がった唇に、笑み。やんわりと解く。
「私は、春栄というんだ」
「さっき聞いたよ」
「呼んでくれ」
「なに?」
「名前を、」
呼んでくれないか。
ノアは怪訝な顔をした。私たちを取り巻く空気が、少し緊張する。彼が一歩引いたのが分かった。
「…ねえ何しに来たの」
部屋は相変わらず埃と絵の具のにおいがする。それから少しの木製の家具、奥には使った形跡のあるキッチン。コンロが錆びて、おそらく何か野菜の焦げたものがこびり付いているだろう。ノアはここに来てから料理をする。作った物に日付を書くように言うがすぐに忘れて駄目にしてしまう。私が勝手に捨てると酷く怒る。【ギフト】を失ってからのノア。私はじっと見た。明らかに警戒しているその顔を見た。明日には、何もかも忘れてしまうその男を見た。
夏の流星群の時期は終わってしまっている。
腕を伸ばした。君は張り詰めた草食動物のごとく反応し、椅子ががたりと音を立てた。怯えの色が。私の身体が、動いた。吸い寄せられるようだった。君は硬直して動かず。きっと私の目を見ている。君の目に、私はどう映るだろう。君の、翠の瞳に。綺麗だろうか。汚いだろうか。どちらでも、同じだろうか。
自分の腕を、まるで傍観者のように見ていた。宙を彷徨い。酷く頼りない。
君の額に伸びる。
ひゅっと、息を飲む音がした。君の喉からだった。それでも、君は私を見ていた。君が、怯えているのが悲しい。君の白い額。額の上の、私の五本の指。しくしくと心が沁みて傷む。
この中に、昔素晴らしい図書館があったんだ。海のような本棚があった。私は辿りつけなかったが、初めから諦めて辿りつこうとしなかった。だけど、辿りつけなくても、辿りつかなくても良かったのかもしれなかった。
目の前に、温かい君がいる。確かに、存在している、という事実。怯えの薄れた君は、いつでも私に反撃できるだろう。吸い込まれそうなエメラルドグリーン。本当は変わらない輝きだった。きっと。
「君が好きだよ」
呼吸するように。多分それくらい当たり前に。窓から風が入ってきて、ボードのメモ用紙がカサカサと呑気に歌った。私の唇は、自然に動いた。
友愛だろうか。情愛だろうか。家族愛だろうか。どれも違う気がした。全部である気もした。
きっと一番単純で、一番初めの、一番原始的な。濾過された果ての一滴のような。
故にどんな感情よりも真っ直ぐに鋭利で、恐れていては刃物のように、君と私を刺すだろう。
君が好きだ。きっと「好き」だ。理由も、種類もなくても。君の目に映らなくても。
君は毎日消えて、毎日新しくなって、私はずっと覚えていて。毎日君を覚えていて。それが救いでもそうじゃなくても。
形のいい猫目が大きく見開かれる。驚きの色。光が照らして、宝石のような。
温かい額。この中が空っぽでも、君は君だと言いたい。胸を張って言いたい。言おう。今日言おう。明日も、明後日も。
「名前を呼んで」
私が、君を呼ぶから。
額に触れても、君のことは分からない。何も共有できない。こうしていて全て分かればいいと思うけれど、分からないから、私は君の名前を呼ぼう。呼ぶ度振り向いてほしい。君は君だ。いつまでも君だ。信じる。信じてほしい。
「ノア」
信じてほしい。
ノアは依然として怪訝そうな顔で、私の手首に触れた。額から指が離れて、空気に掠る。手首から手のひらへ。白い手が、私の上に重なる。ノアの方が少し大きい。小さく口が開いた。聞き逃してしまいそうな声で、君が言う。
「春栄」
私は、唯黙って、うん、と答えた。
*****
「遼さん、長いお休みとってらっしゃるんですか」
「え?」
「最近、デスクにいらっしゃらないから…私が夏休みとってる間になんかありました?」
「ああ、彼今軍部でも仕事してるんだよ。今日はそっちにいってるんじゃないの」
「えっ、そんなのあるんですか」
「まあ元々の畑はあっちだしね。でもこっちの仕事も続けていくってさ」
「はあ…ハードスケジュール…」
「いやまあ、警務の仕事はその分減るから…例の男の監視保護は引き続き専任で。…というか、なんか完全にこっち持ちになったよ、あの案件。軍部がそうしてくれって、今月頭に」
「あ、そうなんですか。…なんか遼さんに任せっきりになってるからイマイチよく分かってないんですよね私」
「まあ実際そうだったからな。色んな噂あったけどさ、やっぱお家騒動説が俺の中で濃厚」
「その男の人やっぱり養子とかだったんですかね」
「さあ…まあでも、前よりも自由きくようになったみたいだよ、その人。遼さんが何か言ったんじゃない」
「というのは?」
「俺見たんだよ。この間出歩いてた、遼さんと」
「え?!どんな人でした?」
「なんか背が高い…多分外国人。目がミドリだった。イケメン」
「えーいいなあ。私も見たかった…」
「いつか見れるよ。目撃情報結構多いもん」
でもなんか、遼さんが珍しい顔で笑ってたわ。あんな顔も出来んだなって。
なんですかそれ、めっちゃ待機じゃないですか…。
*****
「ノア」
分厚いドアが音を立てて開く。この扉を開けるには結構な力が必要なのだ。
「あ、ほんとに帰って来た」
テーブルの上で殆ど突っ伏した状態から、顔だけ上げたノアがきょとりとのたまった。どさり、とそのテーブルの上に荷物を置く。牛乳パック二本と丸々とした魚が二匹、ヨーグルト、それから人参と玉ねぎが入っている。ビニール袋からは人参の鮮やかなオレンジが突き出ていた。タイムセールで勝ち取った卵一パックはそっと置く。
「何?それ」
「買い物してきたんだ。今日は焼き魚にしないか」
「何でもいいけど…飯っていつもあんたが作るの?」
ノアが首を伸ばす。前方壁のコルクボードを確認しようとしている。重要なことはピンク、それ以外は白の用紙だ。
「いや、あそこには書いていないよ。今日はたまたま私が作るんだ。いいかい?」
「うん。おれ料理知らないし」
「じゃあ今度教える」
「忘れちゃうんじゃねぇの」
新調したカーディガンに木の葉がくっついていた。安かったからという理由で買ったら、やけに毛玉が多くていけない。やはり少し無理してでももう少し値の張るものにしておけば良かっただろうか。いや、買ってしまったものは仕方ない。責任持って着倒そう。
「何度でも一緒にやろう」
ノアは色を塗る手を止めた。不思議そうにこちらを見る。「変な奴」。
何を描いているんだい、と聞くと、「そら」と返事が返る。夕焼けだった。オレンジと紫、ゆっくりと蒼へ続く美しいグラデーション。色鉛筆で丹念に塗られている。なんとなく昨日散歩道で見た景色に似ていた。そんなはずはないけれど、私は微笑んでいた。
「君は空が好きだね」
「そう?」
「うん。よく描いている」
テーブルの荷物を引き上げた。がさりと音が立つ。君の顔が下を向いて、眺めの髪で隠れた。かりかりと鉛筆が擦れる。魚を焼くために、私はキッチンへ行く。
「ノアはどんな家がいい?」
夕飯の後で訊ねると、ノアはきょとんとした顔で私を見た。
「いえ?」
「ここをリフォームしようと思ってるんだ」
「リフォームってなに」
「家の中を新しくすることだよ。中身を改造するんだ。…まあ、今回は見た目も少し綺麗にしようと思ってるけど」
「へえ、」
皿を拭きながら、間の抜けた声が飛んだ。どうやら全く興味がないらしい。というか、個人的には彼は描くこと以外には興味がないと思う。本は読めば聴いているが、如何せん文字の読み書きが出来なくなってしまっているので、眺めていても聴いていても、本人としては面白くはないようだ。唯一子供向けの絵本には少しだけ関心を持つ。この間ふと思い付きで赤ずきんを買って帰ったら、じっと覗き込んで聴いていた。色のついた、カラフルな世界。そこに君がいるならとても嬉しい。
「どんなって言われてもなあ。おれ分かんないよ」
「大きい棚が欲しいとか、風呂場は広い方がいいとか、…ああ、そうだ。部屋を仕切って増やして、一つを絵を描くための部屋にしようか」
カンバスやイーゼルを心置きなく置いて、スケッチブックを収納する棚も置こう。壁には君の絵を、いや君が気に入った画家の絵でもいい。それを飾って…。
「いや、いい」
ぴしゃりと声がシャッターを下ろした。私は彼を見た。ピンク色の布巾が水を吸って大分湿っている。
「気に入らないかい」
「いや、…だって、明日、おれが絵を好きでいるか分からないだろ」
もしかしたら、全然違うかもしれないじゃん。
くぐもった声は、シンクを叩く水音で危うく聞き逃してしまいそうだった。私は、間抜けに口を小さく開けたまま、手にしている皿の方に首を向けた。口を閉じて、皿をすすぐ。泡が流れ落ちていった。
思ったよりも難しい、と思う。言葉も息も詰まってしまう瞬間が、何度もある。内心「しまった」と跳ねる自分を冷静に見ている自分が、「またなのか」と肩を落としている。すすぎ終わった皿を、ノアが受け取った。すぐ隣からキュキュッと清潔な音が鳴る。
「なんかごめん」
「いや、君は悪くないよ」
そんなことが言いたいんじゃない。私は笑って見せた。こういう時、どうして表情筋を鍛えてこなかったのかと思う。明らかに不愛想の部類に入る自分は、自分では笑っていると思っていても鏡を見たときとのギャップが酷い。笑えていただろうか。
「いいんだよ」
大丈夫。ぎこちない言葉と表情で。それから手の泡を落として、拭い、この体温で君に触れる。
ノアの肩はぎくりと強張り、若干の眉間のしわと疑問の残る瞳で私を見た。君から見た私は初対面の見知らぬ男だ。心はしくしくと痛むけれど、今はそれだけじゃないから私は君の隣で引き続き皿を洗った。全て覚えておく私の脳が、君のその顔も記憶に深く刻み込む。
「あんたって、なんか変」
むず痒そうに君が言った。
目覚めた。辺りは薄く闇が張っている。布団から手を出して、枕元に置いてある置時計を手に取った。曇ったような光の中、デジタルな02:46が浮かんでいる。もうすぐ深夜の三時。
隣から流れる空気が、やけに冷たいと思ったら、ノアがいなかった。掛け布団が乱暴に剥がれ、その中はもぬけの殻だ。
?。
どくりと心臓が音を立てるのを聞いた。
「ノア」
急に起きあがったので一瞬頭がふらつく。寝起きの気だるさは一瞬で飛んだ。
「おい」
まだ【ギフト】を収める前のことだったのに、私の頭の中で廻るあの日のノアは、当時のままの鮮度。
壁に塗りたくられた黒。黒い絵。君が絞り出した最後の咆哮。あの、目。置時計の示す時刻。
「ノア!」
嫌な予感が、背中を這い上がってくる。冷や汗をかいているようだ。深夜三時。
気が動転している。部屋の中に私以外の気配がない。布団の皺につまずきそうになってよろけ、私は空気に体当たるようにしながらこの家を飛び出した。ガン、と大きな音を立ててドアが開いた。
華奢な影。
細長いシルエット。
目の前で、ノアが空を見上げていた。
「……な…」
秋の涼しい空気の中で、優雅に髪をそよがせながら、ノアは立っていた。
心臓がばくばく派手に鳴っている。前身の力が抜けて、一瞬倒れそうになり。
「……おい!」
声が裏返って掠れた。閑散とした丘の上で、夜の暗闇に怒鳴り声は簡単に響いた。
ぱっと振り返る。依然として影。表情は見えなかった。私は焦燥感に背中を押されてずんずん近づく。ここ最近で一番感情的な歩幅だ。獲物を掻っ攫うライオンのように胸倉を掴んでいた。寝間着だった。
驚きに満ちた顔でノアが私を見るのが、至近距離でやっと見えた。それくらい暗い。中々辺鄙なこの場所は建物だってこの家くらいなものだ。寂びれた場所には街灯すらなかった。
私たちの周りを濃い黒がかたどっている。世界から二人、切り抜かれたような。
私は息を吸い込んで、何か言ってやろうと構えたのに何も言葉が浮ばず、空気が喉を通って落ちた。唇を閉じる。
「なんだよ」
平坦な声。もう日付を超えていた。リセットされたノアは、私の手を掴み、ぐいと引っ張った。鈍い痛みと体温。私の手は大人しく彼の胸元から離れ、素直にだらりと両脇にぶら下がった。
「こんな時間に出歩いたら危ない。驚かせないでくれ」
「……目が覚めたらここにいたんだ」
そうしたら、外が真っ暗だった。
「なあ、ここはどこなんだ?…お前、俺のこと知ってる?」
何もない。ぐるりと辺りを見回して、ノアが小さく呟く。目が覚めたら何も分からず、自分のことすら分からず、こんなに静かな夜にひとり目覚めてしまった彼のために星くらいは出ていて欲しかった。生憎空は真っ黒で本当に何もない。唯々闇が、世界を丸ごと包んで見降ろしていた。
怖かっただろう。
「よく知っているよ」
真っ暗な場所に立つノアをつくる輪郭が、昼間よりも一層儚い。
「なあ、なんでこんなに暗いの。真っ暗で何も見えねえよ」
「深夜だから仕方ない。この辺りは街灯もないんだ…月や星が出ていればもう少し明るいんだけど」
「出るの?」
「この国は時期によってすごく空気が澄むんだ。そうすると空に沢山星が出る。圧巻だよ」
「こんなに暗くないってこと?」
「うん。君と私もお互いが良く見えるだろうね」
「そんなに…」
二人して空を見上げた。風もなくて、本当に今日は耳鳴りがしそうなくらい静かな夜。しんしんと寂しい夜。ノアの髪の毛。そこに隠れた少し小さめの耳。何を考えているだろう。
腕が上がった。ゆったりとした寝間着が腕のほうへ滑り落ちる。人差し指が、すっと空の一点を指す。
「ここにひとつ」
「ん?」
「ここにひとつ」
ひとつ、ひとつ。言いながらノアが次々空を指指していく。
「な?」
「…何をしてるんだ」
同意を求めるような声で、ノアが振り向いた。表情が見えない。今までは目覚めてパニックになるか、きょとんとしているかのノアしか知らない。初めてのケースに戸惑う。
「白で」
「白?」
「白で点をかく」
ここにひとつ。ここにひとつ。ここにも、あそこにも。そっちにも。
「沢山かいたら」
沢山かいたら、明るくなる。
飲み込まれるような、何もない黒い世界の中で。しんしんとした気配の中で。生温い空気。君と出会って三年。そして二年。五年の間に何度も繰り返されただろう闇夜。こんなに真っ暗な黒。
時が止まる。
君の世界。
怖いんだ。
頭の中に、布がかけられてるみたいな。
だけど、ええと。
流れ星ってどうしてあるのか知ってる。
生きてる感じがして、さみしくて。
眠れない。
春栄。
地を這うような呻き声は、君の最期の喘鳴だったかもしれない。
昏いあの瞳。壁一面にぶちまけられた真っ黒な絵の具。
ゆるく握られた右手の、絵筆の先の白い絵の具。
何を描こうとしていたんだろう。
君が私を振り返った。
亡骸なんかじゃ、ない。
「わ」
ぎゅうと力の限り抱きしめた身体は、暖かかった。ぎゅうぎゅうと、私は殆ど途中からむきになって抱きしめた。普段なら、目覚めてすぐなど一番警戒心の強いノアは、一度身体を固くして、それから徐々に大人しくなった。力が抜けていくのが分かる。私の腕の中で。
「なに、あんた」
怖いんだけど。そう言った声がまろい。
私の手のひらに、薄い皮膚、それから背骨の凹凸がある。遠慮がちになぞったが、ノアは何も言わない。静寂の中で、とくんとくんと心臓の音だけが響いた。とくん、とくん。耳を澄ませ、目を閉じる。
あの日から二年。君の背骨は相変わらず頼りないが、消えることはない。ここにある。ここにあって、君を生かす。
君があの日、描こうとしていたものは。君が描こうとしていたものは、黒い絵なんかじゃなく。
「たくさんあれば明るくなって、そうしたら色々なものが見えるようになる」
私の声はくぐもっていた。ノアが擽ったそうに身体を捩る。くすぐったかったかもしれない。
「私にも君が見えるだろう」
「おれ?」
「君にも私が見える」
息苦しくなってきたのと、君が戸惑うのが気になって、腕を解いた。至近距離の君は、それでも顔の凹凸がかろうじて見えるくらいだった。ああ、いや、目がよく見える。暗闇でも綺麗に輝いている。美しい。美しいエメラルドグリーンだ。
君の手を掴んだ。
あんた、手あったかいな、と声がする。私は低体温だ。温かくなどない。私は、私よりも断然温かいノアの手を握った。今ここで、生きている君の手のひらを。じんわりと私の心のどこかを満たす温度をしている。
「流れ星というものがあるんだ」
「流れ星?」
「ええと、確か流れ終わるまでに三回願い事を唱えられたら叶うと言われている」
「なにそれすげえ」
「流れ星がどうやって出来ているのか知っている?」
流れ星は……大きさが0.1ミリメートルくらいの小さい個体の粒が大気に落下し、空気との摩擦で燃えて光る現象です。
「知らない」
「大きさが0.1ミリくらいの粒が、宇宙を落下して、空気と擦れて燃えて光るんだ。流れ星の光る高さは上空百キロ付近で、これは空気が濃くなり始める境目の高さ。この個体の粒は箒星…彗星が飛びながら吐き出したものなんだって。それが大気に突入して燃え尽き、流れ星になる」
「…は?」
難しくて全然分かんねえ。あんた学者?。
「いや、私も聞いた話なんだ。でも、その時は一気に本の通りにさ、流暢に話すものだから、ふふ」
私はあの後、彼の読んでいた本を図書館で探した。それから図解付きのその頁をじっとみて咀嚼した。思い出して少し笑える。きっとノアは、本を丸ごと暗記していただけで彼自身もなんのことかは分かっていなかっただろう。なのに。
でも。お陰でこうして今、話せる。当時は【ギフト】を持っていなかったけれど、覚えている。覚えている。
「流れ星がたくさん、雨みたいに降ることもあるよ。流星群って言うんだ」
「へえ?」
「私も見たことはないんだけれど」
見てみたい、流星群。毎年殆ど同じ時期に見えるらしいんだけど。
流星群か。私も見たことはないな。
そうなの。
…いつか。
いつか連れて行くよ。
「再来月、大きいのが来るよ」
手が汗ばんだ。
「見に行こうよ」
約束しようか。
君が覚えていなくても。
私が覚えているから、約束しようか。
今度こそ。
「雨みたいな星か」
ノアが空を仰いで呟いた。しんと音がしそうな、無音の世界。もうすぐきっと、夜明け前の一番暗い闇が来るだろう。ふうん、と平坦な声。透明といってもいい声。「ノア」。
「真っ暗な間は、こうして手を繋いでいれば大丈夫だ」
ぎゅっと。強く握った。君が見えなくても。私が見えなくても。
「あんた、誰」
今更君が聞いた。私は吸い込まれそうなその目を見ていた。笑ってしまう。私は、笑った。
「遼春栄」
君のことが大好きな、他に何も持たない私の。
名前を呼んで。
「君と一緒に住んでいるんだ」
よろしく、ノア。




