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「誰かと思えば、ユベールか」
「なんだ、いたのかおやじさん」
薄暗い格納庫の隅、工具棚の側から声をかけてきたのは、オイルに汚れたツナギを身にまとう初老の男性だった。明かり取りの天窓から差す陽光で『ストルク』が浮き上がって見えるせいで、声をかけられるまで彼がいることに気付かなかった。
「っと、かわいいお連れさんじゃないか。新しい女か?」
「馬鹿言え、ガキに手を出す趣味はないぜ」
一年ぶりではあるが、顔なじみと交わす言葉は気安い。彼の名はアンディ・フィテルマン。フィッツジェラルド家のお抱え整備士だ。自転車に始まり、車から船、飛行機に至るまで、当主であるジョン・フィッツジェラルドの乗る物は全て彼が整備し、ときにはスーツに身を固めて運転士も務めるのだという。
「ユベール、彼は?」
フェルの問いには、フィテルマンが自ら答える。
「アンディ・フィテルマンだ。よろしくな、お嬢ちゃん」
「わたしはフェル・ヴェルヌだ。よろしく頼む」
フェルと握手するフィテルマンがにやりと笑う。
「ふむ? おもしろいお嬢ちゃんだな。どこで拾った?」
「共通語に不慣れなんだ。からかわないでやってくれ」
「なるほど、心得た。で、お前らこいつを見にきたんだろう?」
「ああ。調子はどうかな?」
フィテルマンがストルクをあごで示す。一年を通してこの時期しか飛ばさない機体の整備はなかなか骨が折れる作業だ。ユベールも整備の心得はあるものの、エンジンの分解整備までは手が回らない。今日のうちに機体を確認しにきたのは、実際に整備を手掛けた彼の話を聞きたいからでもあった。
「調子だと? 旦那さまと坊ちゃんが乗るんだ。完璧に仕上げたさ」
「そりゃ結構。試運転は済んでるのか?」
「ペラは回した。まだ空には上げてない」
「一度上げておきたいな。燃料は?」
「入れてある。すぐ飛ぶか?」
「フェル、行けるな?」
「大丈夫だ」
フィテルマンが黙ってうなずき、機体を外へ引き出し始めるのをユベールも手伝う。そのままエンジン始動の準備に入る彼に機外のことは任せ、一年ぶりのストルクに乗りこんだ。操縦桿の感触を確かめていると、フェルが声をかけてくる。
「わたしはどこに乗ればいい?」
「反対側に回って、俺のとなりに乗れ」
ストルクは前席と後席を併せて最大で四人乗れる。大柄な男が並ぶと狭苦しいが、フェルなら全く問題ない。言われずともステップを見つけて、高い位置にあるコクピットまで身軽に登ってくるフェルを待ち、フィテルマンと手で合図を交わしてエンジンを始動。ブレーキはかけたまま、動翼の動きを確かめる。
「上を見ろ、フェル」
機体上部に主翼を配置するパラソル翼の飛行機は上方視界が悪くなりがちだが、ストルクの場合それが当てはまらない。コクピット直上は主翼の骨組みを除けばガラス張りであり、まぶしいほどの陽光が降り注いでくる。
「ストルクの用途は広い。連絡機、観測機、偵察機、あるいは軽輸送機。その汎用性の高さを支えるのが、長い主脚のショックアブソーバと、主翼の前縁スラット、後縁フラップによる短距離離着陸性能……STOL性能の高さだ」
「エストール?」
「要するに、離着陸に必要な距離が短くて済むってことだ」
「ぺトレールよりも?」
「比べもんにならん。そもそも水上機ってのは滑走距離を稼げるのが特徴だしな。まあ、長々と説明するより体験した方が早いな」
車輪止めを外す合図を送りつつ、フェルにベルトを締めるよう促す。
「航法士の仕事はいい。景色を見てろ」
「了解した」
話しているうちにエンジンも温まっていた。ブレーキを解除すると、ストルクは軽快に前進を始める。ラダーで進行方向を調整しつつ、滑走路へ進む。スロットルを全開にして一気に速度を上げ、安全を見て長めの滑走を取る。それでも距離にして60メートルもなかっただろう。水や地面から切り離されるというぺトレールの感覚とは全く異なる、ふわりと浮き上がるような離陸にフェルが目を丸くする。
「……もう飛んでるのか?」
「飛んでるよ、ほら」
上昇してから軽く旋回して、村を一望に収める。ストルクのエンジン音を聞きつけたのか、村でも一番立派なフィッツジェラルド家の別荘、その一室の窓からジャックが身を乗り出して、こちらに手を振っているのが見えた。フェルの肩を叩き、指で示して教えてやる。
「フェル、手を振ってやれ」
「了解した」
手を振るフェルの姿までは見えたかどうかわからないが、大きく翼を振るストルクの姿はジャックからも見えただろう。畑や牧場で働く村人たちも、作業の手を止めて空を見上げていた。彼らはブルーとイエローに塗られたストルクが頭上を飛ぶことでフィッツジェラルド家の人々が今年も村にきたことを知るのだ。
「フェル」
「どうした?」
「気楽にしてろ。今回の仕事は雇い主の二人を乗せて、この辺を飛ぶだけだ」
「遺跡の調査をするのでは?」
「ああ、そんなことも言ったな。そうだな……明日、ジャックに聞くといい」
「ユベールではダメなのか?」
「ダメってわけじゃないが、あの二人の方が詳しいからな」
「了解した」
会話をきっかけにフェルとジャックが仲良くなってくれればいいという思惑もあったが、そもそもフィッツジェラルド家が進める事業なのだ。詳細を説明するのは、あくまで雇われ飛行機乗りであるユベールからではなく、フィッツジェラルド家の人間である二人であるべきだった。
「それより見ろ。翼の形が離陸する前と変わってるだろ?」
「……くっついて、まっすぐになった」
「そう。前縁スラットと後縁フラップを収納したから平らになった」
「どうして変えるんだ?」
「スラットもフラップも飛行機を飛ばす力……揚力を得るためのものだから、使うのは主に離陸時と着陸時だ。使えば短距離、低速で離着陸できる。それ以外のとき、例えば空中でまっすぐ飛びたいときは必要ないから収納する。わかるか?」
要点を押さえつつ、フェルにも分かるよう簡潔に説明する。
「出したままではダメなのか?」
「空気抵抗がかかるから、速く飛べなくなる。ゆっくり飛びたいなら別だがな」
「なるほど」
「スラットはないが、フラップならぺトレールにもついてるぞ」
「そうなのか?」
「動翼の役割についても、そのうち教えてやらないとな」
「よろしく頼む」
前席と後席に分かれるぺトレールと違い、横に並んで座れるストルクだと説明もしやすい。フェルの場合、身長差もあってぺトレールではユベールの背に遮られて前方の視界も悪かったのだろう。操縦席の広々とした視界に、目を輝かせている。
「よし、試運転は十分だな。降りるぞ」
「……了解した」
フェルの返事に名残惜しさが混じるが、明日からも飛ぶ機会はある。格納庫脇の草むらで腰を下ろして煙草を吸うフィテルマンの頭上をフライパス。風下に回って高度を落とし、スラットとフラップを使って低速で滑走路に進入する。
「沈むぞ。舌を噛むなよ」
黙ってうなずくフェルを横目で確認して、主脚のタイヤを接地させる。油圧とスプリングを併用したショックアブソーバーがぐうっと縮み、土がむき出しの滑走路とは思えないほど柔らかく機体を受け止めてくれる。後輪の接地も確認してブレーキをかけてやるとがくがくと揺れるが、軽いので減速も早い。
「……止まった」
「ああ、いい調子だ」
まるで本物の鳥のように気軽に飛んだり降りたりできる飛行機はこのストルクの他にない。そんなユベールのつぶやきを知ってか知らずか、紫煙を吐き出すフィテルマンは整備の仕上がりに満足そうな笑みを浮かべていた。