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空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉  作者: 天見ひつじ
第十三話 コーヒーは天空に薫り高く
85/99

13-3

 大陸戦争と央海戦争。主要各国を巻きこんだ双子の戦争。史上二度目の世界大戦はアンジェリカが十六歳になった春、ようやく終わりを告げた。母親譲りの赤毛を二つ結びにしたそばかす顔の田舎娘は、戦闘機に乗って悪の帝国を倒しに行くという素朴で純粋に過ぎる夢から、一夜にして叩き起こされてしまったのだった。


 それから二年。アルメア連州国の西海岸、カルニア州の片田舎で十八歳の誕生日を迎えたアンジェリカは、人生における貴重な十代前半を重苦しい戦争の空気に塗り潰されたのを未だに根に持っていた。有り余るエネルギーが行き場を失ったがゆえの不完全燃焼。その鬱屈を発散せずにはいられなかったのだと思う。


「ごめんね、じいちゃん」


 深夜、こっそり家を抜け出したアンジェリカは荷物をくくりつけたバイクにまたがり、祖父の眠る寝室を振り返った。出稼ぎに行き、家にはめったに戻らない母に代わって幼いアンジェリカを育て上げ、慈しんでくれた祖父だった。老いた彼を一人残して、家出同然に旅に出ることに若干の後ろめたさはあった。


 それでも、旅に出ることを決意せずにはいられなかった。

 人間、誰しもそういう時が訪れるもの。

 そう教えてくれたのは、他ならぬ祖父だった。


「……いってきます!」


 踏ん切りを付けるために叫んで、ハンドルを回してアクセルを吹かす。

 心地よい急加速。加速度を全身で感じて、思わず目を細める。

 前方を照らすヘッドライトを除けば、星と月だけが路面を照らしていた。


 夢想と無謀だけを胸に抱いた小娘の、バイクでの一人旅。後になって気付いたことだが、荷物にこっそり忍ばされていた分厚い財布、そこに挟まれていた『楽しめ』という短いメッセージを記したメモから察するに、祖父はかわいい孫が立てた愚かな計画を薄々察していながらも黙認してくれたのだろう。


「じいちゃん……」


 泣いたりはしなかった。そう、決して。


 夜道を走るのは自分だけ。海沿いの街へと続く慣れ親しんだ道は、夜闇の中で全く違う道にも思えた。しかし不思議と怖くはなかった。むしろ、この先に待ち受ける何か、退屈な田舎での暮らしにはない刺激や出会いへの期待で胸が高鳴っていた。


「いやっ、ほーう!」


 どうせ誰も聞いてはいない。景気づけに声の限り叫ぶ。


 夜道をひた走るバイクはすこぶる快調だった。それも当然、整備士として五十年の長きに渡って働いてきた祖父と、手塩にかけて整備した一台なのだ。まずは今夜の内にカルニア州を出てしまいたい。何しろ、先は長いのだから。


 目的地と決めたサウスハーバーは、出発地であるカルニア州ビーチヘブンとはクストファ海峡を挟んで直線距離で百キロ足らずの距離にある港町だが、陸路で向かおうとすればイランド内海を一周する六千キロあまりの道程となる。一日に三百キロを進んだとして、二十日。フェリーで海峡を渡るのに一日。計二十一日の旅程だ。


 後から思い返せば、楽観的にも程がある計画だった。必然的に発生するトラブル、慣れない旅での体調悪化、地図からは読み取れない峻険な地形や劣悪な路面状態。予備日という概念すら持たない小娘が立てた計画は三日も経たずに破綻し、発生した遅れを取り戻そうとした焦りがさらなるミスを招き寄せた。


 疲労でふらふらになって立ちゴケでタンクをへこませたくらいは序の口で、ガソリンに余裕があるから給油はいいかと通り過ぎたスタンドの先に広がる無駄に広い砂漠のど真ん中でガス欠になり、十キロほどもバイクを押して歩く羽目になった時は実際に泣いていた。そういう時に限って、トラックの一台ともすれ違わないのだ。


「ぐすっ……もう帰りた……くなんかない! 今日は次の街まで行くんだから!」


 荒野に佇む灯台のように、ぽつりと建てられたダイナーの駐車場でアンジェリカは吠えた。バイクに再びまたがる気力を奮い立たせるためだった。折れそうになる心を無視して、エンジンをかける。力強いアイドリング音がそれに応えてくれた。


 二十日目の昼過ぎ、当初の予定では目的地のサウスハーバーに着いているはずだったが、現実には全行程の半分を消化してようやくティシャ州に入ったところだった。焦りは最高潮に達し、無理を重ねて蓄積した疲労が判断を鈍らせる。悪循環に入っていることを自分で気付くには、当時のアンジェリカは経験が不足していた。


 数時間後。夕暮れの薄闇でいつの間にか道から外れていたことに気付き、引き返そうとしてさらに迷い、アンジェリカは完全に道を見失っていた。タイヤに踏み固められただけの道だが、目印に乏しい荒野で頼りにできるのはそれくらいなのだ。


「やっば。やばいよね、これは流石にやばい……」


 夜を明かし、日が昇ってから動くべきだと理性が囁く。単車のヘッドライトで照らせる範囲はごくごく狭く、当てにならないからだ。しかし、バイクを停めてテントを引きずり出そうとしたところで闇を切り裂く遠吠えが響き渡った。


「ひっ」


 思わず引きつった声を上げてしまう。決して近くはない。しかし夜闇の向こう、遠吠えが届く距離に何らかの獣がいることだけは確かだった。


 狼か、コヨーテだろうか。もし襲われたらと考えると、テントを張って寝る気にはなれなかった。ゆっくりでも移動していた方がマシなように思えて、慌ててバイクにまたがって移動を再開する。頼りないヘッドライトだけが頼りだった。


「うう……誰かいないの……?」


 周りを見渡しても、人家はおろか車のヘッドライトひとつない。そもそも、そんなものがあれば道を見失ってなどいなかった。荒れ地の凹凸に下から突き上げられ、さっきからお尻が痛い。心細くて、情けなくなって、鼻をすすり上げる。


「ていうか、さむっ……」


 気付けば、ずいぶん気温が落ちていた。風に奪われた体温は、慌てて荷物から出した上着を身につけたところでもう戻ってこない。身体の震えが止まらず、指先の感覚があやふやだ。急に眠気に襲われ、次第に目を開けているのも辛くなってくる。


 まずい。

 遭難しかけている。

 というか、今まさに遭難している。


 再び遠吠えが耳に届く。エンジン音と混ざって、さっきより近付いているのかどうかは聞き分けられなかった。とにかく逃げなければと考えてアクセルを吹かす。


 それがまずかった。


「……やっば! うわっ!」


 ヘッドライトで照らされる狭い範囲の外に、一抱えもありそうな岩を視認できた時には手遅れだった。思い切り乗り上げ、バイクが宙に浮く。振り落とされないようにするのが精一杯で、気付いた時には叩き付けられるように着地していた。その瞬間、ばきりと嫌な音がした。慌ててブレーキをかけて停止させる。


 懐中電灯で車体を点検して、舌打ちする。エンジンを支えるフレームが見事に破断していた。アンジェリカ自身の体重も合わせ、総重量は三百キロに迫る車体の落下、その加速度に耐えられなかったのだろう。とても走行できる状態ではなく、こんな荒野のど真ん中では応急修理もままならない。整備士である祖父なら何とかできたのかも知れないが、半人前のアンジェリカには無理だった。


「どうすんだよ、もう……」


 最寄りの街まで、優に百キロはある。バイクを押していける距離ではなく、愛車はここに放棄していくしかなかった。悪態を吐きながら、持っていける荷物、持っていくべき道具の選別を始める。涙が浮いてきて、こらえきれなくなって泣いた。


 食料と水、その他の役立ちそうなものを詰めこんだリュックを背負って立ち上がる。最後に少しだけ迷って、バイクのキーを引き抜いてポケットに突っこんだ。


 暗闇の中を歩き出すと、すぐに心細くなってきた。失ったバイクが、単なる移動手段を超えて大切な旅の相棒となっていたことを今さらのように自覚する。


「うっ……ぐすっ……じいちゃん、あたし、ここで死ぬのかな……?」


 バイクで家出した挙げ句、事故に遭い、生きたまま獣に喰われてしまうのだ。いっそ飛行機で家出していれば、機体が故障した時は墜落して即死できたのに。もちろん、母が残していった飛行機で飛び立とうものなら燃料代がかさんで旅を続けられなかっただろうし、手配されて空港で捕まっていただろうけど。


 どこかから遠吠えが聞こえる。

 それに応えるように違う方角からも。

 エンジンの音がなくなり、はっきりと聞こえる。

 生きた心地がしなかったが、とにかく歩いてその場を離れる。

 一時間ほど足早に進んだところで、ようやく吠え声が聞こえなくなった。


「こんなことなら、キャンプのやり方とかもっと勉強しておけばよかった」


 歩き始めてしばらくは怖さを紛らわせるために独り言を口にしていたが、乾燥した空気で喉が渇いて仕方がない。水筒の中身が半分を切ったあたりで控えることにした。懐中電灯も付けっぱなしでは一晩と持たないし、こまめに付けたり消したりしているといつまで経っても目が暗闇に慣れないことに気付いてリュックにしまう。


 静寂と暗闇は人の想像をかき立てる。岩陰や灌木の向こうから獣が飛びだしてはこないかと気が気ではなかった。怖い。ただただ、恐怖を感じる。


「月があっちだから、こっち……だよね、多分」


 細い三日月と星明かりだけが頼りだった。

 最寄りの街まで南へ百キロ。

 太陽が昇れば方角の見当は付くし、道も見つかるかも知れない。

 水と食料が心許ないので、今は少しでも先へ進んでおきたかった。


 後から思えば、ぞっとするほど愚かな判断の連発だった。無知と焦り、疲労で鈍った頭ではそんなことも分からなかった。だから、闇雲に進んだ先で車轍の残る道路に突き当たったこと、安堵で道端にへたりこんでいたところに車が通りがかったのは、ひとえに偶然と幸運のたまものだった。トラックはアンジェリカの側で停止すると、眼鏡をかけた優男風の運転手が窓から顔を出して、脳天気な声をかけてきた。


「やあ、こんな時間にこんな場所でヒッチハイクかい?」


 そんなわけないだろ、と叫ぶ元気も残っていなかった。


 リック・ペント、二十歳。アンジェリカよりふたつ年上だが、とてもそうは見えない童顔の持ち主。くすんだ金髪と青い目をしたトラック運転手との出会いだった。

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