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空飛ぶ魔女の航空会社〈Flying Witch Aviation Company〉  作者: 天見ひつじ
第十三話 コーヒーは天空に薫り高く
83/99

13-1

 人間はZ軸の移動が苦手な生き物だとアンジェリカは知っている。


 そばかすの浮いた頬に赤毛の二つ結び、典型的なアルメアの田舎娘といった雰囲気の彼女は操縦席に座って、眼下の風景を眺めながらぼんやりと考える。


 一息に飛び上がれる距離は垂直跳びでおよそ五十センチ、飛び降りでは数メートルの距離でも着地をしくじったら足を挫くか、衝撃でしばらく動けなくなってしまう。階段で数十メートルを昇っただけで息を切らし、数百メートルの高層建築ともなればエレベータが欠かせない。八千メートルの山を踏破すればそれだけで偉業となる。


 これがX軸やY軸での移動なら一万メートル、十キロの移動なんてわけもない。杖をついた老人だって、時間をかければそれくらいは移動してみせるだろう。人間はとにかく上下運動に弱い生き物なのだと言わざるを得ない。


 乗り物の力を借りたところで大差はない。アンジェリカが操縦桿を握るアルメア製双発軽輸送機〝クーリエ〟の改修機〝ブルーキャノピー〟の上昇限度は六八九〇メートルで、人間が歩いて登れる高さにすら届かないのが実情だ。そもそも、この数字すらカタログスペックであり、実際にその高さまで上がったことは一度もない。


「アン、ぼうっとしてない?」

「……っ、バカ。してないから」


 そう、と短く返して視線を外した男の名はリック・ペント。ブルーキャノピーの操縦士と整備士を兼任するアンことアンジェリカ・アームストロングの雇い主にして機体の所有者でもある。彼は今年で二十三歳になる彼女よりひとつ上の二十四歳で、歳に見合わない物静かな態度を崩すことはめったになく、他人に興味がなさそうな冷めた目をしていながら人の表情や仕草をよく観察している。


 おかげで、いつの間にか集中が切れていたのを自覚できた。


 眼前に広がるのは雄大な山々の稜線、そして雪解け水で深く削りこまれた谷間だ。操縦を誤り、風に煽られて斜面に激突すれば待っているのは死あるのみ。これから向かうアルレヒトはエストリア共和国にある高原のリゾート地で、世界でもっとも標高の高いリゾートを謳っている。それだって、たかだか三千メートルなのだが。


「滑走路はロープウェイの終点って聞いたけど……あそこね」


 谷間沿いに張り巡らされたロープウェイ、その終点がわずかに開けた細長い滑走路になっていた。残雪はなく、むき出しの地面ではあるが着陸には十分だ。


 アルレヒトがリゾート地として認知されたのはここ数年だ。それまでは交通手段が徒歩しかない秘境の地だったが、七年前に終わった戦争の最中、ケルティシュ共和国に攻め入るための足がかりとしてついでのようにエストリアを占領したディーツラント帝国の独裁者が風光明媚なこの土地をいたく気に入り、別荘を建てるために道を切り開き、ロープウェイまで整備させたのだと聞く。


 戦後、領土を回復するも財政難に喘ぐエストリア政府は整備されたインフラを用いて外貨を稼ぐため、リゾート地としてアルレヒトを宣伝した。忌まわしき侵略者の置き土産を存分に活用するエストリアの人々のしたたかさには感心してしまう。


「上空をパスして風下からアプローチする。なんか気付いたらよろしく」

「了解だよ、アン」


 近くまで寄せて分かったが、かなり無理をして造成された滑走路だ。険しい山中で貴重な平地がただ遊ばされているわけもないので、森を切り開いて斜面を削って、ようやく小型機が離着陸できるだけの面積を確保したのだろう。アンジェリカたちの乗るブルーキャノピーは軽輸送機に分類されるので、離着陸は可能だ。


「待って、アン。そこじゃダメだ」

 アプローチに入りかけたところで制止され、思わず機体を揺らしてしまう。

「えっ、なんで」

「あの滑走路からだと、ホテルやコテージがある中心部には森を抜けないと行けない。それじゃ僕たちが来た意味がまるでないだろ。だからダメだ」

「……じゃあ、どうすんの」

「それを何とかするのが、君の仕事だ」

 さらりと言い放つリックに、流石に腹が立った。

「バカ野郎! 滑走路はあそことしか聞いてないのにどうしろっての!」

「とりあえずホテルの方まで飛ばしてみよう。決めるのはそれからでも遅くない」

「……はいはい、了解」


 リックは優男のような外見をしているが、その実かなり頑固だ。こうと言い出したら、納得するまで意見を変えようとしない。仕方がないので、操縦桿を引いてホテルのある方へと機首を向ける。どうにかして無理だと分からせるしかない。


 森を越えるとアルレヒトの全貌が見えてきた。中央にある湖を囲む形で家屋が立ち並び、その周囲は畑や牧草地になっている。牧歌的な雰囲気の中で、コンクリート造のホテルは異質な雰囲気で、極めて目を引く。限られた土地は余すところなく使われていて、もちろんブルーキャノピーを降ろせる滑走路など見当たらない。


 着陸できそうな場所を探して視線を走らせていると、湖の桟橋にボートやヨットと並んで複数の水上機が泊められているのが目に入る。実用的な小型機もあれば、いかにも金持ちの所有機らしい中型の新鋭機も係留されていた。


「そうか、水上機って手が……道理で滑走路はあんな村外れにあるわけだ」


 雪解け水が流れこんでいるためか湖の水量は豊富で、狭い滑走路しか与えられない陸上機より水上機の方が使い勝手はいいのだろう。冬になって湖面が凍り付けば雪上機も使える。短い夏の間しか使えない村外れの滑走路は軽視されているのだ。


「ほら。どこにも降ろせる場所なんてないって。大人しく滑走路に……」

「あそこはどうかな、アン」

 アンジェリカの言葉を遮ったリックが指し示す方向を確認する。

「あの草地のことを言ってんの? 冗談きついよ、リック」


 リックが示したのはホテルの側にあるスキーリフトの発着場だ。確かに上空から見た限りでは平坦な土地が広がっているように思える。しかし草に隠れて岩や穴がないとは限らないし、着陸できたとしても離陸の問題がある。トラブルに見舞われて不時着するのでもなければ、好んで着陸したいとは思えない場所だった。


「アン、僕たちはあのホテルを所有する大富豪、エルネスト・オークス氏の依頼を受けて、料理とコーヒーを提供するためにここまでやってきたんだったね」

「……そうだけど、今それ関係ある?」

「彼は手紙でこう言っていた。ロープウェイの終点に滑走路があると」

「は? まさか……」

 アンジェリカの嫌な予感は、リックの放った言葉で現実となる。

「あそこに見えるロープウェイ。その終点であるホテル横の草地が滑走路だ」

「バカ! 確かにスキーリフトだってロープウェイの一種だろうけど、依頼主が言ってたのはさっきの空き地に決まってるでしょ。屁理屈もいい加減にしろっての!」


 依頼の遂行に際して、ブルーキャノピーをホテルに横付けできれば理想的ではある。しかし機体と人命を危険にさらす選択を迫られて、簡単にうなずくわけにはいかない。たとえリックが機体のオーナーであり、アンジェリカの雇い主であってもだ。


「いいかい、アン。僕たちが高い報酬を要求するのは、通常なら届けられない場所へおいしい料理とコーヒーを届けるからだ。言い換えれば、僕たちの売り物は他では得られない体験なんだ。それは君だってよくわかってるだろ?」

 アンジェリカの怒声に怯む様子もなく、リックは淡々と続ける。

「どこにだって飛行機で駆けつける、空飛ぶカフェ。そこに意味がある。村外れの滑走路に降りて、のこのこ歩いていくならただの料理人と変わらない」

「だからって、危ない橋を渡る必要は……」

「あるんだ、アン。僕たちはどっちにしろ危険を冒す必要がある」

「は? なんで……?」


 そんな問いを発する時点でリックのペースに巻きこまれている自覚はあったが、操縦しながら考えるのが面倒になってきたので疑問をそのまま口にする。


「あの滑走路は森に囲まれている。どうしたって進入角はきつくなるし、離陸したらすぐに高度を上げなくちゃいけない。横幅もぎりぎりだから、ちょっとでも風に煽られれば翼端を木にぶつけるだろうね。そうなったらひとたまりもない」

「それは……」

「帰りは荷物を捨てて、空荷で飛び立つならそれもいいだろう。けど、そうなったら大損害だ。すぐに引き返して、違約金を支払った方がいくらかマシだろうね」

「……まあ、言われてみればそうだけど」


 空荷での移動は大きな機会損失だ。アンジェリカにもそれは理解できる。それでも反論しようと考えているうちに、リックが重ねて言う。


「こう仮定してみるといい。僕たちは滑走路なんて見なかった。けど依頼を果たすためにどうにかして降りなきゃいけない。その場合、アンは引き返していただろうか。いいや、きっとそうはならない。君はどうにかして降りられる場所を探して、あのスキーリフトの側に着陸する提案をしてくれたはずだ。僕の想像は的外れかな?」

「……くそっ、分かった、分かったよ。雇い主さまがそうおっしゃるなら、操縦士は従うだけってね。けど、もし着陸にミスって死んでも、文句は受け付けないから」

「大丈夫。信用してるよ、アン」

「こんな時だけ、そういうことを……」

 大きく息を吸って、吐き出す。やるとなったら、やるだけだ。

「低空をフライパスするから、小川や溝が隠れてないか見てて。ほんと頼むよ。足を取られてひっくり返ったらマジで死ぬからね。冗談じゃないよ?」

「了解」


 大丈夫だと自分に言い聞かせる。スキー場として整備してあるなら、リフトの周辺は平坦に均してあるはずだ。ブルーキャノピーは原型機のクーリエより足回りを不整地向けに強化してあるので、野外飛行場でも離着陸できる。オープンテラスのカフェとして飛ぶ時はテーブルやチェアなどを積んでいるので、総重量も普段より軽い。


「行ける行ける、頼むから行けて、神さまお願いマジで助けて……」


 後は神頼みだ。それでもダメなら仕方がない。

 失速するぎりぎりまで迎角を取って、高度を落としていく。

 ところで、ブルーキャノピーは双発機で、コクピットからの視界がいい。

 だから、アンジェリカはそいつと目を合わせてしまった。

 こちらを見つめて硬直する一匹の黒猫。


「っ……!」


 とっさにラダーを踏みこんで機体を滑らせる。

 だが強引な姿勢変更で翼が揚力を失うのが分かった。

 機体は失速。地面までの数十センチを落下して、大きくバウンド。

 とっさに腕を突っ張って顔面を打ち付けるのを回避する。

 しかし、隣のリックに注意を促す時間はなかった。

 そのまま横滑りして、ようやく停止する。


「この、バカぁ……!」


 自分で自分を罵倒して操縦桿に突っ伏すアンジェリカ。着陸の瞬間、後部の貨物室で盛大に荷崩れする音が聞こえた。テーブルにチェア、調理器具、食材や調味料の他にも、高い酒瓶が何本も積まれている。猫一匹の命を救うためにどれだけの被害を出したのか確認するのが恐ろしくて、すぐには動き出せなかった。


 一方、リックは手早くシートベルトを外すと、自分の身体を叩いたり触ったりして怪我がないかを確認していた。ある意味では料理人の鏡だろう。彼は何度か手を握っては開いて、身体に異常がないことを確認すると安堵のため息をつき、それからようやく、すぐ隣で自責の念に苦しんでいるアンジェリカに声をかけた。


「アン、怪我はない?」

「……ない、と思う」

「僕は貨物室の確認をする。アンは機体の損傷を確認して」


 アンジェリカの返事を待たず、リックが動き出す。

 彼は貨物室へと続くドアを開け、ふと思い出したように振り返ると言った。


「それから、猫は無事だったよ。ホテルの方へ走っていくのが見えた」

「ああ、そう……そりゃよかったね」


 リックは、アンジェリカの判断を責めることなく扉の向こうへと姿を消した。

 正直に言って、それが一番こたえた。


「……恩知らずの、バカ猫め……」


 猫に責任はないと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。

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