12-5
敵機が去ったのを確認したユベールが高度を下げる。低空で艦隊をフライパスすると、ペトレールを見た乗組員たちが帽子を振って感謝を示す。
「見ろよ、フェル。お前に感謝してるんだぜ」
「……そうだな」
わずかに言い淀んだのを、ユベールは聞き逃さなかった。
「間に合わなかった、とか考えてるのか?」
「その通りだ」
大破した駆逐艦が一隻と、ダメージで船足が落ちて落伍した駆逐艦と巡洋艦が一隻ずつ。これらを除いて、戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦二隻がアルメア北央海艦隊の全戦力だ。ペトレールとアルメア南央海艦隊による支援を計算に入れても、大量の砲台と航空機が待ち構える海峡への突入には心許ない。
「それは違う。これは俺たちが参加しなくても行われていた作戦だ。北央海における劣勢をひっくり返すために、アルメアはどこかで博打をする必要があった。作戦がこの段階に及んで四隻も残ってるのは、フェル、間違いなくお前の功績だ」
慰めの言葉ではなく、事実を述べて納得させようとするのがユベールらしい。
「相変わらず、ユベールは慰めるのが下手だな」
「なっ……お前なあ……」
「気持ちは伝わった。ありがとう、愛してる」
「……ああ、俺もだよ」
「言葉にしてくれないのは残念だが、今は仕事に集中しよう」
「了解だ。無事に作戦が終わったらいくらでも言ってやるよ」
「楽しみにしておこう」
短いじゃれ合いで、いくらか疲労も和らいだ。燃料はまだ十分にあり、弾切れの心配は最初からない。ユベールと二人でなら、まだ戦える。
リーリング海峡の入り口が目視できる距離まで艦隊が接近すると、沿岸に設置された砲台が火を噴いた。まだ距離があるので、風の方向を変えて砲弾を叩き落とす。着弾地点から弾道の再計算が行われ、再度の砲撃が行われるが、今度は何も手を加えない。砲弾は艦隊を飛び越え、後方の海面に着弾した。
単純な手だが、複雑な弾道計算の下で行われる長距離砲撃はこれでほぼ無効化できる。怖いのはまぐれ当たりと、より接近してから浴びせられる十字砲火だ。敵艦接近の報はイーストファー基地にも伝えられ、航空部隊もすぐに上がってくるだろう。
アルメア艦隊も反撃を始める。瞬く間に激しい砲火の応酬となり、フェルが手出しする余地はなくなってしまった。初手での弾道計算の誤りが尾を引いているのか、シャイア側の砲撃の命中率は低い。これなら艦隊に任せておけそうだった。
「基地の航空部隊が上がってくる。俺たちはそっちを押さえるぞ」
「了解した」
機動部隊がたった一機の飛行艇による正体不明の攻撃で航行不能に追いこまれたとの情報が基地に届けば、シャイア軍は冬枯れの魔女がこの戦場にいると推測するだろう。彼らの持つ魔法の知識が以前のままであれば、次に取る行動も予測できる。
相手はおそらく、航空機による波状攻撃を仕掛けてくるはずだ。魔力切れを狙って、航空部隊を惜しみなく投入してくるに違いなかった。それで構わない。戦力がペトレールに集中すれば、それだけアルメア艦隊に向かう航空機の数は少なくなり、アルメア艦隊の海峡への突入が容易になるからだ。
そう、相手にはペトレールが本命だと認識してもらう必要がある。
リーリング海峡を抜けた先、南央海でも両軍の艦隊が激突している。アルメア艦隊の突入を阻むだけの戦力的な余裕はシャイア軍にもないはず。つまり、ここが正念場ということだ。先ほどアルメア艦隊を襲っていた航空部隊に倍する数の戦闘機が、戦闘用ですらない飛行艇ペトレール・ブランシェに殺到してくる。
「あれが全部、俺たちを狙ってるのか」
流石にユベールの声にも緊張が滲む。
「心配するな、ユベール。わたしが付いている」
不思議と不安はなかった。魔力切れの心配はないのが理由だろう。
かつての戦争における冬枯れの魔女は、魔法を連発できず、また一度でも使えば同じ場所では年単位で再使用できなくなっていた。魔力を引き出す対象も大地や海、あるいは生命体に限られ、空中に漂う希薄な魔力はそもそも意識すらしていなかった。
空気、ひいては空に触れるという感覚。
それはユベールとの旅、飛行機に乗って航法士として働く中で身に付けたものだった。機体を揺らす風の流れ、キャノピーを開いて手のひらに感じる空気の感触、操縦桿を通して感じる手応え。時が経つに連れて、自らが空に在るのだという実感が増していった。そうして空に触れることを知り、気付いたことがあった。
空には名前がない。
空には境界がない。
自然か人工かを問わず、地上ではありとあらゆるものに名前と境界が存在する。平地と山地、川や海岸、街に道、そして国境。海も例外ではない。現代では名前のない土地などほとんど存在しない。それらの名前と境界は、人の認識を縛り付ける。
触れているという条件をキーに魔法を発動するフェルにとって、認識はとても重要だ。名前や境界があることで、違う名前の場所、境界の向こうにある場所を、無意識に『触れていない場所』として認識の外に置いてしまうからだ。
その結果、かつてのフェルの魔法は『触れている』と認識できる狭い範囲の魔力を吸い尽くす性質のものとなった。使用する際にはその場にいて、手で直接触れなければならないという制約も、同じく認識の問題だ。空を何もない、空っぽの空間と認識していたから、当然のように『触れている』という感覚はなかったのだ。
今は違う。空はどこまでも途切れなく広がり、あらゆるものに『触れて』いる。視界に捉えられる限りの海や陸地はもちろん、ウルリッカやユベールとの旅を通して訪れた全ての国、全ての人々と、空を介して繋がっているのだという実感がある。
それらの秘める魔力量は膨大で、少しずつ借り受けたところで動植物の生命や作物の収穫に影響を及ぼすには至らない。例えるなら、海からバケツですくった水を砂浜にぶちまけるようなものだ。そんな子供の悪戯で海は干上がったりしない。
今のフェルは、無尽蔵の魔力を手にしているに等しい。
地上に影が差す。晴れ渡っていた空に、急速に積乱雲が発達していく。熱帯気候のアヴァルカ半島とはいえ、真冬のこの時期に異様な光景だった。全天が分厚い雲に覆われ、灰色の天井は雷鳴を伴って今にも底が抜けそうだった。
囮としての役割を果たすべく、手加減する必要もなくなった。
運の悪いシャイアの戦闘機に落雷が落ち、戦場に轟音が響き渡る。それを合図に、堰を切ったような大粒の雨と荒れ狂う暴風が叩き付ける。季節外れの嵐にかき回され空戦どころではなくなっているシャイア軍を余所に、風雨はペトレールの翼を優しく打つだけだった。嵐の中で悠々と飛び続ける異様さに恐れを成したか、どの機体もこちらを遠巻きにするだけで近寄ってこない。そもそも飛行を維持するだけで精一杯の機体も多く、空間識失調に陥って墜落する機体も出始めた。
指揮官がこれ以上の戦闘の継続は不可能と判断したのだろう。すぐにシャイア機が退却を始める。この天候では最寄りのイーストファー基地に着陸できないため、リーリング海峡を挟んで反対側のエンロン半島にある基地まで飛ぶ必要がある。残燃料を考えれば、この場に留まっていられる時間にほとんど余裕がないのだ。
嵐が続く限り、イーストファー基地に残った機体が飛び立つこともできない。この隙を突いてアルメア艦隊は海峡に突入する手筈となっていた。彼らが無事であることを祈りながら、機体を旋回させて海峡を目指す。
海峡の狭隘部、戦艦や空母がギリギリ通り抜けられる場所の手前に、彼らはいた。船体のあちこちに砲撃によるダメージが認められ、火災による黒煙を噴き上げつつも、突入を図った四隻は生き残っていた。見れば、ダメージが特に大きい戦艦と巡洋艦の横にそれぞれ駆逐艦が横付けして、乗組員が避難しているようだ。
「彼らを護衛する」
「了解だ。最後の仕上げだな」
アルメア艦隊が台風の目に入る。もちろん、フェルの操作によるものだ。それに気付いた乗組員たちが空を見上げ、手の空いている者はこちらに向かって帽子を振って歓声を上げている。そんな彼らの頭上をゆったりと旋回しながら、周辺の警戒を続けること一時間あまり。戦艦カルニアおよび巡洋艦ニューテリスの乗組員は、その大半が駆逐艦ダリウスおよびパクストンへの移乗を終えた。
そして、満身創痍の戦艦カルニアと巡洋艦ニューテリスが海峡の狭隘部に並んで進入していく。一隻通れるだけの幅と水深しか持たない海の難所に無理な進入を試みた結果、当然の帰結として両艦は船体がこすれる軋み音を上げつつ座礁した。
座礁を確認した後、残っていた乗組員も脱出ボートで艦を離れる。残された二隻の駆逐艦は、彼らを収容した後に魚雷を発射した。魚雷は両艦の後部に命中し、盛大な水柱を上げる。すぐに浸水が始まり、二隻は互いの重みに耐えられなかったかのように折り重なって沈んでいき、艦の上部を水面に残したまま着底する。
甲板に集まった乗組員がその光景を見つめていた。誰に命令されるでもなく無言で敬礼する者がいて、すぐに周囲の人間もそれに習う。海面に突き出したマストは墓標を思わせ、しかし乗組員を最後まで守り切った誇りと威厳に満ちた碑のようでもあった。乗組員たちの頬を伝うものが雨だったのかどうかは、彼らだけが知っている。
「作戦完了。彼らの離脱を確認したら、俺たちも戻ろう」
「了解した」
敵の目から隠れるため、嵐の続く北央海へ戻っていくアルメアの駆逐艦たちを見送りながら、思わず安堵のため息がこぼれた。全身を心地よい疲労感が包んでいる。
「無事に生き残れたな、ユベール」
「この嵐だ。着陸するまで分からんがな」




