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依頼人とは駅前で落ち合う約束になっている。レンガ造りの小さな駅舎の前には小さなベンチが置かれていたので、フェルと二人で腰掛けて待つことにした。母国語でログブックに書きつける彼女を横目に、マッチを擦って煙草に火をつける。数字を除けばユベールには読み取れない文字だが、先日教えた通りに出発地と目的地、日時と飛行経路を記しているのはわかる。
「わたしにも一本もらえないだろうか?」
煙草とマッチの匂いに顔を上げたフェルが言う。
「……子供の吸うもんじゃない」
「わたしの国ではもう吸える年齢だ」
「聞き覚えのあるセリフだな?」
「本当だ」
言うが早いか、指に挟んでいた煙草をフェルが引っこ抜く。
「あ、おい」
止める間もなく、吸いかけの煙草をくわえるフェル。
「……けほっ」
勢いよく吸いこんで、せきこんだ。
「言わんこっちゃない。返せ」
「大丈夫だ」
ユベールの手から逃げるようにベンチから立ち上がると、さらに深く吸う。
「大丈夫かよ」
「慣れてきた」
ユベールがときどき吸っているのを観察していたのだろう。ネイビーブルーのベレーを斜めにかぶり、すました顔で紫煙を吐く立ち姿は様になっていた。肩まで伸びた髪を短く切ってやれば、水兵服もあいまって、大人の流儀に憧れて背伸びをする美少年と見えなくもないだろう。
「まあ、たまにならいいだろ」
シガレットケースからもう一本取り出し、マッチで火をつける。それが燃え尽きるころ、ようやく汽車が駅に到着した。ほどなくして駅から出てきたのは、白髪の老人と十歳くらいの少年の二人連れだ。老紳士はトラッドなハンチング帽とインバネスコートに身を包み、少年はモーニングコートに蝶ネクタイを着こなしている。
「ちょうど一年ぶりだね。会えてうれしいよ、ユベール君」
「ミスター・フィッツジェラルド。お元気そうで何よりです」
ユベールを上回る長身を持つ老紳士と力強い握手を交わす。彼の名はジョージ・フィッツジェラルド。ハイランド地方の名家、フィッツジェラルド家の当主だ。七十歳にしてなお衰えぬ生命力がその瞳に宿り、正対する者の心を捉える。その迫力に呑まれないよう、気合を入れた笑顔で応えた。
「して、そちらのレディは?」
「ああ、こいつは……」
フェルを紹介しようと口を開きかけると、フィッツジェラルドの隣にいた少年が一歩進みでて、ほほえみを浮かべて挨拶の言葉を口にする。
「お久しぶりです、ユベールさん。それからごきげんよう、麗しいレディ。ぼくはジョージ・フィッツジェラルド・ジュニアといいます。おじいさまと同じ名前だから、どうか愛称で、ジャック、と気軽に呼んでください。それから……よろしければ貴方のお名前を伺っても?」
「わたしはフェル・ヴェルヌだ。……ジャック?」
差し出された手を握り返しつつ、フェルが応える。少年がにこりと笑う。
「美しい響きですね。フェルさんとお呼びしても?」
「構わない」
「フェルさん……素敵な方だ」
普段と変わらぬフェルと比して、ジャックの態度は去年と比べてどこかおかしい。紳士としての振る舞いを身につけたとも取れるが、熱っぽい視線でフェルを見つめる様子は、まるで恋に落ちた少女のそれだ。老ジョージと顔を見合わせると、やれやれ仕方ない、と言わんばかりに片眉を上げられてしまう。
「……ジョージ・フィッツジェラルド・ジュニア!」
「はいっ!」
老ジョージのよく通る声に、少年が反射的に背筋を伸ばす。
「レディにご迷惑をおかけしないように。彼女はユベール君の新しい相棒だろう」
「はい、おじいさま。すみません、フェルさん、ユベールさん」
祖父に一喝されて肩を落とす様子は雨に濡れた子犬を思わせる。一方のフェルは状況を上手く理解できていないようで、わずかに不審げな表情をのぞかせている。仕方がないので、ユベールがフォローを入れる。
「あー……こいつは航法士見習いとして連れてきたんですが、共通語にまだ不慣れなもんですから、失礼を働くこともあるかと。どうか大目に見てやってください」
自分のことを言われているのだと察したフェルが会釈する。ほほえみのひとつも浮かべてやればいいものを、と思わないでもないが、少年の目にはそうした素っ気ない態度も魅力的なものと映ったようだ。普段は絶え間なくさえずる上流階級の女性としか付き合いがない彼にとって、整った顔立ちに雪白色の髪とスミレ色の瞳という異国風の容姿と男性のような喋り方のギャップが新鮮に感じられたのだろう。
「ユベール」
なにかに気付いたのか、フェルがユベールの服のすそを引く。
「うん?」
「フィッツジェラルドというのは……」
「ああ。ケルティシュ共和国へのビール輸送の依頼人だったジョン・フィッツジェラルド少将はミスター・フィッツジェラルドの息子さんで、ジャックの父親だ」
「その節は、息子が世話になったようだね」
老ジョージが片眉を上げる。
「いえ、こちらこそ。私どもをいつも贔屓にしてくださってありがとうございます」
先日のビール輸送自体、もともとフィッツジェラルド家と繋がりがあったからこそトゥール・ヴェルヌ航空へ依頼された仕事だった。毎年恒例になっている今回の仕事まで一か月ほど間があったのもちょうどよかった。
「例年通り、本格的に動き始めるのは明日からだ。ユベール君たちも、今日はゆっくり休んでくれたまえ。と言っても、君のことだからまずは機体の確認に向かいたいのだろう? フィテルマンを先に向かわせてあるから、行くといい」
「お気遣い、ありがとうございます。フェルはどうする?」
ユベールが尋ねると、ジャックがそれに食いつく。
「よければ、ぼくが村を案内しましょうか? ここはのどかでいいところですよ」
しかしフェルはジャックの提案には応えず、ユベールを見上げる。
「ユベールは、飛行機を見にいくのか?」
「ああ。お前さんはせっかくだから……」
「わたしも行く」
ジャックと一緒に行ってきたらどうだ、と続ける前に遮られてしまった。
「ただ機体の調子を確認に行くだけだぞ?」
「わたしは航法士で、ユベールの相棒だ」
「あー……」
どうもジャックと一緒に村を観光してくるのが嫌なわけではなく、本心から言っているらしい、というのが口調や雰囲気から伝わってくる。しかし、ジャックの方はそう取らなかったようだ。フェルのあの淡々とした口調では無理もない。
「あの、気にしないでください。フェルさん、また明日、お話しましょうね」
「了解した」
ひと呼吸おいて気を取り直したようにジャックが言うと、それを言葉通りに受け取ったフェルが淡々とうなずく。それだけでぱっと顔を輝かせる彼が、傍から見ていると健気で仕方がない。一方のフェルだが、彼女はもっと仕事を楽しむことを知ってもいい。歳の近いジャックとの交流が、それを知るきっかけになってくれればいいのだが、とユベールは思う。
「では、失礼いたします」
「うむ。では行くぞ、ジャック」
「はい、おじいさま。フェルさんも、また」
「ああ、またな」
フィッツジェラルド家の別荘へ向かう二人を見送ってから、村の外れへ足を向ける。収穫を終えた大麦畑の中心には風車が立ち、格納庫はその向こうにある。
「滑走路があるのか?」
すれ違う村人に挨拶しながら歩いていると、フェルが尋ねてきた。
「ああ。フィッツジェラルド家の私設滑走路だから、ぺトレールが着陸できるほど整備されてはいないがな。湖に降ろしたのもそのためだ」
「上からは見えなかった」
「だろうな。ほら、着いたぞ」
二人の目の前に広がるのは、ぺトレールは入りきらないだろう小さな格納庫と、青々とした草原のみ。フェルが不審げな表情を浮かべてユベールを見上げる。
「……格納庫しかない」
「だから、これが滑走路だ」
ユベールが草原を指で示すと、馬鹿にしているのかと言いたげなフェルが頬を膨らませる。しかしユベールが真面目にそう言っているのだと表情から読み取ったのか、正面に向き直って草原を観察し始める。空から地面を俯瞰するように、視界を広く保っていれば、やがてそれは見えてくる。
「……こっちと、あっち。草の生え方が周りと違う」
「その通り。格納庫正面からV字型に二本の滑走路があるのがわかるか?」
「わかる。見えた」
「そこだけは石を取り除き、穴も埋めてある。脚を取られない、短くて柔らかい草だけが均一に生えるよう、きちんと整備してあるんだ。ぺトレールは無理でも、小型の連絡機ならこの程度の滑走路で十分に飛び立てる」
「レンラクキ?」
「連絡機っていうのは……まあ、見た方が早いな」
格納庫の正面に回り、両開きの扉に手をかけて引き開ける。ブルーとイエローのツートンカラーで塗られた飛行機がそこにあった。コンパクトな胴体に巨大なパラソル翼、そしてフェルの背丈ほどもある固定脚が目を惹く、特徴的な機体だ。
「こいつの名前は『ストルク』。お前さんの国の言葉ではなんと言ったか……」
考えこむユベールを見上げて、フェルが得意気に微笑む。
「……知っている。幸運を運ぶ鳥、コウノトリだ」