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アルメアへの帰還から一週間。フェルリーヤ・ヴェールニェーバはアルメア海軍のサンシア級二番艦、戦艦カルニアのデッキにいた。隣にはユベール・ラ=トゥール。トゥール・ヴェルヌ航空会社の操縦士であり、彼女の頼れる相棒だ。
「レーダーに感あり。後方より大規模な敵航空部隊が接近中です」
甲板上では乗組員たちが無駄のない動きで各自の役割を果たしている。伝令役を務める若い水兵に微笑んでやると、顔を赤らめて走り去ってしまった。
巨大な戦艦が刻む航跡の先、敵機がいるという方向に目を向けても、今は雲ひとつない晴天があるばかり。しかし、もうまもなく敵機はやってくる。影が見える距離まで接近されれば、飛び立つどころではなくなってしまうだろう。
「怖くはないか?」
フェルが問いかけると、相棒は苦笑いを返してきた。
「怖いよ。けど、お前を信じてる」
「わたしもだ、相棒」
軽く拳を打ち合わせ、愛機へと向かう。
ペトレール・ブランシェ。
黒く塗られた喫水線下とツートンカラーを成す、まばゆい白の飛行艇。
艇体には『白のカモメ』を意味する機名に加えて、トゥール・ヴェルヌ航空会社を表す『T.V.A.C.』の文字がある。目立ったオイル汚れもない優美な機体は、目にする度に思わず頬が緩んでしまって表情を引き締めるのが大変だった。
胴体側部に設けられたスポンソンに足をかけて、コクピットに乗りこむ。同じく機体に乗りこんだユベールが合図を出すと、クレーンに吊られたペトレールが海面へと降ろされていく。ペトレールの離着艦が可能な空母は存在せず、また現在の北央海にアルメア国籍の空母が一隻もないがゆえの応急処置だ。
「フェル」
「分かっている」
冬の北央海の波は荒い。それこそ、離水時に波にかぶられて転覆しかねないほどだ。だがフェルが搭乗するペトレールに限っては話が違ってくる。機体が海面に近づき、波頭が艇体を叩く感触が足下から伝わってくる。それを捉える。
着水したペトレールを中心に、凪が訪れた。本来はあり得ない、鏡面のような海。眼前の奇跡に誰もが息を呑んで見守る中、ただ二人、フェルとユベールだけが淡々と発進手順を進めていく。エンジンが掛かり、正常値を示す計器に目を走らせ、徐々に加速する機体が風を捉え、飛び立とうとする揚力を操縦桿を通して感じる。
船底が海を切り分ける音と感触が不意に失われ、低く一定した駆動音と風の音だけがコクピットに満ちる。ふと、人の声が聞こえた気がして横に目を向けると、戦艦カルニアを含めたアルメア北央海艦隊の乗組員たちがこちらに向かって手を振り、あるいは敬礼する姿が見えた。ユベールが翼を振ってそれに応える。
さらに首を巡らせれば、後方には青空に混じる無数の煌めきが見えた。太陽光を反射するシャイア航空部隊の威容だった。眼下の海を進む艦隊――戦艦一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦四隻が縦列を成している――を狙うのは航空部隊だけではなく、その背後には大規模な機動部隊が存在するはずだった。
海峡まで約三百キロメートル。これ以上進めば敵の前進基地となったイーストファー基地からも迎撃機が飛んでくるので、作戦上の都合で別行動を取るしかない。強大な敵を前に、最高の状態で送り出してくれた彼らを信じるしかなかった。
「旋回してから高度を上げる。寄ってくる敵への対処は任せた」
「了解した」
以前のペトレールより総重量は増えているが、それ以上にエンジン出力が上がっているので上昇はスムーズだった。シャイアの航空部隊より高く上がり、そのまますれ違う。雲ひとつない空では隠れようもなく、こちらの姿は相手からも丸見えだ。数十機から成る航空部隊から、二機編隊が分かれて突っこんでくる。
敵の指揮官は空母を持たない艦隊というカモを前にして、たった一機の飛行艇に戦力を割くまでもないと判断したのだろう。攻撃を命じられた二機も、さっさと終わらせて本隊に合流しようという気分が飛び方から透けて見える。
「後方に二機ついた」
「どうする?」
フェルの報告にも慌てることなく、ユベールが聞き返してくる。
「ちょうどいい、力試しといこう。ユベールはそのまま飛んでいてくれ」
「了解だ。適当にあしらってやれ」
振り返って後方を確認する。ペトレールより身軽な戦闘機はみるみる距離を詰めてくる。放っておけば、十秒もかからず機関銃の射程に捉えられてしまうだろう。
視線を前に戻し、後席に据え付けられた操縦桿を軽く握り直した。両足はラダーペダルの上だ。前席に座るユベールの操作に応じてエルロン、エレベータ、ラダーの三舵が空気の流れを変え、機体の姿勢を変化させる。地面も壁もない空では、まっすぐ進むだけでも絶えず舵を当てる必要がある。連動して動く操縦装置には確固たる人の意思が感じ取れる。そこにユベールがいるのだ。
感覚を集中する。飛んでいる飛行機の中に自分がいるのではない。エンジンとプロペラが推力を生み、主翼が揚力を得る。三舵の操縦を通じて空気の流れを制御し、ペトレールと一体になって自分は空を飛んでいるのだという感覚を得る。全身で風を感じ取れたら、さらに広く、外へと意識を広げていく。ペトレールはもちろん、後方にいる二機の戦闘機を含めた広大な空を思い描き、その手触りを実感として捉える。
空に触れ、かき混ぜる。
効果は絶大だった。唐突に発生した乱気流に巻きこまれた二機編隊は姿勢を崩して接触しそうになり、慌てて回避行動を取る。速度を失った二機が編隊を組み直して追跡を再開するまでに、追い風を受けて進んだペトレールは距離を稼いでいた。
「すごいな。この追い風もか?」
ユベールの感心したような声に、自然と口元が緩む。
「そうだ。慣れてくれば、速度と航続距離をもっと伸ばせるだろう」
順風を受けて逃げるペトレールと、直進もままならない乱気流と強烈な向かい風に翻弄される戦闘機とでは多少の速度差など問題にもならない。追いつけないことを悟った二機編隊は身を翻し、味方の下へと戻っていった。
「あっさり諦めたな」
「母艦に無線で連絡を入れたんだろう。迎撃機が上がってくるから気を緩めるな」
ユベールの言葉通りだった。高度を上げつつ航空部隊の飛来した方向へ進んでいくと、五分足らずで空母三隻を中核に多数の巡洋艦と駆逐艦で構成された機動艦隊を視認できた。ほぼ同時に、その上空に展開する迎撃機の群れを知覚する。
「まとわりつかれると厄介だな。フェル、この距離から行けるか?」
「問題ない。すでに射程に捉えている」
敵艦隊とは水平距離で約十キロメートル離れている。この距離で有効な攻撃手段を持つ航空機は存在せず、艦砲射撃でも持ち出すしかない。だからこそ、迎撃機は別方向からの伏兵を警戒して積極的に攻撃を仕掛けてこないのだ。
そこに付けいる隙がある。
機体を通じて空に触れる要領で、空を介して海中まで知覚の手を広げる。探し物はすぐに見つかった。アルメア艦隊の各艦に搭載する前に、ひとつひとつ手で触れて設置した魔力のマーカーとでも呼ぶべきもののおかげだ。それによって、発見から掌握までの時間も短縮できる。わずか数秒で攻撃の準備は整った。
この海域を通過したアルメア艦隊が密かに海中投下した置き土産。
直径二百ミリメートル、全長十メートルの鋼鉄製ワイヤーが海中を走る。それを見ている者がいたなら、伝説のシーサーペントを想起したかも知れない。鋼鉄の海蛇はその身をくねらせ、時速七十キロを超える速度で海中を疾走する。
手始めに狙うのは艦隊の前方に位置する駆逐艦や巡洋艦だ。魚雷と違って音も航跡も残さない海蛇を探知する手段はなく、狙いを付けた艦が回避行動を取る気配はなかった。ワイヤーは敵艦の後部に回りこみ、スクリューに絡みつく。
数千トンの排水量を誇る戦闘艦を高速で推進するスクリューは巻きこんだ異物を細切れにしてしまうだけの力を持つが、人間の頭部より太い鋼線を巻きこむ想定などされているはずもない。ブレードがこすれ、ねじれ、破断する異音が海中に響く。ワイヤーは残骸と化したブレードに複雑に絡まり、ついには動きを止めてしまう。
外部から加えられた力による強制的なスクリューの停止は、アルメア艦隊を追って全力運転中だった機関にも深刻なダメージを及ぼす。過剰負荷をかけられた主機は火を噴き、各艦は理由も判然としないままに推進力を喪失していった。
艦隊の前衛を務める僚艦に起きた異変は、急激な速力の低下と航路のブレという形で後続の艦にも伝わった。衝突を防ぐために全艦が速度を落とし、左右に分かれて陣形を乱していく。主機の故障、あるいは潜水艦による攻撃という報告が無線で飛び、まだ無傷の駆逐艦が海中に潜む見えない敵に向かって爆雷投下を始める。
しかし海中を高速かつ縦横無尽に泳ぎ回るワイヤーに対して爆雷はほとんど効力を発揮しない。仮に命中したところで千切れたワイヤーはふたつに分かれて泳ぎ始める上に、アルメア艦隊がばらまいたワイヤーの数は十や二十では利かないのだ。
艦船に対してワイヤーが有効であることは実証された。漂流する前衛艦隊と左右に展開する駆逐艦に進路を塞がれて身動きの取れない空母が次の標的だ。機動艦隊の要である三隻に鋼の海蛇が殺到し、計十二本のスクリューを完全に破壊する。
残った艦も含め、シャイアの機動部隊が完全に航行能力を失うまで五分もかからなかった。迎撃に上がった戦闘機部隊が、距離を取って旋回するペトレールの意図を掴みかね、艦隊を離れて攻撃に向かうべきかを判断できずにいる間に、守るべき艦隊は北央海に浮かぶ巨大なフロートの群れと化していた。




