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アルメアが航空機による世界一周を成し遂げてから、十年が経つ。
当時、戦争における航空機の有用性に気付いた各国は技術開発で激しく火花を散らし、自国の優位性を示す象徴的な事業として世界初の地球一周飛行の達成を狙っていた。航空機の長距離飛行能力や、それに耐える信頼性はもちろん、空における航法も未成熟な中での難事業であり、アルメアに先行して記録飛行に挑戦したエングランドやケルティシュが失敗して大きな人的犠牲を払う中での快挙であった。
世界一周飛行に当たって、最大の問題がいわゆる『シャイア抜き』だった。かの国の広大な領土での適切な補給地点の確保は、もはや個人や一企業の手に負える範囲を超えていたのだ。世界一周飛行が国家的なプロジェクトとなるのは必然だった。
こうした状況下で、航空機の開発レースで各国に後れを取っていたシャイアは一計を案じた。世界一周飛行に挑む外国の航空機に自国内での着陸と給油を禁じたのだ。
これにより、シャイアを除く各国は飛行ルートを極端に制限され、逆にシャイアは自国内で手厚い補給を受けながら最短ルートで飛べる態勢が整った。そうして時間稼ぎしつつ、機体の開発とパイロットの養成を図ったのだ。
この姑息な手段に怒ったのが、公正さを信奉するアルメアの国民だった。彼らに後押しされたアルメア政府は軍から選抜したパイロットで専属のチームを編成し、持てる政治力を駆使してシャイアを迂回するふたつのルートを開拓した。
アヴァルカ、ユーシア、ルーシャ、ウルスタンを経由してケルティシュやディーツラントに至る北回りルート。そしてアヴァルカからケーフィランド、クルバ島、マナルナ聖教国、ピエルシナ王国、例外的に開かれた港であるシャイア領ハイレンを経由してディーツラントに至る南回りルート。各国の思惑や政治的な綱引きもあり、決して安定したルートとは呼べないながらも、かくして道は繋がった。
本来なら大々的に行われる出発式は省略し、あえて自国ではなくケルティシュから飛び立ったアルメアチームの存在はシャイア領ハイレンに到着するまで隠し通され、慌てて妨害に動いたシャイア軍を振り切っての劇的な記録達成へと至ったのだ。
この事例を踏まえても、国家の全面的なサポートがあってなおシャイアを出し抜くのは容易ではないと分かる。加えて、当時とは比べものにならないほど航空技術を発展させた大帝国を横断しなければならないのだ。トラブルや不測の事態が起きる可能性もある。慎重さと大胆さの両方を求められる任務と言えるだろう。
「ユベールは両方のルートを飛んだことがあるのか?」
「ああ、フェルを助けに行く時に使ったのも北回りルートだ。ルートが開拓された当初こそ大掛かりなチームを組まなきゃ無理だったが、今なら単独飛行も不可能じゃない。緊急時に着陸できる場所も、昔よりずっと増えたしな」
国家によるサポートの代わりに、頼りにできるものもいくつかある。ひとつは純粋な機体の性能向上であり、もうひとつは飛行機乗りたちが積み上げてきた信頼と実績のネットワークだ。シャイアを迂回する大回りを嫌い、かの国を一気に横断するルートを開拓する試みはこの十年間、ずっと続けられてきたのだ。
いま二人がいるのはクルバ島、ラバンドルートの整備工場だ。ケーフィランドからここまで一気に飛び、長距離飛行に備えて機体の確認と給油を済ませる。夕刻の街の雰囲気はカクテルの材料を調達しに訪れた際よりも浮き立っているように見えた。
「この先はシャイアの沿岸を飛んでマナルナ聖教国を目指す。なるべく人目につかないよう、日付が変わる頃に出発だ。それまで少し寝ておけ」
「ユベールもだ。昨夜も、わたしが寝た後に出かけていただろう?」
「……気付いてたのか」
「情報収集はいいが、うとうとして墜落するなよ、相棒」
「分かった。今日は大人しく身体を休めるさ」
実際、長時間の操縦は重労働だ。シャイア国内の情報を集めたかったが、眠気を自覚してしまうと立ち上がる気力が失せていく。いつの間にかソファで眠りこみ、フェルに揺り起こされてようやく時間であることに気がつく始末だった。
「くそ、もう出発か」
「もう少し休んでいくか?」
「いや、朝の礼拝が始まる前にマナルナまで飛びたい。彼らは機械の騒音を嫌う」
マナルナ聖教国はその名の通り、マナルナ教を国教とする宗教国家だ。シャイアが覇を唱えるエウラジア大陸において、天険の要害であるヒルム山脈を挟んで領土を保ち続けている軍事強国でもある。かの国における朝夕の礼拝は神聖視されており、その邪魔をした外国人は半殺しの目に遭っても文句は言えない。
クルバ島からマナルナ聖教国まで七時間はかかる。九時に礼拝が始まるので、時差も考えるとすぐに出なければ間に合わない。ほとんどの荷物はギルモットに載せたままなので、シャワーを浴びたいのを我慢して機体に乗りこんだ。
シャイアの南洋艦隊とマナルナ海軍の艦艇が遊弋する夜の南緑海を飛ぶ。月明かりに照らされた穏やかな夜で、巡航速度で飛んでいるとエンジンの騒音も次第に耳に入らなくなり、一種の静けさすら感じ取れるようになる。
「フェル、起きてるか?」
「どうした?」
「いや……最後に確認しておこうと思ってな」
「確認?」
「マナルナから飛び立てば、いよいよ後戻りできなくなる。俺もお前も、ただの操縦士と航法士ではいられなくなるだろう。フェルは、本当にそれでいいのか?」
「……ユベールは、怖いのか?」
問い返されて、初めて気付く。フェルの覚悟を問いたいのではなく、自分自身の覚悟が決まらないから発した問いであることに。
「……くそ、情けないな。どうやら、お前の言う通りらしい。ああ、そうだ。俺はここまで来てビビってる。国を出てから十年。お前と出会って、今まで逃げ続けてきた王族の責任ってやつと、いよいよ向き合わなくなっちまったからだ」
「引き返しても、わたしは構わない」
伝声管越しに、淡々とした調子でフェルが告げる。
「分かってる、お前ならそう言うだろう。その時はお別れだってことも」
「…………」
彼女はユベールを信頼し、好ましく思っている。同時に、そうした個人的な感情を切り離して自らの責務を優先する芯の強さを持ち合わせている。そうした在りようを、ユベールは羨ましく思っている。彼女は、自身があるべき姿だったからだ。
彼女を抱きしめて、一緒にいてくれと懇願しても意味はない。ルーシャに戻ってフェルリーヤ・ヴェールニェーバとしての責務を果たすと決めたなら、彼女はユベールとの別れを悲しみつつも、一人でルーシャへ向かう道を選ぶだろう。
「決めるのはユベールだ。わたしはそれを尊重する」
フェルは、ユベールに責務を果たせとは言わない。その重みを誰よりも理解しているからだ。誰かに支えてもらうことはできても、それはそれとして一人きりでも支えるという覚悟がなければ、いつか潰されてしまうことを知っているのだ。
「……やっぱりお前はすごいよ、フェル」
「そうだろうか?」
「王族って言っても、俺の場合は親が王族の血を引いていただけだ。俺以外の人間はみんな義務を果たして死に、俺一人が最後まで生き残ったから価値を見出されてるに過ぎない。王としての教育を受けたわけじゃないし、自覚もなければ、能力もない。今でも自分のことを、ただのユベール、ただの飛行機乗りとしか思えないんだ」
「卑下する必要はない。ユベールが飛行機乗りじゃなければ、わたしとは会えなかった。わたしはルーシャから逃げ出せず、シャイアに捕まって殺されていただろう」
慰めでも励ましでもなく、彼女が本心からそう言っているのが伝わってきた。
「そうだ。俺に価値があるとしたら、その一点に尽きる」
国を統べる指導者として並び立つことはできそうもない。
だが、彼女の翼で在るためにできることはある。
「俺は飛行機乗りのユベールとして、最後までフェルの味方でいると決めた。相棒、お前が飛びたい場所へ飛んでやる。だから、俺に針路を示してくれ」
伝声管の向こうから、ふっと鼻で笑う気配が伝わってきた気がした。
「当然だ。わたしはユベールの相棒、お前の航法士なのだから」




