2-1
メニーベリー基地への最初のビール輸送を請け負ってから一ヶ月。トゥール・ヴェルヌ航空会社は都合八往復の輸送を成功させ、大きな利益を上げていた。連合軍の攻勢も順調に続き、前線が押し上げられたのに伴ってロイド・バーンスタイン大佐の率いる第144航空団の基地移転が決まったのもその頃だった。
詳しいことは聞きだせなかったが、新しい基地はディーツラントの国境付近になるらしかった。しぶとく抵抗を続けるディーツラント空軍が遊弋する空域であり、ビール輸送の継続は断念せざるを得ない。頼んでいたフェルの服ができあがる頃合いでもあり、惜しまれながらも基地の面々とは別れを告げることになった。
「ユベール、ヘンテコではないだろうか」
「いや、似合ってるぞ」
「……そうか」
軍港であるドヴァルには専門の仕立て屋もある。皇女と皇太子の水兵服姿の写真が載った新聞の切り抜きを片手にフェル用の服を注文しに行った際には、店の主人が最近は似たような注文が多いのだと苦笑しながら採寸をしてくれた。できあがった水兵服は上が二着、下は作業用にズボンが二本とスカートが一枚。ひとまずスカートに着替えさせ、大通りに出てきたところだ。
斜めにかぶったネイビーブルーのハンチングの下でスミレ色の瞳が細められ、わずかに口元が緩んでいる。白を基調に袖口と襟に紺色のラインが走る水兵服には赤色のスカーフがよく映え、濃紺のプリーツスカートとハイソックスに挟まれた白雪のごとき肌がまぶしい。かわいくも勇ましい容姿は道行く人々の微笑ましげな視線を集めていた。
「ところでユベール」
「ん?」
「もうビールは運ばなくていいのか?」
「新しい基地はディーツラントの国境付近って話だ。リスクが高過ぎる」
「ロイドやメールマンがそこにいる。彼らは物資を必要としているのでは?」
「まあな。だが飛行距離が延びれば燃料を食うし、それだけ危険も増える。その費用を代金に上乗せするにも限界があるし、金額に折り合いがつかないのさ」
「……そうか」
「心配しなくても、ここから先はケルティシュ国内の陸運業者の仕事だ。海の安全もようやく確保されつつある。あの大佐のことだから、きっと上手くやるさ」
「適材適所、というやつだな」
「そういうこと。加えて、ディーツラントはビールとウィンナーが旨いんで有名だ。勝てばビールが待ってるとなれば、兵士たちの士気も上がるってもんだ」
「そういうものか」
「それに、こっちはこっちで次の仕事がある」
「もう決まってるのか?」
「ああ。次の目的地はエングランド王国南部、ハイランド地方だ」
港に戻り、燃料を少しだけ補給したぺトレールに乗りこむ。相変わらずの曇天だが、波は穏やかだ。遠く海面に降りそそぐ陽光のカーテンが、薄く広がる雲の向こうに広がる天上の様子を知らせてくれる。整備を終えたエンジンは心地よく吹き上がり、キャノピに跳ねた飛沫が風にさらわれて流れていく。
「ユベール、ちょっといいか」
離水してしばらく経つと、フェルが話しかけてきた。
「どうした?」
「燃料計がおかしい。半分以下になっている」
「いや、それで合ってる。ちょっと足しただけだからな」
「満タンにしなくていいのか?」
「しちゃダメなんだ。理由はわかるか?」
「燃料が高いから?」
「違うな。よく考えろ」
「……目的地が近いから?」
「半分正解だ。もう一歩先へ進めて考えてみろ」
フェルはしばらく黙考してから、端的に答える。
「……燃料が重いから」
口調や雰囲気から、答えに至ったが上手く表現できずにいるのだと判断する。
「その通りだ。機体が軽ければ軽いほど燃費はよくなり、航続距離も伸びる。余計な荷物を積まないのは商業飛行の大原則だし、燃料だって例外じゃない。積載物も併せた機体重量と目的地までの距離から必要量を計算するのも航法士の仕事だ」
「どうやって計算する?」
「向こうに着いたら教えてやる。それより見ろ、フェル」
機体を傾け、眼下を指差す。郊外に広がる田園地帯を抜けると、なだらかな丘と森林がマーブル模様のようにどこまでも広がっている。その合間を縫い、村々を繋ぐように道が切り開かれ、線路が敷かれているのも見えた。
「空からの眺めってのはおもしろいもんでな。どこの国も同じように見えて、よく観察するとその国ごとの表情みたいなもんが見えてくる。不思議なもんで、この風景を見ないとエングランドにきたって実感が湧かないんだ」
島国であるエングランド王国は、風景の切り替わりがはっきりしている。都市部の郊外には田園や丘陵が広がり、豊かな森林を挟んで荒涼とした山岳地帯へと続く。張り巡らされた鉄路は都市を繋ぎ、行き交う飛行機の数も多い。
「そら、あの山を越えればハイランド地方だ」
「だいぶ涼しくなってきたな」
「その名の通り、エングランドで一番標高の高い地方だからな」
連なる山脈の尾根を横切ると、明確に雰囲気が変わる。空気は透明に冴え渡り、雲を貫いてそびえる山脈が果てもなく連なる。柔らかな草が風に揺れる高原をひとかたまりになって動く白いものは羊の群れだろう。前方にはエングランド王国の最高峰であるペン・ニヴァス山が、白雪の王冠をいただいてそそり立つ。
「あれを迂回すると湖が見えてくる。そこに降りるぞ」
「了解した」
エングランド王国ハイランド地方、カーンゴーム国立公園。ここから見渡す全てが国立公園に指定された地域であり、過度の開発が制限されている。王国でもっとも豊かで厳しい自然の残された大地であり、そこに住む人々はハイランダーと呼ばれる。それ以外の地域に住む、いわゆるロウランダーとは気質が異なる人々だ。
ペン・ニヴァス山から流れるネイビス川によって形作られたネイビス峡谷は、上質のウイスキーの産地として名高い。峡谷と言っても幅は数キロメートルに及び、地形がなだらかなため自然に形成された湖まである。その湖のそばにあるグレンモア村が、今回の仕事における拠点だ。鏡のように穏やかな湖はぺトレールが降りるのに十分な広さがあり、鉄道もこの村までは敷かれている。
「ところでユベール、今回はどんな仕事を?」
「うん? そうだな……」
フェルの質問に、悪戯っ気が出る。
「神さまの視点で、遺跡の調査をするのさ」
「……神さま?」
怪訝そうなフェルの声に頬が緩む。
振り返らずとも、首をかしげる彼女の姿が目に浮かぶようだった。