9-1
サファイアのように深い蒼を湛えた南央海は、極端に島が少ない海として知られる。寄港地の少なさは航海の難易度に直結し、古来より航海者は安全を取って大陸伝いの沿岸航海か、危険な賭けとなる大洋の横断かの選択を強いられていた。
南央海の中央に大型船の接岸と補給が可能な無人島が発見されたのは、ほんの二百年前のことだ。ケーフィランドと名付けられたその島は、現在では船のみならず、南央海を飛ぶ飛行機にとっても貴重な補給地点となっている。
「長距離飛行もこう連日だと厳しいな」
ルーカでの滞在は半日足らず。トルジアを発ってから三日間で五千キロ弱を飛んだ計算だが、目的地であるアウステラ連邦のルウィンダ空港は未だ二千キロの彼方だ。思わず愚痴をこぼすユベールを気遣うように、フェルが声をかけてくる。
「ユベール、もう日が暮れる。今日はここまでにしよう」
「……そうだな。居眠りして墜落するよりマシか」
眉を寄せて思案するユベールの様子を見て、フェルが問う。
「この島で一泊して問題があるのか?」
「ケーフィランドは南央海の重要拠点で、エングランド王国と関係が深い」
「シャイアが仕掛けてくる可能性があると?」
ユベールの言葉から察したフェルが後を引き取る。
「いや、あくまで可能性の話だ。急な開戦で、シャイア海軍が付近に展開していたとも思えない。この先は分からんが、早々に発ってしまえば問題ないはずだ」
「分かった。それなら早めに宿を取って、夜が明けたら飛ぼう」
ギルモットに燃料を満載し、宿へ向かう。疲労で頭が重く、シャワーを浴びてベッドに倒れこむと早々に寝入ってしまった。翌朝、窓から差しこむ陽光で寝過ごしたことに気付いて飛び起きる。眠そうなフェルをギルモットに積みこんで出発する。
しばらく飛んでいると、フェルが遠慮がちに声をかけてくる。
「すまない、ユベール。昨日はよく眠れなかった」
「疲れてたんだろ、仕方ないさ。俺も寝過ごしたしな」
「それだけじゃない。アルメアで出会った人々のことを考えていた」
「心配なのは分かるが、大丈夫さ。みんな上手くやってるよ」
「そうだといいが」
成り行きでトゥール・ヴェルヌ航空会社に所属していたアンネマリーたちのことは、フェリクスに頼んである。ああ見えて面倒見がいいので、決して悪いようにはならないはずだ。西海岸にいるアーロンやサンディがすぐ戦火に巻きこまれる可能性は低く、カーライル社のテストパイロットを務めるヴィヴィは戦争でなくとも命の危険があるという意味では変わらない。彼女については心配するだけ無駄だ。
「ユベール、シャイアは勝算があって仕掛けたのだろうか?」
「分からん。だが、大陸のディーツラント戦線が落ち着きつつあるこのタイミングで仕掛けてくるのは妙だな。もっと早く仕掛けていれば、アルメアが大陸に戦力を振り向ける余裕はなかったし、大陸での反攻作戦も大幅に遅れていたはずだ」
「ディーツラントを囮にして、アルメアの戦力を分断した可能性は?」
「それはどうかな。アルメアはシャイアに備えてアヴァルカ半島に配置した主力を温存したまま動かしていない。加えて、志願兵で編成された新規部隊も大陸戦線を経て歴戦の部隊へと成長した。彼らがディーツラントを横断して背後を突けば、シャイアは逆に広い国土の両端で戦力を二分されることになる」
東西で六千キロに及ぶシャイア帝国の領土を横断するのは並大抵のことではなく、かつては往復にその生涯を費やして莫大な富を手にした商人がいたほどだ。道路や鉄道が整備され、飛行機が行き交うようになっても遠いことには変わりなく、人員に兵器や兵站も含めた軍を移動させるためには莫大な費用と時間がかかる。
「シャイアは不利と知ってなお開戦する理由があった、ということか?」
「あるいは偶発的なものか。勘違いから開戦に至る例もないわけじゃない」
ユベールとユーシア王家の関わりについては、すでにフェリクスからフェルへ伝えられている。アルメアとシャイアの開戦にユーシアの残党が絡んでいると知ったら、彼女はどう受け取るだろうか。聡い彼女のことだ。そもそもユベールがフェルに接近した意図にまで思い至る可能性を考えると、迂闊なことは口にできなかった。
「考えて答えが出る問題じゃない。もっと情報が集まってから話そう」
「了解した。そうしよう」
話題を切り上げ、操縦に集中する。赤道を越え、外気とエンジンの排気で熱せられた空気でコクピットの中は酷く蒸し暑かった。キャノピーを細く開けて風を入れると、フェルも同じようにキャノピーを開き、指先を外に出して風を感じていた。
藍色の海は穏やかで、雲のない空は色が濃い。平衡感覚を失いそうな蒼の天球を飛んでいると、水に浮かんで揺蕩っているような気分になってくる。正しい方向へ進んでいると教えてくれるのは計器の示す数値、そして航法士の声だけだ。
「ユベール、二時方向のあれは島影か?」
フェルの示す方向を見ると、確かに島影らしきものがあった。しかし、アウステラ大陸が見えてくるにはまだ早い。あるとすれば未発見の島だが、多くの船乗りや探検家が惑わされてきたそれの正体をユベールは知っている。
「ありゃ蜃気楼だな。どれだけ飛んだって着かない、幻の陸地だよ」
「そうか。確かに魔力を感じないな」
「興味本位で聞くんだが、水平線の先にあるアウステラ大陸は感じ取れるのか?」
「どうだろうか。十二時方向にあるような気がするが、そうと知っているからそのように思えるだけかも知れない。そこは緑豊かな場所なのか?」
「いや、特に内陸部は乾燥していて砂漠が多い。そういやサウティカでも、砂漠は魔力が薄いって言ってたな。アウステラ大陸も同じってわけか」
「おそらく、そうなのだろう」
会話をして暑さを紛らわせようとする試みは、どうやら無意味なようだった。水筒からぬるい水を口に含み、ぼうっとする頭をはっきりさせる。
「それにしても、暑いな」
「そうだな」
暑さで口数が減りがちな中、無心で飛行機を飛ばし続ける。目指すアウステラ大陸が見えてきたのは日が傾き、ようやく気温が下がってきた頃だった。
「見えた。ルウィンダ空港だ」
「ユベールは以前も来たことがあるのか?」
「ルウィンダを含め、いくつかの都市を訪れただけだ」
「共通語は通じるのか?」
「エングランド王国の植民地として始まった国だから、通じると考えていい。奥地の原住民は独自の言語を喋るが、都市部にいる限り意思の疎通に問題はない」
「シャイアやアルメアとの関係は?」
「形式上、今でも女王を君主とするエングランド連邦の加盟国だから、エングランドやアルメアとは友好国だ。しかし地理的にはシャイアに近いこともあって、経済的にはシャイアとの繋がりも強い。外交では独自の立場を貫く国だ」
「独自の立場?」
「要するに、不干渉だな。どっちの陣営もアウステラ連邦を敵に回したくないから迂闊に手出しはしないし、アウステラもよその戦争に積極的に関わろうとはしない。つまり、俺たちが身を隠すにはうってつけの国ってわけだ」
「なるほど。理解した」
「降りるぞ。流石に疲れたし、今日はさっさと休みたい」
「同感だ」
南半球に位置するアウステラ連邦は、北半球の諸国とは季節が逆になる。入植者たちが最初に上陸した地でもあるルウィンダは、冬でも泳げるリゾート地として多くの外国人が訪れる。海に面した空港は大型の水上旅客機も接岸できる本格的な作りで、街の中心部とのアクセスも良好な立地だ。
針山のように海へ突き出す桟橋のひとつにギルモットを係留する。周囲には世界各国の航空会社が所有する料理人付きの大型旅客飛行艇や、近海の島巡りをするのだろう旧型の飛行艇が数多く停泊していて壮観だった。
「ユベール」
袖を引かれ、フェルが指差す方向を見ると、個人所有と思しき豪華な中型飛行艇が停められていた。彼女がその飛行艇を気にした理由はすぐに分かった。機体側面に記された円形の国籍マーク。シャイア帝国の識別だった。
「シャイアの機体か。気にするなと言ってもお前さんには難しいだろうが、見たところ危険はないはずだ。少なくとも、お前を追ってきたわけじゃないさ」
ユベールを見上げるフェルの目がすっと細められる。
「なぜ分かる?」
「機体の周りをよく見ろ」
真新しい機体の胴体には国籍マークを除けば航空会社を示すマークや文字などが見当たらず、個人所有の飛行艇であることを示していた。加えて飛行艇の周りには専属の整備士や機関士の姿があり、桟橋では料理人と思しき人間が食材などの積みこみを指図している。これだけの人間を雇っているとすれば、かなりの富豪だ。
「見ろよ、整備士に機関士、料理人まで乗せていやがる。機体も初めて目にする型だ。おそらくシャイア人の大金持ちが自家用機で遊びに来てるんだろう。当然、パイロットも専属で雇われてるはずだ。金にならんから、放っておけ」
「了解した」
心なしか不満げな返答の後、舌打ちする音が聞こえた。
「頼むから、妙なことを考えるなよ?」
「妙なこととは?」
こちらを見上げ、薄く笑う彼女の目は笑っていなかった。何を考えているのかが読めず、不安が残る。そんなユベールの微妙な心情を察してか、フェルが笑う。
「冗談だ。そんな捨てられた子犬のような顔をしなくてもいい」
「お前な……」
からかわれたことへの軽い怒りと、いつの間にか語彙や表現が豊かになって冗談まで飛ばすようになった彼女への賞賛の気持ちが心中に湧き上がる。何を口にするか迷っていると、背後から突然なれなれしく肩を叩かれた。
「ユベール、ユベールじゃないか、久しぶりに見たよ!」
シャイア訛りの共通語に気安い態度。椿油を塗ったつやのある黒髪をポニーテールにくくったラフな格好の男は、旧知のパイロット仲間であるロンだった。
「ロン。お前こんなところで何を……ああ、そういうことか」
言いかけて、途中で気付く。つまり彼がシャイア機の操縦士なのだ。
「彼は?」
シャイア系の見た目に警戒心を露わにしたフェルが問う。
「知り合いの操縦士だよ。名前はロン。ロン、こっちは俺の相棒のフェルだ」
「相棒? 娘か愛人じゃなくて?」
「笑えない冗談だな。フェルは腕のいい航法士だよ」
「ふうん。ええと、フェルだっけ、よろしくね。ユベールの親友のロンだよ」
「誰が親友だ」
握り拳をもう一方の手で包む抱拳礼をするロンに突っこんでおく。彼は飛行機乗りとしては平凡で、口も軽く信用が置けないが、他人に取り入るのが上手い。冒険や名声には興味がなく、お抱えのパイロットとして安定した生活を送りたい人種だ。
「今でもティエン・ホウに飼われてるのか?」
「おっと、雇い主の情報は迂闊に言えないよ。まあ、その通りなんだけどね」
へらへらと笑って答えるロンは放っておいて、フェルに説明する。
「ティエン・ホウはシャイア人の大富豪だ。やり手の会社社長で、何度か仕事を請けたことがある。あの機体もティエンが個人的に所有する機体のようだな」
「いい機体だろ? ハイロウって言うんだ」
自分の機体でもないのに自慢げなロンに重ねて問う。
「ルウィンダには仕事で来てるのか?」
「社長は遊びながらでも仕事する人だよ。知ってるでしょ」
「ダメ元で聞いとくが、操縦士と航法士は必要か?」
「なに? 仕事探してるの?」
「たまたま予定が空いてるだけだ」
「ふうん。それならいい話が……おっと、これは言っちゃダメだったよ」
「何だよ、言えよ」
「ご主人様に怒られちゃうからね。いくら僕とユベールの仲でも言えないよ」
にやにやと笑って肩をすくめるロン。構って欲しいという態度が透けて見える。こういう相手に食い下がるのは逆効果なので、声のトーンを落として告げる。
「そうか。ならお前に用はない。いくぞ、フェル」
そのまま踵を返すと、慌てた様子のロンが声をかけてくる。
「待ってよユベール、つれないなぁ」
「お前の無駄話に付き合ってる気分じゃないんだ」
「じゃあ、どこかのバーでカクテルでも飲んで疲れを癒やすといいよ。バウ通りのヒュプノシスって店がお勧めだ。きっといい儲け話に出会えるんじゃないかな」
「わかった、そうするよ」
ロンと別れ、街中へ向かう途中でフェルが話しかけてくる。
「あからさまだったな」
「笑っちまうよな」
フェルが言っているのは別れ際のロンの態度だ。バーに向かえと言いながら、下手なウィンクをしきりと送ってくる様子は滑稽で、思わず吹き出しそうだった。
「ヒュプノシス、だったか。あまり期待はせず、行くだけ行ってみるか」
「バウ通りと言っていたな。ここから近いのか?」
「すぐそこだ。観光客向けの店が並ぶ通りだから、危険もない」
南国風の木々が植えられた並木道には、水着に一枚だけ羽織ったような格好の人間も多い。白銀に輝く髪とセーラー服のフェルはどこの国でも人目を引いたが、国籍も人種もばらばらな観光客で賑わうこの街ではそれほど目立たずに済みそうだ。
目当ての店はほどなく見つかった。看板にはダイニングバー・ヒュプノシスとあり、昼飯は機上で簡単に済ませた身としてはありがたかった。
「腹が減ってるだろ、フェル。ついでだから飯にするか」
「そうしよう。空腹で目が回りそうだ」
開放的で浮ついた街の雰囲気に当てられたか、おどけた様子で目を回してみせるフェル。強がりとも取れるそんな態度が、どこか痛々しく見えた。




