8-6
ユーシア王国を脱出し、揺れ軋む機体と発動機の轟音に耐えること半日。目的地への到着を告げられたユベールは機体から降りられないほど衰弱していた。そのまま気を失うように寝こんで、目が覚めたときにはハンモックに寝かされ、王族にふさわしい旅装からシャツにジーンズというラフな軽装に着替えさせられていた。
風通しのいいコテージから外に出ると、穏やかな波音が耳に届く。透き通った海には飛行機が並び、祖国のそれよりも強烈な日差しと鮮やかな青に染まった空があった。照り返す太陽光がまぶしい白の砂浜に人影はなく、どこか現実味を欠いている。
身体の芯に疲労が残っていた。まだ飛行機に揺られているような感覚があり、日差しの下に出ると立ちくらみに襲われる。砂浜には数脚のデッキチェアが並んでいたが、名札が付いていて勝手に使うのはためらわれた。少しだけ迷ってから、誰も見ていないのだからと砂浜の木陰になった場所に腰を下ろすことにした。
フェリクスと名乗った飛行機乗りを探して事情を聞くべきだったが、立ち上がる気力が湧かなかった。父やベルナルドのことが気がかりだった。自分だけがこうして安全な場所へ逃げてきた後ろめたさに駆られて、膝に顔を埋める。
後ろから何かが体当たりしてきたのはそんなときだった。
「こんにちは、はじめましてーっ!」
ユベールの首に両手を回して抱きついてきたのは、白いワンピースの少女だった。
「だっ……誰だお前は」
「ぼくはヴィヴィだよ。きみの名前は?」
健康的に日焼けした手足、屈託のない笑顔。ハニーブロンドのショートヘアは見る者に活動的な印象を与え、自分の問いかけを相手が無視するとは思ってもみない、自信に満ちたヘーゼルの瞳でユベールの答えを待っている。
「……ユベールだ」
「ユベールはどこから来たの?」
「ユーシア王国」
「ふうん、知らない」
「海の向こうだよ」
「海って、どの海?」
「えっ……いや、わからない」
「ふうん、そっか」
ヴィヴィは納得したようにうなずくと、不意に興味をなくしたようにユベールから離れる。そのまま何も言わず、振り返りもせず、走っていってしまう。
「かわいいだろう。僕の孫だ」
ヴィヴィと入れ替わりにフェリクスが姿を現す。
「別に聞いてない」
「今年で八歳になる」
ユベールの言葉など聞こえなかったようにフェリクスが続ける。
「あの子の父親はレーサーでな。クラッシュや墜落を何度も経験したが、いつもかすり傷で生還するもんだから『不死身のフィリップ』と呼ばれていたんだ」
「……死んだのか?」
言葉のニュアンスからそれを感じ取って返すと、フェリクスがうなずく。
「ヴィヴィが三歳の時だ。エアレースの最中だったよ。母親も産んですぐ行方不明になったから、あの子の肉親は僕だけだ。おかげで死ねなくなっちまった」
「まだ元気そうじゃないか」
「僕のことか? いや、冒険飛行家ってのは元気なやつから死んでいくんだ」
「……飛行機には、二度と乗らないぞ」
思い出して苦い顔をするユベールに、笑みを含んだ声で応えるフェリクス。
「そりゃ残念。王子様はこのルーカで一生を終えることになるな」
「なっ……どういうことだ」
「アルメア連州国アヴァルカ半島に位置する飛行機乗りの楽園『ルーカ』に出入りする手段は飛行機しかない。人里まで軽く数百キロ、凶暴な獣や毒虫が闊歩する密林でサバイバルできるなら別だがな。野宿の経験はあるかい、王子様?」
「そんな辺鄙な場所に、なんでリゾートがあるんだ!」
ハッタリとしか思えず、ユベールが怒鳴る。
「初めは、僕の話を信じなかったやつを見返すためだ」
「見返す?」
「あれは僕が四十歳の時だから、もう十年以上も前になるのか。僕はアヴァルカ半島の上空を飛行中、嵐に遭って墜落した。そしてこの砂浜に流れ着いた。飛行機は木っ端微塵で、水も食料もない。あるのは美しいビーチだけだった」
周囲の光景を示すように両手を広げてフェリクスが続ける。
「墜落して死ぬならともかく、飢えや渇きで死ぬのは嫌だった。必死だったよ。何もないところからひとつずつ道具を揃えて、二年がかりでアヴァルカを抜けた。故郷ではとっくに葬式も終わってて、幽霊かと間違われる始末だ。誤解が解けた後は、奇跡の生還を果たした『不死身のフェリクス』として英雄扱いだったけどな」
笑って話していたフェリクスが、そこで声のトーンを落とす。
「だが、僕の話を疑う者もいた。売名目的で冒険譚をでっちあげたんじゃないかってね。バカ言うな、二年だぞ? その間どれだけ飛べたと思ってやがる!」
思い出すだけで悔しい、とばかりにフェリクスが吠える。
「そんなわけで、僕は証人を連れてまだ名前が付く前のルーカに戻ってきた。墜落した際、機体の一部が打ち上げられていたのは幸いだったよ」
太い杭に釘で打ち付けられた、薄汚れた板を指で叩いてフェリクスが言う。よく見ると、何らかの番号らしきものがうっすらと残っている。
「この番号は?」
「固有の機体番号だ。僕がここで墜落した証明になる。口さがない者は上空から投げ落としたんだろうなんて食い下がってたが、野営や道具作りの跡が見つかるとようやく大人しくなってな。あの時のあいつらの顔ときたら最高だったぜ」
子供のように歯を見せてフェリクスが笑う。
「で、すっきりした気分でふと周りを見たら、この光景だろ? 熟練の飛行機乗りじゃなきゃ降りられないこの場所を、飛行機乗りが誰にも邪魔されずに過ごせるプライベートビーチにしたら最高なんじゃないかって思ってな」
昼寝から起き出してきたのか、ちらほらと人の姿が見えるようになったビーチを指してフェリクスが言う。人が増えたと言ってもお互いに十分な距離が空いていて、下手に有名なために混み合うリゾート地よりも快適そうだった。
そうして散らばった飛行機乗りたちの間を、白いワンピースの少女が駆け巡っている。ヴィヴィは皆に可愛がられているようで、誰とでも楽しげに談笑していた。
「惚れるなよ、王子様」
不意に背中を叩かれ、咳きこむ。
「だっ……誰がだ!」
「さっきヴィヴィに抱きつかれて、にやついてただろ」
「にやついてなんかない!」
そんなやり取りをしている間に、ヴィヴィの姿が消えていた。どこへ行ったのかと視線を巡らせると、見覚えのある水上機がエンジンをかけ、動き始めていた。
「おいフェリクス、あれはあんたのボートじゃないのか?」
「ボートじゃなくて飛行機だって言ってるだろ」
持ち主が乗っていないのに誰が操縦しているのかと操縦席に目をやる。しかし目の前を行き過ぎた水上機には誰も乗っているようには見えなかった。
「なあ、あれ勝手に動いてるけど、いいのか?」
「大丈夫だ。見てろ、飛ぶぞ」
言葉を交わす間にも、水上機は速度を上げていく。二人の前を横切って方向転換する一瞬、小さな頭が操縦席から顔を出す。ヴィヴィだった。短い滑水の後、機体が海面を離れる。その瞬間、世界から音が失われたと錯覚するような美しい飛翔。
「波で不規則に揺れる海での離着水は難しいんだ。あれは天賦の才だよ」
機体が傾き、旋回に入る。操縦席を覗きこむ角度になり、そこに白いワンピースの少女が半ば立つような格好で操縦桿を握っているのが見て取れた。決して広くはない操縦席がやけに広く見える。表情は見えないが、きっと笑っているのだろう。
どれほどの時間、ヴィヴィが操縦する機体を目で追っていただろうか。心ゆくまで乗り回して気が済んだように降りてきた水上機は、こともなげに着水する。躊躇なく海に飛びこんで水飛沫を上げ、ロープで水上機を係留してから戻ってくる彼女から慌てて視線をそらした。濡れた服が身体の線に沿ってぴったり張り付いていた。
「きみ、どうかした?」
「き……着替えてきた方がいいんじゃないか」
「すぐ乾くよ?」
ユベールの言葉に、ヴィヴィが不思議そうに返す。
「楽しかったか、ヴィヴィ」
見れば、フェリクスが釣り竿を抱えて戻ってくるところだった。
「じいちゃん。うん、たくさん飛んだよ」
「いい子だ。なら晩飯の魚をこいつと一緒に釣ってきてくれるか」
「わかった。ほら、ユベール、行こうよ。あっちにいい場所があるんだ」
少年のように歯を見せて笑う様子に毒気を抜かれて、呼び捨てにされたことを怒る気にもなれなかった。フェリクスに釣り竿を押しつけられ、ヴィヴィに手を引かれて釣り場へ向かう。ここは年長者として頼れるところを見せねばならなかった。
*
釣果は散々だった。順調に釣り上げるヴィヴィの横で、ルアーを引っかけ、ラインを切り、針で指を刺す始末だ。心配して仕掛けを作り直すのを手伝ってくれようとしたヴィヴィを、羞恥心とプライドで邪険に扱ってしまった自己嫌悪だけが募る。
「ユベール、もういいよ」
「待ってくれ。一匹くらい……」
ヴィヴィが黙ってバケツを指差す。種類は分からないが、大きい魚が三匹も入って暴れているのを見て、釣りではなく食材の調達が目的だったことを思い出す。
「じいちゃんにはユベールが一匹釣ったことにしようね」
「……すまない」
「王子様はボウズか。ここで釣れんとは相当だな」
年下の子供に気遣われた上に、フェリクスには即座に看破された。
「じいちゃん、なに作るの?」
「ムニエルにするから三枚におろしといてくれ」
ユベールも手伝おうとしたが、手際よく準備をする二人の邪魔になっただけだった。できあがったのはムニエルとパン、炭酸水という質素な食事だったが、ユベール一人では何も作れなかっただろうと考えると文句など言えるはずもなかった。
「ねえ、ユベールは王子様なの?」
フェリクスが王子様と呼んでいたのを聞いたのだろう。興味津々といった様子のヴィヴィに問われて、思わず食べる手を止めてしまった。
「……そうだ。いや、もう違うか。元々、演じてただけだったんだ」
ヴェリリス一世の戴冠から三年。突然与えられた王子という役割を果たすため、求められたように演じるのがユベールの務めだった。知っている者もいない異国へ逃げてきて、自分が王子であることを証すものもない。お前は何者なのかという問いに、今のユベールは答えることができない。
「じゃあ、役者さんなの?」
「似たようなものだよ」
「じゃあ、王子様をやってみてよ」
「ヴィヴィ。それくらいにしておきなさい」
はしゃぐヴィヴィを、フェリクスが制する。思えば、彼はルーカの来歴を話したり、ヴィヴィと釣りに行かせたりと、ユベールがユーシア王国のことで考えこまないように計らってくれていたのかも知れないとふと気付く。
「……すまない。少し席を外す」
返事は待たなかった。
想いが溢れ、涙を流す姿を二人に見られたくはなかった。
*
ルーカでの生活はこうして始まった。
特別な技能があるわけではなく、キャンプの経験も皆無のユベールにできることは雑用程度で、釣りでも料理でもヴィヴィの方がよほど上手くこなしていた。快活で愛嬌を感じさせる彼女は誰にでも話しかけ、仲良くなっていた。見ていると、喋っている言葉も共通語だけではない。世界各国から訪れ、多種多様な言語を用いる飛行機乗りたちと、ボディランゲージを交えながら会話しているのだ。
「ユベールの得意なことってなに?」
彼女の何気ない問いかけが耳に痛い。釣りも料理もまともにできず、ヴィヴィやフェリクス以外の飛行機乗りたちとも打ち解けられない。ユベールが答えられずにいると、彼女は次の問いかけを投げてくる。
「きみの飛行機はどれ? 飛ばないの?」
「飛行機は……ないよ。僕は飛べないんだ」
ユベールの答えを聞いて、ヴィヴィが心底から不思議そうな顔をする。
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
ヴィヴィの言葉にきっと悪意はない。
フェリクスはこのルーカが飛行機乗りの楽園だと言っていた。飛行機でしか訪れられない、飛行機乗りだけが集う場所なのだと。そのことはヴィヴィも知っているはずだ。だから彼女は、ルーカにいる人間は全員が飛行機乗りだと思っている。そこにはユベールも含まれていて、だから彼の答えを不思議に思ったのだ。
ヴィヴィとフェリクスを除く飛行機乗りたちがユベールによそよそしい態度を取っている理由も唐突に理解できた。彼らはルーカの主であるフェリクスの顔を立てて黙認しているだけで、ユベールがここにいる資格を認めていないのだ。
ヴィヴィは答えを待って、じっとユベールを見つめていた。その悪意なくまっすぐな視線に耐えられなくなり、立ち上がる。
「ごめん。ちょっと行くところがあるから」
向かう先はフェリクスのところだった。デッキチェアでくつろいでいた彼は走って息切れしているユベールを見て厳しい顔つきで上半身を起こす。
「どうした。何かあったか」
「フェリクス。僕に、飛行機の操縦を教えてくれ」
ユベールの言葉を聞いて表情を緩めるフェリクス。
「なんだ、そんなことか。で、それが人にものを頼む態度かよ、王子様?」
「僕に飛行機の操縦を教えてください。お願いします、先生!」
「どうやら本気のようだな。いいだろう、顔を上げろユベール」
初めてユベールの名を呼び、どこか嬉しそうにフェリクスが続ける。
「ただし僕の指導は厳しいぞ。覚悟はいいな?」
「はい!」
ヴィヴィと違って、ユベールに特別な才能はなかった。
飛行機乗りになれたのは、それから半年後のことだった。




