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8-4

 ユーシア王国の首都サントレイスは歴史のある街だ。古くから貿易で栄え、独立不羈の気風に富む商人や船乗りが集う、活気に溢れる街だった。しかし王城の窓から望む市街の、時にうるさく感じるほどの喧噪は今はない。街並みの向こう、サントレイスの生命線たる港を封鎖する軍艦の存在がそうさせているのだ。


 シャイア帝国との開戦から三年。王国は大陸に築いた地歩を失い、首都を海上封鎖されるに至っていた。反撃のための戦力も、救援の見込みもなく、後はどういう条件で降伏するかを選択する段階まで追いこまれていた。


 王室お抱えの家庭教師ベルナルド・グレイロールにできることは少ない。ユーシア王ヴェリリス一世の友人として相談に乗ること、彼の息子であるユベールが健やかに育つよう心を砕くことくらいだ。決して口にはできないが、子供のいないベルナルドにとって幼い頃から成長を見守ってきた彼は息子のようなものだった。


「ベルナルド様、昼食の準備が整いました」

「すまない。陛下に呼ばれていてね。王子には後で向かうと伝えて欲しい」


 城のメイドが一礼して去っていく。向かう先はユベールの居室だ。ベルナルドも王の執務室へ向かうため窓から離れると、遠雷のような音が背中を叩いた。沿岸に居座るシャイア艦隊が威嚇、あるいは示威目的で不定期に砲撃しているのだ。砲弾はさほど重要ではない区画――家屋の密集する貧民街――を狙っていた。シャイアはすでに占領後を見据えて、統治に必要な王城や官庁街は温存し、市民の動揺を誘いつつも都市運営の中核たる中産階級の反感は買わないようにしているのだ。


 ベルナルドは眉根を揉んで、その場を後にする。彼は軍を指揮する立場にないし、ましてや国家の指導者でもない。ユーシア王家に仕える家庭教師として、その任を解かれる日が来るまで職務を果たす。そういう約束だった。


 警護兵と目礼を交わし、執務室に入る。


「陛下、ご機嫌麗しゅう。ベルナルド・グレイロール参上いたしました」

「うむ。他の者は下がってよい」

 心得た様子で書記官たちが退室するのを見届けてから、口調を崩す。

「お疲れのようだね、ヴェリリス。ちゃんと眠れているのかい」

 ヴェリリスもまた、椅子に体重を預けて気楽に返す。

「王の安眠を妨げるなと、港に陣取る無礼者に言ってやってくれるか」

「減らず口が叩けるなら大丈夫そうだね」


 先王レイス六世が子を為さぬまま急逝したのが三年前。すでにシャイア帝国と戦端を開いていた国家は王冠の置き場として、レイス五世の妾の子であったヴェリリスを求めた。若く有能なレイス六世の暗殺説もささやかれる中、ヴェリリス一世として戴冠した彼の敵は、王としての才気を示した今なお決して少なくない。


 ヴェリリスの支えとなること。それはヴェリリスと彼の妻マリー・ラ=トゥールの共通の友人であったベルナルドが、マリーとの間で交わした約束だった。


 砲撃による市民の動揺、不足する食糧の配給など、いくつかの問題について相談を受ける。だが、彼が話したいのがそうした類の問題ではないことは分かっていた。


「それで、何か困りごとでも?」

 ベルナルドが頃合いを見て切り出すと、ヴェリリスが苦笑する。

「ああ……ユベールはどうしているかと思ってね」

「会いに行ってやればいいじゃないか」

「友よ、笑ってくれ。情けないことに、何を話せばいいのかわからないんだ」

「構わないさ。会って、話したいと思ったことを話せばいい」

「だが、あいつは俺を恨んでいるだろう」


 ヴェリリスが執務机の写真立てに視線を落とす。マリー妃はヴェリリスの戴冠式で暗殺された。ヴェリリスを狙ったシャイア帝国が黒幕とも、ケルティシュ系のマリーが王室に入ることを嫌った純血主義者の犯行だったとも言われている。


 マリーは母として、人間として、優れた人物だった。三年が経過した今でも、彼女の死が残した傷跡は大きい。とりわけ、ヴェリリスとユベールの父子にとっては。


 ヴェリリスの戴冠がきっかけでマリーは死んだ。犯人はその場で服毒自殺し、黒幕は今に至るも判明していない。妻を、母を喪った二人の関係はぎこちないものとなり、ユーシア王とその後継者という新たな立場が彼らをさらに苦しめた。


「ベルナルド、ユベールを頼む。あれはお前によく懐いているからな」

「俺はお前の代わりにはなれんぞ。誕生日なんだ、顔ぐらい見せてやれ」

「ああ、書類が片付いたらそうしよう。ありがとう、友よ」

 そう言って、ヴェリリスは書面に目を落とす。その表情は王のそれで、それ以上は声をかけるのがためらわれた。一礼して退出しようとすると、声をかけられる。

「ベルナルド」

「何でしょうか、陛下」

「例の計画を進めておけ。お前以外に任せられる人間がいない」

「承知しました」


 王の相談役を務め終え、ユベールの居室に足を踏み入れた瞬間、ベルナルドは張り詰めた空気に気付く。険悪な雰囲気の原因は、どうやら部屋の主たるユベール・ユーシアスのようだった。この日、誕生日を迎えて十五歳になる彼は入室したベルナルドを見て、ふてくされた様子で目をそらす。不機嫌な理由を彼から聞き出すのは難しそうなので、トレイを抱えて居心地悪そうにしているメイドに説明を促す。


「その、ユベール様はケーキがお気に召さないとおっしゃって」


 テーブルにはほとんど手を付けられていない料理の皿と、食欲をそそる甘い香りのドライフルーツケーキが乗っていた。港を封鎖され、輸入に頼っていた食料――特に果実などの生鮮品――が不足する首都サントレイスで、料理長が王子のためにと腕を振るってくれた心尽くしの一品だった。


「遅かったな、ベルナルド。もう食事は終わったぞ」

「申し訳ありません、ユベール様。お父上の話し相手を務めておりました」

「……父上は、お忙しいのか?」

「はい。職務に精励されておいでです」

「僕の誕生日も忘れるほどにか?」

 ユベールの声が、わずかに震える。

「いいえ。忘れてなどおりませんよ、決して。だからこそ、こうしてケーキも」

「こんなものがケーキ? 去年はもっと大きくて豪華なケーキだった。なのに、今年はこの貧相なケーキひとつきり、寂しく一人で食事か。僕は朝から父上の顔も見ていないんだぞ。あいつは僕や母上よりも王冠が大事なんだ!」


 ベルナルドの言葉に激したユベールが立ち上がり、腕を振るう。目の前にあった皿が払われ、床に落ちたケーキが無残に潰れる。


 ばちんと肉を打つ音が響いた。ベルナルドがユベールの頬を張った音だった。痛みに驚くユベールはもちろん、とっさにそうしたベルナルド自身が動揺していた。


「……君、ケーキを片付けてくれたまえ。それからユベール様。一介の家庭教師の身でありながら、御身に危害を加えたことを謝罪いたします」

「……これぐらい、大したことはない」

 深く頭を下げるベルナルドに、ユベールがそっぽを向いて告げる。

「ユベール様、申し上げてもよろしいでしょうか」

「構わない」

「このケーキはこの後、どうなると思われますか?」

 床に落ちたケーキの欠片を丁寧に拾い集めるメイドに、ユベールが目を向ける。

「……片付けて、捨てるのだろう。せっかくの品を無駄にしてしまったな」

「いいえ、捨てません。これらは全て、使用人たちが分け合って食べるのです」

 ベルナルドの言葉に、ユベールが虚を突かれたような顔になる。

「なぜだ? 新しく作ればいいだろう」

「王都の食糧事情はそれだけ逼迫しているのです。新鮮なフルーツや上質なバターを使ったケーキも満足に作れないほどに」

「……そんなに酷い状況なら、なぜ教えてくれなかったんだ」

「できる限り普段通りの生活を送っていただくようにとの、陛下のお心遣いです」

「僕はもう子供じゃない。そのような気遣いは不要だ!」

「ええ、私も同意見です。よい機会と思い、お伝えした次第です」


 マリーの死後、ユベールには塞ぎこんでいた時期があった。その原因の一端であるシャイア帝国との戦争について、過度に刺激的な情報を伝えないようにというのがヴェリリスの命令だった。しかし、首都が包囲されるに及んではそうも言ってはいられない。家庭教師として向き合ってきたこの三年で、ユベールが事態に立ち向かうだけの強さを取り戻しつつあるという確信もあった。メイドを下がらせて、改めてユベールに向き直る。話すべき内容は決まっていた。


「ユベール様。ユーシア王国の現状について、私の知り得る限りを包み隠さずお教えします。その上で、お父上からの命令をお伝えいたします。今からお伝えする内容はくれぐれも内密にしていただかねばなりません。よろしいですね?」

「分かった」


 うなずくユベールの表情は、まだ子供のそれだ。しかし、彼を取り巻く状況が彼を子供でいることを許してくれない。王として有能であるがゆえにシャイア帝国に多大な損害を与えたヴェリリス一世の息子であるとは、そういう意味を持つのだ。


 首都サントレイスはそれから二週間の間、持ちこたえた。と言っても、大きな戦いがあったわけではない。王国の首脳部は対外的には籠城と徹底抗戦を主張しつつ、裏では降伏の条件を詰めていたのだ。ユーシア王国との戦争が終わっても次の戦争が控えているシャイア帝国としても、王国軍にゲリラ化して各地に潜伏されると継続的に戦力を貼り付けざるを得なくなるため、交渉の余地は十分にあった。


 この二週間はヴェリリスの命令を受けたベルナルドにとっても貴重な猶予だった。 友の願いは、息子のユベールを無事に国外へ逃がすこと。


 だが、これが容易ではない。ユーシア王国は島国であり、海路は封鎖されている。帝国は反乱の旗印となり得る王族の身柄をどんな手を用いてでも押さえようとするだろうから、島への潜伏も得策ではなかった。


 見つかった方法は、ひとつだけ。


 夜半、ユベールを連れて港へ向かう。カヌーに大きな板とエンジンを載せたような形状の乗り物が、出航できずフジツボを張り付かせた船の間に停泊していた。水上飛行機。新聞記事で見知ってはいるが、実物を見るのはベルナルドも初めてだった。


 飛行機の側で煙草を吸っていた男が、二人の到着に気付いて立ち上がり、気楽な様子で軽く手を振ってみせる。分厚いジャケットを着こんで飛行眼鏡を首にかけた壮年の飛行機乗りだ。男の名はフェリクス・ヴェルヌ。冒険飛行家として名を馳せる彼がユベールを国外へ脱出させてくれる手筈になっていた。


「遅かったじゃないか、待ちくたびれたよ」

「時間通りだ」

「そうか? まあいいさ。僕がフェリクス・ヴェルヌだ。よろしく」

 手袋をはめたままの手が差し出される。その無礼さにベルナルドが顔をしかめると、フェリクスはひょいと肩をすくめて手を引っこめた。

「ま、僕に任せておけよ。金さえもらえるなら、どこにだって送り届けてやるさ」

「前金はすでに振りこんだ。残りは目的地への到着を確認してからだ」

「分かってるよ。王子ってのはそっちか。さっさと乗ってくれ」

 顎をしゃくって示す態度に、ユベールが憤る。

「貴様、王族に向かって何という態度だ!」

「王子、お静かに」

「その通りだ、王子様。シャイアのスパイが聞き耳を立ててないとも限らない」

「ヴェルヌ、貴方も口を謹んでもらいたい」

 ベルナルドの苦言を意に介する様子もなく、フェリクスは肩眉を上げて応じる。

「育ちがよくないもんでね。全く、王宮の人はお堅いことで」

 短くなった煙草を海へ投げ捨てると、ふとベルナルドの両脇に置かれたトランクに目を留めたフェリクスがこれは何だと言いたげな顔をする。

「このトランクは王子の荷物だ。一緒に積みこんでもらいたい」

 ベルナルドがそう言うと、フェリクスは鼻で笑った。

「アホかあんた。そんなもの積む余裕はないし、そりゃ契約外だ」

「ならば荷物代も加算しよう。王族たる者、ふさわしい装いというものがある。このトランクは必要最低限のものしか入っていない。運んでもらわねば困るのだ」

「そうか。なら王族なんて辞めちまえよ。燃料は僕と王子を運ぶ分しか積んでいない。このクソ重そうなトランクと王子を心中させたいなら別だけどな」

「……仕方ない。了解した」

 飛行機に関してベルナルドは門外漢だ。フェリクスの言葉を信じるしかない。

「ベルナルド、ちょっといいか」

 水上飛行機に乗りこんだユベールが声を上げる。フェリクスは構わずエンジンを始動し、出発の準備にかかっている。話せる時間は残り少ないだろう。

「こんな小さなボートでシャイアの軍艦を振り切り、海を渡れるのか?」

 疑問を口にするユベールの表情は、真剣そのものだった。言われてみれば、国外へ脱出する計画のことは知らせても、方法については説明していなかった。

「お聞きください、ユベール様。これは飛行機という機械です。つまり……貴方様は空を飛んで北央海を超え、アルメア連州国へ渡られるのです」

「空を……飛ぶ……?」

 呆然とするユベールに、フェリクスが無慈悲に告げる。

「出すぞ。舌噛むなよ」

 機体が岸壁を離れ、ゆっくりと前進を始める。

「ユベール様、どうかご無事で!」

「待て、待ってくれ。こんなボートで空を飛ぶなんて、できるわけがない! 僕は鳥じゃないんだ。絶対に落ちる! 海で溺れて死ぬなんて嫌だ!」

「できるし、やるんだよ王子様。それからこいつはボートじゃねえ、飛行機だ!」

「嫌だ、やめろ! 助けてくれベルナルド!」

「黙ってろ、舌噛むぞ!」


 わめき続けるユベールをフェリクスが一喝し、速度を上げる。しばらくは滑水していた飛行機は、やがて水面を離れて宙に浮き、その姿を小さくしていった。

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