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8-3

 目指す『ルーカ』はアルメア連州国、アヴァルカ州の南岸にあるという。トルジアから直線で三千キロの距離があるため、快速を誇るギルモットであっても八時間から九時間の行程となる。ベルエスとの新型機の打ち合わせを終えた頃には昼を回っていたので、途中で一泊して明日の昼頃に到着する予定となる。


 トルジアから飛び立ち、海岸線に沿って南東へ飛ぶ。眼下に広がるのは、一年を通じて凍らない海、地平線まで続く農場や牧場、豊富な資源の眠る山野だ。列強の中では最も歴史の浅いアルメア連州国が急速に発展し、シャイア帝国と比肩しうる国力を誇るまでになった理由が一目瞭然となる光景だった。


 視線を空へと移せば、そろそろ日没が近い。紅蓮に燃える太陽は彼方に連なる山脈にかかり、藍色に染まる空に黄金の雲を浮かべていた。描き出されるグラデーションは一時もその姿を留めず、次第に濃紺へと収斂していく。


 綺麗だと、そう思った。


「空は好きか、ユベール?」

 紡がれた問いは、感傷的になっていたせいだろう。

「好きじゃなきゃ、こんな仕事はしてないさ」

「そうだな。わたしも好きだ。いつの間にか、好きになっていた」


 トゥール・ヴェルヌ航空会社の航法士フェル・ヴェルヌ。この在り方は、自分で選んで始めたものではない。ルーシャの女帝フェルリーヤ・ヴェールニェーバは国を追われ、ユベールに救出されたものの、代金の持ち合わせがなかったのだ。


 働いて金を返す、という名目は、思えばユベールの気遣いだったのだろう。シャイア帝国から莫大な懸賞金をかけられた冬枯れの魔女は、決して安住の地を得られない。世界各国を飛び回って仕事をする航法士の身分は都合のいいものだった。


 しかし、今となってはそれだけが理由ではなかった。航法士として空を飛び、技術を身につけ、忌まわしい魔法の力を人々のために役立てられることを知った。始まりこそ違っても、今の在りようは自分で選んだものだと納得できる。


「ありがとう、ユベール」

「ん? 突然どうした」

「わたしが空を好きになれたのは、きみのおかげだ」

 ふっと笑うような気配が、前席から伝わってくる。

「……そうかよ。どういたしまして、だ」

 目的地の空港が、二人を迎えるように光を放っていた。


 翌朝、給油を済ませて再び飛び立つ。亜熱帯に属するアヴァルカ半島は温暖かつ湿潤な気候で、上空から眺めると緑の密度に圧倒される。点在する集落を除けば、人口のほとんどは海沿いに開けたわずかな平地に集中しているようだった。


「ルーカの座標は憶えてるな、フェル」

 伝声管を通じてユベールの声が耳に届く。

「ああ、憶えている」

 昨日、ギルモットに乗りこんで飛び立つ直前に、口頭で緯度と経度を伝えられたのだ。フェルがそれを書き留めようとした瞬間、ユベールはこう言ったのだった。

「メモは禁止だ。繰り返すから、頭に叩きこめ」

 その時はお互いに離陸の準備で忙しく、理由を尋ねる暇がなかった。改めて話題に上ったので、温めていた疑問を口にしてみる。

「ユベール、なぜ座標を書き留めてはいけないんだ? ルーカというのは、秘密にして隠さなくてはいけないような場所なのか?」

「向こうに着いてから説明するよ。そういうルールになってるんだ」


 楽しげな笑いを含んだユベールの声からすると、さほど深刻な事情があるという訳ではないらしい。聞き出すのは諦めて、飛行ルートの把握に努める。航法士として、再びルーカを訪れる際にはナビゲートできるようになっておきたかった。



 アヴァルカ半島の南岸、南央海の煌めきが地平線の先に見えたのは太陽が中天に差し掛かる頃合いだった。相変わらず周囲には密林が広がるばかりで、街どころか道すら見当たらないが、確信に満ちた操縦でギルモットが機首を巡らせる。


「ルーカはもう近いのか?」

「十一時の方向、海に突き出す岬は見えるな?」

「見える」

「あれが目印だ。いったん海へ出るぞ」


 ギルモットが加速し、密林の上を抜けて海上に出る。大きく旋回する途中で、海中から突き出た大岩が視界に入った。サンゴ礁の広がる美しい水色の海だが水深は浅く、およそ水上機の着水に適した場所とは思えない。ペトレールと違って降着装置を備えないギルモットでどうやって降りる気なのかと心配になる。


「岬の突端と、あそこに見える大岩を繋ぐ直線に対して、直角に進入するんだ。大岩の脇を通り抜けるように降ろせば、そこに滑水路がある。風向きが悪い場合に備えて別のルートもあるが、そっちは飛び立つときにでも教えてやる」

「これも憶えればいいのか?」

「そうだ。よく見てろよ」


 ユベールの言葉と操縦の腕前を信じて風景を頭に焼き付けることに集中する。キャノピー越しに大岩の付近を観察していると、空を映したような水色の海に色の濃い部分があった。まっすぐに浜辺まで伸びるそれが、ユベールの言う道なのだろう。旋回を終え、高度を下げていく機体が大岩の脇を通り過ぎたところでフロートが着水して水飛沫を上げ、一気に減速しながら背後に航跡を描いていく。


「あれは……水上機か? こんなにいたのか」


 上空からは木々に隠れて見えなかったが、浜辺には数機の水上機が停泊していた。一見したところ、形式やカラーリングはバラバラで統一感がない。その中の一機は二人が乗っているのと同じギルモットで、尾翼にヴェルヌ社の社章が描かれている。社長のフェリクス・ヴェルヌの乗機で間違いないだろう。


「大当たりだ。フェリクスはここにいる」

「意外と早く仕事が済みそうだな」

「そう願いたいところだな」


 来訪者に好奇の視線を向ける飛行機乗りたちがギルモットの側に寄ってくる中、憂鬱そうに言うユベールが印象に残った。フェルがその意図を聞き返す前に、彼はため息をついて気分を切り替えたように明るい語調で言うのだった。


「ともあれ、飛行機乗りの楽園ルーカへようこそ、だ。楽しんでいけよ」

「飛行機乗りの楽園……」


 ユベールの言葉は、あながち嘘でもないらしい。上空からは木々でカモフラージュされていたが、水上機が係留されている浜辺にはパラソルとデッキチェアが並び、カジュアルな格好でくつろぐ男たちの姿が見える。その奥にはコテージらしき建物と、屋根をかけただけの簡易な格納庫が並んでいる。


「おお、ユベールの坊やじゃないか、会うのは何年ぶりだ」

「ヴィヴィちゃんは一緒じゃないのか」

「フェリクスのじじいなら奥だぞ」


 飛行機乗りたちはユベールと顔見知りのようで、気楽な調子で話しかけ、スキンシップを取ろうと試みてくる。無遠慮に背中を叩かれて咳きこんだり、乱暴に頭を撫でられて嫌そうに振り払う彼の姿は新鮮で、思わず吹き出してしまう。


「笑うなよ、フェル」

「仕方ないだろう。まるで子供扱いだ」

「これだから古い知り合いは……ガキの頃のことをいつまでも憶えてやがる」

「みんな飛行機乗りなのか?」

「飛行機乗りの楽園って言ったろ? ルーカには飛行機乗りしかいないんだ」

 どこか自慢げに、ユベールが続ける。

「ルーカは最寄りの街から数百キロの距離があり、密林と低湿地で隔てられている。まともな道はなく、踏破できる車は存在しない。海路で近づこうとしても同じだ。サンゴ礁に阻まれ、大型の船は近寄れない。ここに来る手段は、たったひとつ」

「水上機か」

「そうだ。あの滑水路の存在を知る飛行機乗りしか、ルーカにはたどり着けない」

「あの距離だと、大型の飛行艇は難しいな」

 ペトレールの離水距離を念頭に置いた発言に、ユベールが大きくうなずく。

「その通り。大型の旅客飛行艇だと着水は何とかしても、離水は不可能だ。そういうわけで、一般の観光客はここを訪れない。ルーカにたどり着けるのはあの悪条件で離着水できる腕のいい飛行機乗りに限られるってわけだ。おもしろいだろう?」

 秘密基地を自慢するようなユベールの態度に、口の端が緩む。

「文字で記録するなというのは、そういう意味か」

「無闇に噂が広まって、リゾートとして開発されちゃたまらないからな」

 腕のいい飛行機乗りたちのプライベートビーチ。仕事から逃げたフェリクスが身を隠すにはうってつけの場所と言えるだろう。

「だが、どうしてこの場所なんだ?」


 先ほどユベールが言った通り、ルーカの付近にめぼしい街はなく、大都市を結ぶ航路や空路からも外れている。船で近づくにはサンゴ礁が邪魔だし、上空からは木々に覆われて隠されている。誰がどうやって発見し、なぜそこまでの熱意を持ってプライベートビーチに仕立て上げたのかが不思議だった。


「それを話すとちょっと長くなるな。先にフェリクスを訪ねよう。このコテージだ」

 ドアをノックするユベールに、通りがかった飛行機乗りが背後から告げる。

「おう、ユベールじゃないか。ひょっとしてフェリクスを探してるのかい。やっこさん、ギルモットのエンジン音を聞いてとっくに逃げたよ」


 ドアを開いたまま固まるユベールの脇から、室内を覗きこむ。つい先ほどまで人がいたらしく、優美なカーブを描く年代物のロッキングチェアはわずかに揺れ、サイドテーブルには伏せられた本と飲みかけのロックグラスが放置してあった。


「会社の追っ手だと勘違いしたか。いや、間違ってないんだが……」

「探そう」

 フェルの提案に、ユベールが首を振る。

「いや、ここで待ってろ。慣れないと迷うし、やつが戻ってくるかも知れない」

「了解した」


 舌打ちを残して走り出すユベールを見送り、どうやって時間を潰そうかとコテージの中に入ってドアを閉める。不意に人の気配を感じて振り向くと、そこには唇に指を当ててウインクする、派手なシャツに短パン姿の老人の姿があった。どうやら逃げたと見せかけて、裏手の勝手口から戻ってきたらしい。


「初めまして、お嬢ちゃん。よければ、僕と一緒にお茶でもいかがかな?」

 老いてなお引き締まった体格を気楽なシャツで包み、老人は握手のために手を差し出す。リラックスした自然な所作に、思わず手を握り返す。

「失礼、突然のことで驚かせてしまったかな? 僕の名はフェリクス・ヴェルヌ。見ての通り、といってもこの姿では分からないだろうけど、飛行機乗りだよ」

「わたしはフェル・ヴェルヌ。航法士だ」

 反射的に口にしてから、失敗に気付く。同じ名前など、偶然にしても出来過ぎだった。しかし、フェリクスの反応は予想を超えたものだった。

「ふむ、なるほど。今はそう名乗っているのだね? よろしい、ならば気楽にフェル君と呼ばせてもらうが、それで構わないね?」

 明らかにフェルの名乗りが偽名だと知っていることを匂わせる発言だった。

「……好きに呼んでもらって構わない」

 緊張を滲ませるフェルの様子に、フェリクスが場を和ませるように破顔する。そして、共通語から流暢なルーシャ語に切り替えて言う。

『そう警戒することはないよ、ルーシャの『冬枯れの魔女』フェルリーヤ・ヴェールニェーバ君。少し考えれば、僕が君の名前を知っているのは不思議でも何でもない。何しろ、君を救うという仕事をユベールに仲介したのは僕なのだからね』

『……貴方は、一体?』


 フェリクス・ヴェルヌ。ヴィヴィの祖父で、ペトレールを建造したヴェルヌ社の社長。彼とユベールが長い付き合いなのは分かるが、フェルを崩壊寸前のルーシャから助け出したこととどう繋がるのかが分からなかった。


『その様子だと、ユベールからは何も聞いていないようだね。ああ見えて彼はシャイなところがあるから仕方ないが……いや、いけないな。やはりそれは公正ではない。君は彼の相棒なのだろう? ならばその立場は対等で公正なものであるべきだ』

 公正であること。それが重要なのだと言いたげに目を見開くフェリクス。

「よろしい。ならば彼が君を救うまでの物語を、僕から聞かせよう。なに、彼が諦めて帰ってくるまで時間はある。暇潰しと思って聞いてもらえばいい』

『……分かりました。聞かせていただきます』

 座り心地のよさそうな籐椅子をフェルに勧め、自らもロッキングチェアに腰を下ろしたフェリクスがロックグラスを傾け、にっこりと微笑む。

『さて、どこから話したものか……やはり、僕とユベールの出会いからだろうね』

 そう言って、懐かしく思い出すような表情でフェリクスは語り始めた。

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