1-5
パブで食事をしつつフェルとの親交を深めた翌日。二人でドヴァル空軍基地へ出向いて依頼主であるジョン・フィッツジェラルド少将への報告を済ませた後、新たな依頼主となったロイド・バーンスタイン大佐の要望に従って各種物資の仕入れと積みこみも終えるとちょうど昼飯時になっていた。
「さて、どこで食うか」
「ユベール、シェルティーズに行こう」
「気に入ったのか?」
「ああ」
努めて冷静を装いながら深々とうなずくフェルに悟られないよう、ユベールはこっそり苦笑する。フライトを控え、ビールではなくソーダ水でミートパイを平らげてから港へ戻り、再びケルティシュへ向かうべくエンジンに火を入れる。左右の翼間支柱にある爆弾架と胴体内に計三つのビール樽を固定し、余ったスペースに煙草やその他の物資をギリギリまで積みこんだぺトレールは普段より喫水が深い。
「波がある。離水するとき舌を噛むなよ」
「了解した」
伝声管越しのやり取りを終え、スロットルに手をかける。プロペラが回転を早め、愛機ぺトレールの翼が海風を切り裂く。上手く離水を果たしたら、十分にスピードが乗るのを待って上昇していく。低く垂れこめ世界を鈍色に染める雲を抜ければ、蒼空と雲海、輝く太陽で構成されるシンプルな世界への帰還を果たせる。
「さて、操縦士から航法士さんへ質問だ。俺はどっちへ飛べばいい?」
「……あっちだ」
指で示す気配が伝わってくるが、ユベールは振り返らない。
「クロック・ポジションで伝えろって言ったろ?」
クロック・ポジションは船舶や航空機で用いられる方位の指示法だ。自身を時計盤の中心として見立て、正面なら12時、右90度の位置なら3時といった具合に水平方向の方位を示す。目的地へ向かうため、あるいは風の影響で頻繁に向きを変える船や飛行機では自分の向いている方角を見失いやすく、北や南といった表現で方角を伝えると自身の向いている方角を確認する手間がかかってしまうためだ。
「確認する。少し待て」
「了解だ。指示が出るまで真っ直ぐ飛ぶぞ」
おそらく、魔女の力で方位を感じ取ることはできるのだろう。先日の飛行では風の吹く方向も読み取っていた。しかし彼女は昨夜、魔法を使う気はない、とも言っていた。常人よりも鋭い、あるいは常人にない感覚で自然現象を読み取ることと、積極的に魔法の行使するのでは種類が違うということだろう。彼女が祖国で用い、間接的にではあるが破滅をもたらしたとされるそれについてのうわさがどこまで真実なのか、自身の目で見るまで判断はしないとユベールは決めている。
「ユベール」
「わかったか?」
「2時方向だろうか」
「上出来だ。変針するぞ」
計器の読み方や航法の勉強をおろそかにされてはまずいので口にしないが、魔女の力も利用できるのなら利用すればいいとユベールは考えている。飛行機乗りは通常、目視と計器を併用して飛行する。フェルの場合はそれに加えて魔女の力も利用できるのだとすれば、どれかひとつが狂ったときには力になる。目視と計器だけでは両者が食い違ったときにどちらがおかしいのかを判断しなければならないが、そこに魔女の力が加わればどれがおかしいのかを推定できるからだ。この差は大きい。
「フェル」
「どうした?」
「お前さん、航法士に向いてるかもな」
「そうか」
「……それだけか?」
「……うれしい。ありがとう」
上手い表現を思いつかなかったのだろう。それでも伝声管越しに返された端的な言葉は心なしか弾んでいたように思える。彼女がどんな顔をしているのか見たくなって後ろを振り返ると、膝の上に視線を落として何事か書きつけているようだ。
「早速ログブックか?」
「……そうだ」
フェルが膝に乗せているのは、真新しい革表紙の手帳だ。ユベールのログブックを目にしたとき熱心に眺めていたので、仕入れのついでにプレゼントしたらずいぶんと喜んでくれた。空色に染めた上質のシープスキンは軽くて手触りがよく、通気性もいい。値段はそれなりに張ったが、彼女の飛行機乗りとしての経歴、その全てが記されることになる手帳なのだ。それだけの金をかける価値はある。
「出発地と目的地、日時と飛行経路を記しておくといい。お前さんの母国語でな」
「共通語ではなく?」
「ああ。フェルがしたこと、考えたこと、感じたこと。正確に書くなら、その方が書きやすいだろう? たまには使わないと、いつの間にか忘れちまうしな」
「了解した」
「手早く書けよ。対空監視……見張りの仕事もあるんだ」
「対空監視で構わない。もう憶えた」
「そうか、そりゃ結構」
勉強熱心で、記憶力もいい。フェルに物事を教えるのが楽しくなってきた自分を、ユベールは自覚する。半ばなりゆきで航法士として雇うことになった彼女が思った以上に使い物になりそうなのはうれしい誤算だった。
「日差しが強い。ゴーグルはかけておけよ」
「……黒くて見えない」
「慣れろ。せっかく目がいいんだから、大事にしておけ」
高かったんだから文句を言うな、というセリフはなんとか飲みこんだ。
「了解した」
ぺトレールのコクピットはキャノピーで覆われているので風除けの必要性は薄い。ユベールも普段はゴーグルを首にかけているだけだが、監視任務のある後席は太陽を見るので目をやられやすい。フェルに合う子供用のサイズはずいぶん値が張ったが、これも仕方ないと割り切って購入したものだ。
「ユベール」
しばらく飛んでいると、伝声管からフェルの声が響いた。
「どうした」
「わたしは役に立つだろうか?」
「ん? そうだな……」
どう答えるか、数瞬のあいだ迷う。フェルは端的でぶっきらぼうな喋り方をするが、それは彼女が共通語を不得手としているからだ。上手く言い表すことはできなくても、色々と考えているのは側にいればわかる。だからこそ、唐突な質問にもなにか意味があるのだろうと思った。きちんと答えてやらねばならない。
「お前さんも知るように、ぺトレールは荷物も運ぶが人も運ぶ。その後席は機銃手兼航法士の席であると同時に客席でもある。だから、こいつはもともと俺一人で飛ばせるように設計されてるんだ」
「…………」
「おっと、余計な気を回すなよ。客を運ぶ仕事が入ったら、お前さんの居場所は貨物スペースになるんだからな。もっとも、密入国ならその限りではないがね」
「そういう仕事も請けるのか?」
「ケースバイケースだ。わかるか?」
「是々非々、という意味だな?」
「……お前さんはまた妙な言葉を」
「間違いか?」
「合ってるよ」
「そうか、よかった」
振り返ると、座席を回転させて後方を見張るフェルの姿が見えた。
「気にしてるのは借金のことか、フェル?」
「……そうだ」
核心と見た話題へ切りこむと、フェルはあっさり肯定した。彼女にはユベールに対する借金がある。彼女を航法士として雇うことになったのも、借金返済がその理由のひとつだった。彼女は不平を口にしないが、天引きされた給金では日用品を買い揃えたら底をついてしまうだろうし、年頃の少女にはかなり辛いだろう。彼女の場合は、生来の責任感もあって給金に見合う仕事ができているか不安なのかも知れない。
「ぺトレールは一人でも飛ばせる。だが、それは飛ばすだけならの話だ」
「…………」
フェルはユベールの言葉を聞き逃すまいと耳を澄ませている。
「飛んでるときにやることは山ほどあるし、操縦しながらじゃできないこともある。フェルが仕事を憶えれば、その分だけ俺は楽できるし、操縦に集中できる。だから、必要ないのにお情けで雇ってもらってるんじゃないか、なんて心配は不要だ」
「……そうか」
「お前さんがド素人ってことも承知の上だ。言葉の壁もあるだろうし、わからなかったら何度でも聞けばいい。仕事を楽にすることにかけて、俺は誰よりも真剣だ」
「わかった。がんばる」
「ああ、大いにがんばれ。期待してるぞ」
伝声管越しではわかりにくいが、フェルの声音は少しだけ明るくなったように思える。こんなものだろうか。小娘のやる気を引き出すのも簡単ではない。眼下の雲海が途切れると、その先にケルティシュ共和国の海岸線が顔を出す。わずかに緊張を滲ませた声でフェルが警告を発したのはそんなときだった。
「ユベール。飛行機だ」
「方角と機数!」
「五時方向、二機だ」
「ほぼ真後ろか。どこの飛行機だ?」
「すまないが、わからない」
「ああ、気にするな。お前さんに言ったんじゃない」
真後ろは尾翼で視界が遮られる。右ラダーで機体をずらし、後方を確認する。雲海から顔を出した二機編隊との彼我の距離は10キロ足らず。荷物を満載して速度が落ちている状態では、五分もあれば追いつかれてしまう距離だ。目的地のメニーベリー基地まで十数分はかかるので、敵機だとすれば非常にまずい。操縦桿を手前に引く。
「濃い青色の飛行機だ。横に白い星が描いてある」
「ネイビーブルーはアルメアの機体色だ。敵じゃないが……向こうはどう思うか」
「見つかった。加速して向かってくる」
「くそっ、参戦直後で戦意は旺盛、手柄が欲しくてたまらないってわけだ」
「どうする?」
「どうするもこうするも。逃げるしかないだろ」
「逃げ切れるのか?」
「無理だな、このままじゃ追いつかれる」
「……戦うのか?」
「ぺトレールには旋回機銃が一丁積んであるだけだ。お前さんに撃てるのか?」
「使い方を教えてくれ」
「それよりだな……」
その先を口にするかどうか迷ったが、事は一刻を争う。
「フェル。魔法であいつらを追い払えないのか?」
「…………」
返ってきたのは沈黙だった。
「どうなんだ? 時間が無い、できるかできないかだけでも教えてくれ」
「ダメだ。魔法は使わない」
「魔法を『使えない』ではなく『使わない』なんだな? だったら、逃げるための魔法でもいい。敵を殺すためじゃなく、俺たちが生きるためだ。何かないのか?」
なにかを言いかけて、ためらうような息遣い。
フェルの答えは、流麗な異国の響きで返ってきた。
『そうではないの、ユベール。魔法は『使わない』し『使えない』の。わたしの魔法は働きかける対象に触れて使うものだから、手の届かないものには力を振るえない。それにね、わたしの異名を聞いたことはあるかしら、ユベール?』
「……冬枯れの魔女、それから滅びの銀色、だったか」
『ええ、そう。滅びの銀色。わたしの呪われた在りようを的確に言い表した名前ね。憶えておいて、ユベール。わたしの魔法、その本質は吸収と放出にある。生命の輝き、大地の恵みを吸い取って、力に変えるの。その結果、どうなると思う?』
「吸われたものは、枯れて死ぬ……?」
『その通り。今のわたしはぺトレールにしか触れられない。この小さな飛行機から引き出した力で風を起こし、加速することはできるでしょうけれど』
「機体は空中分解するってか」
『察しがいいのね。そういうわけで、わたしは魔法を使わないし、使えない』
「ようやく理解できた。ありがとうな、フェル」
「……すまない、ユベール」
最後だけ共通語に戻して、フェルは言った。魔法の専門家として誠意を持って説明してくれた小さな魔女に、今度は飛行機の専門家であるこちらが応える番だった。
「両翼のビール樽を投棄する。機体につかまって反動に備えろ」
「了解した」
投下レバーを引くと、左右の翼間支柱に設けられた爆弾架からビール樽が外れ、眼下に広がる海面への自由落下を始める。両翼で併せて400キログラムの重荷から解放された機体はがくっと持ち上がり、速度を上げていく。
「ダメだ、ユベール。追いつかれる」
「だろうよ。仮にも戦闘機だ。輸送機より遅くちゃ話にならない」
「機銃の使い方を教えてくれ」
「必要ない。撃ってこないかだけ見張っててくれ」
「撃ってきた」
「ふん、素人だな」
風防越しに彼我の距離を確認する。機銃の射程外、しかも見上げての射撃など命中する道理がない。落ちついて操縦桿を固定し、身体に叩きこんだ最適の上昇率を保ち続ける。実は、フェルと会話する間もずっと上昇し続けていたのだ。おかげで現在高度は4500メートル。おそらくアルメア機が爆弾と誤認したのだろうビール樽もすでに投棄した。ほどなくして、アルメア機が反転した。
「引き返していく。なぜだ?」
「機体を軽くしたから、追いつくのにかかる時間が長くなったんだ。このまま直進すれば、追いつくころにはディーツラントの勢力圏のど真ん中になる。いくら手柄が欲しいからって、そこまで深追いするバカはそうそういないさ」
仮にそんな計算もできない愚か者がパイロットだったとしても、高度を稼いでおけばダイブで一気に引き離せる。投棄したビール樽の損害額を考えると頭痛がしてくるが、危険をダシにフェルから魔法について聞きだした代償と割り切るしかない。
「よし、降りるぞ。地形と地図を見比べて、メニーベリー基地を探してみろ」
「了解した」
ため息が出る。なにより、待望のビールが届かなかったと知ったメニーベリー基地の兵隊たちにどんな罵声を浴びせられるかわかったものではなかった。