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空気より重い機体を動力で飛ばす、飛行機という乗り物がこの世に現れてはや十年。たった数十メートルの距離を飛ぶだけで興業が成立するような時代はとうに過ぎ去り、国境を越えて海をも渡る冒険飛行家が脚光を浴びる時代が訪れていた。
フェリクス・ヴェルヌは今年で四十歳になる冒険飛行家だ。
いち早く飛行機の将来性に目を付け、家業の紡績工場を売り払って航空機の製造を開始。自ら操縦するヴェルヌⅪでエングランド王国とケルティシュ共和国に挟まれたドヴァル海峡の横断を成し遂げたことで注目を集め、注文が殺到。初期の熱狂に当てられて開業した同業者が淘汰されていく中で着実に成功を収め、事業を軌道に乗せた。アルメアに移住した後も精力的に活動を続け、重要な航空路の開拓を手がけてきた。
アルメア連州国とシャイア帝国を繋ぐリーリング海峡の東回り横断飛行は、その集大成と呼べる計画だった。貿易風に乗れる西回りではすでに達成されているルートだが、風に逆らって進む東回りではまだ成功者がいない。そしてこれに成功すれば、西回り、東回り共に飛行機で地球を一周できることが証明される。
だが、一口にリーリング海峡横断飛行と言っても、百キロに満たない海峡の上だけを飛べばいいわけではない。将来は旅客機や貨物機が飛ぶことを見越して、中型機以上が着陸できる両国の空港を結ぶルートでなければならないのだ。アルメアのユスノー空港を発ち、アヴァルカ半島を横断し、リーリング海峡を越えてシャイア帝国のレンチア空港へと至る約二千キロの行程を飛んで、初めて正式な記録となる。
同業の冒険飛行家たちも、フェリクスと同じくリーリング海峡東回り飛行の記録を狙っていた。広い空なのだから好きな場所を飛べばよさそうなものだが、飛行機の性能向上、そして世間の関心が飛行家たちを同じ時期、同じ目標へと駆り立てるのだ。経験の浅い飛行家が準備不足のまま飛んで未帰還のまま行方不明となる中、ベテランは着実に準備を進め、互いの動向を探りながら機を伺っていた。
栄光を手にするのは最初の達成者のみ。ただしベットするのは己の命。
経験豊富な飛行家たちは、概して慎重だ。世間的には向こう見ずな勇敢さ、無謀すれすれの大胆さを称揚される冒険飛行家だが、そういう連中は決まって短命だ。いくつかの冒険を度胸と運で切り抜け、そして不運に見舞われて墜落する。
長く冒険飛行家を続けるベテランは、スポンサーから資金を集めるためにそうしたキャラクターを演じつつも、常に冷静沈着で見果てぬ先を見透かすような透明な瞳と、どこかで命を投げ出すような潔さを兼ね備えているものだ。
そうしたベテラン勢の間で亜熱帯に属するアヴァルカ半島から嵐の季節が過ぎ去るのを待って記録に挑戦しようという暗黙の了解が形成される中、フェリクスは記録飛行の決行を決めた。空の濁りは雷雨に一掃され、雲ひとつない晴天の日だった。
アヴェルカ半島の付け根にあるユスノー空港から東へ五分も飛べば、下は見渡すばかりのジャングルになる。雨が上がったのが昼過ぎだったので、順調にいけばレンチア空港には真夜中の到着となる。未開拓の航路を夜間飛行する危険性は言うまでもないが、成功すれば間違いなく一番乗りとなるだろう。
だが、日暮れが近づくに連れて雲行きが怪しくなってきた。流れの速い雲が空を覆い、夕闇に薄く光り始めていた星々を包み隠していく。頼みにしていた月明かりも失われ、暗闇に発動機の唸りとプロペラの風切り音だけが響く。
星々さえも雲に陰る暗夜、己の腕を頼りに空を征く者を導くのは、点々と地上に散らばる灯火のみ。人々の営みの証たるそれらも、未開のアヴァルカでは期待できない。密林を埋め尽くす木々は、槍となって木と羽布からなる機体を薙ぎ払い、高度を見誤った飛行家を刺し貫こうと待ち受けている。
燃料計に目をやる。残量はちょうど半分。前触れもなく故障しては計算を狂わせる代物だが、飛行時間を考えても妥当な量だった。
ポイント・オブ・ノーリターン。引き返す決断をするなら最後のチャンスとなる帰還不能点を超えて、フェリクスの胸に去来したのはどこかほっとするような気分だった。ここまで飛べば、もう先へ進むしかない。目的地のレンチア空港に着陸するか、どことも知れない場所に墜落あるいは不時着するかのいずれかだ。
戻るべきかで頭を悩ませる必要がなくなり、操縦桿を握る両手が緊張で汗に湿っているのに気付いた。進路が変わらないよう操縦桿を保持したまま、片方ずつ順に拭い、しっかりと握り直す。平衡感覚が曖昧になる中、機体が平行に飛んでいることを保証してくれるのは、しばしば故障する計器、そして自身の夜目だ。
吹きさらしの操縦席で風から目を守るゴーグルを少しだけ顔から離し、空気を入れ換える。夜になって少しは気温が下がったが、エンジンの熱も合わさって汗をかいていた。その汗が強烈な風により気化熱となって体温を奪っていく。マフラーを首元にかき寄せ、身体を震わせたところで水滴が風防を叩いた。
「神よ、冗談だと言いたまえ」
思わず毒づいた言葉すら風にさらわれ、水滴は一滴、また一滴と風防を叩き、風に流れていく。雨はすぐに勢いを増し、フェリクスの上半身を濡らしていった。つい先ほどまでは渇望していた光が一瞬だけ青白く世界を染め上げ、直後に発動機の騒々しい稼働音を圧する強烈な雷鳴が鼓膜を叩いた。
アヴァルカの気紛れな天気を侮っていたわけではなかった。この季節、嵐が連続することは珍しくない。それを覚悟で飛び立ったのだ。夜闇と豪雨で視界は最悪、雷光が切れ切れに映し出す青白い光景だけを頼りに、歯を食い縛って機体の水平を保ち続ける。強風に機体が流され、まっすぐ飛べているかすら定かではなかった。
飛行機とは、停止どころか、速度を緩めることすら許されない乗り物だ。
飛ぶために揚力を必要とし続け、そのためには常に速度が要求される。速度を落とし、揚力を失えばたちまち墜落する。車なら道端に停車して、必要であれば助けを呼んで修理できる些細なエンジントラブルであっても、空の上では死に直結する。低く飛べば飛ぶほど、速度を失えば失うほど、回復までの猶予は短くなる。
不時着する場所など存在せず、嵐の直撃を受けて翻弄されるこの状況で機体のトラブルに見舞われれば、為す術もなく自分は死ぬ。そんな状況だからこそ、フェリクスは冷静であれと自分に言い聞かせ、状況を見定める。
前方から吹き付ける強烈な雨と風。方向転換して嵐から抜けるのは不可能だ。恐らく嵐に追いつかれる。かといって嵐を突っ切って目的地へ向かうのも困難だ。すでに風で流されて現在位置を見失いつつある上、逆風で燃料消費が激しい。
生還は難しい、と結論せざるを得ない状況だった。
「死神に足首を掴まれる気分とはこういうものか」
きっと、自分はここで死ぬ。
後はそれが早いか遅いか、どんな死に様かといった違いがあるに過ぎない。
しかし、だからといって諦め、素直に死んでやるつもりはなかった。
最後の一瞬まで、少しでも遠くへ。
冒険飛行家フェリクス・ヴェルヌは引き際を見誤って帰路で墜落したのではなく、最後まで未開拓航路に挑戦し続けて死んだのだと人々に記憶されたかった。
機体が捻れて軋む異音が、激しい風雨の音に混じる。長距離飛行に備えて堅牢な構造を誇るヴェルヌⅫだが、無理をすれば主翼が折れ飛びそうだった。全ての動翼を使って機体の制御を試みるが、前へ進んでいるかどうかも怪しい有り様だ。
「頼むぞ、相棒。まだ持ってくれよ」
フェリクスがそうつぶやいた瞬間、前方で何かを噛んだような異音がした。直後、エンジンが黒煙を噴き上げて回転を落とす。いくつかのシリンダーが不発となり、出力が一気に落ちる。風に煽られて墜落しそうになり、慌てて立て直す。
「おい、冗談じゃねえぞ、ふざけんな!」
今日はとことん不運に見舞われるらしい。もう前進は不可能で、風を上手く使ってできるだけ高度を落とさないように振る舞うだけで精一杯だった。
「不時着は……無理か。そうだよな」
どこまでも続く密林とわずかな開拓者の集落しか存在しないアヴァルカではまともな不時着場所など期待しようもない。密集する木々にぶち当たって機体もろとも粉々にされるか、荒れ狂う海に落ちて溺れるかの二択だ。墜落して死ぬのはともかく、溺れて死ぬのは飛行機乗りとしてぞっとしない。
最悪なことに、眼下には海らしきものが広がっていた。いつの間にかずいぶん南へ流されて海上に出ていたらしい。このまま粘れば、どんどん外洋へと押し流されるだろう。そうなれば生き残る確率はさらに低くなる。
「覚悟を決めろってことか。砂浜を狙って突っこめば、何とか……」
自分でも期待薄だと分かっていた。だが、溺れるよりはましな選択肢だ。機体を強引に旋回させ、一気に高度を失いつつも海岸線へと機首を向ける。機体を平行に戻そうと試みるが、操縦桿とペダルは重く、酷使した手足の筋肉は言うことを聞かなかった。このままでは海面に突っこむ。そう確信して、絶叫と共に操縦桿を引く。
憶えているのは、そこまでだった。
*
じりじりと照りつける陽光で目を覚ます。
嵐は過ぎ去り、気付けばフェリクスは砂浜に打ち上げられていた。嵐など嘘だったかのような青空と、白いビーチのコントラストが目に痛い。数羽の海鳥が優雅に空を舞う他は動くものの気配もなく、楽園のような光景だった。
現実感に乏しい美しい光景からフェリクスを引き戻したのは、自身の肉体が訴える数々の不満だった。重い疲労、酷い空腹と喉の渇き。波間には非常用の食料と水を積んでいた機体の残骸が浮かんでいて、どうやら生き延びたらしいと実感が湧く。
だが、このままでは遠からず渇きと飢えで死ぬ。
軽く身体を動かして、大きな怪我をしていないことを確認する。細かい擦り傷や切り傷は無数にあるが、幸いにも痛みを我慢すれば動ける程度で済んでいた。
「まずは水、それから食い物だな。くそっ、死んでた方が楽だったな」
悪態をついて、自分を奮い立たせる。
水も食料も、まともな道具もなくアヴァルカの奥地にたった一人で放り出されて、生き残るために使えるものは何でも使う。手始めに、砂浜に流れ着いた尾翼の残骸を拾い上げて、機体番号が見えるよう木の根元にしっかりと突き刺した。
フェリクス・ヴェルヌここにありという宣言であり、もし死ぬようなことがあれば発見者に自分の身元を特定してもらうための証拠となるはずだった。
「この僕がそう簡単に死ぬかよ、こんな楽園みたいなところでさ」
打ち寄せる波音はただ穏やかで、澄んだ海と空が泣けるほど綺麗だった。




