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沈みゆく夕日がかすみ雲を橙に染めあげる。仕事を切り上げた労働者たちは馴染みのパブへと吸いこまれていき、一日の疲れをビールで癒す。愛嬌のある長毛の犬をマスコットとして看板に掲げるパブ『シェルティーズ』も例外ではなく、訛りの強い男たちの怒鳴り声のような談笑を表通りまで響かせている。
「ミートパイふたつと、ビール。それから……」
ウェイトレスからフェルへ視線を移す。
「お茶はあるだろうか」
「紅茶でいいか?」
それでいい、とうなずくフェル。
「では、紅茶を。ミルクと砂糖もつけてやってくれ」
キッチンへ注文を伝えに戻るウェイトレスを見送り、テーブルの上に置いたカバンからログブックを出す。これは空域図を筆頭に、仕事で必要な書類やメモを挟みこんだバインダーだ。そこから世界地図を外して、フェルの前に広げる。
「ここがどこか、わかるか?」
「エングランド王国、ドヴァルだ」
「地図上では?」
「……わからない」
「探してみろ。字は読めるだろう?」
素直にうなずき地図に目を落とすフェルを横目に、道中で買ってきた新聞に目を通す。アルメア連州国の武器弾薬が続々と港へ届いていること、反撃の端緒となる上陸作戦が成功したこと、皇女や皇太子が小さな水兵服姿で観艦式に参加したことなどが伝えられている。国民の戦意を煽り、海の向こうで繰り広げられる悲惨な現実は覆い隠す。絵に描いたような戦時の新聞だ。内容はともかく、シンプルな文章が並んでいるのでフェルの勉強にも丁度いいだろう。読み終わったら勉強用に彼女へあげようと決めて、さほど間を置かずに運ばれてきたビールをあおった。一方、フェルの前にはミルクティーが置かれる。ふわりと香る甘い香りに彼女の視線が上がる。
「お茶と言ったんだが……」
非難するようなフェルの視線がユベールに向けられる。
「飲んでみろ。本場のミルクティーだ」
「お茶にミルクを入れるのか?」
「どうしてもダメなら俺が飲んでやる」
しぶしぶ、といった感じで口をつけるフェル。顔色はすぐに晴れた。
「……悪くない」
「だろう?」
「地図も見つけた」
「どれどれ」
フェルが指さすのは地図上では東の端、ケルティシュ共和国のあるエウラジア大陸とは狭い海峡によって分断された島国であるエングランド王国に間違いない。
「そう、ここがエングランド王国。そしてドヴァル海峡を挟んだエウラジア大陸の東端にケルティシュ共和国があり、俺たちはこの二国を行き来しているわけだ」
「では、こっちがケルティシュ共和国か」
フェルが指をずらして確認する。ユベールはさらに隣の国を指差しながら答える。
「ああ。その隣にはディーツラント帝国がある。もう四年前になるが、帝国は突如としてケルティシュに宣戦を布告。ケルティシュとの間に挟まる小国ベルジウムを蹂躙して電撃的に侵攻、準備不足が祟って混乱に陥ったケルティシュ軍をアウルペス山脈の向こうに押しやり、太極洋に追い落としたんだ」
「なぜ戦争を?」
「それだな。エウラジア大陸の覇者であるシャイア帝国と隣接するディーツラントは、開戦前にはシャイア帝国の東進に対する防波堤としての役割を期待され、ケルティシュやエングランドとは軍事同盟を結んでいたんだ。国力の差はそれほどないのに、首都パルリッスまで一気に攻め落とされたのもそのせいだ」
シャイア帝国の名を聞いて、フェルの顔が曇る。無理もない、とユベールは思う。彼女の国を攻め落としたのがシャイア帝国なのだ。
「パルリッスが陥落したと聞いて慌てたのがエングランドだ。ディーツラント帝国に自国領まで攻めこまれるのは避けたいから、ケルティシュの亡命政府を受け入れ連合軍を結成、それでは足りないと太極洋を挟んだアルメア連州国にも助けを求めた」
世界地図の反対側、アルメア連州国をユベールは示す。そこから改めて東へ指を進めれば、海峡を挟んで地図の中央を占めるシャイア帝国の西端に至る。さらに帝国を横断し、東端で国境を接するディーツラントまで戻れば地球を一周する形になる。
「しかしアルメアが動いたことでシャイアも動いた。というか、ディーツラントがケルティシュへの侵攻を開始したこと自体、シャイアとの不戦協定締結に端を発したって話だ。かくしてディーツラントとケルティシュ、エングランドによる三カ国の戦いはシャイアとアルメアの代理戦争の様相を帯び、戦火は否応もなくそれ以外の国まで飛び火した。およそ二十年ぶり、二度目の世界戦争の始まりだな」
フェルは神妙な顔つきでユベールの話に聞き入っている。慣れない外国語で複雑な情勢を説明されて聞いているだけでも疲れるだろうに、ユベールの言葉を一言も聞き逃すまいとテーブルに身を乗り出している。ウェイトレスがミートパイの皿をトレイに乗せてやってきたのはそんなときだった。
「よし、飯だ。ここのシェルティーズパイは旨いぞ」
「ミートパイ……なんの肉だ?」
「馬と羊の合い挽きだが……ああ、もしかして食べられない肉があったか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうか? いい機会だから言っとくが、俺はお前さんがどんな文化で育ち、どんな常識を持ってるのかまだ知らん。食べられないもの、できないことがあるなら予め教えてくれると助かる。お互いに嫌な思いはしたくないしな」
「……大丈夫だ」
「それとだな、ついでと言っちゃなんだが、お前さんの魔法についての話だ。噂で聞いちゃいるが、せっかく本人がいるんだ。差し支えない範囲でいいから、どんな力で、どんなことができるのか、俺に教えてくれないか?」
ユベールが魔法と口にした瞬間、フェルの顔色がさっと変わった。伏せ気味の瞳には警戒の光が宿り、真意を推し量るような視線がユベールを貫く。
「ユベールは、なぜ魔法を知りたいんだ?」
「そりゃ……フェルが相棒だからさ。協力してやっていくためには、相手がどんな能力を持っているのか知っておいた方がいいだろう?」
「では、ユベールの能力をわたしに全て教えてくれるか?」
「…………」
有無を言わさぬ口調に気圧され、とっさに返答できなかった。そして、自分は失策を犯したのだと気付くのにそう時間はかからなかった。フェルはそんなユベールの反応を見定め、静かに宣言した。
「すまないが、魔法については話せない」
「……いや、こちらの方こそすまなかった」
短いやりとりだが、フェルにとって魔法は軽々しく扱えるものではないのだということは痛いほど伝わってきた。彼女のスミレ色の瞳は、どこまで話すべきか迷うように揺れている。長い沈黙を経て、彼女は宣言するようにこう口にした。
「……ひとつだけ、言っておこう。わたしは、魔法を使う気はない」
目を伏せ、痛みをこらえるような表情を浮かべるフェル。
「了解だ、フェル。きみを尊重しよう」
話しているうちに、ミートパイもほどよく冷めてきている。ひとまず飯にしようと、身振りでフェルを促してから皿を手前に引き寄せた。さくさくのパイ生地にフォークを入れると肉汁が溢れだし、馬と羊の独特な匂いをたっぷり入れた香辛料でまとめた食欲をそそる香りが立ちこめる。切り分けて口へ運べば肉体労働者向けに塩を利かせた豪快な味が口中に広がり、冷たいビールともよく合う。山盛りの揚げ物とゆでただけの豆を好むエングランド人の料理とは思えないほど旨い。
「旨いか?」
パイを吹き冷ましては口に運ぶフェルに、タイミングを見計らって問いかける。
「旨い」
「そりゃよかった。シェルティーズパイってのはシェルランド諸島原産の牧羊犬である『シェルランド・シープドッグ』が名前の由来でな。略称の『シェルティ』はそれを飼ってる羊飼いのことも指すんだが、出稼ぎにきた彼らが好んで作ったパイがこれでな。変わった味だが確かに旨い、シェルティの焼くパイだからシェルティーズパイと呼ぼう、ってなわけでエングランド人たちが名付けたんだ」
「なぜ羊だけじゃなく、馬を?」
「シェルランド諸島の特産は羊、そして固有種のポニーなんだ。これがまた頑丈な働き者でな。乗ってよし、耕してよし、衰えて死んだら食ってもよし。ただし食用じゃないから肉は固い。じゃあ羊と合い挽きにしてみちゃどうだって考えたやつがいたんだろうな。資源を無駄にできない島における生活の知恵ってわけだ」
「カクテル、だな」
納得した風にうなずくフェルだが、その言葉の選択はどうなのか。
「確かに混ぜてはいるがな。こういうのは合い挽きって言うんだ」
「合い挽き」
「そう」
会話が途切れたのでビールを飲もうとして、いつのまにかジョッキが空になっていることに気付く。注文しようと手を挙げて、ウェイトレスを呼ぶ。
「ビールを頼めるかい」
「ごめんなさい、ビールは一杯だけなのよ」
「うん? 金ならちゃんと持ってるぜ」
「お客さん、外国の方かしら? 出してあげたいのは山々なんだけどね、肝心のモノがないのよ。ほら、兵隊さんたちがケルティシュに戦いに行ったでしょう? ただでさえビール工場から人が取られて減産してるところに、戦地向けの需要が増えたもんだから、国内に回す分がぜんっぜん足りてないのよ」
「へえ、そりゃ災難だ。向こうへは船で運ぶのかい?」
「じゃないかしら。それでね、これは風の噂なんだけど、ビールを満載した輸送船がディーツラントの潜水艦に沈められちゃったらしいわよ」
「ふうん……」
「そういうわけで、ビールはないの。林檎酒でいいかしら」
「ああ、頼むよ」
ウェイトレスがテーブルを離れると、フェルが口を開く。
「船が沈んだ、と聞こえた」
「ああ、いい話を聞けたな」
情報の裏付けをどう取るか、得られた情報をどうやって金に結びつけるか、思考を巡らせる。ここに来た目的のひとつである、フェルの抱いた疑問への回答へ話を繋げるにもぴったりの話題だった。
「さっき説明した通り、この国は世界を巻きこんだ大戦争の真っ最中だ。危険は跳ね上がるが、扱う物資の値段も跳ね上がる。大きく儲けるチャンスってわけだな。それで、お前さんの疑問は『軍には輸送を任務とする部隊はないのか』だったな」
フェルがうなずくのを待って続ける。
「結論から言えば、ある。ただし軍隊が必要とする膨大な物資を運ぶためには飛行機だけじゃ全く足りない。そこで出番となるのが船舶だ。兵隊、食料、それから武器弾薬。海を越えて大量に運ぶには船が一番。だからこそ、敵も放ってはおかない」
「潜水艦か」
「そう。潜水艦による通商破壊、水上戦力で連合軍に劣る帝国軍の切り札だ。実際に沈んだ船の被害はもちろん、影をちらつかせることでそれ以外の船にもプレッシャーを与え、輸送の効率を落とせる。そんなわけで、連合軍はビールや煙草といった嗜好品は後回しにせざるを得ない状況だったんだ。そこへきてビールを満載した船が沈められたというニュースだろう? どうなると思う?」
「戦場でビールが不足する」
「正解。そこで俺たちの出番ってわけだ」
「ケルティシュにビールはないのか?」
「向こうはワインが中心でな。特にメニーベリー基地の付近はシャンパンで有名なんだが、飲み慣れない酒ってのは悪い酔い方をするもんだ。エングランドの兵隊にとっては、ビールこそ故郷を思い出させる味なのさ」
「故郷の味か」
「ああ、お前さんにだってあるだろう?」
こくりとうなずくフェル。
「了解した。軍を手伝うのだな」
「……まあ、間違っちゃいないな」
「納得した。がんばろう」
満足げなフェルの表情を見る限り、表現がややおかしかっただけで意図は正しく伝わっているはずだった。やる気を出しているようでもあるし、あえて訂正する必要もないだろうと思うユベールであった。