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「失敬、まだ名乗っていなかったね。僕はアーロン・アディントン。カルニア州立大学で歴史学を教えている。アーロン、もしくはドクターと呼んでくれ」
差し出された名刺にはカルニア州立大学プルーメント校、アーロン・アディントン博士の名が記されている。専攻は歴史学。モルハ国立公園に関するユベールのいい加減な発言を聞きつけ、我慢できず声をかけたというところだろう。
「トゥール・ヴェルヌ航空会社所属、操縦士のユベール=ラ・トゥールだ。こっちは航法士のフェル・ヴェルヌ。よろしくな、ドクター」
「よろしく、アーロン」
「ユベール君にフェル君か。うん、二人ともよろしく」
アーロンは満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくると、二人と力強く握手を交わす。好奇心に満ちた子供のような瞳と以前からの知り合いであったかのような気さくな態度はいかにもアルメア人らしく、邪気がない。少なくとも、悪い人間ではなさそうだという印象をユベールは持った。
「実は君たちの会話が耳に入ってしまってね。聞けば君たちは飛行機乗りで、仕事を探しているんだろう? 僕はまさにそういう相手を探していたところなんだ。これは神のお引き合わせに違いないと直感して、つい話しかけてしまったというわけさ。突然のことで驚かせてしまって、すまなかったね」
「いえ、ありがたいお話です。それで、仕事とは?」
「うん、気になるのはそこだろうね。僕は歴史学者としてモルハ国立公園の研究調査を行っているんだけど、その手伝いを頼みたいんだよ。具体的には物資の輸送、可能なら空撮を含めた空からの調査も頼みたい。君たちの飛行機は? 輸送に適さないなら、こちらで手配することもできるけど」
「中型の水陸両用飛行艇だ。輸送も調査も請け負える。輸送量は物資の体積と輸送距離にもよるが、重量で六百キロまでは一度に運べる」
「へえ……空から地表の調査をした経験は?」
アーロンの質問にフェルが答える。
「エングランド王国、ハイランド地方で遺跡の調査を手伝った」
「エングランドか。僕も学生時代はあっちの大学だったんだ。懐かしいな」
目を細めるアーロンに、肝心なことを言い忘れていたことを思い出す。
「ドクター。俺たちの飛行機は修理中で、今週いっぱいは動かせないんだ。仕事は来週以降から請け負うということで問題ないか?」
「うん、構わないよ。それから報酬についてだけど、経費は全てこちらで負担する。ユベール君はこの辺りで遊覧飛行の仕事もしたことがあるんだよね? それと同じ水準で、拘束した日数分を払うよ。働き次第ではボーナスもつけよう」
「拘束した日数? 実際に飛行した日数ではなく?」
「もちろんだ」
ユベールが確認すると、アーロンは当然だと言わんばかりの表情で肯定する。
「拘束期間は? あまり長期のものは困るんだが」
「予定では三ヶ月。延長する場合は再契約という形になるかな」
「三ヶ月か……」
ペトレールの不調も、無理をしなければ凌げる期間だ。
「ユベール、どうする?」
「……いい条件だ。請けよう」
「ありがたい。よろしく頼むよ、ユベール君、フェル君」
アーロンと改めて握手を交わす。学者は一般に飛行機乗りのような人種を見下す傾向があり、提示される報酬も渋いのが常だが、アーロンの提示した飛行した日数ではなく拘束した日数で支払うという条件なら金額的には申し分ない。流石は飛行機大国アルメアの学者といったところだろうか。
「じゃあ細部の詰めと契約書の締結をしたいけど、君たちの飛行機は修理中なんだよね。そうだな、今日はこれから予定があるのかい?」
「いや、昼前にこちらへ着いたばかりで、まだホテルも決まっていない」
「だったら、下見を兼ねてモルハ国立公園に来てみないかい? 近くにあるモルハ空港も案内するよ。時間は車で片道一時間。どうかな?」
「フェル、疲れてないか?」
ユベールの問いに、フェルがうなずく。
「大丈夫だ」
「では、それで頼もう」
「よし、決まりだ。じゃあ行こうか」
*
三十分後、混雑する市街を抜けてハイウェイに入ったアーロンのピックアップトラックは、速度計が壊れているのでなければ時速百六十キロで荒野にまっすぐ敷かれた高速道路を走行していた。確かにこれならプルーメント市街からモルハ国立公園まで一時間で到着するだろう。しかし同乗者としては生きた心地がしない。
アーロンとユベールの間に座るフェルの表情も、心なしかこわばっている。ふと気付くと、彼女はユベールの服の裾をぎゅっと握りしめていた。
「ドクター、少しスピードを落としてくれないか?」
ユベールが頼むと、アーロンはおもしろい冗談を聞いたように笑う。
「君たちは、普段もっと早く空を飛ぶんだろう?」
「こんな地表すれすれを飛んだりはしませんがね」
「はは、それもそうだ」
納得したように笑うと、アーロンがアクセルを踏む足を緩める。
「だから、たまに車を運転すると緊張しますよ。地面も車も通行人も、空では危険を感じるほどの近さなのに誰もが平然としている。クレイジーだってね」
「おもしろい感性だね。確かに比較対象物がある分、車の方がスピード感はあるだろうな。僕も出張で飛行機に乗ると、自分が空に浮いているだけで前に進んでいないような感覚を覚えることがあるけれど、君たち飛行機乗りもそうなのかい?」
「よくありますよ。雲ひとつない蒼空、代わり映えのしない海面やどこまでも続く雲上を飛んでいると、速度を確認する手段が速度計しかなくなるんです。濃い霧や、夜闇に包まれたときなんて最悪ですね。ふと気付くと、進行方向どころか機体の傾きや上下もわからなくなって、墜落しかける。飛行機乗りならそんな経験は一度や二度じゃない。そのまま死んでしまったやつも含めれば、もっと増えるでしょうね」
「空間識失調というやつだね。一度体験してみたいものだけど……ああ、いや、興味本位でこんなことを言ってしまって、気を悪くしたらすまないね」
「気にしないさ、ドクター」
車内に沈黙が落ちる。運転をおろそかにしてもらっても困るので黙っていると、雰囲気を変えるようにフェルが質問を投げる。
「質問していいだろうか、アーロン」
「どうぞ、フェル君」
少女にしては固い口調を気にした風もなく、アーロンが先を促す。
「アルメアは飛行機大国だとユベールから聞いた。アーロンは、なぜアルメアの飛行機乗りではなくわたしたちに依頼したんだ?」
「結論から言うと、今のアルメアには飛行機はあっても飛行機乗りがいないんだよ。腕のいい飛行機乗りは大陸に渡ってしまったからね」
「なぜ?」
フェルは首をかしげるが、ユベールには察しがついた。
「……戦争か。そういえば、街中でも志願兵募集のポスターを見たな」
「そう。連合国と帝国軍の開戦からしばらくは参戦を渋っていた議会が、数ヶ月前にようやく連合国側での参戦を承認したからね。それまで送っていた物資に加えて、兵隊や兵器も送るようになった。もちろん飛行機も。となれば飛行機乗りも大勢必要になってくるよね。創立からまだ日が浅い空軍が頭数を確保するためには、民間から飛行免許を持った人間を募るしかなかったってわけさ」
アーロンの話は、現在のアルメアでは飛行機乗りの需要に対して供給が追いついていないことを示唆している。ユベールに対して示された好条件も、そうした背景を考えれば納得できた。この状況は戦争が続く限り変わらないので、しばらくはアルメアに留まればおいしい仕事にありつける確率が高い。
フェルに目をやると、彼女もまた黙ってうなずく。ユベールと同じ結論に達したらしい。頭の回転が速く、察しのいい相棒ほど頼れるものは他にない。
窓外の景色は人工的な植樹が姿を消し、赤褐色の荒野へと変わっている。単調な景色が地平線まで続き、細く開けた窓からは乾いた空気が入ってくる。農業にも牧畜にも適さない、痩せた土地だ。カルニア州はゴールドラッシュにより発展し、貿易により確固たる地位を築いた州であり、厳しい気候と土地の貧しさに加えて水の確保が困難な地勢もあって農業はあまり盛んではない。
「そろそろモルハ空港が見えてくるよ」
アーロンの言葉で視線を前方に向けると、道路脇におびただしい数の飛行機が整列しているのが目に入った。舗装もされていない砂漠に並べられた飛行機は骨董品と呼べるものから比較的新しいものまであり、機体の状態も翼のない朽ちた機体からすぐにでも飛べそうなものまで様々だった。
「この飛行機は?」
フェルの疑問にアーロンが答える。
「これかい? 退役した飛行機を一時保管してあるそうだよ。この辺りは極端に雨が少ないから、露天で保管しても傷みが少なくて都合がいいんだってさ。中古機として輸出したり、部品取りに使ったりするそうだよ」
「すごい数だな」
「西海岸の退役機が全て集まるからね。飛行機大国の面目躍如ってところかな」
林立する飛行機の列を抜けると、広大ではあるが簡素な飛行場が見えてくる。看板にはモルハ空港の名が刻まれている。アルメアには大小様々の民間空港が点在しているが、このモルハ空港もそのひとつである。
「モルハ空港は国立公園の玄関口でもある。明確な区切りはないけど、この先に見える全てがモルハ国立公園の敷地だよ」
アーロンの言う通り、境界となる柵や塀は見当たらない。赤褐色の大地と点在する植物、ゆったりと高空を旋回する猛禽類を除けば動くものもなかった。およそ人が住むのに適しているとは思えない風景がそこには広がっている。ついに舗装もなくなり、速度を落とした車の背後には盛大な砂埃が舞い上がっていた。
「もうじき僕たちのベースキャンプが見えてくるよ。ほら、あれだ」
激しく振動する車内で、アーロンが前方を指差す。その先に白い建物が見えた。
「アーロンは、ここで何を調査しているんだ?」
「聞きたいかい?」
フェルの問いに、アーロンが自信たっぷりに答える。
「かつて緑豊かなこの地に文明を築いた、アルメア先住民族の遺跡調査だよ」
見渡す限りの荒野を駆ける車の中で、アルメア人の学者はそう言うのだった。




