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群狼の襲撃とハルハーンの討伐から一週間。狩人のグンナやユフミルが撃ち漏らした狼の残党が遠吠えを響かせる夜もあったが、白狼の長による統制が失われた狼たちは毒入りの餌や罠にかかるようになり、次第に数を減らしていったこともあって冬営地はおおむね平穏に包まれていた。これを受けて、族長のハルミルが本来の冬営地への帰還を決定したことで、遊牧民の一族は活気に包まれていた。
「本当に大丈夫なのか? 我らに代わって白狼を打ち倒してくれたお礼もまだ十分にできていないというのに……傷が癒えるまでと言わず、ここに留まって我らと共に冬を越してもらっても構わないのだが」
見送りに訪れた人々を代表したグンナの言葉を、軽く頭を下げて断る。
「ありがたいお言葉ですが、先を急ぎますので」
「一族の恩人であるお前たちを、我らはいつでも歓迎する。必ずまた会おう」
同じく見送りに訪れた族長ハルミルと固い握手を交わす。
「約束しよう」
白狼に噛み砕かれたウルリッカの左腕は全く力が入らず、馬が歩を進めるごとに痛みが走る状態だが、片手で馬を御すること自体はそう難しくない。狩りの際は両手を離し、足と太ももで馬に意志を伝えることもあるのだ。フェルリーヤが魔法を行使して地割れを起こしてハルハーンの命を奪った以上、シャイア帝国にその情報が伝わらないとは限らない。この地に留まり続けるわけにはいかなかった。
「きゃっ」
乗り手であるフェルリーヤを落馬させようというのか、後ろ足で馬が跳ねる。
「フェル、大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと、この子が言うことを聞いてくれなくて……」
フェルリーヤの馬が彼女に乗られるのを嫌がるようになったのは、襲撃の翌日からだった。モルウルス種は繊細なので、白狼の恐怖がトラウマになり、雪白の髪を持つフェルリーヤにも恐怖感を抱いているのかも知れなかった。とは言え、馬に乗らずに旅はできない。なんとかなだめすかして落ち着かせ、再出発する。
ウルリッカの腕のこともあるので、並足でゆっくりと馬を進めていく。遊牧民の一族を脅かしていた白き王を討伐したお礼として、水と食料に加えて上等なカシミアも持たされていた。高い価値を持つ交易品として、また冷たい夜霧を防ぐ防寒具として、大いに役立ってくれることだろう。
「これからどこへ向かうのですか?」
「じきに冬になります。東のウルスタン共和国へ抜けて、そこで冬を越します」
「では、魔女の爪痕を見ることはできますか?」
「魔女の爪痕……魔女の鉄槌とも称されたヴェルホビーの戦い、その戦場跡ですね。メルリーヤ様がシャイア帝国の侵攻を食い止めた、先の戦争における最大の激戦区……十五年が経った今なお荒廃した山野が広がるだけの場所と聞いておりますが、それでもご覧になりたいですか?」
フェルリーヤがうなずく。ヴェルホビーとは、ルーシャ帝国、かつてはルーシャ領であったモルウルス自治区、ウルスタン共和国、シャイア帝国の四ヶ国が国境を接する土地の名であり、険しい山脈と通行に適さない原野が見渡す限り続く未開の地だ。豊富な鉱物資源が眠っているとも噂されるが、開発のコストが得られるメリットに見合わない上に、国境を接する他国との軍事的緊張を招きかねないため、暗黙の了解で開発を進めないことになっているいわくつきの土地だ。
「……いけませんか?」
考えこむウルリッカの様子に、フェルリーヤが首をかしげる。
「……時期的に厳しいですね。これ以上雪が深くなると、私たちの装備では遭難しかねません。ですが、フェルが望むのであれば来年の春から夏にかけて訪れる機会を設けましょう。どうでしょうか?」
「わかりました。ウルリッカの意見に従います」
「はい。では、ウルスタンを目指しましょう」
ウルリッカがそれの接近に気付けたのは、いくつかの要因が重なったためだった。出発したばかりで集中できていたこと、並足で静かに進んでいたこと、枯草がそれをかき分けて疾走する者の存在を音高く教えてくれたこと。
「フェル、手綱をしっかり!」
「え? はい!」
拍車をかけ、全力の襲歩に移る。フェルの馬も、ウルリッカの馬についてくる。草をかき分ける音が一際大きくなり、襲撃者の存在を確信する。左手が利かないので弓矢は使えず、サーベルではこの相手には届かない。太ももでしっかりと馬体を挟み、片手で拳銃を構えて相手の出方をうかがう。
「白い狼……!?」
枯れた草の間を抜けて追いすがるのは、たった一頭の真っ白な体毛の狼だった。あり得ない、という考えを頭から振り払う。ハルハーンの死は確かめた。ならば、もう一頭いたということだ。決して亡霊などではない。
「フェル、私の前に!」
「はい!」
フェルリーヤの馬を先に行かせ、その後ろにつける。馬上では狙いが定まらないので、振り下ろすと同時に引き金を絞る投げ撃ちで牽制に徹する。片手が使えない状態、しかも後ろ向きに撃つ不自然な態勢では、反動を殺すこの撃ち方でなければ落馬しかねなかった。
白狼は牽制射を見極め、巧みに弾道から身をかわしてみせる。かわす度に距離は開くが、大柄な狼の脚はほとんど乱れない。撒いたと思っても、ウルリッカたちが馬の脚を緩めようとする度に姿を現すので馬が興奮し、疲弊し始めていた。牽制射を一発放ってから、フェルリーヤの馬と並走する位置につける。
「このままでは逃げ切れません。馬を降りて迎え撃ちます」
意を決したウルリッカの言葉に、フェルリーヤがうなずく。
「わかりました」
「魔法の使用を許可します。連携して、確実に仕留めましょう」
「では、わたしが動きを止めます」
「ハルハーンを止めたときのように、殺す気で狙ってください」
「……はい」
「あそこの岩を壁にします!」
残弾を撃ち尽くし、拍車をかけて距離を離す。全力疾走は長く続かないと見たのか、白狼の姿が視界から消える。原野にぽつんと取り残された大岩のそばまでたどりつき、素早く下馬。手早くクリップを弾倉に叩きこみ、銃を握る右腕に外套を巻きつけた。馬とフェルリーヤをかばう位置に立って白狼を待ち構える。
「来ます。準備はいいですか?」
すぐ後ろで大地に掌を当てるフェルリーヤの返事はなかった。
「フェル? 返事を!」
白狼がいつ飛び出てくるかわからない状況では、背後の状況を確認できない。こちらが待ち構えている気配を鋭敏に感じ取ったのか、草の間に伏せてじりじりと距離を詰めてきているらしい。たった一頭とはいえ油断ならない相手だった。
「魔法が、使えない……」
信じられない、といった調子でフェルリーヤがつぶやく。
「……フェル。魔法はもう必要ありませんから、周囲の警戒を」
努めて平静を保って口にした言葉だったが、彼女の耳には入らなかった。
「なぜ? なんで、そんな……」
「フェル!」
背後に視線をやらずとも、取り乱した様子が伝わってくる。魔女メルリーヤと同じ魔法の力。それがフェルリーヤの中でどれだけ大きい存在なのかを見誤っていた。魔法が使えない理由は不明だが、今のフェルリーヤは戦力に数えられない。
がさりと音がして、反射的に銃口を向ける。草の陰から走り出て鳴き声を上げたのは、小さなネズミだった。ネズミは人間と馬を認識するや方向転換し、違う方向へと逃げ去っていく。いつの間にか止めていた息を吐き、銃口を戻した瞬間、ネズミと全く同じ場所から白狼が姿を現した。罠を仕掛けられたのだ、と直感する。
ろくに狙いもつけられないまま発砲する。それでも、白狼を怯ませる効果はあった。なまじ賢いために、銃声を無視できない。蛇行しながら速度を上げ、地を駆ける白狼を目がけて連射する。三発を撃ち放ったところで射撃を止めると、弾切れと見たのか白狼が軌道を変え、まっすぐ突っこんでくる。
その賢さが命取りだった。地を蹴り、四肢が地面から離れてしまえば、もう回避はできない。大きく開いた口腔に銃口を突きこむようにして連射する。白狼は銃ごと呑みこむよう腕に食らいつくが、巻きつけた分厚い外套が牙の貫通を妨げる。ウルリッカは生温かい感触に顔をしかめながら、全弾を白狼に叩きこんだ。
怒り狂う白狼の全身から力が抜け、それでも食らいついた牙だけは外套から抜けず、腕にだらりとぶら下がるような形になる。間近でよく見れば、白狼ハルハーンより一回り小さく、毛皮には灰色の斑が散っている。よく似てはいるが、やはりかの狼の王とは別の狼だった。
「……ようやく、死にましたか。フェル、無事ですね?」
ようやくフェルリーヤに向き直るも、彼女には白狼の死すら見えていないようだった。じっと大地に視線を注ぎ、魔法を行使しようとしている。慌てて外套ごと白狼の死骸を振り払い、彼女のもとへ駆け寄る。
「フェル、フェル! もう白狼は死にました。魔法は必要ありません」
そばにしゃがみ、肩を叩いて声をかける。
「ウルリッカ、わたし、わたし……」
「大丈夫です。大丈夫ですよ、フェル」
幼い子供のように肩を震わせるフェルリーヤを抱き寄せる。
「……魔法のことは落ち着いてから考えましょう」
実際、考えることはいくらでもあった。まずは執拗にフェルリーヤを狙ったハルハーンのこと。二頭目の白狼は身体がやや小さいことを考えれば彼のつがい、あるいは子供であり、復讐のために二人を襲ったと推測される。しかしハルハーンにはフェルリーヤ個人を狙う理由はなかったはずだ。
この疑問について、ウルリッカにはひとつの仮説があった。ヒントになったのは、ハルハーンを撃退した翌日からの馬の様子だ。フェルリーヤの馬は、明らかに彼女を乗せることを恐れていた。このことから、動物はフェルリーヤが魔法を使えることを本能的に感知できるのではないか、という仮説が立てられる。
魔法を目の当たりにしたことで、疑問はかえって増えるばかりだった。真実を知りたいという好奇心と、深入りは立場を危うくするという保身がせめぎ合う。しかし、それ以上にウルリッカの胸を満たしたのは、彼女を、フェルリーヤを守らなければならないという想いだった。




